そうなん△   作:オリスケ

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第14話

 

 

 ――あれから、夜を二回明かした。

 そして今、十日目の夜を迎えようとしている。

 ごまかし、足掻いて、なんとか先へ先へと伸ばしてきたそれが、すぐそこまで近づいている。

 

 

 

 

 炎が、見えなくなった。

 重ねた薪の上に揺らいでいた橙色がなくなり、黒ずんだ薪の周辺で透明な陽炎が揺れるのみになっている。カラカラに乾いた顔が、ほんの少しの熱を受けてヒリヒリと痛む。

 追加の薪は、もうない。新たに薪を作ることもできない。

 呼吸する事さえ、頑張らないとままならない。起きあがる事なんてとうの昔に止めている。

 水を取りに行くことすらできずにいた。放置された鍋には、厚い氷が張っている。

 体力も気力も、限界を越えて泡沫しか残っていない。尊い命を奪って生きながらえた分も、無駄に終わろうとしていた。

 

 

 私は木に寄りかかることもできなくなり、地面に仰向けに倒れていた。なでしこと頭を付き合わせるように、地面に伏せている。

 氷のような地面に押しつけた背中が痛い。けれどその感覚も、酷く曖昧だ。痛みを感じることすら、手放し始めている。

 夕焼け色だった空は、藍色に変わっている。世界がどんどん色を落としていく。

 吐いた息が白い霧を作る。気道が震え、断続的な音を出す。

 

 

 もう少しで、あの真っ暗闇の、夜が来る。

 それを越すことは、もうできない。

 

 

 ぱち、ぱち、と、たき火が最後の音を奏でる。

 橙色の明かりが、徐々に小さく、消えていく。

 入れ替わるように寒さが身体を浸食し、つま先から少しずつ身体を凍り付かせていく。

 餓死が早いか、凍死が早いか。

 何にせよ、朦朧とした意識を手放せば、次に光を見ることはない。

 生きるために必要な糧が、絶対的に足りない。

 どうしようもない。できることは全てやった。

 これ以上長く命を延ばすことはできない。

 諦めずに足掻き続けた。その果てにたどり着いた、足掻きようもない終焉。

 

 

「……」

 

 

 不思議な気分だった。避けようもない死を前に、私は異様な感慨に満ち足りていた。

 フルマラソンを走り終えたランナーは、同じような気分でいることだろう。やり終えたという実感。限界を超えてたどり着いた、もう何も要らないという境地。

 尋常じゃない寒さに、どういうわけか包み込むような優しさを覚える。

 もういいだろう、お前は十分頑張ったと、誰かに言われている気がした。

 

 

 

 

 ……怖い。

 怖くなくなっていくのが、怖い。

 諦めたくない。まだ死にたくない。そう足掻く気持ちはある。

 死はたまらなく恐ろしい。目覚めが二度と来ない眠りなんて、想像もできない。

 なのに、その恐怖が、曖昧にぼやけていく。考える意識が、擦り切れて曖昧になっていく。

 生物としての本能が『諦念』を推奨する。

 

 

 寒さを優しいと感じる。夜の山の静寂を美しいと感じる。

 死神の手を、救いと錯覚してしまう。

 死にたくないのに、死から逃れられない。

 諦めたくないのに、身体が、魂が、徐々に順応していく。

 

 

 怖くなくなるのが、怖い。

 それなら、怖いまま死にたいのだろうか。

 もう、なにも分からなくなってきた。

 

 

 

 

 何度か、陸に打ち上げられたオットセイのように身体を揺らし、残り僅かなたき火の熱で身体を暖める。

 仰向けに転がると、ポケットにごつごつした感触があった。

 それが妙に気になった。このまま死ぬにせよ、寝苦しい眠りは嫌だから。

 鉛のように重たい腕を動かしてポケットをまさぐる。

 仕舞っているのも忘れていた、ケータイだった。

 

 

「……」

 

 

 仰向けの上体で、何度も取り落としそうになりながら、ケータイを上に掲げる。

 震える指で電源を入れると、眩しい白い光が眼窩に飛び込んでくる。

 真っ先に右上の電波状況を確認する。残り三十パーセント程度の充電。突き放すような「圏外」の表示は、今更助けを呼んでも間に合わないから、逆にありがたかった。

 

