人間の一生というのは長くもなく短くもなく、それでもやはり短いのだと思う。過去を遡れば人の一生はほんの50年が平均だったりもするし、さらに時代を逆行させれば50年も生きれば長生きに含まれてしまう。
現代を生きれば、50年は中年かちょっとしたおじさん程度で、長生きというのには若すぎる。そんな現代では人生とは80年が指標だ。もっともこれは、日本という長寿大国での人の一生であり、世界規模の平均を取ればうんと下回るらしい。
少なくとも自分は学校でそのように習い、19歳になった今も覚えていた。
ある種の生きるという事に執着、あるいは執念が俺にはある。だからと言って、人一倍健康に気遣ったり、栄養を考えたりするわけではないのだが、せめて、普通に生きて普通に死ぬ程度の人生は堪能したい。普通でいいから、不幸の事故とか不幸の病気とかそういうのは是非とも避けたいものだと常々に思ってきた。
もちろんそれらは、不可避で理不尽な出来事だからこそ『不幸』などと呼ばれるのだが。そんな世界という大きな規模では些細な。
されど、『不幸』にも自身の人生にとっては最悪な出来事に出くわしてしまったのだ。
不慮の事故、とニュースには流れたらしい。
スローだった。これがテレビでよく見るスーパースローというやつなのか、などという他人事のような感想を抱いた。あまりにも現実離れしているため、自分の出来事だと認識できなかったかもしれない。それとも、死ぬかもしれない現実から咄嗟に逃避を始めたか。
貴重な経験だな。
全く、暢気にそんな事を考えられる自分が恐ろしい。だがしかし、スーパースローを体感できるなんてやっぱりあまりない経験であった。
視覚の情報に遅れて今度は聴覚の情報が脳へと電気信号で送られ、耳から聞こえてくる。
ひゅーん、どしゃん。
飛ばされた俺に聞こえたのはその音だけ。何かが飛ぶ音と何かが潰れる音。恐ろしく鮮明に聞こえた。
こんな音、聞きたくない。聞いても楽しいもんじゃない、むしろ不快だ。止めてくれ。
しかし、音はいつまでも耳に残る。
ひゅーん、どしゃん。
さっきまで聞こえていた、鮮明な音は遠く聞こえ始める。それと同時に、ノイズのように何かが聞こえる。だけど、分からない。悲鳴のようにも聞こえるし、ただの雑音のようにも聞こえる。
意識が遠のく。自然と、ああこれで死ぬんだなんて事を考える。これで全て終わり、自分はなくなる。
──なくなる?
何が? 命が。
何が? 俺の人生が。
何が? 俺の全てが。
何もかも無くなる。
いい、それはいい。だけど……俺はこんなところで死にたくない。
普通に生きて普通に死ぬまで、俺は人生を謳歌したい。まだまだやりたいことがある、やりのこしたことがある。
だから、俺は……まだ死ぬわけにはいかない。
生きたいんだ!
