光は、消えなかった。
車の助手席に座り、船を漕いでいる時のようだった。街灯が断続的に通り過ぎて、瞼の裏側をぼんやりと照らす。まどろみの向こうで、微かな振動が、自分をどこかに連れて行っていることを教える。
深く沈んだ意識の底で、私はたくさんの声を聞いた。沢山の光を見た。体が小さな振動を捉え、肩を小さく揺すられる感覚がする。
朦朧とした、曖昧な感覚。目覚めては光を見て、音を感じて、眠る、その繰り返し。
覚めない眠りはなかった。
もう、寒くも苦しくもなかった。
死は、私からゆっくりと遠ざかっていった。
「――」
ぱちりと目を開ける。
素っ気ない太陽の匂いがした。
体の感覚がない。自分の手足がどこにあるのか分からない。
柔らかいベッドに体を横たえているせいだと気がつくのに、随分かかった。
人工的な眩しさが、最初は意味が分からなかった。鬱蒼と木々の生い茂る山は消え失せ、磨り硝子で覆われた蛍光灯の素っ気なく白い光が私を見下ろしている。
干したてのシーツの香りが、再び鼻腔を通り抜けた。
吸うのに痛みを伴わない、温かい空気。穏やかに弛緩した雰囲気。
今の私は、無だった。
指を砕かれるような冷たさからも、胃を引き裂かれるような空腹からも、耐え難い絶望からも、解放されていた。
だから、最初はここが天国だと思った。こんなできすぎた夢、あるはずないと思ったのだ。
身を包み込むシーツは天使のベールのように軽やかだった。重たい衣服はどこかに消えて、皮脂でべたつく鬱陶しさもどこかに消えている。
あれだけ寒かったのに、辛かったのに。
感覚の全て覆っていた苦しみが、何もない。
だから何もかもが、現実の事と思えなかった。
全部の事が、意識の端っこの方でしか感じられない。遠くて、薄くて、全く現実味を感じない。
ただ、唯一、自分の左手だけが、不思議な感触に覆われていた。
何となく温かくて、ほんのちょっぴり固くて、どうしてかぴりりと痛む。
私は不思議に思って、自分のように思えない首を気怠く持ち上げる。
「……」
「……」
斉藤恵那と、ばっちり目があった。
斉藤は私の左手――点滴の管が刺さり、包帯が巻かれた手を持ち上げて、もう一方の手に蓋を開けたマジックを握っていた。
その状態で、私と斉藤は硬直して、互いの目を見つめ合う。
「……」
はた、と瞬きをした斉藤。
そのまま何事も無かったかのように視線を落とすと、左手の包帯にマジックを押し当てた。
「ちょい、ちょい待て、オイ」
「一度動き出したアーティスト魂は止められないんだよ、リン」
「アーティストじゃないだろ……」
なんだか、ますます現実味が遠ざかった気がする。
左手がこそばゆくて、私は斉藤がマジックを動かす手を覗き込む。
「なに書いてるの?」
「んー? お見舞いに来たよってメッセージ」
「別に、そんなの今口で言えば……」
「あ、動かないで! 手がブレちゃう」
真剣な口調に、私は押し黙る。
点滴を支えるだけの細い包帯に比べて、かなり細かい文字を書いていた。注意して見れば、ツインテールの眼鏡のキャラがいる。
「大垣も来てたのか?」
「犬山さんも来てたよー。さっきまでいたんだけどね、ぐっすり眠ってるリンを見たら、起こすのも悪いって帰っちゃった」
「斉藤は、一緒に行かなくてよかったの?」
「私はいいんだよ。もうちょっとリンの側にいたかったから」
「……」
斉藤は俯いて、文字を書くことに集中している。垂れた前髪の隙間から覗くのは、いつも通りの飄々とした笑顔だ。
かきかき、マジックの細い圧力が、左手を滑る。
「お見舞い、持ってきたよ。バナナとかメロンとか、お決まりのやつ」
「マジで? ……わ、ホントだ。すっげえ高そう」
「でしょー? といっても、しばらくは病院指定のもの以外は飲食禁止らしいけどね」
「じゃあダメじゃん……生殺しかよ……」
「あはは、ホント、計画性のなさは皆同じだねー。お金出し合って買ったのに、だーれも気づかないんだもん」
朗らかに笑って、狭い包帯に細かい文字を書いていく。
三人分とすれば相当な量になりそうだ。ちゃんと読めるのか心配になる。
「今日は三部粥だって。ちゃんとしたご飯は、四日後くらいかららしいよ」
