ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
ひとしきり泣きじゃくった後、斉藤は帰っていった。
今日は普通に平日で、学校を午前休業して来たらしい。みんな無理を押して駆けつけてくれたのだ。
今までの遅れを取り戻すと張り切る斉藤の顔は、マジックで真っ黒になっていた。当然のように、私の左手もびちゃびちゃだ。呼び出したナースさんに斉藤が照れながらお詫びして、包帯を新しく取り替えてもらった。
目覚めの報告を受けてやってきた病院の先生に、私は沢山の質問をした。先生は嫌な顔一つせず、私の問いに答えてくれた。
私の症状は、衰弱と末端の軽度な凍傷、顔の低温火傷……こうして列挙すると、酷くあっけないものだった。いずれも、しっかりと食事を取って薬を飲んで、ぐっすり休めば、二週間もせず完治するだろう、との事だ。
強いて言えば、長らく動かずじっとしていたせいで、筋肉が衰え、しばらくは歩くのでも苦労するようだ。それも、日常生活の中で次第に回復していく見込みだ。後遺症というには、余りに軽すぎるハンデに、私は拍子抜けさえしてしまった。
足には包帯が巻かれているが、足首を回してみても、気だるさと軽い痛みしか感じない。歩いてもいいかと聞くと、リハビリの為にもぜひ積極的に、という返事を貰った。
私たちの発見のニュースは、結構大きく報道されたらしかった。何せ冬の雪山で、十日間の遭難だ。斉藤の反応も大げさではなく、私たちは本当に死んだものと思われていた。病院の先生から、水を確保する仕掛けとたき火について褒められて、こそばゆい気がした。
生還は奇跡だと報じられた。私の目覚めを聞いて駆けつけてきた家族の顔色で、それが本当であるとすぐに分かった。
次々にやってくる家族、親戚。夕方になると、授業が終わったクラスメイトが徒党を組んで病院に押し掛けてきた。
野クルの二人も、改めて顔を見せに来てくれた。二人は斎藤と同じように、沢山泣いて、喜んで、私に会えたことを心の底から喜んでくれた。数か月の短い間であるはずなのに、自分でも驚くほどに、私たちは深い絆で結ばれていた。
私は沢山泣かれ、抱き締められ、人肌の温もりを十分に味あわされ、鬼のように質問責めにされた。
病院内を一人で歩けるようになったのは、夕食も終わり、空がとっぷりと暗くなってからだった。
私はベッドに顔を押しつけて眠る母親を起こさないように、スリッパを履く。
立ち上がると、途端にバランスを崩し、壁際の木製の手すりにしがみついた。
自分の体重を支えられない。私の足は、端から見ても分かるぐらい細くなっていた。
体力が戻っていないのか、立ち上がるだけでくらりと目眩がした。本当に動いていいのだろうか……そう不安になったが、私は足を前に出す。
寒くない、痛くない、夜。
病院の廊下はとても静かなのに、とても安心した。あの時に感じた、押し潰されるようなプレッシャーは、どこにも感じない。
久しぶりの歩行は、想像以上の大仕事だった。電池の足りないロボットを操縦しているみたいで、普段の当たり前ができない不自由さにイライラさせられる。
けれど、その不自由さが、私が生きている証拠だった。
体が重いのに、とても軽い。何日も着続けた重たい冬服も、感覚を奪う絶対零度の厳しさもない。繭を破ったばかりの蝶は、きっとこんな感動に打ち震えるのだろう。
この嬉しい不自由は、決して味わえるものではあるまい。そんな優越感さえ感じる始末だ。
どこか感慨深い思いに浸りながら、リノリウムの緑色の床を、スリッパをパタパタ鳴らして歩く。
反対側を歩いていた看護婦さんが、私の不自由な歩き方に目を止めて立ち止まった。
「あら、志摩さん? 何か用事?」
「いえ……少し、歩きたくて」
「そう。何か困ったことがあったら、いつでも呼んでくださいね」
看護婦さんは微笑して、特に追究もなく私を見送ってくれた。
十日間も遭難していたのに、何ともあっけないものだ。
つい数日前の遭難が、遙か遠い昔の事のようだ。
「……」
まだ、夢を見ているような気分がした。
沢山泣かれて、抱き締められて、それでも現実味がやってこない。
助かったという感動に、心から喜べない。
きっと、大切なものを、あの山に置き去りにしてきたせいだろう。
「……」
ペタペタというスリッパの音を奏でて、私は病院内をさまよう。
どこに行けばいいか分からない。誰かに聞こうとも思わない。
