遭難してから、七回目の夜を明かした。
飲まず食わずで、人は十日間くらいは生きられるという。水があれば、その倍は持つそうだ。
私たちに、その例は当てはまるのだろうか。
感じられる自分自身の身体は、まるで枯れ木のようだった。生命力が尽きかけているのが、自分でも分かる。
度を超えた空腹が身体を縛り付けて、呼吸するだけでも苦しい。
たき火に当て続けた顔は、低温火傷で真っ赤になって酷く痛む。裏腹に手足の末端は、摘むと砕けそうな程に冷たかった。
時折湯を沸かし、焼き肉のタレを入れて飲む以外には、木にもたれ掛かって過ごしている。嫌な臭いが充満している。まるで体のどこかが腐っているみたい。そろそろ、体のどこかに苔やらカビやらが生えてしまいそうだ。
目の前で、ちらちらとたき火が揺れる。
あれほど恐ろしい熊の気配すらなく、冬の雪山は何も変わらない。
何日も、何日も、ずっと動かないまま、静かなまま……。
「……リンちゃん、大丈夫?」
いや。
一つだけ違った……
なでしこの励ましだけは、ずっと、毎日続いていた。
寝ころんだなでしこが、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
私と同じように顔に生気はなく酷くやつれているけれど、窪んだ目の奥には、まだ光があった。
弱弱しい、けれどもいつもの調子の声で、彼女は、隣で石像のようになった私の事を心配している。
「顔、まっかだよ……? もう少し、火から離れた方がいいんじゃないかな」
「……」
なでしこの掠れ声に、私は返事すらしない。
たき火を見るのに精一杯で、なでしこがどんな表情をしているのかも分からない。
枯れ葉の割れる音で、なでしこが体勢を変えた事が分かる。
「……ねえリンちゃん。救助隊の人は、きっとすぐそこまで来てるよ」
ざらざらの、錆だらけの鈴を鳴らすような声が言う。
「いっぱいのご飯と、あったかい毛布をたっぷり持って、すぐそこで私たちを探してるよ」
柔らかで優しい声。
甘えきった弛んだ理想。
それが私の萎んだ脳味噌を掻き毟る。凍えた心を這い回る。
凍り付いた私の心をくすぐり、その中の、どす黒く淀んだものを浮かび上がらせる。
「お姉ちゃんも一緒に駆けつけてくれてるよ。救助隊の人たちを、きっと生きてるって説得して。だからもう少しで――」
「もう諦めなよ、なでしこ」
限界だった。なでしこの明るい希望を、もう受け止められなかった。
たき火を見つめることもできず、私は顔を下げ、冷たい地面を見下ろす。
「私たち、ここで死ぬんだよ。誰にも見つからず、発見されず」
それが現実だった。認められずにいただけで、最初から決まりきっていた結果だった。
「冷静になって考えろよ。学校が始まってどれだけ経った? みんな気づいてないんだよ。それか、とっくに諦めて、死んだことにして葬式でも開いてるんだ。お姉さんだって、こんなに時間が経って、生きてる訳がないだろ。山を降りるなんて、最初から無理な話だったんだ」
まるで私の言葉を肯定するように、たき火が弾ける。
遺影を前に、父さんも、母さんも、学校の皆も泣いている。なでしこの両親は、子供を一気に二人も失って、どんな顔をするのだろう。
お姉さんはどこかで野垂れ死んでいるに違いない。足を挫いて動けなくなったのかもしれない。寒さにやられて永眠したのかもしれない。熊に襲われた可能性だってある。遺体の捜索は、私たちよりずっと難航することだろう。
それが現実だ。助かる可能性なんかより、そっちの方がよっぽど鮮明に思い描ける。
「だから、辛くなるような事を言うなよ。もう皆に会えないよ。楽しい話とか、もうできないよ」
助かった後の事を考えるなんて、土台無理な話だったのだ。
「もう、いいだろ……いい加減、諦めろよ」
助けが来るはずないのだから。ここで死ぬ事が決まっていたのだから。
先も見えないのに前を向けない。根拠もない理想を信じられない。
自分の後ろ向きな思考が嫌になる。けれど、それが私達に降りかかった現実で、受け入れるしかない事実なのだ。
前なんて向けない。死を受け入れる他ない。
夢や希望なんて、信じられない。
私は、なでしことは違うのだから――。
たき火の炎が揺れる。
ひゅう、と風がなった気がした。
顔を上げると、すぐ目の前に平手があった。
ばちん! と大きな音が冬の山に木霊する。
火に炙られた顔が激痛を訴える。全身の細胞が一気に目覚めて、大きすぎる刺激に悲鳴を上げた。
飛びかかったなでしこは、バランスを崩して倒れ込む。折れた足を挫き、絶叫が上がる。それでもなでしこは地面を這って、一目散に私に詰め寄る。私の服を鷲掴みにして、馬乗りになった。
怒りに取り憑かれたなでしこの目は、鬼のようだった。
唇をちぎれる程に噛みしめ、隈が張り付き骨の浮いた目を一杯に見開く。桃色の髪は乾燥して見る影もなく乱れている。顔を近づけられると、鼻を刺す酸っぱい肉の臭いがした。
なでしこは憤怒の形相で、私を殴りつけた。黙って。ただ黙々と。怒りに任せて何度も何度も。
栄養失調を起こした拳はまるで力がなく、痛みはほとんど感じない。
それでも拳は固く、振るう勢いに容赦はない。
ばちん、ばちんと頬が弾かれる。顔を腕でかばうと、弱った腕の骨が軋む。
「っひ……ゃ……!」
怖い。怖い。怖い!