「ぅ……うぅ……はっ!」
視界がわずかながらに開ける。瞼の僅かな間から入ってくる蛍光灯の光が刺すように痛い。
痛みがまさしく物体として存在しているかのように、感じられるほどに身体が痛く、自由に動かせない。だけど……
「俺は今、猛烈に生きている!」
死の淵から俺は生き返った。
一回目の生き返りだった。
一回目というからには二回目がある。
病院から、俺の担当の先生から俺への一言、
「もう二度と自分の足で立つ事はできない」
衝撃的過ぎた。あまりにも驚きすぎて、その日一晩は口が閉じなかった。顎が外れるほどというのを経験した瞬間とも言える。貴重な体験だ。
その体験は一晩寝て起きれば終わっていて、自分の足で立つ事ができないという現実を思い知る事になる。驚きは……無いわけがない。だが、同時になるほどとも思った。
確かに、足は全く動かない。確かに、足からは痛みを感じない。確かに、足は……存在しなかった。
正確にはある。在るが有るだけ。使用不可。行動不可。全くもってあるという感覚すらも無く、あると分かっても動かせるという認識は無い。
「あれだ……理解できなくても、納得するしかない現実ってやつか」
ははは、と空笑い。もしくは無い元気を振り絞って笑う。盛大に。大袈裟に。
自分の笑い声と共に聞こえたのは啜り声。親の……母さんと父さんの涙を流し、声を出して泣いている声。
俺は足をなくしたのを知って泣く事はできず、親は足をなくした息子を見て笑う事ができなかった。
その日、病院の中は笑い声と泣き声で満ちていた。
目を覚まして三日目。
笑いに笑った日の後は、すごく清々しい気分だった。なんだろう、毒が全て抜け切ったというべきか、それとも心の整理がついたというべきか。あるいは……全てに決着がついたというのかもしれない。
俺の心はここにきてすごく落ち着いてた。まさに無我の境地。悟りを開けた気がする。今なら神様の声が聞こえても可笑しくないし、明日には孟家教なんていう、俺の名前がついた新しい宗教が起きてもなんら不思議じゃない気がする。
「よし、新しい神様にでもいっそなってみるか」
足の無い神様。神様というよりもまるで幽霊みたいだ。
実際には足があるが、あってないようなもんなのである意味では俺の足の存在は幽霊みたいなものか。生への執着からこの世に残るという意味だと、まるで俺自身も幽霊そのものみたいな存在だ。
「実際、亡霊だったりして」
それはそれで面白いな。この病院の怪談話になって、未来にも語られるのなら……なるほど、それなら死んだ後の世界にも魅力があるかもしれない。
でも、簡単に死ぬ気は無いけどね。
太陽がてっぺんに達する頃になると、母さんが面会に来た。
猛家と自分の名前を呼びながら眼から涙をこぼし、謝ってきた。
母さんが何故謝るのかわからない。代わってあげられるなら代わってあげたいと何度も言いながら、泣く。
気持ちは……理解は出来ないが、分からなくもない。
それなら、今この母親を元気に、昔のように茶目っ気たっぷりの母親に戻すには俺が一肌脱ぐしかないだろう。
「大丈夫だよ、母さん。俺は生きてるから。こんな状態でも生きてるからさ。人間生きてればなんでも出来るって、そう言って教えてくれたのは母さんでしょ? だからさ、泣き止んでよ」
よりいっそう泣き始める母。俺の足だった物に、必死にしがみつきながら撫でながら泣く母さん。
病室が個室でよかった。もし、これが個室じゃなかったら、母さんの本来の姿じゃない姿を見せる羽目になってたから。母さんには、是非とも元気な姿を皆に振りまいて欲しい。
「……うん! もう大丈夫。ごめんね、もうか。慰めに来たはずなのに慰められちゃったね。ふふ、いつからこんなに男気溢れるようになっちゃったのかな? 今のもうくんはお父さんより少し格好いいよ」
さっきまでの泣いている姿とは打って変わって、いつもの母さんの姿がそこにはあった。
もう大丈夫とは、俺のセリフだよ。
これで全ては元通りとは行かなくても、俺は大切な立ち上がるための足を失ってしまったけれども、元の暖かい場所に戻ってくれたのだから。
やっぱり生きているって素晴らしい。
改めて自覚した。
足が無くても出来る事はたくさんある。
そうだ、読書もいいかもしれない。このきっかけを利用して小説を書いてみるのもいいかもしれない。そう考えれば……うん、あながちこの経験も無駄じゃないようにも思える。
じゃあ、明日からは……
今後の人生計画を寝ながら考え、夢を見る。
人生生きていればなんとでもなる。
俺が都合よく、前向きにポジティブに人生を考えていたときに、俺に会いたいという人が面会にやってきた。
若い青年。下手すれば俺と変わらないぐらいの人だった。
