そうなん△   作:オリスケ

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第3話

 

 どれだけの時間が経ったのか分からない。

 十分か、十五分か。数えればきっとそれくらいの短い時間。けれど、意識の浮いた体は、永遠の眠りに落ちたような錯覚を私に与える。

 なでしこの脚を元の位置に戻し、千切れるような悲鳴が終わっても、私はなでしこの華奢な体を抱き締め続けた。彼女は私の肩に顔を埋めたまま、一言も発しようとしない。

 気絶したのか。眠ってしまったのか。それを確認する勇気すら、今の私には無かった。

 なでしこのくぐもった、獣のような悲鳴が、耳の奥でずっと残響していた。その音にまるで金縛りにかけられたように、私は動くことができずにいた。

 

 全てをやり遂げたお姉さんは、しばらく蹲ってじっとしていたと思うと、フラフラと覚束ない足取りでどこかに行ってしまった。

 お姉さんは茫然自失だった。それも当然だろう。なでしこを、自分の妹を、気絶するほどに痛めつけてしまうなんて。私には、そのショックを推し量る事はできない。恐ろしくて、想像することすら躊躇われる。

 

 お姉さんを放っておいてはいけないと分かっていた。誰より危ない精神状態にいるのは明らかで、フラフラとした足取りのまま、この山のどこかへ消えてしまいそうな気がした。

 けれど、怖かった。お姉さんに何と声をかけたらいいか分からなくて。訳も無く謝ってしまって、心が壊れてしまいそうで。

 私はただ怖くて。何かから逃げるように、誰にも脅かされることのないように、なでしこを抱き締めたまま、じっとその場に佇んでいた。夢ならこのまま覚めてほしくて。そんなわけがないと、とっくの昔に分かっているのに。

 

 冬の山の冷たさが、ジャケットをすり抜けて、私の肝を冷やす。その暴力的な寒さが、私に現実を突きつける。

 遭難。

 助けは来ない。

 誰も私達を見つけることは無い。

 そんな言葉が、動けない私の心にゆっくり、ゆっくり浸透していく。

 いっそ放っておいてほしいのに、寒さは容赦なく、弱りきった私の心と体に現実を思い知らせる。

 白い息を吐く唇が震えている。体が意識を外れて、ブルブルと小刻みに痙攣する。

 

 

 

 震えを止めてくれたのは、肩に回されていた、柔らかい指の感触だった。死んだように動かなかったなでしこの手が、私の肩をさする。

 

「なでしこ?」

「むぐ、むぐ」

「あ、そうか。苦しいよね、ごめん」

 

 謝罪と一緒に、咥えさせたままのマフラーを取る。

 噛み跡が付いたマフラーに、唾液が糸を引く。

 その向こうに、照れくさそうにはにかむなでしこの笑顔があった。

 

「もう、ぎゅーってしすぎだよ、リンちゃん」

 

 真っ赤に腫れた目を細め、いつものように笑う。

 その変わらない様子に、私は疑問を抱かずにはいられない。

 

「なでしこ、その……」

「へいきだよ。まだすっごく痛いけど、気持ち悪いのは大分なくなったから」

 

 よくよく見れば、なでしこの顔色は悪く、呼吸はまだ不規則で苦しげだ。それでもなでしこは、私の肩に手を回し、私に抱きついてきた。

 

「ごめんね、リンちゃん。怖かったよね」

「そんな……謝られる事なんて。私は……」

「そんなことないことないよ。わたし、もう一生分くらい、リンちゃんに謝られちゃったもん」

 

 照れくさそうに笑う。その笑顔に、私の顔はかぁっと熱くなる。譫言のように繰り返していた私の「ごめん」を、なでしこはちゃんと受け止めていたのだ。

 

「リンちゃんとお姉ちゃんのお陰で、もうだいじょーぶ! さっきに比べれば、元気モリモリだよ! もりもり!」

 

 こんな状況なのに。痛くてしょうがない筈なのに。なでしこはむんっと勢いよく、胸の前で拳を作る。衰弱した体で浮かべる笑顔は、このどうしようもない暗闇の中、とてつもなく眩しく見えた。