それでも、私は機械的に足を動かす。じっとしていられなくて、あてどなく歩き回る。
酷く重たい体と、責め苦から解放された心。あべこべな感覚を抱えて歩くのは、まるで幽霊のようだ。
来週には、また制服を着て、学校に行くのだろうか。授業を受けて、斉藤に髪をおちょくられながら図書館で本を読むのだろうか。そんなの到底信じられない。
時間の感覚が酷く曖昧だった。朝になるまで続きそうな気がしたし、朝なんて二度と来ないようにも思えた。
ひとりぼっち、取り残されているような気がする。
きっと、そう思うから、私は歩いているのだろう。
緑色の廊下、等間隔にあるドア。代わり映えのない景色の中、ペタペタとスリッパを鳴らし続ける。
夢のような時間。
現実味を置き去りにした行動。
永遠に続くかのような、静かなスリッパの音。
「……」
そうして私は、ドアの脇に書かれた『各務原』の文字を見つけた。
さまよっていた意識が形を取り戻す。ペタン、という最後のスリッパの音が、やけに響いた。
ドアの隙間からは、蛍光灯の明かりが漏れていた。スライド式のドアは、今すぐにでも開けて欲しそうに銀色の光を照り返している。
どんな光景を見るのだろう。
何を言えばいいのだろう。
私はなんの覚悟もできないまま、ただ静かに取っ手を握りしめ、ドアを引いた。
蛍光灯の眩しい光が、私の視界を真っ白に覆って――
「――ずーーるーーいーー! もー、お姉ちゃんばっかり食べてるー!」
「うるさいわね、あんたの変わりに、腐る前に処理してやってるのよ」
……光の向こうに、お姉さんと口論する、桃色の髪の女の子がいた。
ベッドに横になったなでしこは、むっつりと頬を膨らましている。ベッドの側面に腰掛けているのは、同じ病院服姿のお姉さんだ。
お姉さんは飄々とした様子で、窓際に置かれているフルーツバスケットに手を伸ばす。
「食べれない方が、お友達に失礼でしょ? ここの冷蔵庫は小さいし、果物の足は早いんだから」
「うそだぁ、お姉ちゃんイチゴばっかり食べてるもん」
「イチゴは腐りやすいのよ。これ本当だから」
「そんなこと言って、食べたいだけでしょ! お姉ちゃんの豚やろー!」
「なっ! アンタそれ言ったら戦争よ!?」
愕然としたお姉さんが、イチゴを取りこぼす。床を落ちた紅い粒が、私の方に転がってくる。
イチゴを追いかけたなでしこの視線が、入り口で固まったままの私と交差した。
一瞬で、満面の笑みがぱぁっと咲いた。
「リンちゃん、起きたんだ! おはよー!」
「何時だと思ってんのよ……こんばんはでしょ」
ぶんぶんと元気良く手を振るなでしこを、お姉さんが窘める。想像とはかけ離れた騒々しさに、私はまだ反応を返す事ができない。
お姉さんも、心からの安堵に、唇を綻ばせていた。私の混乱を察した様子で、優しく声をかけてくれる。
「リンちゃん、もう動いてもいいんだ」
「は、はい。歩くのもいいリハビリになるって」
「そっか。大事がなくて何よりだよ……ああ、今どくね」
そう言って、お姉さんはベッドから立ち上がる。手すりを持ちながらゆっくりと移動し、傍らにある車椅子に腰を下ろした。
「お姉さんは、その……」
「ああ、これ? 病院も、霜焼けみたいなものに大袈裟だよね」
お姉さんの両足は、分厚い包帯で覆われていた。それなのに、似つかわしくない柔らかな笑顔を浮かべて、お姉さんは続ける。
「安心して。神経もどこも悪くなってないから、切る必要はないって」
「そ……う、ですか」
軽々しく言ってのける言葉で、お姉さんがどれだけ酷い状態で見つかったかが伺い知れた。余裕のある笑顔も、改めて見れば、まるで歴戦の勇士のようだ。
私の驚愕の表情に触発されてしまったのだろう、なでしこがふっと表情を曇らせる。
「おねえちゃん、一週間ずぅっと、歩きっぱなしだったんだって。私たちの為に、昼も夜もずっと……凍傷が酷くて、もう少し遅かったら……あいったぁ!?」
なでしこの重たい声が、ばちんっという破裂音にかき消される。俯いたなでしこの頭に、お姉さんのデコピンが綺麗にヒットしていた。
「心配ないって言ってんでしょ。終わった事でしょげられちゃ、こっちの気が滅入るわよ。全く……はむ」
「あー! だからそれ、私のお見舞いなのにぃ!」
「機嫌を損ねた分よ。アンタは黙って三部粥でも食べてなさい」
他愛ない、姉妹のやりとり。硬直していた私の顔が、やっと緩む。
「お姉さんも、無事で良かったです」