 

「……」

 

 

 まばゆい光を背景に、二人の写真が映し出されている。

 満面の笑みのなでしこ。申し訳程度に唇を持ち上げ、胸の脇に小さくピースサインを作った私。

 なでしこが頑張っていて、私がまだ前を向けていた時の写真。

 こうして見れば、本当に対照的だ。いつも元気溌剌で一直線で、みんなを巻き込んで笑顔を生み出すなでしこ。一人が好きで、誰かと話すより、身体一杯で自然を感じる事が好きな私。

 改めて、よく友達になったものだ。たまたま出会わなければ、決して混じり合うことはなかったろう二人。

 水と油みたいに正反対。それなのに、今は何より大切と感じる。

 出会って一年も経っていないのに、こんなにかけがえのない存在になっている。

 

 

 私は画面に映る、なでしこの顔をそっと撫でる。

 不思議な奴だ。凄い奴だ。

 私の人生に誇りに思う事があるとすれば、この笑顔に違いない。

 

 

「……リンちゃん、ケータイ見てるの?」

 

 

 今にも消えてしまいそうな声。もぞもぞと、なでしこが身じろぎして、私に身体を寄せてくる。

 なでしこの顔が、私のすぐ横に近づく。身体をほんの少し傾けて、空にかざすケータイを、二人の間に持って行く。

 なでしこが掠れた息を漏らして笑う。せき込もうとしても、喉が満足に動かず、変なえづきになる。

 

 

「えへへ……こっちのリンちゃん、ピースしてる。それに二回目に撮ったから、ちょっと笑顔だね」

「そうかな……そんな、変わんないだろ」

「ぜんぜん違うよぉ。いっこずつ、違いを言ってもいいんだよ?」

「ははっ……なんで、分かるんだよ」

 

 

 乾いた笑いを漏らしながら、顔を向ける。

 そこにあった穏やかな笑みに、私の時間が止まった。

 消えない死相を刻んだなでしこの顔は、呼吸を忘れる程に綺麗で、儚かった。

 

 

「ずっと、見てたもん」

 

 

 痩せこけた頬が動く。カサカサに乾いた唇が、三日月型を作る。

 

 

「辛いとき、寂しいとき、何度も励ましてもらったよ……帰って、みんなとお話しするんだって。いつかリンちゃんと、こんなこともあったねーって笑い話にしちゃうんだって」

「……」

「見過ぎて、充電が切れちゃったけど……ね、アルバム見せて」

 

 

 言われるままにアルバムを起動すると、賽の目上に写真が並ぶ。

 殆どがキャンプ中に撮った写真だ……山嶺。渓流。平野。満点の星空。キラキラと輝く町の夜景。その中で作った料理の写真もある。

 そんな静かな風景写真に混じって、なでしこの姿がある。一緒に撮ったもの。ご飯を頬張りご満悦なもの。いたずら目的に寝坊した姿を収めたもの。

 

 

「景色と、ごはんと……なんか、わたしばっかりだね……なんか照れくさい、かも」

「そもそも、一緒にキャンプいくなんて滅多にないんだよ……大垣や犬山さんを撮ってもしょうがないし」

「わたしが、特別?」

 

 

 思わず言葉に詰まる。なでしこの衰弱した目が、答えを待ち望んでいる。

 もう、そんなに時間が無い事を、漠然と悟る。

 何度もえづきそうになりながら、私は口を開いた。

 言うべき言葉は、もうずっと、何日も前から心にあった。

 

 

「……特別だよ。なでしこは、私にとって特別な、いちばんの友達だよ」

 

 

 ケータイの写真が、何よりも私の言葉を証明する。

 

 

「なでしこと出会わなきゃ、私はずっと一人でキャンプしてた……やってることは変わらないかもしれないけど、ずっと、つまらない生活をしてたと思う」

 

 

