目が覚めれば広がっていたのはどこか懐かしさを覚えるリビングだった。寝ているのはソファだろうか。ゆっくりと身体を起こせば背もたれ側から声がした。
「あ、お兄ちゃんやっと起きた」
振り返った先にいたのは奏だった。奏がいるということはここは家なのだろう。
「奏。今何時だ?」
知らない呼び方で、俺は彼女のことを呼んだ。彼女はスマホを取り出して時刻を教えてくれる。
「三時だよ」
「まじか。寝すぎた……」
「昨日遅くまで起きてるからだよ?」
「仕方ないだろ。昨日は俺がずっと楽しみにしてたアニメの第一話放送日だったんだから。リアタイは必須だろ」
そうだった。だから部屋じゃなくてソファで寝てるんだ。ソファで寝ていた理由を今思い出した。
「はいはい。ご飯食べる?」
「食う。今日何?」
「チャーハン」
奏は俺の目の前にチャーハンの入った皿を置いた。大盛りで、俺が食べるには多すぎるくらいだったけど空腹のまま寝てしまったからかそれはあっという間に腹の中に納まっていく。とても好きな味付けだった。
「姉ちゃんは?」
「ちびちゃんたち連れて公園。蓮と春樹も遊びに出掛けてるし家にいるのは私くらいだよ」
そう言って奏は俺の隣に座った。格好がだいぶ薄手で少し冷え込んでしまえばすぐに風邪でも引いてしまいそうだと思った。
「お姉ちゃん怒ってたよ?お兄ちゃんが夏休みだからってあまりにもぐうたら生活してるから」
「いやいや。俺は昼だけじゃなくて夜もバイトしてるし……」
「それしかやってないうえにこうやって昼過ぎまで寝てるから言われるんじゃない?」
「そ、それは事実だけど……」
「大変なのはわかるけど、そんなんだから紗夜さんにもしょっちゅう怒られるんだよ」
「……今日はいつも以上に辛辣だな、奏」
奏さんは俺の言葉に笑っていた。イタズラが成功した子供のようにクスクスとその笑顔は絶えない。
「そう言うお前は、遊びにも行かずに家で何してるんだよ。宿題か?」
「まだ夏休み前半だよ?それに私はお兄ちゃんと違って計画的にやってるから」
「あーそうだっけ?」
「もしかして寝ぼけてる?」
「俺曜日で動いてる人間だから日にち感覚狂うんだよな……」
「言い訳しないの」
なんで俺は起きてそうそう義妹に説教されてるんだろう。いやまあ日頃の行いのせいだってことはわかってるんだけどな。
「ていうか。今日紗夜さんと約束してなかったっけ?スタジオで待ち合わせって聞いてたんだけど」
「あぁ!忘れてた!」
今日はギターの練習しようって話してたんだった。くそ、どこのどいつだよ眠すぎて明日風呂に入ろうって思ってたやつは!
家からスタジオまでは三十分はかかるし準備の時間も含めれば遅刻は確定だろう。紗夜にどやされる未来が容易に想像できた。
「仕方ないなー。私は片付けしとくからさっさと準備してきなよ」
「悪い奏。片付け頼む!」
「はーい」
俺は慌てて部屋に戻って着替えをもって風呂場に走った。奏は苦笑していた。
♢♢♢
「遅いわよ蒼夜。二十分遅刻ね」
「ご、ごめん紗夜。寝てて……」
「この時間まで寝てるなんて。もう社会人なんだから少しくらいしっかりしたらどうなの?」
「返す言葉もありません……」
遅れて到着した俺を待ち受けていたのはやはり説教だった。全面的に俺が悪いからそれにどうこう言うつもりはない。というか年下の彼女に怒られることは言ってしまえば日常だった。
彼女はため息をついて歩き出す。俺は慌ててその隣を一緒に歩いた。
「ごめんな紗夜。帰りにポテト奢るから許して」
「もので釣ろうとしないで」
「じゃあいらないのか?」
「……今回だけよ」
なんだかんだ懐の広い彼女は簡単に許してくれる。そして好きなものに釣られやすい。そういうところも含めてかわいくて好きなところだ。
「紗夜って何しててもかわいいよな」
「……突然何よ」
「いやふと思った」
