トワ殿って呼ばないで   作:Washi

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第7話 イズモからのお嬢様

 帝都の夏至祭を目前に控えたある日のこと。トワは生徒会長として学院長のヴァンダイクに呼び出され、学院長室を訪れていた。

 ヴァンダイクの告げた連絡に、トワは首を傾げた。

 

「イズモからのお客様、ですか」

「うむ。帝都の夏至祭に合わせて、夏至祭前からしばらく帝都に滞在するらしい。それで、そのお客様はムネノリ君とも知音の仲らしくてのう。滞在中、学院にも顔を出したいとのことじゃ」

 

 なるほど、とトワは頷く。帝都とトリスタは鉄道を使って30分の距離だ。導力車であっても、1時間以内には辿り着くことができる。トールズに顔を出したくなるのも道理だ。

 

「予定では、明日の13時ごろに正門まで導力車でいらっしゃる。その時間はワシは学院を離れておってのう、対応ができんのじゃ。済まぬが、代わりを頼みたい」

「そういうことでしたら、喜んで承ります。お客様のお名前はなんでしょうか」

「ツバキ・マツナガと言うそうじゃ。ああ、それと、これは本人の要望らしいのじゃが、明日の約束の時間までムネノリ君には名を伏せておいてほしいそうじゃ。なんでも、ムネノリ君を驚かせたいのだそうじゃ」

 

 苦笑混じりでヴァンダイクが告げる。それに対し、トワも同じく苦笑を返すしかなかった。

 

 ムネノリと親しく、イズモから帝都まで来れるということは、そのツバキという者はかなり裕福な家の出なのだろう。それにしては、中々お茶目なことを考える方だと思った。

 もっとも、トワにもアンゼリカ・ログナーという、四大名門の出身のお嬢様であるにも関わらずかなり破天荒な性格をした親友がいるので、それほど驚くことはなかった。

 

「そういう訳じゃから、出迎えにはムネノリ君も一緒にいてくれると助かる。済まぬが、よろしく頼むぞ」

「はい、了解しました」

 

 こうして、トワは生徒会長として、イズモからの新たな来訪者を出迎えることとなった。

 

 

 

 

 翌日の13時の5分前。トワはムネノリとシノを伴って、正門で待機していた。本格的に夏に入り始めたこともあり、少々暑い。特にトワは日差しが苦手で常に冬服を着用しているので尚更だ。

 

「しかし、イズモからの来客でございますか……うーむ、誰でござろうか」

 

 隣に立っているムネノリはうんうんと頭を唸らせている。どうやら来客の正体について考えているらしい。約束通り、ツバキ・マツナガの名は彼らには伝えていない。

 

「おおかた、兄上の妃の座を狙う名家の女たちでしょう。しつこい連中です」

 

 シノは、どうにもどんな相手が来るのかを決めつけているように思える。それどころか、最初から追い払うつもりなのか、指でクナイという忍のナイフを回転させている。さすがに失礼にあたるので止めさせた。シノは終始不満そうだったが。

 

 そうやって待っている内に、坂の向こうからブロロ、と導力車の走行音が聞こえてきた。音がどんどん近づいてくる。こちらに向かっている証拠だ。

 

 車が姿を現わす。黒塗りの、ラインフォルト社の高級車だった。高い身分の貴族であればどの家でも所有しているほどの人気モデルだ。

 試運転の際、ルーファス・アルバレアの厚意で同じ車に乗せてもらったことがあるが、席があまりにふかふかで落ち着かなかったことを覚えている。

 

 車は正門に側面を向けるような形で停車する。車の窓にはスモークがかかっていて、外からでは誰が乗っているかは分からない。

 運転席のあるドアから、ガタイのよさそうなサングラスの黒服の男が出てくる。ボディガードも兼ねているのだろうか。男は後部座席のドアに手をかけ、丁寧に開いた。

 

 ……この時点でのトワは、ツバキ・マツナガという人物を、茶目っ気がありながらも上流階級の人間のようなお淑やかな人だと考えていた。具体的には、メアリーやエーデルのような。