 キャンプが好きだった。誰も知らない場所に一人で向かうのが好きだった。雄大な自然に包まれて、ただ穏やかな時を静かに過ごすことが大好きだった。

 キャンプをすることが、好きだった。それが今はどうだ。

 綺麗な景色を見たときに、どんな反応をしてくれるかと楽しみになる。

 おいしいキャンプ飯と出会ったときに、早く教えてあげたいと思う。

 好きな景色を見ながら穏やかに過ごしていても、今度は二人で来たいと夢に見る。

 一人でいる時、誰かの事を考えるようになった。

 なでしこに出会って、私の心持ちは一八〇度変わった。

 一人が好きであっても、独りぼっちでいることはなくなったのだ。

 

 

「えへへ……そっか……うれしいなぁ」

 

 

 なでしこが笑う。今にも消え入りそうな声。

 たき火の火が、とうとう潰えた。ぱち、という断末魔を残し、温かさが世界から消える。

 

 

 ケータイのライトを点けて、ランタンの代わりにする。

 最後の時が近づいてくる。逃げようのない死が、すぐそこまで迫っている。

 

 

「ごめんね、リンちゃん」

「……え?」

 

 

 突然の謝罪に、私は思わず声を上げた。

 訳が分からない。なでしこが謝る理由なんて、どこにもないじゃないか。

 そう思うのに、なでしこは謝罪を口にする。ぞっとするような穏やかな笑みで、死を目前にして。

 

 

「わたし、リンちゃんにすっごく酷いこと言っちゃった。リンちゃんも寒くて辛いのに、動けないわたしの代わりに、沢山がんばってくれたのに」

「っ……そんな……!」

 

 

 そんな事無いだろ。

 なんで、なでしこが謝るんだ。

 

 

「嫌われちゃったって考えると、すごく怖くて……でも、リンちゃんに嫌われたままは、いやだなって……ずっと、謝りたかったの。どれだけ悩んでも、言葉がでなくて……こんなタイミングになっちゃったけど……」

 

 

 目頭がぐっと熱くなる。残った魂の残滓を燃やして、私の心が悲しみで満ちる。

 

 

「わたしね、リンちゃんと出会えて、ほんとうによかったよ」

 

 

 なでしこの言葉は止まらない。

 

 

「リンちゃんが、わたしにキャンプを教えてくれた。旅行の楽しさを教えてくれた。綺麗な景色を教えてくれた。広い自然の中で、友達と静かに過ごす時間の、胸が幸せで一杯になる感覚を教えてくれた。キャンプに興味が持てたから、あきちゃんやあおいちゃん、えなちゃんと友達になれた」

 

 

 異質な力を持って、私の胸を強く打つ。

 

 

「わたしの全部、リンちゃんでできてる。楽しいって思うこと全部、リンちゃんが始めてくれた」

 

 

 せめて最後に言葉を残したい。そういう気力が紡ぐ言葉。

 

 

「わたしにとってリンちゃんは、本当に、いちばん大切な友達だよ」

 

 

 ――紛れもなく、それは遺言だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひっそりと細められた瞼。その端から、一筋の涙が伝う。

 

 

「リンちゃんと仲違いしたままなんて、嫌だよ。最後に、仲直り、したいの……だから、ごめんね」

「っ……ばか」

 

 

 まただ。また私は、なでしこに押しつけてる。

 勝手な想像で、なでしこを突き放している。

 私はなでしこの、地面に投げ出された手を取った。ケータイが地面を転がり、二人で撮った写真が闇を照らす。

 信じられないくらいにやせ細ったなでしこの指を、がむしゃらに握り込む。

 

 

「っ謝るのは……私のほう、だよ……っ!」

 

 

 また、自分勝手な勘違いをしていた。犯してしまった過ちを二度と取り戻せないと、勝手に決めつけていた。

 なでしこはずっと、私の事を思ってくれていたのに。

 最初からお互いが大切で、二人で一緒に助かりたいと思っていたのに。

 身勝手に傷つけたのは、私の方なのに。

 

 

「私はいっつも、自分勝手で、上手に話もできなくて……なでしこがいなきゃ、今よりずっとつまらない生活してた。なでしこがいてくれたから、毎日すっごく楽しかった……!」

 

 

 後悔してもしきれない。どれだけの感謝の言葉も足りない。

 

 

