しゅる、と音がした。
それは木の葉のそよぐような、ほんの僅かな音でしかなかったが、死の静寂に満ちた山の中では、うるさすぎる程の存在感を持っていた。
私は自然と、鈍色の斧から逃げ出すように、音のした方向に目を向ける。
小さな二つの赤い目が、こちらを見つめていた。
白い毛並みの兎がいた。なでしこが脱ぎ捨てたシュラフの中から、ぴょっこりと顔を覗かせている。
唐突に現れた小動物は、まるで幻のような異質な存在感を放っている。ビーズのような目と、視線が交差する。兎はさっと顔を隠すと、シュラフの中へと潜り込んでいった。
「っ――!」
行動に迷いはなかった。
どこにそんな力が眠っていたのか、私は弾かれたように身を起こすと、たき火を飛び越え、シュラフに飛び込んだ。頭と身体の疎通ができず、足がもつれて、冷たい大地に顔を削られた。
痛みに呻きながらも、残った意識のありったけを使って、シュラフの入り口を握りしめる。兎が異常を感じた時には、シュラフの口を折り畳んで、完全に密封させることに成功した。
暗がりに閉じこめられ、パニックになった兎が暴れる。生命力に満ちた力強い抵抗。私はシュラフを抱きかかえ、はね飛ばされそうになるのを必死に押さえ込む。
「な、なでしこ……げほっ。なでじこっ……!」
カラカラに掠れた声で、なでしこを呼ぶ。
ゆっくりと顔を上げたなでしこは、矢鱈目鱈と暴れ回るシュラフを見て目の色を変えた。
「手伝って……一緒に押さえて!」
「う、うん」
未だ状況のよく分かっていないなでしこに、必死で呼びかける。
衰弱しきった二人の力を併せて、何分間も格闘を繰り広げ、やっとシュラフを押さえつけることができた。シュラフの中からは、くぐもった小さな鳴き声が聞こえてくる。
急な運動に心臓が悲鳴を上げ、肺が張り裂けそうに痛む。
汗だくになった私たちが、顔を付き合わせて息を荒げる。
久しぶりに見たなでしこの顔は酷くやつれ、困惑に眉根を寄せていた。
「りんちゃん……なに、これ?」
「兎が、シュラフの中に入ってる。多分、他より温かいとかで、寝床にしてたんだ」
「兎……」
なでしこが、意味をよく飲み込めずに反芻する。
兎は諦めずに暴れ続けている。小さな身体から感じる信じられない抵抗に、私の弱り切った心が感傷を訴える。
「そ、それでなんで捕まえるの? 兎さんが、かわいそうだよ?」
戸惑うなでしこの質問。
私の顔は、自然とある方向へと向いていた。
なでしこの目が私の視線を追いかけ、そこに鈍く光る薪割り斧があるのを見て、顔をさっと青ざめさせた。
「……だめだよ」
独り言のようにつぶやいたと思うと、なでしこはキッと私を睨みつけた。
「そんなことしちゃダメだよ、リンちゃんっ」
「ダメなことないよ」
「ダメなことないことない! わたし、そんなことしても、ぜんぜん――」
「生きたいんだろ!」
私の叫びに、なでしこの駄々は形を潜めた。ぎゅっと閉じたカサカサの唇が震え、窪んで骨の形が見える目が、薄く涙を溜めている。
ああ……なでしこはなんて優しいんだ。死にそうなのに、まだ誰かに優しく在ろうとしている。
今だけはその優しさに、甘えちゃダメなんだ。
「生きたいんだろ……! なら、なりふり構ってちゃだめだ。このチャンスを逃せば、本当に死んじゃうぞ」
「っ……でも、でもぉ」
なでしこが弱々しく首を振る。
気持ちは痛いほど分かった。シュラフ越しに手のひらに伝わる、小さく柔らかい感触。温かく活力に満ちた生命の気配。
尊いそれを、どうして奪う事ができるだろう。想像するだけで、膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
けれど、その気持ちを腹の底に押し込んで、私はなでしこの目を覗き込む。
「生きたいんだろ、なでしこ」
「っ……」
溜まっていた涙が溢れる。兎の入ったシュラフを押さえつけたまま、その上にポタポタと滴が落ちる。
「生きたい、よ……! 死にたくない、よぉ……」
なでしこの気持ちが分かる。同じ気持ちを共有している。
今までもそうだった。馬鹿な私が気づかなかっただけで、いつも私達は、同じ感覚を共にしていた。
「うん……私もだよ。私も、生きたい」
諦めそうになる絶望を、笑ってはぐらかしていたのがなでしこだ。
ならば……とことん悲観的に、現実を押しつけるのが、私の役目だ。
「大丈夫だよ、なでしこ……ちゃんと、私がやってみせるから」
厚い雲が覆う空。山中のうら寂しい景色が、灰色の光に浮かび上がる。
入り口を縛った藍色のシュラフは、今ももぞもぞと動き続けている。体力が尽きたのか、狭いシュラフに囚われて心をやられたのか、最初のような激しい抵抗はもう見られない。
