「うう、恥ずかしい。もうお嫁にいけないよぉ……」
「そんな大袈裟な。私は気にしないってば」
寝床に収まるなでしこの顔はずっと真っ赤だ。極寒の夜の山の中、トマトみたいに火照った顔から、湯気がしゅうしゅうと昇っている。
私はなでしこを慰めるけれど、気持ちは十分に分かる。こんな極限の環境でおしっこを手伝ってもらうなんて、難とも間抜けな話だ。
それに、冬の山はしんと静まりかえっていて、極寒の空気はぴんと張り詰めていて……無視しようにも、色々目立ってしまったのだ。具体的に言うと、音とか、匂いとか。
「……このまま消えちゃいたい」
「それはマジで洒落にならないからやめて」
縁起でも無い言葉にツッコミを一つ、私はなでしこが入ったシュラフのファスナーを上げる。
なでしこをシュラフに入れるのは、結構な労力だった。できるだけ痛みを与えないようになでしこの身体を持ち上げて、シュラフの筒にゆっくりと入れていかなければならず、身じろぎする度になでしこの身体に負担をかけてしまう。結局十五分くらい悪戦苦闘し、なでしこの目からは大粒の涙が浮いていた。
たき火の橙色の明かりに、シュラフから覗いたなでしこのビクビクした顔が照らされる。
「これ、出る時の事を考えるとやだなぁ」
「とりあえず、今痛くないなら大丈夫だと思うけど……寝方は、少し考えてみるよ」
冬のキャンプにおいても、体温調整は何より大事だ。身体が冷えると、温めるために体力を使う。
食料も僅かなこの状況で、無駄な体力消費は命取りだ。怪我しているなでしこなら尚更だ。シュラフに包まれて、たき火の点いている状態なら大丈夫だろうが、負担のかかる事は極力避けなければいけない。
「お姉ちゃんも、どこかで休んでるかな」
「……多分ね」
なでしこが独り言のように呟き、私は曖昧な頷きを返す。
お姉さんは火を起こすことはできないが、カイロもブランケットも持っている。きっと無事なはずだ。そして、それ以上の事はきっと考えるべきではない。
私たちが遭難したように、何が起こるかわからないのが山なのだから。
私はたき火に薪を足すと、なでしこの隣にしゃがみ込み、膝を抱えて蹲る。ぱちぱちと燃えるたき火の音に、つい聞き入る。
日が落ちた山の中は、完全な暗闇だった。山も空も、目を閉じた時よりも暗い黒色に塗り潰されている。
たき火の橙色の明かりだけが、私となでしこを浮かび上がらせる。二人ぼっち、世界に取り残されているような錯覚を感じる。
「二人でたき火を囲んだこと、思い出すなぁ。やっぱり、たき火をすると、キャンプしてる! って気分になるね」
「……まさか、今も?」
「もちろんだよぉ。二人でたき火を囲っていると、キャンプをもう一日延長したみたい」
二人ぼっちの暗闇。それでも、なでしこが隣にいるだけで、朗らかな気分にさせられるから不思議だ。
なでしこは懐かしむような顔をしている。夜の闇の中に、今までのキャンプを思い浮かべているらしかった。
「一緒にたき火して、お肉食べて。寒かったり痛かったりするけど、リンちゃんが隣にいるから、こんな状況でも、ちょっと楽しい」
「そう、かな」
「それに、今までは、寝るときはテント別々だったよね。リンちゃんと一緒に寝るの、実は初めてだったりして……そ、そう考えると、なんか照れちゃうかも。えへへ」
照れくさそうに笑うなでしこを見て思い出す。そう言えば、寝袋にくるまったなでしこを見るのは初めてかもしれない。もこもこの寝袋にくるまった姿を傍目から眺めるのは何とも滑稽だ。
そんな、思わず吹き出しそうな格好のなでしこが、私の目をまっすぐに見つめてきた。
「ねえ、リンちゃん。どうせなら、一緒に寝ない?」
「……なでしこが寝るまでは、ここにいるよ」
「えー。つまんないよ。寝袋パーティーしようよぉ」
「子供か」
思わず苦笑が漏れる。緊張感が皆無すぎる。寝袋にすっぽりくるまってしまうと、足を怪我している事実を忘れてしまいそうだ。放っておくとこのまま、貴重な体力と睡眠時間を削って世間話が始まってしまいそうだ。