俺は車椅子に乗って彼と屋上で話す。お話。それは和解の為のお話なのか、謝罪の為のお話なのか……
彼は俺を轢いてしまったトラック運転手だった。トラック運転手だった人だった。
彼の謝罪を俺は受け入れ、いつのまにかお互いの人生を語り合っていった。
こうやって人に自身の短い人生、語るにも値しない人生を語るとちょっとした感傷に浸れた。どんなに短くても、やはり自身の人生とはこれは中々に興味深いものだ。
興味深いといっても、俺は彼ほど壮絶な人生ではなかった。
普通に友達と笑い、家族と泣き、仲間と戯れた普通の人生。しかし、そんな人生こそが俺の好きで、生に執着する理由だ。
彼の人生は……俺が語ることは出来ないような人生だった。俺のような普通とは程遠いような、そんな人生だった。
だからと言って、俺は人の人生に同情できるような高等な生き方はしていない。なので、黙って聞くしかなかった。
「僕は……僕は! どんな思いであの親元を離れたかは分かるまい? そしてようやく職に就けた! そう、これでやっと普通の人生が歩めると思った! なのに! なのに!」
途中から空気が怪しくなったのには気付いた。だけど、彼のその言葉に、語りに口を挟むことはできず。結果この嫌な空気を甘んじて受けるしかなかった。
どうすればいい。なんか、なんかとてつもなく嫌な予感がする。
逃げ出したい。誰か、他の人が傍に来て欲しい。このまま二人でいると俺が──
「君が……君がいたから!」
体が強引に彼に持ち上げられる。
ああ、足が使えない事で弊害がでるなんて、思いもしなかった。
これじゃ、俺は……
「ごめん。でも、もう限界なんだ……」
ひゅーん、どしゃん。
ああ、またこの音だ。
こうして、俺は二回死んだ。
二度あることは三度ある、なんていう言葉は小学生でも知っているだろう。つまりはそういうことだ。
死ぬ事が二度もあれば、生き返ることも二度あった。それだけの話。ただ、今回は生き返った先がこれがなんともまぁ……不思議だ。
俺が生きていたのは確かに、平成の日本。戦争なんていうものは現代人には遠く感じ、目に見えるお金という価値に左右され、人生までも左右されるそんな世の中だったはずだ。俺はそんな世の中に、それなりに愛着も沸いていたし、好きだった。
その現代の言葉にはお金が全てじゃないという言葉があるように、いや言葉通りにその通りだ。
友情? 愛情? 慈愛? なんでもござれ、目に見えない形なんてものはいくらだってある。
もちろん、その目に見えないものはこのローマにだってあるが……。むしろ、目に見える物が難しい、なんだあの抽象的な文字は。いや、文字といえるのか? 否、少なくとも俺の中の概念では文字とは言えない代物だ。
なんだ、この生活環境は。ネットなんてものは存在しないし、まして平和なんてものとは無縁に近いじゃないか。
健康なんてものが存在するのか? 埋葬というものは存在するが、俺は死後の事より生きている今を重視して欲しい。
こんな生活で現代っ子育ちの俺が生きていけるのか?
生きている。生きていけている。
「そうか、生きてるのか……」
どんな形であれ、俺は生きているのか。
なら文句は言うまい。いや、文句は言うし言いたい放題に愚痴も呟くが、生きてみせようじゃないか。何、これも貴重な体験だと思えば、何のその。
人間生きていればやれないこともないし、どうとでもなる。生きてさえいれば何でも出来るのさ。
そう決意したのは過去に逆行して、ある意味、生まれ変わってから19年が経ったころだった。
今回は心にけりをつけるのに多少時間がかかってしまった。
こんなに時間がかかってしまったのは、この世界に順応するためじゃなくて、かつての自分と家族との別れとの心の整理に手間取ったから。
やはりあの愛おしい家族と別れたのは普通の人として、かなり心に来るものがあった。
しかし、そんな苦労は意味があったのかなかったのか。この慣れ始めた生活すらも終わりを告げることとなる。
俺の住んでいる村から丸ごと、まるで魂が吸われるかのように存在が消えてなくなろうとした。
なんと言うべきか分からないが、言葉にするなら
「な、なんか……存在が、自分という存在が吸収され……て、い」
二度あることは三度ある。それは当然死ぬ事にも当てはまったという事だ。
しかし。だがしかし、それは……
──生きたい? まだ生きたい? どうしようもなく生きたい?
同時に生き返る事にも当てはまった、はまってしまったというだけの話だ。
──俺はまだ死にたくない!
これがきっかけになり、俺は異能の世界へと足を踏み入れる事になった。フレイムヘイズ、そう呼ばれるものになった瞬間だった。