 

 その予想が裏切られたのは、車内から弾丸のように飛び出してきた人影を見た瞬間だった。

 

「ム! ネ! ノ! リ! 様ぁああ!」

「な、お前、つば——ぐむぅうッ!!」

 

 人影がムネノリの腹部に突き刺さり、彼の体がくの字に曲がった。勢いそのままに、トワたちの後方へと倒れ込んだ。

 

「ああ! イズモを離れられてから早3ヶ月、ずっとお会いしたかったですわ、ムネノリ様!」

「ま、待てツバキ! ぐっ、おい、やめい!!」

 

 ムネノリがもがく。それを押さえつけているのは、着物を着た女の人だった。腰まで届く艶のある黒髪が、走る馬の尻尾のように揺れている。

 

「えっと……」

 

 トワは言葉が出なかった。その長い髪や雰囲気は確かにメアリーたちに似ている。だが、その態度はまるでマルガリータがヴィンセントに向けるそれのようであった。

 

 あまりのギャップに、思考が硬直する。

 

「しまった……この方がいたんだった……」

 

 シノはと言うと、手で顔を覆って項垂れていた。発言から察するに、彼女にとっても予想外の人物だったようだ。

 

「えっと、シノちゃん。この方が、ツバキ・マツナガというお人で間違いないんだよね?」

「はい、その通りです。……もしかして、義姉上は知ってたんですか」

「うん、ヴァンダイク学院長からね。でも、先方がムネノリ君を驚かせたいから秘密にして欲しいって頼まれてて……ごめんね?」

「……きっと、驚かせたいからではなく、兄上が知ったら逃げ出すと知ってたからですよ。はぁ……」

 

 シノが溜め息をつく。彼女がここまで露骨に憂鬱そうな表情を見せるのは非常に珍しかった。最近はシノの心の機微も察せるようになってきたが、元々それほど顔には出ないからだ。

 

「いい加減離れぬか、ツバキ!」

 

 体勢を立て直したムネノリは力づくでツバキと呼んだ女性を引き剥がす。彼女は「ああん、殺生な……!」と名残惜しそうな声を出した。その声は妙に艶かしかった。

 

「こちらにおわす方はこのトールズ士官学院の生徒会長であるぞ! そなたもマツナガの娘なら、礼儀を弁えぬか!」

「生徒会長? ……あら、これは失礼しましたわ」

 

 それまでの暴走はどこへやら。彼女はトワの姿を認めると、すくっと立ち上がる。その佇まいは、貴族生徒と同じように気品に溢れていた。煌びやかに、彼女の周囲で星が舞う。

 

 綺麗な人だと、トワは素直にそう思った。

 

(それに……スタイルもすごい…………いいなあ)

 

 女のトワから見ても、完璧すぎるほどに完璧な容姿だった。エマが相手であっても、正面から張り合うことができるだろう。密かに、小さくない敗北感を味わう。

 

「お話はヴァンダイク学院長から伺っておりますわ。ツバキ・マツナガと申します。よろしくお願い致しますわ」

 

 優雅に一礼。一分の無駄も感じられない、高度に洗練された所作だった。その美しさに見惚れていたトワだったが、しばらくしてから挨拶を返していないことに気づき、慌てて応じるのであった。

 

 その後、ツバキがトワが自身より2つ上の19歳だと知って驚く場面もあったが、出会いは概ね和やかなものだった。

 

 

 

 それが嵐の前の静けさであることを明確に認識していたのは、シノだけだった。

 

 

 

 

 厄介な人が来てしまった。ツバキが姿を現したとき、シノが最初に抱いた感想だった。

 

 立ち話もなんだからと、トワの提案で生徒会室に移動した為、ツバキは現在来客用のソファで寛いでいる。向かいのソファにムネノリが座り、その後ろにシノは立っている。

 シノはムネノリの身辺に注意を払いながら、視線をツバキの方へと向ける。

 

 

