浄化は作用しているはずなのに、心苦しい。魂から保護されているはずなのに、狂ってしまいそうになる。少しでも無理をすれば、すぐさまこの闇は俺たちを飲み込み、亡者の仲間入りへと誘うだろう。
「定晴、離しちゃだめよ」
紫がギュッと腕を掴んでいる。ほぼ抱き込むように繋がれた俺の左腕には、紫の触感が伝わっているはずなのだけど、それを意識することはできそうにない。
「狂気は向こうからだ」
既にこの空間には狂気が満ちているが、指向性のある狂気というのが流れているのを感じろとる。無間地獄の奥の方から、他よりも一層濃い狂気というのが流れ出ていた。
地獄の狂気ということで、ヘカーティアも紫も俺も、クラウンピースが原因だろうと目星をつけていた。だが、ただでさえ正気を失いかねないこの空間に、強いとはいえ妖精のあの子がいるとは思えなかった。
「怨嗟の声が凄いわね…」
「地獄に落ちるような奴らだ。そりゃ凄いだろうよ」
紫ですら若干顔を青くしながら、無間地獄を進む。
周囲からは狂気と共に怨嗟の声が響いており、常人であれば聞くだけで正気を失ってしまうこと間違いなしだ。ホラーゲームやお化け屋敷で聞くようなものとはわけが違う。
この地獄の苦痛とは目に見えないもので、灼熱地獄や針山地獄のように視覚的にわかるような苦痛ではない。しかし、死者が苦痛を受け続けていることから察するに、精神的な苦痛が主であるように思える。
「もう少しな気がするが…」
如何せん周囲からの狂気が強すぎて正確な距離は分からないものの、流れる狂気の量からしてもう少しで目的地だ。
無間地獄に入って数分しか経っていないはずだけど、既に一時間以上探索しているかのような精神的疲労がある。実際、幻想郷中を周ったあと休息なしでここにきているのも理由の一つだろうが…
「ここの…うっ…」
「これは…酷いわね…」
突如としてそれは現れた。
蠢くように胎動し、小さく断続的な怨嗟の声を上げ続ける、肉の塊。それが何なのかは分からず、しかし、醜悪な見た目はそれだけで正気度を削ってくる。
「地上に漏れ出している狂気は、こいつが原因だ」
グロイというわけではない。だが、肉を何度もバラバラにして再構築したような、赤黒い肉の塊からは、人間からは予想もできないような狂気が溢れ出している。狂気に対して耐性のある俺ですら、若干狂いそうだ。
「紫、大丈夫か?」
「妖怪だもの。こういうのは慣れてるわ」
そう言う紫の腕は震えている。顔は青ざめ、見るからに気分が悪そうだ。早めに何とかしてしまった方がいい。
「地獄の死者を俺たちがどうにかしていいものなのか?」
「本来はだめだけど…幻想郷に影響が出ているんだもの。仕方ないわ」
蠢く肉塊は俺たちが近づいても変わらず怨嗟を声を出し続けていた。それは意味を持つ言葉ではなく、呻き声のようなものだ。
だが聞けば聞くほど狂いそうになるその音は、俺たちから正気度を削り切るには十分なものだった。
それゆえだろう、反応が遅れたのは。
「だーめ☆」
「ぐあっ」
背中からの突然の衝撃。紫と共に地面に落ちる。
「ちっ、いたのか」
「こんなところに来る人間がいるなんて驚きだね!」
後ろに浮遊していたのは、強い光を放つ松明を持った地獄の妖精。その顔には、愉快そうな、それでいて不気味な笑みが浮かんでいた。
「きゃははッ!それはあたいの玩具だから壊しちゃだめー」
「ちょっと、妖精の悪戯にしては過度よ!」
「きゃははは!」
前に出会った時の何倍も強い光を放っている松明は、俺の浄化に拮抗しており、気を抜けば狂気に包まれてしまいそうだ。
俺は紫を保護するために、紫のことを強く抱き留めた。
「へあっ、定晴!?」
「しっかりしてろ、飲まれるぞ」
背後からは未だに強い狂気を感じる。空間にも狂気が満ちているし、正面の妖精を狂気の光を持っている。
俺の浄化や魂からの保護を加味しても、そろそろ俺たちも狂ってしまいそうな狂気の数々。霊夢や魔理沙のような日頃異変解決をしてきた子たちがここに来ていればまともではいられなかっただろう。
「私は大丈…あ、しっかり抱きしめて定晴!」
取り合えず、強めに紫を抱きしてめておく。今の紫の状態を把握することはできない。
クラウンピースがやたらと睨むようにこちらを見ているが、俺は剣を取り出して牽制する。
「こいつは何なんだ。地獄ってのはこういうのがよく生まれるのか?」
「知らなーい。たまたま出来上がった何かじゃなーい?」
どうやらこいつの正体がなんであれ、遊び道具として見ているようだ。地獄にこんなのがいっぱいあるなんてまともじゃないから、多分たまたまと信じたい。
「幻想郷に今起こってる現象が分かってるのか」
「すっごい暑いよねー、頭がおかしくなって死んじゃいそう!」
「死者が出るのは本望じゃない。妖精ってのはそんな物騒じゃないだろ?」
「どうだろうねぇ」
にやりと笑うクラウンピース。なんか、前に出会った時と随分と性格が違うような気がする。前はもう少し妖精らしい子供らしさがあったような気がするけれど、今は黒幕らしいどろりとした感情を感じる。
その時、紫が横から声をかけてきた。
「あの子、だめね」
「どういうことだ」
「狂気に吞まれちゃってるわ。いわゆる、妖精の暴走よ」
紫曰く、何が原因かは不明だがクラウンピース自体が狂気に陥ってしまっているらしい。そのため正常な判断ができず、暴走しているとのこと。それを収める方法は…
「ピチュンさせちゃえば戻るわ」
「じゃあ、やるしかないか」
目の前でキャハハと笑うクラウンピースに、俺は輝剣を飛ばした。