死ぬときの眠りとは、きっとこんな感覚なんだろう。
そう思えるくらいの暗闇が、私の視界を鬱蒼と覆い隠していた。
何もかもが遠く、体の動かし方を忘れたように、瞼が上がらない。まるで魂がどこかに飛び出してしまったようだ。
「――! ――……!」
誰かの声が聞こえる。ひどく切羽詰まっているみたいだ。
助けた方がいいのだろうか? そう思うが、意識は針の上に立つようにおぼつかなく、力が入らない。
耳鳴りがする。キィンという甲高い音が頭の奥に蔓延って、他の全部の音が遠く、わんわんと靄がかった音になっている。誰かの叫ぶ声も、靄に紛れて、聞き取ることができない。
私は、一体何をしていたんだっけ?
懊悩な疑問が、靄に阻まれて溶けていく。何も考えられない。感覚が遠い。
じくじくと痛む頭の傷が原因だと、朧気ながら気がついた。
「っ……ぅ」
カラカラに乾いた喉から呻きが漏れる。額に感じる刺激に、私の意識は少しだけ覚醒に近づいた。
僅かに香る、苦みのある臭い。チリチリと空気を摺り合わせるような音。
よく見知った、親しみのあるたき火の存在を、すぐ近くに感じる。
「――リンちゃん!」
切羽詰まった声と一緒に、誰かの顔が視界に飛び込んできた。乱暴に肩を掴まれ、激しく揺さぶられる。
「リンちゃん! 大丈夫!? 返事をして!」
悲痛な鬼気迫る声に、私の意識は急速に形を取り戻す。
視界にこびり付いていた靄が晴れた。豊かな藍色の髪と、焦燥に取り憑かれ見開かれた目が見える。
「大丈夫? ちゃんと見えてる? 私のこと分かる!?」
「……なでしこの、お姉さん? ……痛っ」
ずきんと額が痛む。その痛みで、断片的な映像がフラッシュバックしてきた。
遠出したキャンプ。車に積んだ沢山のキャンプ用具。新調した焚き火台で食べたお肉。狭い山道。
耳をつんざくスリップの音。誰かの叫び声……浮遊感。そして……。
映像が次々に脳に飛び込んできて、目がチカチカする。そして私は、橙色に照らされているお姉さんの、額の赤色に気がついた。
「っお姉さん、血が……!」
「私の事はいいの。立てる? 早くここから逃げないと!」
悲痛な声に、私はようやく状況を理解した。
私はひしゃげた車の後部座席にいた。前面はすさまじい衝撃で形が変わり、べっこりと凹んでしまっている。ひびが無数に走り白くなったフロントガラスの向こうには、鉄塔のようにそびえる木が見える。
そして、むき出しになったエンジン部分から、小さな火がチラチラと燃えていた。
「っ――」
明確な命の危機に、体が飛び跳ねる。肩に食い込むシートベルトを外すと、支えを失った体がずり落ちる。突然の状況に、体がついていっていないのだ。
前の座席に腕を乗せ、ぐったりと上体を蹲らせる。その時、私の耳が、小さな声を捉えた。
「……ぅ、ぅ」
小さく、蚊の泣くような声。子犬が歌うような可愛らしい声。
聞き慣れた音色で響く、聞いたこともない音。
「ぅ、ぅぅぅ……!」
「……、………………なでしこ?」
不意に浮かんだ想像を否定したくて、私の声は震えた。前の座席に押しつけた頭を持ち上げて、前を見ることが堪らなく恐ろしかった。
硬直した私の体は、なでしこのお姉さんに強引に肩を掴まれ、車から外に出される。角度が急な斜面に、思わず倒れ込む。
この斜面を滑り落ちるようにして、高速で木に激突したのだろう。車の外観は酷い有様だった。左右のヘッドランプが、まるで中央の木を挟み込むように突き出ている。あちこちに剥げた塗装やガラス片が散乱していた。
「リンちゃん、お願い! 起きて手伝って!」
「っは、はい」
目を剥く私の肩を掴み、お姉さんが叫ぶ。飛び起きた私の腕を引き、助手席の方まで回り込む。
砕け散った窓ガラスの向こうに、なでしこがいた。座席にもたれかかるようにして、苦悶の表情を浮かべている。額にびっしょりと脂汗をかいていることが、遠くからでも分かった。
「うぅぅぅ、うううう……!」
「なでしこ、しっかり! 今助けるからね!」