 ツバキ・マツナガ。イズモでは1、2を争う巨大企業グループであるマツナガ財閥のご令嬢だ。マツナガ財閥はあらゆるサービスや商品を展開しているが、中でも火薬、茶器、酒で有名だ。

 

 その財力は凄まじく、下手な名家よりもよっぽど強い権力を持っている。対立関係にあった名家がいつの間にか消滅したり、先祖代々の土地が買い上げられたなんてこともよくある話だ。

 そして、その権力の一部を自由に行使できるのが、跡取りとして周囲から認められているツバキ・マツナガだ。

 彼女の経営者としての素質は本物で、烈火のごとき苛烈な手腕をもってマツナガ財閥の規模を更に拡大。今では西ゼムリアにも勢力を伸ばしていると言われているほどだ。今、目の前にいるのがその証拠だろう。

 そしてどういう経緯かは知らぬが、ムネノリに対しては周囲が燃え出すほどの情熱的な恋慕感情を抱いており、イズモではムネノリが辟易するほどのアタックを重ねていた。ちょうど、他の女共にも纏わりつかれていた時期だったので、ムネノリは彼女に見向きもしなかったが。

 本来ならばツバキとて追い払う対象だったのだが、なぜか王である父がツバキを気に入ってしまい、シノですら彼女を追い払うことはできなくなってしまった。

 もし、ムネノリがトワと出会うことなくイズモで暮らしていたならば、父の意向で確実に婚約者になっていたであろう相手、それがツバキだ。

 

 そして、今この場にはムネノリが求婚中のトワがいる。もしツバキがそのことを知れば、なにが起こるか分かったものではない。

 

 トワがお茶の準備を進める中、シノはひっそりと冷や汗を流しながら事の推移を見守っていた。

 

「……それで? なんの用でござるか。もしや、父上の差し金か」

 

 不機嫌……いや、どこか煩わしい様子でムネノリが問う。いつもの快活明朗なムネノリの姿は影を潜めていた。

 

「いえいえまさか。帝国での商談がございましたので、これ幸いと寄らせていただいただけですわ。陛下のお考えではありません」

 

 一方のツバキは涼しげな様子だ。ムネノリの眼光に動じることもなく、扇子を開いて己を扇いでいる。

 

「ああ、ですが……最近、こうは仰られてましたよ、ふふ」

 

 憎たらしいほどの満面の笑みを浮かべ、扇子で口元を隠したツバキは目を細める。

 

「——わたくしを、ムネノリ様の婚約者にしてはどうか、と」

「なっ!? なにを勝手に……!」

 

 ムネノリがその続きを叫ぶことはなかった。

 

 ガシャン、と陶磁器が割れるような音がした。シノはすぐに気づく。お茶の準備中だったトワが、ティーカップを落としてしまったようだった。

 綺麗な装飾がなされていた筈のカップは、床で無残な欠片となって散らばっていた。

 

 

 

 

「ご、ごめんなさい! すぐ片付けますから!」

 

 自身の犯したとんでもない失態に体温が上昇するのを感じながら、トワは急いで破片を拾い集める。

 

「手伝います」

「う、うん。ありがとうシノちゃん」

 

 シノが掃除に加わってくれた。彼女と協力しながら破片を拾う。その間も、トワの心はグラグラと揺れていた。

 心臓がバクバクとうるさい。それでいて、どこか息苦しい。破片を拾っている間、常に胃が締めつけられるような感覚に囚われた。自分でも理解できない感覚に戸惑ってしまう。

 

「——まあ、今はこの話は置いておきましょう。いずれにせよ、ムネノリ様が帰国されるまでは保留となっていますので」

 

 話の続きが耳に入る。婚約者候補の話を聞かされたときは驚いたが、少なくともムネノリがトールズにいる間はその心配はないようだ。トワ自身も気づかぬ内に、体の強張りが弱まる。

 

 破片を集め終わり、それらを袋に纏める。それでようやく、トワはお茶の準備を再開した。

 幸い湯はほぼ沸いていたので、そう時間はかからないだろう。沸くのを待っている間、ちらりとムネノリたちの方を盗み見る。

 