「しょうがないなぁ」
私はうずくまっていた身体を動かして、なでしこのお腹あたりに寝そべった。「うえっ」というなでしこの小さな声がする。もふもふのシュラフの外面は、たき火の熱でほんのりと温かかった。
「り、リンちゃんのシュラクは?」
「少し疲れたから、しばらく休んだら取ってくるよ。なでしこが寝るまでは、こうしている……これでいい?」
「うん……ありがとうリンちゃん、ちょっと苦しいけど、安心するよ」
そのまま、なでしこのお腹を枕にしたまま、時間が過ぎていく。目は冴えて、眠気は一向に来る気配がなかった。星のない真っ暗な空が、視界一面を塗り潰している。
「……リンちゃんがいてくれて、良かったよ」
なでしこが呟いた。微睡みに揺れる、寝言のような響き。私は返事をせず、眠気に身を委ねさせる。
「頑張ろうね、リンちゃん……一緒に、がんばろう……」
譫言のような呟きが次第に遠ざかり、後にはすぅすぅと安らかな寝息だけが残った。
なでしこが寝静まっても、私はお腹に頭を乗せたまま、凍て付く空をじっと眺めていた。賑やかななでしこが静かになって、本当の静寂が、私の心にすきま風のように吹いてくる。
「うん……頑張るよ、なでしこ」
心の底から言葉を絞り出して、私は起き上がると、作業を開始した。
食べ物はまだ二日分くらいは残っている。この山でじゃ調達も不可能だろうし、何とかして食いつなぎ、それまでに助けが来ることを祈るしかない。
問題はもっと他にある。2Lペットボトルの水は、もうほとんど残っていないのだ。
持っていた水の大半はお姉さんに渡したため、私達二人の生命線は、あとたったの数十ミリしか残っていない。水の確保は最優先だった。
私はなでしこから少し距離を置くと、ランタンの電気を付けて、闇を切り払う。黒ずんだ茶色の木の幹が不気味に浮かび上がり、身体がきゅっと縮こまる。ひとりぼっちに放り出されると、暗闇はこんなに怖いのだ。
「っ……気合い入れろ、私」
私は頬をぴしゃんと打って、身体に渇を入れる。
明日を生き抜くために、私は動かなければいけない。生き残るために、なでしこの分まで。
最初に私は、テントの外套を広げると、端を木の枝に括り付けた。二方をできる限り高い所に括り付け、もう二方を低めに結ぶ。
真ん中に撓んだ外套は、下にずれ下がったハンモックか、できの悪い滑り台のようになった。私はその滑り台の出口の所に、底の広い鍋を置く。
見よう見まねで作った、水の採取方法だ。こうすることで、気温の変動で発生する朝露を、効率よく集めることができる……はずだ。
「穴とかは空いてないな? よし……ちいさい鍋しかないけど、溢れたりとかしないよね」
呟き、自分の楽観的な想像に苦笑してしまう。
一体これで、どれほどの水を確保できるのだろうか。このやり方だって、本でチラリと見ただけで、得られる水の量など覚えていない。
いや、そもそも上手くいくのだろうか。どこか見落としてはいないだろうか。
残りの水はもう殆ど無い。これが上手く機能しなければ、私たちの残された時間はぐっと短くなる。
そうすれば、私のミスで二人とも死んでしまうのだ。私のせいで、なでしこが。
「……ついでに、もう一つ」
迷っている余裕はなかった。私は薪割り斧を手にすると、自分のシュラフを縦に切り裂いた。ナイロン生地が切断され、長らくの友だったシュラフが悲鳴を上げる。
筒状のシュラフを一枚のシートにして、先ほどと同様に木の枝に括り付けた。野外キャンプの時、朝起きるとシュラフがぐっしょりと濡れていることはよくあった。今こそ、その苦い経験に助けてもらう時だ。
これで足りるだろうか? 分からない。ダメな気がする。
水を確保しなければ。もっと他に、出来ることはないだろうか。昔の記憶を引っ張り出して、私は緊張に硬直する頭を白熱するまで目一杯回す。
「後は……地面から集める方法があったはず……」
地面に穴を掘り、そこにトレーなどを置いて、穴をタオルで塞ぐのだ。そうすることで、地面から蒸発する水蒸気を水として確保する事ができた筈だ。