はぁ、はぁと、浅く早い二人の呼吸が重なる。衰弱した身体が、過酷な現実に直面して興奮している。
意識は未だ朦朧として、極限の空腹で苦しくて。腕を持ち上げるだけでも気絶しそうになる。
震える手で、シュラフの中の小さなものを握りしめる。厚いビニル越しでも、柔らかな肉の感触と温かさを感じる事ができた。
小刻みに震えているのが、手のひら越しに感じる。みぃ、と鳴き声が聞こえた。
「っ……!」
なでしこは私の隣で、両手を結んで縮こまっている。
離れていていいと言ったのに、なでしこは私の助言を聞かなかった。
隣で全て見届けてる。それが彼女なりの決着だった。
私は薪割り斧を手に取る。
ずっしりと重たい鈍色の刃を、シュラフの中の塊に、そっと押し当てる。
首筋に当たる鉄の感触に、今頃になってシュラフが暴れ出した。
みぃみぃと細い鳴き声が耳を騒がせる。
か弱く、許しを請うような、最後の抵抗。
良心が悲鳴を上げて、やめてあげてと泣きじゃくる。
私は唇を噛み切って、薪割り斧を握る手に力を込めた。
――ああ、私は地獄に落ちるかもしれない。
罪もない生き物を、殺す。首だか腹だかに斧を食い込ませ、切り落として殺す。
なんて罪深いんだろう。
どうして、こんな辛い事をしなければいけないのだろう。
神様も意地悪だ。どうしようもないろくでなしだ。
私たちは、たった一日二日、助かるかも分からない時間を生きるために斧を振るう。
地獄を過ごすために、今ここで殺す。
けれど……しょうがない。
死にたくないんだ。何に変えても、生きたい。
なでしこを、死なせたくない。
「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ごめんなさい……!」
壊れた機械のようになでしこが詫びる。組んだ両手が震える。
シュラフの中の抵抗を押さえつける。柔らかな肉に指が食い込んで鳴き声が強くなる。
みぃ、みぃという声は、無視できるものではなかった。甲高い声が、私の脳裏に、永遠に残る傷を刻む。
けれど、やらなくちゃいけなかった。
死にたくないんだ。
死なせたくないんだ。
だから、死んでくれ。
噛み切った唇の血の味が、私の罪だった。
上体を乗り出して、全体中を込める。
――み゛っ。
ぶちり、という肉の感触。
甲高い鳴き声が、潰れて消えた。
皮を剥いだ肉を、滴る血ごと鍋に放り込む。ぐらぐら煮詰めると、水はたちまち、木の皮のような茶色の液体に変貌した。
小さく柔らかい、新鮮な肉の塊を、ぐずぐずに溶けるまで煮込む。
辺りには吐き気を催すような、血と獣の臭いが充満していた。ぐっしょりと血に塗れたシュラフは、無理矢理にちぎり取った白い羽毛と一緒にそこらへ捨ててある。
血を吸って雑巾のようにくたびれたシュラフ。その中には、ビーズのような赤い目をした首が包まれている。
埋めようとか、そんな考え一つ抱けない。殺した後の切り分ける作業で心は完全に砕け、今はただ、ひたすらな飢えに取り憑かれていた。
鍋の水面に白い骨がぷかりと浮いて、肉がボロボロに崩れて溶ける。
吐瀉物のようになったどす黒い液体を、私たちは無我夢中で貪った。
「っ……!」
一口すするだけで、強烈な悪臭が鼻を刺す。血と胆汁の混じり合った臭いに、肉の味が全て塗りつぶされている。理性が動転し、食道がひっくり返って飲み下すことを拒絶する。
それを問答無用で無視し、強引に飲み下すと、今度は急に異物が飛び込んできた胃が悲鳴を上げる。
嫌だとわめく理性。暴れ狂う内蔵。
それら全部を、獣のような食欲が覆い隠す。
私たちは夢中で、くそまずい汁をすすった。血塗れの手で、今まさに命を奪った手で肉を貪る。胃酸が逆流し、強烈な酸味が喉を焼く。そこにまずい汁を流し込む。
鉄錆の味。生臭い獣の臭い。何度も吐きそうになりながら、私となでしこは一心不乱に肉を食らう。
目を見開き、息を荒げ。獣のように飢えに支配されて、わき目もふらず咀嚼して。
「っう……」
やるせない気持ちに潰れそうになる。
自分たちは最悪だ。
人としての理性も曖昧にして、一つの命を奪ってしまった。
頭を毟り、皮を剥ぎ、骨の髄までしゃぶり尽くしている。
たった一日二日。地獄の終わりを、先延ばしにするために。
なんて辛いんだ。
なんて虚しいんだ。
「っぅ、ぅぅ……!」
「うぇぇ、ぇぇ……! うぇぇぇん……!」
……それでも、生きたい。
こんなところで、寂しく死にたくない。
身勝手な欲求に命を犠牲にして、それでも私たちは、みっともなく生きたいんだ。
訳もなく悲しくて、情けなくて。私となでしこは泣いた。
泣きながら、夢中でまずい汁をすすった。
最後の希望に、すがりつくために。
何が何でも、あの懐かしい日常に帰るために。