「ところで、ムネノリ様。もうすぐ帝都では夏至祭でございますが、ご予定はいかがですか」

「生憎、学院のカリキュラムで忙しい。そなたに付き合っている暇はない」

 

 Ⅶ組の特別実習が夏至祭の期間と被る関係上、ムネノリの言っていることは事実だ。しかし、ツバキが諦める様子はない。

 

「それでも1日くらいはなんとかなりますでしょう? ねえ! ねえ! 是非、一緒に見て回りましょう! わたくし、素敵なお店を知ってますのよ!?」

「行かぬと言っている! この、ひっつくでない!」

 

 ツバキは器用にテーブルを飛び越え、ムネノリに抱きついた。色っぽく体をくねらせながら、グイグイと体を押し付けている。

 ムネノリはツバキを引き剥がそうとしているが、体勢の関係かなかなか上手く行ってない。傍から見れば、男女がイチャついているようにしか見えなかった。

 

(……別に、わたしはムネノリ君の話をお受けした訳じゃないし。……うん)

 

 今のトワとムネノリの関係性はあくまで先輩と後輩、あるいは友人。恋人でも、婚約者でもなんでもない。だから、ツバキがどのようにムネノリに迫ろうと自由だ。もし、目の前にいるのがリィンとアリサであれば、微笑ましく見守っていただろう。

 

 なのに……今の2人を見ていると、どうにもモヤモヤする。ムネノリにその気はないと分かっているのに、小骨が引っかかったかのように胸がチクチクと痛む。

 

「……お湯、沸いてますよ」

「っ!? わわ……!」

 

 まだ側にいたシノに指摘され、慌てて導力ポットを止める。お湯が沸騰していることにも気づかないほど、向こうに気を取られていたようだ。

 

 紅茶を淹れ、人数分のカップに注ぐ。それらをトレイに乗せて、テーブルまで運んだ。コトリ、とカップを置いていく。そのころにはツバキは抱きつくのを止め、ムネノリと並んで座っていた。

 

「どうぞ」

「どうも。それで、ムネノリ様。帝都のホテルの最上階のレストランなのですが……」

 

 ツバキは最低限の礼を言うだけで、トワにほとんど関心を示さなくなっていた。そんなことに時間を費やしていられないと言わんばかりに、ムネノリにアプローチを続ける。

 

「だから行かんと言ってるだろう。何度言えば分かるでござるか」

「ムネノリ様が”はい”と言ってくださるまでですわ。何度断られようと、ムネノリ様への情愛の念は些かも衰えませんわ。むしろ、ますます深まるばかりでございます。……ムネノリ様は、わたくしのことがお嫌いですの?」

「そうは言っておらん。だがな……」

「つまり愛しているということですわねー!! よかったですわー!」

 

 ツバキはムネノリの腕に絡みつく。むぎゅり、と押し付けられた胸元の膨らみが形を変える。そのせいなのか、ムネノリの顔が赤くなっていた。

 

(……むー)

 

 なんだか、面白くない。以前、ムネノリの暴走を止める為に思わず抱きついてしまったことがあったが、こんな風には反応してくれなかった。将来は王ともなる御方が公平でなくてどうするのだ。

 

 ——そのように、ムネノリたちに気を取られていたときのことだった。ムネノリの前に置こうとしたカップのバランスが崩れた。

 

「あ……!」

 

 気づいたときには、もう遅かった。

 

「〜〜ッ!? あちちちぃ!?」

 

 淹れたて熱々の紅茶が、ムネノリの膝のあたりにかかった。ズボンに染み込み、ムネノリは跳ね上がる。

 

「ご、ご、ごめんなさい! 大丈夫!?」

 

 懐からハンカチを取り出し、濡れた部分に当てる。火傷しているかもしれないし、早く冷やさなければならない。またやってしまったと思いながらも、まずは現状をどうにかしようと動き出す。

 

 ……いや。動き出そうと、していた。

 

「……そこの貴方。トワ・ハーシェルと言いましたわね」

 