 そのなでしこの元気に、笑顔に押されるように、私はやっと、忘れていた笑顔を浮かべることができた。

 

「……凄い奴だよ、なでしこは」

「そうかなぁ、えへへ……あいたたた」

 

 笑うと痛むのか、控えめに身じろぎをするなでしこ。

 ばっきりと折れ曲がっていた脚は、元の状態に戻っている。見た目には変わらないものの、ズボンを捲ってみれば、痛々しい傷跡が見える事だろう。

 

「うう~、まだじんじんするよぉ。リンちゃん、ちゃんと治るよね?」

 

 目に涙を浮かべながら、なでしこが私に問いかけてくる。

 分かるわけがない。けれど私は力強く首肯する。

 なでしこは凄い。改めて思う。自分がこんな状況に陥っていたら、果たしてこんな風に笑えただろうか。例え可能性であっても、歩けなくなる未来を想像して、困ったような笑いを浮かべられるだろうか。

 だから、私は頷く。治るに決まっている。キャンプ地を走り回るなでしこがもう見られないなんて、あっていいはずがないんだ。

 

 

 と、ガサガサと草を踏みしめる音が近づいてきたと思うと、木の陰からお姉さんが顔を見せた。

 恐る恐る顔を見せたお姉さんは、なでしこの笑顔を見て、緊張に張り詰めていた表情を緩ませた。

 

「起きたんだね、なでしこ」

「おねえちゃん! ……頭の傷、大丈夫?」

「アンタに比べればかすり傷よ、こんなの……人の事を心配できるなら、ひとまず大丈夫そうね」

 

 お姉さんは安堵の吐息を深々とはき出すと、なでしこの隣の私に、真剣味の籠もった目を向けた。

 

「リンちゃん、少しいい?」

「あ、はい」

 

 有無を言わさない固い口調に、私は立ち上がってお姉さんの後を追う。

 なでしこの脚を元に戻してから、幽霊のような足取りでどこかへ消えていたお姉さん。

 今の確かな足取りからは、先ほどの茫然自失の様子は見られない。

 

「お姉さん……大丈夫ですか?」

「ちょっとキツかったけどね。もう吐いたから平気」

 

 何気なくそう言って、お姉さんは幾らかやつれた、赤くなった目を向ける。

 

「なでしこ、笑ってたね。リンちゃんが元気づけてくれたんだ?」

「いえ、私は何も……全部、なでしこが」

「そうか……そうよね、いつもああなのよ。素直で、優しくて、いつでもどこでも楽しそうで……」

 

 きっと無意識だろう。お姉さんは自分の右手を、恨みを籠めて睨み付ける。

 

「あんな目に遭っていい子じゃないの。私なんかがあんな目に、遭わせていい子じゃない」

 

 妹の脚を捻る感触。それは決して消える事のない記憶だろう。お姉さんにとって、それは例えようもない罪の意識に違いなかった。

 だから、振り返ったお姉さんの目は強かった。胃の中の全てを吐き出して、彼女は覚悟を決めていた。

 

「なでしこを、リンちゃんを、このまま死なせたりしない」

 

 

 

 少し歩いた先に、沢山の荷物が積まれていた。乱雑に置かれた中には、見慣れた道具が幾つも見つけられる。

 

「これ……私達のキャンプ用具?」

「車の火、消えてたから。使えそうな道具を持ってきたの」

 

 ペットボトルの水に、ビニール袋に包まれたお菓子。クーラーボックス。そればかりか、私となでしこのシュラクから、テントのシートまで持ってきてある。

 予想以上の量。私が無為になでしこを抱き締めている間に、何往復かかけてここまで運んでいたのだ。

 

「ご、ごめんなさい。私も手伝えれば」

「いいの。なでしこの側に居てあげる人がいたほうがいいし……一人でやりたくて、敢えて声をかけなかったから」

 