私は何も考えられず、立ったまま我を失ってしまった。
だって、車のフロントは衝撃で潰れて、半分くらいの大きさまで縮んでいるのだ。
エンジン部にちらつく小火に照らされて、なでしこの涙がオレンジに光る。お姉さんは袖でなでしこの顔を拭うと、柔らかい頬に手を添えた。
「もう少しの辛抱だよ。もうちょっとだけ、我慢してね」
そうして、お姉さんは助手席のドアを開けた。接続のひしゃげた金属が呻き、ギコ、と音が鳴る。
「ひっ……」
思わず悲鳴が漏れる。
予想通りに、ボンネットは衝撃でぐしゃぐしゃになっていた。木に激突した反動で座席側に押し出され、なでしこの体にぐっと迫っている。
銀色に光るあれは、きっとエンジン部のパイプか何かなのだろう。太い鉄柱がボンネットを突き破り、それがなでしこの臑を潰していた。
パイプの下の足は、一目見て異常と分かる。分かってしまう。だって普通、臑から先だけ曲げるなんてできないのだから。
「お姉ちゃん……リンちゃぁん……!」
涙と脂汗で一杯のなでしこが、私とお姉さんを呼ぶ。聞いたこともない泣きそうな声に、心臓をぎゅっと掴まれた気分になる。
「いたいよ、いたいよぉ、お姉ちゃん……」
「大丈夫だよ、すぐに助けるから……リンちゃん、お願い!」
「あ、は、はいっ!」
お姉さんの叫び声に、私もようやくなでしこの側まで駆け寄る。
なでしこの顔もぐしゃぐしゃだった。痛みと気持ち悪さで口は半開きになり、たれ気味の優しい目からは止めどなく涙が溢れている。
「リンちゃん、リンちゃん……!」
私が側まで来ると、なでしこは縋りつくように手を伸ばしてきた。私は言葉を失ったまま、ただ反射的に指を絡ませる。ぷにぷにの柔らかい手のひらの感触が、夢でないことを思い知らせる。
「私がパイプを動かすから。隙間ができたら、リンちゃんはなでしこの体を引っ張って」
お姉さんに指示され、私は頷く。
助けなきゃ。漠然とした使命感に突き動かされ、私は握る手に力を込めた。
「大丈夫……大丈夫だよ、なでしこ」
何が大丈夫なのか分からないまま、ただ目の前の泣きじゃくるなでしこを元気付けたくて、私は震える声でそう繰り返す。
突き出したパイプを動かすのは、相当な労力だった。お姉さん一人の力ではどうにもならず、一度私が手を貸してもびくともしない。パイプに力を籠めるたびになでしこが「ん、んん~~!」と痛みをこらえた呻きを漏らす。その声と、エンジン部で燃え続ける小火が益々焦燥感を煽る。
結局、近くに転がっていたテント用のポールをてこにすることで、ようやく小さな隙間を空けることができた。パイプの下にあったなでしこの足が、ぴくりと僅かに痙攣する。
「引っ張るよ、なでしこ」
「う、うん……お願い、リンちゃん」
頷くのを受けて、私はなでしこの体を抱き締め、思い切り力を込める。
「い、だ、痛い! 痛いよ、リンちゃん……!」
「待って。もう少し……もう少しだから!」
なでしこの悲痛な声を無視して、私は力を籠め続ける。なでしこは口をぐっと引き結ぶも、叫びは止まらない。くぐもった甲高い叫びが耳をざわめかせ、聞いていると頭がどうにかなりそうだった。
ずるり、と。そんな幻聴と一緒に、なでしこの体が車から引き抜かれる。ぐにゃりとあらぬ方向に曲がったズボンが、暗い地面に投げ出される。
地獄のような時間がようやく終わり、私はなでしこの体から離れ、その場にへたり込んだ。
「うぇぇ……わぁ、わぁぁぁん」
地面に倒れ伏したなでしこが、声を上げて泣く。解放された心が、今まで堪えていた痛みと感情を爆発させる。
「っ……」
「リンちゃん、立って! 早くここから離れるよ!」
お姉さんが私を立たせ、なでしこを背負う。おんぶされても尚、なでしこはわんわんと泣いていた。
何でこんなことになったのか。
どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのか。
何もかも分からないまま、私はお姉さんに引きずられるようにして、何度も転びながら斜面を駆け下りた。