「嫌いになるわけ、ないだろ……どうやったって、嫌いになれるわけないだろ……! 私は、なでしこに、人生を……っ!」

 

 

 残り少ない魂を燃やしてでも、悲しまずにはいられなかった。

 胸の内を多幸感が埋め尽くしていた。楽しかった日常が、なでしこと過ごした時間が、津波のように押し寄せてくる。

 

 

 幸せだった。

 一人じゃない、騒がしくておちおち本も読めない賑やかなキャンプが楽しかった。

 すぐに泣きついてくるなでしこがかわいかった。ちょっとした事でもらえるなでしこの羨望の目がこそばゆかった。

 全部全部、なでしこが教えてくれたんだ。キャンプの写真を送られて、どんな過ごし方をしているのか想像する楽しさも、どんな事をして過ごそうかと、ダラダラ話す時間の愛しさも。

 

 

「だいすきだよ、なでしこ……! 誰よりも、なでしこが一番好き。もっとなでしことキャンプしたい。沢山の時間を過ごしたい……なのに、なのにぃぃ……!」

 

 

 壊れた心から感情が溢れて止まらない。

 愛しさが、虚しさが、沢山のものがごちゃ混ぜになった感動に、心が熱い。

 仰向けのまま動かない体から、滂沱の涙が流れる。

 私は今更ながら、泣きじゃくって駄々をこぼした。

 

 

「いやだよ、なでしこぉぉ。死にたくないよぉぉぉ……! もっとずっと、なでしこと一緒にいたいよぉぉぉぉ」

 

 

 ぐしゃぐしゃになった声と心で、私はなでしこを求める。

 なでしこを失いたくない。ここで終わりにしたくない。

 固く強く抱き締めたい。私がどれだけなでしこの事を好きか、伝えたい。

 どんな言葉でも足りない。触れたくても、身体がもう動かない。死にかけの身体の中で、魂だけが出口を求めて暴れ回る。

 真っ暗闇。冬の山中に、私の駄々が木霊する。

 傍らに落ちたケータイの小さな明かりに照らされ、なでしこが涙を流すのが見えた。

 

 

「……よか、った……うれしいよ、りん、ちゃん……」

 

 

 重ねた手に、握り返す力がない。

 私は無我夢中で、なでしこの微かに震える指先に私の指を絡ませた。少しでも長く一緒にいたい。あとちょっと、あともう少し……いや。

 

 

「いやだ、いやだなでしこ」

「わたし、も……もっと、りんちゃ……たくさん……」

「やだ、やだよ。待って、待って、お願いだから」

 

 

 まだ、伝えきれない感謝の言葉があるのに。

 もっと生きて、やりたい事があったのに。

 なでしこの表情から、力が抜けていく。

 身体が動かない。どれだけ身じろぎしても言うことを聞いてくれない。目の前でなでしこが、なでしこが死んでいく。

 

 

「いやだ、いやだっ。いやだぁぁぁ……!」

 

 

 遠くでガサガサと木の葉をかき分ける音がする。あっちに明かりがあるぞ、と男の人の声がする。

 

 

「ありが、と……りんちゃ……」

 

 

 なでしこの涙が途切れ、冬の寒さに凍っていく。

 組んだ指先から、なでしこの命が消えた。力が手から、身体中から消えて、人から命のない人形に変わっていく。

 

 

「わたし……ほんとに……しあわ……」

「行かないで、なでしこっ。死んじゃやだ、やだよぉ……!」

 

 

 沢山の明かりが、私の背中から焚きつけられる。

 まばゆい明かりの中で、なでしこの表情が消えていく。

 騒々しい足音が背後に迫る。名前を呼ぶ声がする。

 目の前の笑顔が固まる。血の気が失せ、穏やかな笑顔から温かみが消える。

 私の目の前で、かけがえのない友達が今まさに……!

 

 

 いやだ。失いたくない。消えないで。行かないで。

 なでしこがいなかったら、私は、どうしたらいいの?

 嫌だ、一人にしないで。

 もっと一緒にいてよ。

 死なないでよ!

 

 

 

 

 

「なでしこぉぉぉ……!!」

 

 

 

 

 

 

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