 そう言いながら、お姉さんはクーラーボックスの蓋を持ち上げる。大きな箱ではなかったが、中身はまだ半分ほど詰まっている。

 キャンプでやった焼き肉の為に買い込んだ肉がほとんどだ。細切れの生肉の他に、ソーセージやハンバーグといった加工品も幾つかある。

 

「なでしこの食いしん坊に感謝しなきゃね。あれもこれもって我が儘言って、いっつもお菓子とか買い込むんだから……はい、リンちゃん」

 

 苦笑しながら、お姉さんは、クーラーボックスを私に差し出した。

 訳も分からずにクーラーボックスを抱き締めた私に、お姉さんは笑いかける。

 

「これだけあれば、二人で分けたって、三日くらいは食べ物に困らないでしょ」

「……え?」

「あと、これ鎮痛剤。なでしこに飲ませてあげて。生理用のだけど、無いよりはましだと思う」

「待って。待ってください……二人分? 私となでしこの分って事ですか? ……お姉さんは?」

「山を下りて、助けを呼んでくる」

 

 私は自分の耳を疑った。クーラーボックスから顔を引き上げると、お姉さんは相変わらず穏やかに笑っている。

 

「色々考えたんだけどね。このままじゃ多分、みんな助からない。ただ待っているだけで誰かが気づいてくれるなんて、到底思えないの。それに、冬の山で何日も過ごすなんて……なでしこが耐えられない」

 

 なでしこの怪我は酷い。本当ならしっかりと処置をして、すぐにでも病院に連れて行かなければいけない。怪我と痛みで体力は削られるだろうし、別の病気を併発する可能性だってある。破傷風などにかかれば最悪だ。命が助かったところで、元の生活には戻れなくなる。

 

「どこか車道に出られれば、車とすれ違えるかもしれない。携帯の電波も繋がる。うまくいけば、今日中にでも助けを呼べる」

 

 なでしこを助けたいという思いは、痛いほどよく分かる。

 けれど、お姉さんの意見には、あまりにも現実味がなかった。行き当たりばったりの、苦し紛れの策としか思えなかった。

 ずっと浮かべたままの微笑。そこに見える痛ましい諦念を、私は見て見ぬ振りはできない。

 

「だ、駄目です。やめた方がいいです。方角も分からないのに闇雲に歩いたら、もっと深い場所に迷い込むかもしれません。それに離ればなれになったら、もし助けが来ても、お姉さんだけ……っ!」

「それでもいいの」

「……え?」

 

 予想外の返答に、私の喉が詰まる。

 お姉さんはすぐに「冗談よ」と誤魔化して、笑顔に暗い影を落とした。

 

「なでしこと、一緒にいたくないんだ。どんな顔をしたらいいか分からない。人生で、一番酷い事をしちゃったから」

 

 きっと無意識に、お姉さんは自分の両手を見つめる。

 消えていないのだ。なでしこの脚を折り曲げた感力が、動物に近い千切れるような叫び声が、ヘドロのようにお姉さんの心に張り付いている。

 

「何かをしてあげたいの。なんとか、この状況から助けてあげたい……私に出来ることは、全部してあげたい」

 

 それで、自分がどうなろうとも……その言外の意思が、お姉さんの瞳にありありと浮かんでいる。

 なでしこに申し訳が立たない。罪の意識に押し潰されてしまいそうだ。

 罪滅ぼしができるなら、自分の身がどうなろうと構わない。お姉さんの決断は、そういう、明らかな自暴自棄だった。

 

「馬鹿な事をしているのは分かってる。無駄死にかもしれない。けれど、なでしこを助けてあげたい。例え僅かでも可能性があるなら、それに賭けたいの……だからお願い、止めないで」

 

 唇を噛みしめて、お姉さんは私に頼み込む。

 自暴自棄だ。無駄死にかもしれない。そうなったときに、なでしこが一体何を思うか。

 そんな理性的な事を思い浮かべ、それでもお姉さんの覚悟は揺らがない。

 元より、何が正解かなんて分かりはしないのだ。

 私には、お姉さんを止める事ができない。

 