「そっか……重湯じゃないんだ」
「あー、やっぱり覚えてないんだ。リン、今日は救助されてから二日目だよ?」
「うそ?」
「嘘じゃないよー」
おどけた調子で返す斉藤。
その妙に澄んだ響きから、その道化が作り物である事が分かった。
「昨日から起きて、ご飯も食べてたんだけど、こっちの声には全く反応してくれなかったんだよ。何を話しても、ぼーっとして。どこか遠い場所から、心だけ帰ってこれないみたいに」
「……」
「お医者さんは一時的なショックだって言ってた。すぐに戻ってくるって聞いて、心配はしてなかったけど……それでも、声が聞けて安心した」
十日間も遭難して、妙に体が軽いのは、そういう理由だったのか。
衝撃的な事実に、私は言葉を探せず、押し黙ってしまう。
何か言うべき言葉があるはずなのに、それがどうしても見つからない。
病院内は心地よい静けさだった。
音がない訳じゃない。スライド式のドアの向こうで、パタパタとスリッパの音がする。青空の覗く窓の外からは、車の排気音がした。そんな人工的な温かい雑音から、この病室が切り取られているみたい。
「学校、大騒ぎだったよ」
斉藤のマジックは、ずっと動き続けている。細かく細かく、白い包帯を黒い文字で一杯にしていく。
「二人の姿が見えないって皆で話して、メッセージ送っても既読すらつかなくて、どうしたんだろうって思ってたら、次の日急に職員室に集められたんだ。そしたら警察の人が来て……私達、初めて職務質問されちゃった。あれ、事情聴取? それも違う?」
「……」
「二人の行方が分からない、どこか知らないかって。リンとなでしこちゃんの親も来て……新聞記者さんもきてたんだよ? ニュースにだってなったんだから。もう学校中がてんやわんや」
その時の様子を思いだしてか、斉藤がくすりと笑う。
明るい調子で、その時の喧噪を伝えてくれる斉藤。
握られた左手が、急に温かくなった。
「知ってるだけのこと、全部話して……私たちも探すって言ったけれど、危ないからダメ、待ってなさいって言われて……それからは普通だったよ。学校に行って、授業を受けてた」
声が僅かに震え出す。俯いた恵那の顔が見えない。
マジックだけが動き続けて、沢山の言葉を書き続ける。
「何も頭に入らないし、野クルも休部してたけどね……何かできないかって思っても、何もできなくて……どうしようどうしようって、落ち着かなくて」
ぽたりと、左手に熱い滴が落ちた。包帯をはみ出して続いていた文字が塗れて、ぼんやりと滲む。
「私たち……ただ、待っているだけしか、でき、なくて……っ」
嗚咽が漏れて肩が大きく揺れる。落ちていく滴がここからでも輝いて見えた。
後から後から落ちる涙が、文字を黒い水たまりに変えていく。それでもマジックは止まらない。伝えたい言葉が多すぎて。
「本当、大変だったんだよ……? ニュースが別の話題になって、新聞の人がこなくなって、捜索続くって話題が、どんどん小さくなって……リンとなでしこちゃんが、遠くにね? 消えていくみたいでね? ……もうリンに、リンに会えないんだって思うと怖くて怖くてね……っ!」
マジックがカランと音を立てて病室の床に転がる。
とうとう斉藤は腰を折って、真っ黒になった私の包帯に額を押し当てた。
信じられないくらいに熱い肌。肩を震わせて嗚咽を漏らし、後から後から涙が溢れて、止まらない。
「よかった……また、会えて、えぐっ……本当に良かった……!」
斉藤は私を離してくれなかった。後から後から溢れる涙で私をびしょ濡れにしても、伝えたい言葉には足りなかった。
私の心が幸せで満ちる。胸がぐうっと熱くなり、受け止めきれなかった喜びが涙になって、頬を熱く濡らす。
何よりも、誰よりも満ち足りた気分だった。凍り付いた心が、やっと弛緩し、目を覚ましてくれた。頬を伝う涙の感触が、手のひらに感じるびしょ濡れの温かさが、最高に心地よかった。
「ありがとう、斉藤。 ……ただいま」
「ひぐっ、えぐぅ……! おがえりぃぃぃ……! わぁぁ、わぁぁぁぁぁん……!」
火傷しそうに熱い彼女の悲しみと喜び。到底受け止められない、嬉しすぎる思い。
その熱と重さに、私は、自分が愛されていることを改めて気づかされた。