殺される。そう思う程に、なでしこは本気で私を襲っていた。振るわれる腕が止まらない。弱々しい衝撃が走るほどに、私の心が恐怖に打ちのめされる。
「ばか……ばか! リンちゃんのばか! ばかばか! ばかばかばかぁぁぁぁ!!」
「っご、め……なでしこ、やめっ」
「何でそんな意地悪なこと言うの!? なんでそんな酷い事言うの!? 何で! ねえ、何でよぉぉ!」
聞いたこともない、しゃがれた怒声。喉を引き裂いて、なでしこが絶叫する。
怒りが降り注ぐ。拳が突き刺さる。目から勝手に涙がボロボロと零れ出る。
初めて顔が温かい。温かくて、辛い。辛い。辛い。
「ごめん、ごめんなさっ……ごめんなさい、なでしこっ……!」
「こんなに痛いのに! 寒くて辛いのに! お腹が空いて苦しいのに! ……それでも……それでも頑張ろうと! わたしが必死にやってるのに! それをなんで、全部全部台無しにするの、ぉ……!」
怒声は次第に勢いを無くし、なでしこは私の胸ぐらを掴みあげる。目に溜まった大粒の涙が、私の顔にポタポタと落ちてくる。
やつれきって、ぐしゃぐしゃになったなでしこの顔は別人のようで。
それがひたすらに怖くて……痛ましかった。
「ッわたしの足、どうなるか分からないんだよ!? もう歩けないかもしれないんだよ!? お姉ちゃんが生きてるかも分からない! 離ればなれになりたくなかった! 寂しくて潰れそうだった!」
「……」
嘘だ。
そんなはずはない。
だって、なでしこはずっと、笑顔で、助かる事を信じてて……。
「もうキャンプできないかもしれない! 皆に会えないかもしれない! 助けなんてこないかも! 皆に忘れられて、骸骨になるまで一人ぼっちかもしれない! そんなの……そんなのやだよ!!」
ああ……。
ああ……!
なんで、こんな簡単な事に気が付かなかった。
私は、なんて馬鹿だったんだ。
なんて、ふざけた勘違いをしていたんだ。
足を骨折して、大好きなお姉さんと離ればなれになって、寒くて寂しい山に取り残されて。
怖くないわけ、ないじゃないか。
不安じゃないわけ、ないじゃないか!
隣にいて何で気づかなかった!
同じ時間を共有して、不安で怖くて寒くてどうしようもなくて!
死の恐怖に飲まれて、何もかもを諦めてしまいそうで!
なでしこは、"それでも笑っていた"だけなのに!
励まされていて気がつかなかった?
希望を与えられて、安心していた?
なでしこと一緒なら頑張れると、いつの間にか甘えていた?
愚かに過ぎた。私は何も見えていなかった。
なでしこは、どんな時でも明るく振る舞っていた。
助かる希望を捨てなかった。
これから先、生きてたどり着く未来を信じていた。
それは、つまり。
なでしこは、私なんかより、ずっと――!
「"死にたくない!" 死にたくないよ! まだたくさん、楽しいことしたい! 皆と一緒にいたい! こんな寂しいところで、苦しんで死にたくない! 死にたくない死にたくない! 死にたくないよぉぉぉ!」
「……!」
「なのになんで、酷い事ばかり言うの!? 諦めろとか言うの!? リンちゃんの馬鹿! ばかぁぁぁぁ! リンちゃんなんて……! リンちゃんなんてぇぇぇぇ……ぇ……!」
ビリビリと肌を裂く絶叫は、次第に萎んでいく。
胸ぐらを掴む力が弱くなり、なでしこはとうとう、私に馬乗りになったまま、天を仰いで号泣した。
「やだ。やだよぉ。死にたくないよ……! うぇぇ、うぇぇぇぇぇん……!」
今更になって、彼女の苦しみが、砕け散るほどの寂しさが、私の心に吹きすさぶ。
凍っていた心が、苦しみに目を覚ます。
目から勝手に涙が零れ出てきた。
死はこんなに怖いのに。
一人だと叩きのめされて、潰されてしまうのに。
私は、なんてひどいことを……!
「うぇぇぇぇぇぇぇん。ばか、っりんちゃんの、ばかぁぁぁ……! わぁぁ、わぁぁぁぁぁぁん……!」
「っごめ……ごめん、なでしこ……ごめん……!」
私の目からも、勝手に涙がこぼれてくる。
後から後から沸いてくる、言っておくべきだった謝罪の言葉。
泣きじゃくるなでしこに、それはもう届かない。
気丈に振る舞っていただけだった彼女の心は、私の非情な言葉で砕け散ってしまった。
愚かな私が、大切な友達を絶望の淵に叩き落したのだ。
隔たれた距離は、もう二度と戻らない。
二人の間に開いた亀裂は、余りにも深く、暗くて……冷たかった。