「……少し、待っていてください」

 

 そう言って、私はお姉さんが持ってきてくれた荷物の山に近づく。

 ビニール袋を数枚手に取ると、クーラーボックスの蓋を開けて、中のものを取り分けていく。生肉はそのままクーラーボックスに。ソーセージなどの加工品はビニール袋へ。

 焼き肉ということもあってお肉を優先的に食べていたため、加工品の方が量は残っていた。とにかく全部をビニール袋に詰め込んで、私の鞄に押し込んだ。数本あったペットボトルの水も、大部分を鞄に入れる。

 ずっしりと重くなった鞄を、呆然と突っ立っていたお姉さんに受け渡した。

 

「これ、お姉さんの分です。一人だったら、これだけでも十分生き延びれると思います」

「え? でも……」

「動き回るならエネルギーが必要です。じっと助けを待つ私たちより、食べ物は多く持つべきです」

 

 お姉さんはバックを掴んだまま、受け取ろうとしない。私は言葉をまくし立て、鞄を押しつける。

 

「キャンプ用具があるから、火くらいなら起こせます。お肉も焼けるし、暖もとれます。だからそのまま食べられる加工品は、お姉さんが持ってください。水も、調達の仕方は知っています……初めてなので、巧くいくかは分かりませんけど」

 

 弱気な部分を見せつつも、口調は強く、自信を持って。伝えるべき事を、言葉に出す。

 

「お姉さんが死んでしまったら、なでしこが悲しみます」

「っ……」

「皆で助かるんです。だから……私は止めません。けど、死のうとしちゃ駄目です」

 

 虚ろだったお姉さんの目に、小さな光が灯る。

 お姉さんはおずおずと私の鞄を受け取って肩にかけた。私は反対側の手を握り、氷のように冷たくなったお姉さんの手を包み込む。

 

「なでしこは、私がしっかり見守ります。だから三人で助かりましょう。必ず、三人で」

「……そうだね。ありがとう、リンちゃん」

 

 温かみを取り戻したお姉さんの手が、私の手をぎゅっと強く握りこむ。

 それから、持ってきた荷物を漁り、お姉さんの装備を整えた。焚き火台と着火剤の無事が確認できたので、カイロなどの防寒具は、ほとんどをお姉さんに持っていってもらうことにした。

 結局、私のカバンはずっしりと重くなってしまった。お姉さんは大分動きにくそうにしていたが、飢えたり凍えたりするより、大分マシだ。

 

 

 

 

 そうして全部の準備を整えてから、私たちはなでしこの元へと戻った。

 なでしこは最初、大荷物を抱えて戻ってきたお姉さんをびっくりした目で見つめていたが、お姉さんの決断に対しては、意外にも首を縦に振って頷くだけだった。

 

「必ず助けを呼んで、迎えに来るよ。だから安心して待ってなさい」

 

 お姉さんはなでしこの前にしゃがみ、彼女の頬に手を添えながら言う。なでしこは名残惜しむように、お姉さんの手に自分の頬を擦り付ける。

 

「……お姉ちゃん」

「なに?」

「……お姉ちゃんのこと、嫌いになったりしないよ」

 

 ずきずきと痛む脚を庇いながら、なでしこは笑みを作る。

 

「わたしのためにしてくれたことだもん。嫌いになるわけ無いよ……ありがとう、お姉ちゃん」

 

 お姉さんの表情が崩れた。理知的だった顔がくしゃりと歪んで、目尻からポロポロと涙がこぼれ落ちる。

 堪らず、お姉さんはなでしこを抱き締めた。ぎゅうっと力強く。互いの存在を魂に刻みつけるように。

 

「頑張るんだよ、なでしこ」

「うん……一緒に帰ろうね、お姉ちゃん」

 

 そうして、お姉さんは山を下り始める。

 鬱蒼と茂る木々に隠れて見えなくなるまで、なでしこはずっと、ずっと手を振って、お姉さんのうしろ姿を見送っていた。

 

 

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