東方十能力   作:nite

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四百六十八話 最終深度

何もない黒い空間だった。暗い、ではなく黒い、なのは、自分や持っている道具、フランの姿などははっきりと目視することができるからだ。

音もなく、景色もなく、闇の中に完全に飲み込まれてしまったような、そんな世界。今までと違い、幻想郷のどこでも、地球上のどこでもないような、そんな場所。

 

「フラン?」

 

後ろから、フランが俺の手を握ってきた。その手は、少し震えている。

この世界からは、何も感じない。何も感じないからこそ、怖い。生命の息吹を感じないというのは、一片たりとも意志を感じないというのは、ここまで怖いのかと思う。

フランと手を繋ぎながら、ゆっくりと足を進める。地面は見えず、周囲の景色も変わらないため歩けているのかも分からないが、フランの手の感触だけを頼りに足を動かしていく。

 

「ふぅ……」

 

響くようなこともなく、自分自身の声が聞こえる。足音がない空間で、自分たちの息遣いだけが聞こえる場所というのは、言いようのない恐怖を覚える。

時間もわからなくなる、方向が分からなくなる、どこを目指しているのか、何を目指しているのか、自分が何者なのか、それすらも分からなくなる。これが死後の世界だと言われたら、ああきっと、そうなのだろうと納得する。

 

『だが、狂うことは許されない』

 

ふと、声が聞こえた。自分の声ではない。まるで直接脳内に響くように声が聞こえ、周囲を見渡す。

 

『なぜ狂うことができないのか。違う、きっともうずっと狂っていた』

 

また声が聞こえる。フランには聞こえていないのか、俺の様子を見て不思議そうな顔をしている。

ああ、くそ、嫌な声だ。

 

『狂いながらも、それを押し付けていただけだもんな』

 

目の前に、影が現れる。黒い姿をしており、空間と同化しているはずなのに、その形は俺の目にはっきり見えていた。

俺と同じ身長、人の形を持ち、そして目は見えないのに俺を見ていることが分かる。

 

『だがここじゃ押し付ける相手がいなかった。なんせ、ここには意志だけがあるのだから。自分が一人しかいないのは、当然のことだよな?』

 

顔が見える。俺を見ている。服が見える。同じ服を着ている。全身が見える。同じ姿をしている。

暗闇に立つその人影は、俺であった。

 

『だからずっと、狂気に耐性があると思い込んでたんだ。ただ既に狂っていただけだったのに』

「狂気……」

 

見たくない。逃げたい。認めたくない。

だが、この逃げ場のない闇の世界が、俺に選択肢を与えない。ただ、直視することだけを強いられる。

 

『もう逃げるのはやめちまえよ』

「……」

『魂なんて能力、ないくせに』

 

まるで新しい真実のように語ってくるそれは、しかし俺自身だ。これはただの、自分自身との対話にすぎない。

だから、つまりは、無意識のうちに自覚していて、しかしそれを無意識に見ないようにしていたというだけに過ぎない。

 

『なら、できることは一つだよな?狂うのを思い出すだけだ』

 

その声は俺の脳内にじんわりと浸透し、かつて忘れようとした苦しみを、悲しみを、慟哭を、そのすべてを脳内に反芻させ、俺の視界が真っ赤に染まる……その瞬間に。

 

「おに、さま!」

 

ぎゅっと、壊れるくらいの痛みと共に強く腕を引っ張られた。小さく流れる雫と共に、分身体のフランはか細い声を発しながら俺を引き留めるように抱き着いていた。

本体のフランが、分身は喋ることができないと言っていた。動くだけの妖力しか込めておらず、喋ったり戦ったりなどの複雑なことはできないと。

だが、フランは確かに、小さい声で俺のことを呼んだ。必死になりながら、泣きながら、それでも俺のことを呼び止めた。

 

「フラン、大丈夫だ。俺は」

 

フランの頭を優しく撫でる。

そして前を向いたとき、既に狂気の姿はなかった。もしかしたら、元々そこには誰もいなかったのかもしれない。だって、狂気はただ俺がいると思い込んでいただけの、俺のもう一つの……

 

『つまり、私もまた存在しないってことになるよねー?』

 

うざいほどに頭に響く声。狂気とは反対側、俺の背後から聞こえた声に、俺は後ろを振り返る。フランの様子を見るが、やはり、フランには彼女の姿は見えていないようだ。

女の子らしい服装に、俺を女体化したような見た目、俺が恋をすることができない理由、恋から逃げる理由である愛がそこに立っていた。

 

『うんうん。私もまた、逃げるために生まれた存在。人間嫌いも、ここまでこじらせると面倒だねぇ?』

 