 ツバキに呼び止められた。その声は、怒ったサラのときのように、非常に高圧的だった。

 

「は、はい。その通りで……」

「貴方、客人の前で何回ミスをすれば気が済むんですの? トールズの生徒会長と言うから優秀な方かと思いましたのに、侍女の真似事すらできませんの?」

「す、すみません……!」

 

 今日だけ偶々失敗が重なってしまった。実際はそれだけなのだが、そんな言い訳を聞き入れてくれそうな雰囲気ではないし、するつもりもない。代わりに、深く頭を下げた。

 だが、ツバキの追求はそこで止まらなかった。

 

「それに、この紅茶……」

 

 ツバキは無事な自身のカップを手に取ると、口をつけた。その間、終始眉間にしわができていた。

 

「……不味いですわ」

「え……」

 

 ツバキの言葉に背筋が冷える。試しに自分のカップを手にして試飲してみる。そして、彼女の言う通りだとすぐに思い知った。

 

(う……本当だ。蒸らしの時間が、全然足りてない)

 

 また1つ、重大なミスをしてしまったことに気づく。2人の会話が気がかりで、蒸らした時間を正確に把握してなかったのだ。

 

「こんなことだと思いましたわ。湯が沸いてから出てくるまで、やけに早かったですもの」

 

 はぁ、とツバキが深いため息をついた。その表情は、明らかに呆れと怒りが混じったものだった。

 

「……全く、使えませんこと。もういいですわ。ムネノリ様の面倒はわたくしが見ますので、貴方はどっか行ってなさいな。いても邪魔ですので」

「ッ——」

 

 息がつまる。心臓が抉られるようだった。こんな冷たい言い方をされるのは初めてだった。ツバキの氷のような視線に、心が萎縮する。

 

「おい、ツバキ! 貴様なにを言ってるか……!」

「お、お待ちください殿下!」

 

 ムネノリが激昂しかけたのを制止する。ツバキに配慮して、言葉遣いも変える。

 

「と、トワ殿。しかし……」

「……全部、わたしが悪いんです。しばらく他の仕事を片付けて参りますので、ツバキ様がお帰りになるときは通信をください。——では」

 

 これ以上この場に留まっても客人であるツバキの機嫌を損ねてしまうだけだ。手短に挨拶を済ませ、逃げるようにして生徒会室から出て行くのであった。

 

 

 

 

 トワが退室した直後、シノがムネノリに近づくと、ツバキには聞こえない小声で耳打ちしてきた。

 

『義姉上が心配です。あちらに付いててもいいですか』

『……ああ、頼む』

 

 次の瞬間、シノが姿を消す。トワのことは、シノに任せよう。ムネノリは、ツバキの方を対処せねばならない。

 

「さあさあ、ムネノリ様。まずは茶のかかってしまった場所を見せてくださいな。火傷されているといけませんので」

 

 砂糖のように甘ったるい声を出しながら、ツバキはムネノリのズボンの裾を上げようとする。もう、トワの存在など忘れてしまったかのようだ。

 

 ムネノリは、無言でツバキを手で制した。

 

「どうかなされました? ご心配せずとも、誰にも言ったりは……」

「——貴様は、なにをしたか分かってるのか」

「む、ムネノリ様……?」

 

 あのツバキが後ずさる。それくらい、ムネノリが発した声には怒気が込められていた。

 腸が煮えくり返るかのようだった。もしここが異国の地でなければ、その場で手打ちにしていたかもしれない。トワの存在を強く感じる生徒会室だからこそ、自制がかろうじて効いた。

 

「なにって……さっきのトワとやらのことですの? 別に、当然のことではありませんか。カップを割り、湯が沸いたことに気づかず、淹れ方を間違え、あろうことかムネノリ様に茶をこぼす始末。無礼にもほどがありますわ」

 

 ツバキの言い分を聞き、一応はなるほどとムネノリは頷く。今回の件だけを見れば、ツバキは正しいのかもしれない。

 

