訪れた本当の静寂は、すでにひび割れていた私の心を、たやすく打ち砕いた。
なでしこはもう、一言も喋らない。顔を背け、たき火を背にうずくまっている。
死んだように動かない背中。そこから放たれる明確な拒絶の意志に、私の精神は凍り付く。
「……ごはん、できたよ。なでしこ」
食事の時だけ、なでしこはたき火の方を向く。
魂の抜けた表情は一気に何歳も年をとったようで、直視する事を拒む。一方のなでしこは、まるで私なんていないかのように、黙って器を取り、背を向けて汁をすする。
最後の焼き肉のタレを湯に溶かしたスープ。とうとう調味料すらも底をついてしまった。それに今更、嘆く気も起きない。
日が落ち、やがて夜が来る。辺りが闇に包まれ、身を切るような冷たさが、一層深まる。
なでしこの背中から、白い光が漏れている。なでしこはケータイを開いて、何かを見ているらしかった。
ここからは、画面もなでしこの顔も見れない。ただ、点いては消える画面の光で、彼女が今も生きている事を知るだけだ。
……何を見ているんだろう。私みたいな奴に、教えてくれる筈ないけど。
視界が霞む。意識が朦朧とする。
お腹が空いて苦しい。
寒い。寒い。たき火は顔を痛めるばかりで、心が寒い。
眠気など来ない。耐え難い空腹と、ちぎれるような冷たさが、私の身体を静かに打ちのめす。
何をするのも怖くて、苦しい。
ただ、何もせず、火を見つめ続けることしか……。
「……」
――私は、どうしようもない馬鹿だ。
足を折って、無理矢理に元に戻されたなでしこが、苦しんでいない筈がないだろう。
食いしん坊な彼女が、ほんの少しの肉で不満一つも漏らさなかった事に、何の疑問も沸かなかったのか?
たかがシュラフのあるなしで、冬の寒さが変わるとでも?
同じ時間を過ごして、同じ苦しみを分かちあっているのに。
なでしこが元気だと、本気で勘違いしていたのか?
悲しいのは自分だけと思いこんでいたのか?
元気に振る舞うなでしこに、私の苦しみも知らずにと憤っていたのか?
恥ずかしい。情けない。
愚か者だ。見下げ果てた愚図だ。
何を見ていたんだ。何を考えていたんだ。
救いようのない。私は、本当に、どうしようもない馬鹿だ。
馬鹿な私は、なでしこを傷つけてしまった。
助かるかもしれないという希望は、なでしこが必死になって、絶やさないようにしてきた火だった。
その火は、もうない。
私が消した。身勝手に絶望して、相手の気持ちも考えずに打ちひしがれて、なでしこの最後の希望をへし折り続けた。
この絶望は、浅ましい私への罰だ。
私はここで、飢えて凍えて死ぬ。大切な友達を傷つけて、絶望にたたき込んだまま。
なでしこの笑顔を二度と見れず、修復できない溝を抱えたまま、"独りぼっちの二人"で死ぬ。
「っ……」
私には、嫌だと思う事すら許されない。
嗚咽すら漏らせず、静かに涙がこぼれ落ちる。
怖い。寂しい。死にたくない。死にたくない。
一人になって今更、押し潰されそうになる。
達観した気持ちなんて嘘だった。諦めて、死を受け入れるなんてできなかった。
私はただ、なでしこに全部押しつけて、甘えていただけだった。
今魂を滅多打ちにするのは、私が気づきもせずにはぐらかしていた恐怖だ。
なでしこが必死に笑顔を作って耐えていた絶望だ。
それを全部、私がぶち壊したんだ。
死ぬべきなのは、私だ。
あんな酷い事を言う奴は、この世から消えてしまえばいいんだ。
死ね、愚図。死んでしまえ。
愚かな私には、独りぼっちの死がお似合いだ。
地獄に落ちてしまえばいいんだ。
苦しい。辛い。辛い。
涙が後から後から、零れ出てくる。
出す資格のない情けない弱音が、心の中で反響する。
辛いよ、なでしこ……。
死にたく、ないよ……。
二人に開いた亀裂は余りに深く、謝る事すら許されていない。
それでも、私は見苦しく、なでしこを求めてしまう。
一人だと押し潰されてしまうから。怖くて怖くてどうしようもなくなってしまうから。
こんな中で、なでしこは笑ってたのか?
ごめん、なでしこ。気づいてあげられなくてごめん。
私が馬鹿だった。どうしようもない屑だったよ。
だから、どうか謝らせて欲しい。許して欲しい。
ちゃんとお話できなくてごめん。ひどい事言ってごめんと、どうか謝らせて。
そして、また笑顔を見せて。
寂しいよ、なでしこ。
嫌だよ。なでしこに嫌われたまま死ぬなんて。
こんな近くにいるのに、離ればなれなんて。
一人は辛いよ、なでしこ。
死にたくないよ。
自虐と、謝罪と、絶望。
絶え間ない自己嫌悪と恐怖がぐるぐると渦巻いて、私の心を黒い渦の中に溶かしていく。
火傷した頬を涙が伝い、塩の線を引く。いつの間にか朝を迎えていた。
思考が霞む。たき火が淡い光の粒になって視界を漂う。
魂が身体から引き抜かれるような感覚がして、その度に、痛いほどの空腹に呼び戻される。
地獄のループ。感覚が朧気になるのに、苦痛はますます存在感を強め、私をいじめ抜く。
それなのに、死はまだ来ない。目の前に佇んだまま、私が苦しむのを楽しんでいるように感じた。
死の虚脱感と、生の苦しみ。意識が離れ、引き戻される。極限状態の私の魂が、やじろべえのように行ったり来たりを繰り返す。
瞼が痙攣し、ピントがうまく合わない。そんな私の目は、自然となでしこの方に向いた。
横に寝ころんだなでしこは、あれから身じろぎ一つしていない。いつの間にか脱ぎ捨てたシュラフが、そこらに転がっている。
「……」
――なでしこだけでも、生きて欲しい。
絶命間際の私の頭の中は、混沌の果てに、その考えにたどり着いていた。
どんな言葉で謝ったって、なでしこは私を許してくれないだろう。
私は許されないまま、死んでしまうだろう。
……けれど、なでしこは違う。
なでしこはいい奴だ。二度と笑ってくれなくても、最高の友達だ。
いつでも明るくて、皆を幸せにできる奴だ。
彼女は、こんな状態でも諦めなかった。こんなどうしようもない私を助けようと、気丈に振る舞ってくれた。
生き残ることを願い、楽しい日常に戻ることを夢見ていた。
なでしこが、ここで死んでいいわけがない。
なでしこの願いを叶えたいと、心の底から思った。
せめてもの罪滅ぼしに、私はなでしこを助けたかった。
ピクピクと痙攣する瞼を持ち上げ、私は眼球を動かす。
たき火を挟んだ反対側に、薪割り斧が落ちていた。
沢山薪を割ってくたびれた鈍色が、朝の光を受けて白く輝いている。
「……」
きっと。
とても苦労するし、凄く痛むだろう。
腕も、足も、何回も叩きつけないと、骨は折れないに違いない。
やるなら、そう、頭がいい。斧を木にくくりつけて、頭突きしてやるのだ。
三回くらい思い切りやれば、頭蓋骨だって割れるだろう。
「……」
馬鹿げた考え。
けれど、それをすれば……なでしこは生きてくれるだろうか。
愚かな私の、罪滅ぼしになるだろうか。
どうしようもない愚図な私の代わりに、幸せになってくれるだろうか。
ねえ、なでしこ。
私を使って、生きてくれる?
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もう少しで、おしまいです。