ニコニコと笑いながら、俺に精神的なダメージを与えてくる愛。

狂気の存在が、俺が狂うことから逃げるために存在したというのなら。愛という存在もまた、俺が愛し愛されることから逃げるために存在していると言えるだろう。

ああそうだ。この何もない空間、自分自身と対話するしかないこの空間だからこそ、俺は逃げずに答えを出すしかないのだ。自らが枷となるこの空間から進むには、自分の枷をなくすしか道はない。

 

『でもでも、私も狂気もいなくなったら、すぐに定晴は壊れちゃうんじゃなーい?それこそ、愛に狂っちゃうほどに』

 

ずっと魂と会話していると思っていた今までのすべて。それは、ただ自分自身と話しているだけに過ぎなかった。ただの独り言に過ぎなかった。

そして、突然喋る相手がいなくなった人間というのは、あっけなく壊れる。自分自身と話すことができず、思考が落ち着かなくなった人間とは、外の世界でもよくのけ者にされてきた。今だって、自分自身としか会話できないような人は世界中にいるだろうが、そのうちのどれだけが社会的な立場を得ることができているだろうか。

 

『でも大丈夫。私のことも狂気のことも、定晴がまた肯定すればいいんだよ。ここでは独り言に過ぎないこれも、現実に戻ったらまた楽しいおしゃべりになるはずだよ』

 

今まで、俺は頭の中で魂のやつらと会話をしていた。時には、魂にしか分からない情報を俺が知り危機を脱したこともある。ああそうだ、魂がいないと辻褄は合わない……

 

「っ!!」

「いってぇ!」

 

バシン、大きな音と共に扇子が俺の頭に叩きつけられる。それは、幽々子から貰った扇子。ただの扇子に過ぎないはずのそれは、まるで意志を持っているかのように独立して浮き、俺の頭をぶっ叩いたのだ。

 

「なんなんだよ」

 

と、今度は日記帳が俺の頭を叩いてきた。これは紫から貰った、ちょっと恥ずかしいことが書かれている日記帳である。これもまた、意志を持って浮き俺の頭を叩いている。

その二つを頑張って追い払っていると、いつの間にか目のまえから愛の姿は消えていた。

 

「っ……はぁ。なんだ。俺があいつらの言葉に惑わされないようにしてるのか?」

 

あいつらって言っても、あれもまた俺の一面であるはずなんだけどな。ということは、俺に女装願望でもあるということなのだろうか……?

そうして俺の頭を叩くのをやめた扇子と日記帳は、また物言わぬ物体へと戻ってしまった。何かに感応していたのだろうか。

 

「となると次は……」

 

俺の魂には、狂気・愛、そして魔女がいたはずだ。魔女の魂はしかし特殊なもので、あれは確実に俺ではない。香霖堂で購入した石の中にあった魂であるはずだ。

だが、正直もうどこまでが現実で、どこまでが妄想なのかは俺には分からない。魔女の魂だって、俺が魔法知識を得たことにより作り出された架空の存在だったのかもしれない。もう何も分からない……

と、俺が自失すると皆から貰った物物が俺のことを叩く。まるで、俺が道を見失わないように、注意をしてくれる親のように。

 

「魔女はいないのか?」

 

待てど暮らせど魔女の姿は見えない。狂気や愛の姿も再び現れたりしない。

俺は、この闇しかない空間の中でまた迷子になってしまう。残るのは、皆の持ち物と俺の腕を抱きしめているフランだけ。

俺はこのまま、この暗闇から出ることもできず、一生を終えるのだろうか。この空間に時の流れは感じないけれど、きっとずっといれば本当に狂って死ぬことになるだろう。暗闇とは、そういう空間なのだ。

今はただ、フランと他の皆の持ち物によって自分を保てているに過ぎない。フランの妖力がなくなり、持ち物に注意することができなくなったとき、俺という自我は狂い一生この空間を過ごすことになる。

 

「だが、もう、それでも……」

 

魂がいない。俺という存在は嘘だった。俺は俺に、嘘をついていた。

ああなら、もう別にいいんじゃねえかな。ただ現実を突きつけられただけだったが、俺はもう生きる気力を失っていた。いや、元々生きる理由なんてなかったのか。

目標もなく、ゴールもなく、ただ毎日を過ごしていただけの日々。今死んでも、いつか死んでも、それは早いか遅いかだけの違いでしかないなら、ここですべてが終わってしまっても……

 

俺は瞼を閉じて、この暗闇を受け入れる。フランの鳴き声と、頭を叩く衝撃が、少しずつ分からなくなっていく。なんだか少しずつ、思こうも、ゆるく、なにも

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