 だが、ムネノリは知っている。トワがあのようなミスをしたのは初めてであることを。トワが、普段どれだけ頑張っていて、皆を助けているかを。

 そしてそれ以上に、トワを慕うムネノリの心が、ツバキの言い分を、あるいはトワへの態度を許すことができなかった。感情とは、理性だけで止められるものではないのだ。

 

「それ以上トワ殿を侮辱するようなことがあれば、斬るぞ」

「なっ!? お待ちくださいな! 仮にもわたくしは陛下に婚約者候補として認められてますのよ!? そんなわたくしを斬ればどうなることか……!」

「拙者は貴様をそのようには認めておらん! 拙者が心に決めたのはただ1人! トワ殿だけだ!」

 

 とうとう我慢できず、ムネノリは立ち上がり、魔獣の咆哮のような大声で叫んだ。ムネノリの心に呼応するかのように、ビリビリと空気が震えた。

 普通の人であれば、その覇気に呑まれて気を失ったことだろう。もっとも、ツバキはそんな人間ではないことをよく知っていた。

 

「…………は?」

 

 暗い、水底のような冷たい返事。周囲が凍りついてしまいそうなほどの殺気が部屋を覆った。

 

「……どういうことですの?」

「言葉通りの意味だ。拙者が見初めたのはトワ殿だ。お主ではない」

「——ッ、ふざけないでくださいまし!」

 

 今度はツバキが吠える番だった。ムネノリはそれを真っ向から受け止める。

 

「わたくしは! わたくしはムネノリ様をお慕いするようになってから、ムネノリ様にふさわしい女となるべく、何年も何年も必死に己を磨いて参りましたわ! それがどうして会って数ヶ月の女に劣ることになりますの!?」

「それが人の心というものでござろう。……とにかく、拙者はトワ殿を伴侶として選んだ。トワ殿の返事がどうなるかはまだ分からぬが、少なくともそれまではお主を相手にはせぬ」

 

 これがムネノリの最大限の譲歩だった。それを受けたツバキは、黙したままムネノリを睨みつける。しばらくすると扇子を閉じ、先端をムネノリの方へと突きつけた。

 

「……つまり、トワ・ハーシェルはまだムネノリ様の求婚をお受けしていないのですね?」

「そうだ。だが、必ず射止めてみせるつもりでござる。言っておくが、拙者は本気でござるよ」

「そんなの、わたくしだって同じですわ! ……とにかく、わたくしは認めません。あの者に、想いで負けているなどと」

 

 ツバキは踵を返す。向かう先は廊下に繋がる扉だった。

 

「待て。勝手にどこに行くつもりだ」

「少し話し合いに。言っておきますが、この件ばかりは口を挟まぬようお願い申し上げますわ。正真正銘、女同士の話し合いなので」

 

 そう言い残すと、ツバキは鼓膜が震えるような大きな音で扉を閉め、姿を消した。

 

(トワ殿……)

 

 残念ながらもうすぐ授業なので、ツバキの釘刺しを抜きにしてもこれ以上追うことはできない。心配だが、あとはシノに任せるしかない。少なくともシノが側にいる限り、直接危害を加えられるようなことはないだろう。

 

 まさかこんなことになるとは、と頭を抱えつつ、ムネノリも生徒会室をあとにした。

 

 

 

 

 学生会館を飛び出したトワは、中庭のベンチに座っていた。握った拳を膝に乗せ、俯いたままだ。その隣に、途中で追いついたシノが座っている。

 

「……という訳です。ツバキ様は執念とも言うべきレベルで、兄上に固執しています」

「……そうなんだ」

 

 トワは、シノからツバキのことを聞いていた。やってきたシノに、突然説明を求めたのだ。ムネノリを慕うツバキという人間のことを、知りたかったのだ。

 

 ツバキに追い出されたことは、もちろんショックだった。だが、自業自得であるのも事実の為、今ではだいぶ落ち着いた。

 

 それよりも、ムネノリにあそこまで熱烈に想いを寄せる女性がいるという事実の方が衝撃だった。 

 看病のときのムネノリの話では、近寄る女性はシノが追い払っていたと聞かされていたので、意表を突かれる形となった。

 