「リンちゃんが、色々持たせてくれたお陰でね。あれがなきゃ早々に死んでたかもね。ほんと……あの時の私はどうかしてたよ」
「そんな……」
「あーもう、辛気くさいのはやめましょ。リンちゃんのお陰で生き残れた、ありがとう! 助けを呼べた。あなた達に間に合った。本当に良かった! これだけで十分よ」
お姉さんはあっけらかんと笑う。
たった一人で、冬の山を歩き続けて、一週間。
十日間をじっと過ごした私でさえ、お姉さんの過ごした地獄は、想像することすらできない。
けれど、「できないなら想像なんてするな」と、お姉さんの笑顔が伝えていた。事実目の前の笑顔は、また私たちに生きて会えた事に、心から喜んでくれている。
だから私も、不器用に笑みを作って頷いた。本当に良かった……その安堵だけは、紛れもなく本物なのだから。
「……それで、なでしこは何してるの? 腕伸ばして、ぷるぷるさせて」
「っ……抱きつけないから、変わりに送ってるの。ありがとうビームを……!」
「怪電波をやめろ。もー、しょうがないなぁ」
苦笑したお姉さんが、車椅子を近づけてなでしこと包容を交わす。
なでしこの折れた足は、お姉さん以上の分厚いギプスが巻かれて、ベッドの上に鎮座していた。
「すっごく重くて、全然動けないんだよ……リンちゃんはいいなあ」
「それ、大丈夫なの?」
「うん! また歩けるようになるって、お医者さん言ってたよ!」
なでしこの足が元通りになることが、一番の奇跡だった。
完全に折れ曲がるほどの酷い骨折だったが、逆に綺麗にバッキリと折れたお陰で、手遅れにならずに済んだそうだ。見よう見まねながら固定して動かさずにいた事で、血管や神経も深い傷を追わずに済んでいた。
今はきちんと固定して、安静にしている状態。これから数度の手術を経て、細かい骨を取り、ピンを埋めて、元に戻していくのだそうだ。
手術は来週。骨が元通りに繋がるには二ヶ月くらいかかるそうだ。
しかし、完治とはいかないみたいだ。治った後も、足に軽い痺れや痛みが残る可能性があるそうだ。
「そっか……それじゃあ、退院はちょっと先になるな」
私はそのリスクには触れず、笑顔を返した。
なでしこが全く悲しんでいないのに、私が気に病むのは筋が違う。当の彼女は、退院した後の事を考えるので忙しいのだ。
「あきちゃんもあおいちゃんも、毎日来てくれるんだって! キャンプ雑誌とか、ランプとか一杯持ってきて、退院したくてたまらなくしてやるーって張り切ってたよ。もぉ困っちゃうなぁ」
「……丘の見えるキャンプ場も、探さないとな」
「ふっふっふー。実はもう考えているのです。みんなでクリキャンした、富士山の側のキャンプ場がいいなって!」
「気が早すぎるだろ……」
「だって、おいしかったんだもん……A5ランクの和牛!」
「丘関係なくなってるし」
何気ない会話。なんて事のない時間。
地獄の果てにたどり着いた、かけがえのない日常。
その日常に本当に戻ってくるには、まだ、やり残した事があった。
「……それじゃ、私は自分の病室に戻るわね」
「お姉ちゃん?」
「もう遅いし、私がいたら、二人ともよそよそしくなっちゃうでしょ」
微笑んだお姉さんが、車椅子の車輪に手をかける。
振り返ったお姉さんの目は、私の曇った感情を確かに察していた。
「ああ、そうだ。リンちゃん、ちょっといい?」
「え?」
「言い忘れてた事があったの。もう少し近づいてくれない?」
言われるがまま、車椅子のお姉さんに歩み寄る。
「もうちょっと……うん、そのぐらいでいいよ」
突然に、私の体が引き寄せられ、お姉さんに堅く抱き締められた。
ぎゅぅぅっと力強い包容。柔らかい体が触れ合い、お姉さんの体温が、私の中にじんわりと染み込んでいく。
「……ありがとうね、リンちゃん」
涙を堪えた囁きが、耳元でそよぐ。
「なでしこを助けてくれてありがとう。守ってくれてありがとう……生きていてくれて、本当にありがとう」
私は、何も返せなかった。
ただ、お姉さんの身体を強く強く抱き締めて、言葉にならない喜びを伝える。
きっかり十秒。抱き締めていた力が緩み、温もりが離れていく。
後には、穏やかなお姉さんの微笑だけがあった。
「……それじゃ、また明日ね」
「おやすみ、お姉ちゃん」
なでしこの挨拶に、お姉さんは手を振って答える。
車椅子がスライド式のドアの向こうに消える。
静寂が包む病室に、私となでしこだけが残った。
「……」
しばらくの沈黙が、私の心の淀みを明らかにする。なでしこのガラス玉のような目が、私をまっすぐに見つめている。