約束通りファーストフード店に来てポテトを奢った。そのポテトを頬張る彼女を見ていたらそんな言葉が口から零れていた。俺としては別に嘘を言った覚えはないから訂正する必要もないだろう。
「何よそれ……」
紗夜は照れたように目を背けていた。彼女の頬を突いて笑えば頬が赤く染まった。
「うん。やっぱりかわいいなー」
「それ以上言うと怒るわよ?」
「怒った顔もかわいいよ」
「っ!蒼夜!」
「あははっ。ほら店の中だから騒いじゃダメだぞ」
いつもなら紗夜の方が何枚も上手なのにこういう時だけは俺の方が上手だと知ったのは最近のこと。
紗夜はいつだってかわいい。それは出会った頃から変わらない真実。それを伝えているだけなのだから照れることなんてないのに。
「シェイクもーらい」
「ちょ、蒼夜!」
「なんだよ奢ったんだし味見くらいはいいだろ?」
バニラはさっぱりしてていいけどやっぱシェイクはチョコだよな。
一口飲んで紗夜に返せばどういうわけか紗夜はワナワナと震えていた。
「どうした?」
「~~っ!バカ!」
紗夜は真っ赤になった顔を両手で抑え隠していた。いくら考えてもその理由はわからなかった。
♢♢♢
「うおぉー!すげぇ!」
「ちょっと春樹くん!危ないわよ!」
俺たちの目の前に広がるのは青。潮の香りが鼻を抜けていく。船の柵から身を乗り出す春樹を紗夜は押さえつけため息をついていた。ギラギラ照りつける太陽が俺たちを攻撃していた。
「おい春樹、テンション上がるのはわかるけど紗夜のこと困らせるなよ」
苦笑気味に近づいた俺に対して春樹はちょっと頬を膨らませたけどすぐにイタズラな笑みを浮かべていた。
「普段は俺と一緒にはしゃいでるくせに紗夜姉ちゃんの前だからってかっこつけるなよ!」
「は、はぁっ!?つけてねぇよ!」
「いやいやつけてるでしょ蒼くん」
一人船の操縦席から出てきた日菜が俺をいじる。否定して紗夜に助けを求めるも他のメンバーと同じことを思っていたのかフォローしてくれる雰囲気がない。
「日菜姉ちゃん!操縦席の見学はどうだったんだ?」
「あたしの知らない機械ばっかりでるんっ♪ってしたよ!」
「楽しそうでよかったわ」
日菜や春樹はもちろんだけど紗夜もなんだかんだ楽しんでるみたいで安心だ。
「そういや奏と蓮は?さっきから姿が見えないけど」
「あの二人なら中で休んでるよ?」
「さっきの船の揺れで酔ったんだって」
鍛錬が足りないよなー、とよくわからないことを春樹は言う。けどまあこのキレイな海がみんなで眺められないのは残念だよな。酔うなんて知ってたら連れて来なかったかもしんないけど。
「それより結構沖の方まで来たけどまだくじら見えないのかな?」
日菜の発言で今日ここにいる目的を再確認させられた。
姉ちゃんが福引で引き当てたホエールウォッチングのチケット。チケット一枚で六人まで参加できるということもあってみんなで見に来たのだ。本来ならチケットを当てた本人である姉ちゃんが行くべきだったのだけど姉ちゃんは義弟妹たちの世話があるから俺たち六人で参加することになった。次は姉ちゃんも一緒に来たいものだ。
「沖に出ればすぐに見れるって話だったと思うのだけど」
「んー今日はあんまり見れない日なのかなー?」
紗夜と日菜のやりとりを聞いて俺は海をきょろきょろと眺めた。
二人の言う通りくじらが見える様子はなかった。どこにいるのか姿は一切見えない。それは他の参加者たちも不思議に思っていたらしい。俺と同じように辺りを見渡していた。
にしても雲行きも怪しくなってきたし大丈夫だろうか。
「にしても蒼くん」
「ん?どうした?」
にやにやした表情で日菜が近づいてくる。手招きをする彼女に誘導されるまま俺は耳を傾ける。
「おねーちゃんといちゃついとけば?」
「はぁ!?」
「どうしたの蒼夜」
「い、いや!なんでもない!」
何言ってるんだよ!と紗夜に聞かれないよう小声で日菜を怒ればよく考えてみなよと返される。
「今二人きりになれたらいい感じでしょ?春樹くんはあたしが見とくからさ」