(……返事、しないと……ダメだよね)

 

 今までは、そういう対象は自分1人しかいないと思い込んでいた。だから、自身が卒業するくらいまでに返事をすればよいと思っていた。だが、違った。

 ツバキという存在がいる以上、トワも態度をはっきりとさせなければいけない気がしたのだ。あれだけの想いを持つ女性がいるのに、トワばかりがムネノリに甘えて、いつまでも返事を保留にする訳にはいかない。

 

(でも……わたしは、ムネノリ君のことをどう思ってるの? ツバキさんの想いを押し退けられるだけの気持ちを、持ってる?)

 

 生徒会室で、不機嫌になってしまったことは認める。原因がツバキがムネノリに迫っていたからであることも、中庭で気持ちを落ち着けている内に気づいた。

 

 だけど、その想いの強さがいかほどのものなのか、はっきりしなかった。

 

「……私は、義姉上がいいです」

 

 ポツリとシノが呟いた言葉に、トワは顔を横に向ける。目の前にはシノの瞳が映っていた。

 

「こんなこと言われても困るのは、分かっています。ですが、紛れもない本心です。私の義姉は、義姉上を置いて他にありません」

「……うん、ありがとう」

 

 胸の辺りが温かくなるのを感じた。シノの言葉は、素直に嬉しかった。そしてだからこそ、早く答えを出さねばならないと思う。

 

 そう考えていると、正面から草を踏む音がした。そちらを向く。すると、先ほど別れたばかりの人物が立っていた。

 

「ツバキさん……?」

「ここにいましたの。あまり遠くでなくてよかったですわ」

 

 どうやら、ツバキはトワのことを探していたらしい。閉じていた扇子を開く。

 

 先ほどと同じように、その眼光は鋭い。だが、不思議と冷たさは感じなかった。むしろ、その瞳の奥からは燃え上がるほどの熱い決意を秘めているようにさえ見えた。よく、ムネノリがこんな瞳を見せていたからすぐに分かった。

 

「——なんの御用ですか。もしまた、あね……トワ様を侮辱するつもりでしたら、私も黙ってはいませんが」

 

 音もなく立ち上がったシノがトワを背中に隠す。一触即発の雰囲気が辺りを包む。

 

「別に、そんなつもりはありませんわ。わたくしはただ、ハーシェルさんとお話がありますの」

「どのような話ですか。もし、それがトワ様に理不尽な要求をするものでしたら……」

「……シノちゃん。心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ」

 

 密かにヒートアップしていたシノを手で制し、トワは立ち上がってからシノの1歩前へと進み出た。

 シノの心遣いはありがたかったが、ツバキの瞳を見ていたら、自分が前に出ないといけない気がしたのだ。真っ直ぐにツバキを見据える。

 

「どのようなお話でしょうか」

「ムネノリ様から聞きましたわ。なんでも、ムネノリ様から求婚されたようですわね?」

「……はい。入学式のときに」

 

 やっぱり、とトワは思った。きっと、ムネノリとの関係性を問われると思っていた。そしてそれはツバキからすれば快く思わないことに違いない。

 生徒会室で見せたあの眼光と共に問い詰められるのを覚悟する。問題は、それに対する答えをまだ出せていないことだった。

 

 ……ところが、ツバキの口から飛び出したのは予想外の言葉だっだ。

 

「単刀直入に申し上げましょう。——わたくしと勝負しなさいな」

「勝負……?」

「ええ、その通りですわ」

 

 ツバキは開いたままの扇子をトワに突きつける。そして、肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべて、こう告げた。

 

 ——どちらがムネノリ様の伴侶にふさわしいか。白黒はっきりさせましょう、と。

 

 

 

 





<トワの年齢について>

閃の軌跡 物語開始時の日にち:3/31
トワの設定年齢:18歳

閃の軌跡Ⅲ 物語開始時の日にち:4/1
トワの設定年齢:21歳

以上の情報から、トワの誕生日を4/1と仮定し、既に19歳ということにしています。


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