二人とも、始まりの言葉を探している……ううん、違う。言うべき言葉は知っている。それを言い出す勇気がないだけだ。
いつもそうだった。私が勇気を出せずに塞ぎ込んで、自分一人で勝手に思い違いをして、心を暗く沈めていた。
なでしこが、いつも私をすくい上げてくれた。
今だけは、それに甘えちゃダメなんだ。
「ごめん、なでしこ」
私は、なでしこに深く頭を下げた。
陰鬱だと思う。生きて再会して一発目が謝罪なんて、ナイーブここに極まれりだ。
けれど、無視する事はできなかった。私がした事を、生存の喜びで無かったことにしてはいけない。
「私、なでしこに酷い事言った。冷たく当たって、なでしこを傷つけちゃった……頑張って生きようとしていたのに、諦めろって言っちゃった……本当に、ごめん」
あの時のなでしこの怒りを。心のそこからの死にたくないという想いを、忘れられない。
あの時のなでしこの悲しみが、私の心にフィルムのように焼き付けられている。
悔恨が、自分自身への侮蔑が、日常に戻ることを拒絶している。
このままでは、私はなでしこに顔向けできない。
「何度も何度も後悔した。ずっと謝りたかった。なでしこに先をこされるんじゃなくて……ちゃんと、言いたかった」
目頭が熱くなる。
一体何度泣けばいいのだろう。どれだけ自分を嫌いになればいいのだろう。あの時の地獄を思いだして、心に浮かぶのは後悔ばかりだ。
言い逃れもできない。あの時私は、本当に最悪だった。
大好きななでしこに嫌われても、しょうがない人間だった。
私は、私自身を、そうとしか思えない。
「……顔あげてよ、リンちゃん」
だけど、なでしこが教えてくれる。
目に涙を一杯にためたなでしこは、私自身よりもずっと、私の事を見てくれている。
「お医者さんが言ってたよ。わたし達が助かったのは、本当に奇跡だって。対応が良かったんだって、すっごく褒めてたよ」
なでしこはいつだって、朗らかで眩しくて、生きる希望に満ちていて。
「ぜんぶぜんぶ、リンちゃんのお陰だよ。リンちゃんのお陰で、わたしはまた歩くことができる。みんなと一緒に遊べる……何回ありがとうって言っても、全然足りないよ」
「そん、なの……私は、何回ごめんって言っても、足りなくて……」
「うん。ありがとうもごめんねも言い足りないよ。だから……っだか、ら……!」
お互いの嗚咽が重なる。
感情が溢れて止まらない。
冬の山で感じた、心がくじける冷たさなんかじゃない。
ただひたすらに、温かくて。
胸が幸せにいっぱいになって。
嬉しくて嬉しくて、どうしようもなくて。
「もう、いいよ……! いいの。リンちゃんと一緒に、生きてられて……それだけですっごくうれしいの。またリンちゃんと一緒にいれるって思うだけで……!」
「うん。私も、だよ……私も、嬉しい……!」
「だから、ぐすっ……だから、ね?」
お互いの心なんて、始めからずっと一つだった。
嫌いになれるわけがなかった。
好きでいられないはずがなかった。
私はなでしこに、人生を変えられて。
私はなでしこに、かけがえのない大切な物をあげられたのだから。
「だから、また……わたしと一緒に、キャンプしてくれる?」
「っ行こう、行こうよ、なでしこ。また、一緒に、ぃ……!」
涙はもう止まらなかった。
私は何度も頷いて、何度も「行く」と答えた。なでしこもまた、声にならない涙声で「嬉しい」と呟いて、二人でわんわんと泣き続けた。
十日間に及ぶ遭難は、こうして終わった。
悪夢の時間は、思い返せば、本当に夢を見ていたようで。
夢らしく、私たちの生活を変えるには至らない。
私たちはまた、キャンプをする。
たくさんの綺麗な景色を見て、おいしいものを食べる。
一緒に笑って、楽しんで、青春の思い出をたくさんたくさん作るのだろう。
その幸せこそが、私がなでしこに教えられたことで、なでしこにあげられた宝物なのだから。
くぅ~疲これ完!
……本当に疲れました……
こんな多方面からバッシング受けそうなネタ鬱小説に最後までお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。
原作からかけ離れたえっぐい内容ではありましたが、その分、何かしら他では得られない感覚を味わっていただけたなら幸いです。
沢山の感想、メッセージを送っていただいた皆様に、重ねて感謝を。
また次の作品でも、面白いと思っていただけるよう頑張ります。