「……いいのかよ」
「もちろん。蒼くんたち一緒に出かけることはあってもそこまで遠出はしないでしょ?だから今のうちに存分いちゃいちゃしときなよ」
日菜の意見は正直一理あった。
紗夜に告白して以来これと言って何かがあったわけではない。そもそも付き合っての言葉を言ってない以上俺たちの関係を表す言葉は友達以上恋人未満だし、そもそも高校生に手を出すのもどうかと思っている自分もいる。社会的に抹殺されないだろうか。
けどまあ、日菜がこう言ってるんだし甘えるのもいいかもしれない。
それ以上の言葉は交わす必要がなかった。
「春樹くん、奏ちゃんたちの様子見てこよう。そろそろ回復してるだろうし」
「おう!兄ちゃんたちは……」
「俺たちはここで待ってるよ」
上手くやりなよという笑顔を向けたまま日菜は春樹と一緒に船内へと入って行った。紗夜はきょろきょろと未だにくじらを探している。そんな彼女の腰にそっと手を回した。
急だったし怒られるかと思ったが照れて顔を背けるだけだった。
「照れてる?」
「……別に」
想定通りと言うかなんというか。かわいすぎて今すぐに抱きしめてしまいたかった。さすがに人目がある所ではやらないけど。
「…………なあ紗夜」
「何よ」
「俺たちの関係性って、何?」
切り出したのはこれからを左右する大切なこと。
紗夜に答えを委ねようとしたのは俺の勇気が足りなかったから。
紗夜は開きかけた口を一度噤む。そして俺を見て言った。
「……そういうセリフは私の方から言った方がいいのかしら?」
真っ赤に染まった顔に細い声で言われてしまっては返す言葉を見失ってしまう。
けど、うん。こういうのはやっぱり男の俺が言うべきだよな。
「……紗夜。俺は君のことが好きだ。だから俺と__」
その時だった。
ガタンと大きな揺れが俺たちを襲う。俺は柵に掴まりつつ紗夜の身体を引き寄せた。それとほとんど同時に肌に触れたのは大粒の雨粒だった。すぐさま大降りの雨が俺たちの身体を濡らしていく。追い打ちをかけるように突風が俺たちを冷やす。
「おいおいマジかよ……!」
さっきまでの天気とは一変した。雨は容赦なく海までも荒らしていく。船の揺れは酷いものだった。
海の天候は変わりやすいと聞いたことがあるとはまさかここまでだとは。
「蒼くん!おねーちゃん!」
「危ないから早く中に!!」
日菜と奏の叫び声が聞こえた。俺は紗夜の身体を離し彼女を優先するような位置取りでゆっくり移動していく。その間にも揺れは大きくなっていた。
「おねーちゃん!」
日菜が紗夜に手を伸ばす。それを掴んだ紗夜は船内に入っていく。
それに安心して気を抜いたのが悪かった。
「っ!?」
「蒼くん!」
「蒼夜!!」
大きな揺れ、そして突風が俺を襲う。俺の身体は傾いて濡れた船の上を滑り転がる。
そしてそのまま海の中で意識を失った。
それが俺の知り得る最後の記憶だった。
♢♢♢
__ああそうか。全部思い出した。俺が何者なのかも、紗夜がどれだけ大切な人だったのかも、日菜や奏、姉ちゃんの存在も全部。
こんなこと忘れてるなんて、バカかよ俺は。一発、ぶん殴ってやりたい。
けど、うん。忘れていても俺は思い出せた。助けた理由も、助けたいって感情も思い出せた。
俺は、桐谷蒼夜。俺の生きる場所は今いる場所じゃないよな。
「行くのか?今の方が裕福で、なんでも恵まれている環境なのに」
「ああ。世話になったな」
「お前だって楽しかったくせに捨てるのか?」
「ちげーよ。捨てない。俺は今までのこともこれからのことも全部、捨てたりなんかしないさ」
俺は前に進む。そのためにいらないものなんてあるはずがないだろう。
記憶があってもなくても俺は俺。進むために捨てていいことなんて何一つないはずだ。だから。
「ありがとな。楽しい一年だった」
「……そうか。もう手放すなよ」
「当たり前だろ」
さよなら俺の一年間。さよなら弦巻家。さよなら愚かな俺。
おかえり、今までの俺。