確証はない。無駄かも知れない。けれどもやらない訳にはいかない。
ハンドタオルを手に巻いて、地面に指を沈み込ませる。氷のような冷たさに背筋が震えた。冷気がタオルを越えて指先を突き、針で刺されたような感覚を与えてくる。
「大丈夫……後で当たるたき火は、きっと天国。空腹は最高のスパイス的な感じ」
私は一心不乱に、氷のような地面に指を沈み込ませる。堅い土に指をめり込ませる度に冷たさが染み込み、土が擦れる度に薄皮が剥がれるような痛みが走る。
そんな辛い感覚を味わいながらも、凍ったように冷たい地面は堅く、中々削れてくれない。
ざくざく、ざくざくと、一心不乱に指を地面に食い込ませていく。
ざくざく、ざくざく。
「……、……」
なでしこが寝てからこんな作業を始めたのは、きっとやせ我慢のような物だろう。
なでしこには、できるだけ笑顔でいてほしかった。時間と体力が許される限りは、さっき彼女自身が言っていたように、キャンプの延長のように楽しんでほしい。
冗談でもなく、なでしこが笑って「大丈夫」と言えれば、本当に大丈夫な気がしてくるのだ。
なでしこの底抜けの明るさに、私は救われている。
そうじゃなきゃ……もしたった一人だったら、私はとっくに……
「……、……」
帰りたい。
元の日常に、帰りたい。
ここは暗くて、寒くて、寂しい。
本当だったら、明日から学校に行くはずだった。キャンプ開けで、寝不足気味の眠い目を擦りながら授業を受けて、斉藤とくだらない話をして、暖房の効いた図書館で本を読みふけって、たまに来るなでしこや斉藤や、野クルのメンバーのしょうもない話に目を通す。そういう何てことの無い日を送るはずだったんだ。
心配する事なんて何もなかった。明日の飲み水を不安に思ったりしない。このまま死んじゃうかもなんて不安になったりしない。
自分がどうしてこんな状況になってしまったのか、理解ができても、納得ができない。あまりにも異質すぎて、衝撃過ぎて。心が身体から吹き飛ばされて迷子になったみたいだ。
唐突に奪われたいつも通りの日々は、昨日のことのようにありありと思い出される。
しょうもないメッセージのやりとりが、本を覗き込む斉藤の顔が、なでしこの笑顔が、冬の山の暗闇に浮かんでは消えていく。
あるはずだった日常を思い浮かべながら、私はかじかむ指先で、地面を掘る。
この披露も、指先の痛みも、全部無駄かもしれないのに。水なんて得られないかもしれない。仮に水が手に入ったところで、助けもなく死んでしまうかもしれない。
こんな山奥の、どことも知れない寒い暗闇の中、誰にも見つけて貰えず、ひっそりと息を引き取ってしまうのではないだろうか。
そんなのは、嫌だ。
キャンプが好きだ。一人でやるのも、なでしこや野クルの皆で一緒にやるのも好きだ。
写真を上げると、羨ましそうにかけてくれる皆のメッセージが好きだ。
自分の感動を一緒に分かち合いたいと考える、なでしこからの電話が好きだ。
帰りたい。死にたくない。
あの生活に、帰りたい。
「っ……だから、頑張るんだ」
後ろ向きな感情に蓋をして、私は一心不乱に指を土に食い込ませる。
全部の作業を終えたのは、作業を始めて二時間後。
私はしもやけで真っ赤になった指を温めて、お姉さんの鎮痛剤を一錠だけ貰って、ペットボトルの水を一口飲んだ。
そうして、明日の結果が上手くいくことを祈りつつ、ブランケットにくるまった。
「私が、頑張らなくちゃいけないんだ……私が、なでしこを……」
披露で真っ白になった頭が勝手に言葉を紡ぐ。眠気は直ぐにやってきて、私はなでしこの後を追うようにして眠りへと落ちていった。
こうして、長い長い、遭難一日目が終わった。
今にして思えば、この時とっくに、私の心にはヒビが入っていたんだろう。
毎週投稿って言っておいて一か月も続かないのは自分でもどうかと思います。
もし楽しみにしていらっしゃる方がいれば申し訳ない。
多分連載形式とか向いていないんだと思います。