本当に申し訳ないと思っている(メタルマン並感)
書き出した以上、終わらせないのはいけない。
「――ん」
瞼の裏側に、早朝の銀色の光が透けてくる。重い瞼を持ち上げると、たき火の燃えさしが目に止まる。火はずっと前に消えていたのか、もう煙すら上がっていない。
冬の山の朝は絶対零度だった。瞼に霜が乗っているのか、瞬きをする度にパチパチと小さな刺激が走る。
身体が冷え切っていた。白い息を吐き出す唇が震えている。飲み水のために、大事なシュラフを壊してしまったツケだ。ブランケットの防寒機能なんてたかが知れている。
あと数時間このままでいたら凍死してしまうかもしれなかった。次からは、薪はもっと沢山くべておかなければ。
「……水は、どうなったかな」
生命線のシュラフを犠牲にしたのだ。上手くいってくれなければ、困る。
一度目覚めると、容赦ない冷たさが肺を通り、身体を内側から冷やして意識を覚醒させる。不自然な体勢で寝たせいか、動く度に間接が軋んで、ひどく堪えた。
幸いにも、即席で用意した水の調達方法は、しっかりと機能してくれた。置いていた鍋の八割程が水で満たされ、薄い氷の膜を張っている。漏斗状になったテントの天幕の先端には、大きなつららができていて、澄んだ水滴がポタポタと鍋に落ちていた。
胸の支えが取れた気分だった。少なくとも、これで喉が渇いて死ぬ事はなくなったのだ。
私は急いでなでしこに駆け寄ると、みのむしみたいに丸まったなでしこを揺すり起こす。
「やったよ、なでしこ! うまくいったぞ!」
「ひゅわあああ!? 痛たああい!?」
「あああごめん! 嬉しくて、つい……」
本気で痛がるなでしこに、私の心臓がぎゅっと縮こまった。
水が手に入った喜びは、なでしこの目に浮かんだ涙で、たちまち雲散霧消する。浮かれていたとは言え、流石に迂闊すぎたと、私は自分を戒める。
心優しいなでしこは、私の謝罪を何のてらいもなく受け入れ、水が手に入ったという報告を心から喜んでくれた。私の倍以上に喜んでくれる姿に、何となく救われた思いを抱く。
新しく作ったたき火で、朝食のスープを作った。クーラーボックスの肉を半パックに、味付けは焼き肉のタレのみ。あんまりにも味気ないスープだったが、一口飲み込むと、身体の内側にぽうと火が灯り、冷えて固まっていた内臓や筋肉が解れていく。温かいスープに、全身が喜んでいるようだった。
「生き返るねえ、リンちゃん」
「ああ……ホント、生き返る」
にへ~と笑うなでしこに、私も小さく笑い返す。
相変わらず凍えるほどの寒さだったが、見上げた空は青く、さんさんとした日差しが射し込んでいた。日なたに身体を投げ出すと、じんわりと熱が身体の外側に染みてくる。
穏やかな朝だった。もしキャンプ場でこんな朝を迎えられたら、最高の一日の始まりになったことだろう。
「んー。ケータイ、やっぱり圏外だね」
寝転んだなでしこが、青空にケータイを翳してぷらぷらと振る。
「ちょっとこのあたり散歩したら繋がるとか……ないかな、やっぱり」
「ないんじゃないかな……なあ、なでしこ」
「どうしたの、リンちゃん?」
「なんで、こんな近いの?」
ケータイを上空にかざしたなでしこの顔が、私の超至近距離にあった。
なでしこはわざわざ、ほっぺたがくっつく程の距離まで近づいて、私と並んで横になっている。ケータイをふりふりと振る度に、服が擦れてこそばゆい感触がする。
「ホラ、電波が繋がれば、みんなにメッセージを送れるでしょ?」
「そこはまず119じゃ……うん、そうだな。それで?」
「そうしたら、皆に『遭難なう』って写真を送ろうと思って」
「元気すぎかよ」
条件反射的に突っ込んでしまうも、なでしこはどこまでも本気だった。
「だって、あきちゃんもあおいちゃんもえなちゃんも、みんなすっごく心配してるし、私たちの事を気にしてると思うよ。どこで何してるのかって」
ビー玉のような澄んだ目が私を見つめ、柔らかく微笑んでくる。
「だから、帰ったらすっごくお話しないといけないんだよ!」
「……え?」
「きっと、質問攻めにあっちゃうよ。一日話したって終わらないよ。どんな風に過ごしたのか、どうやって帰ってきたか、全部話してたらすっごく大変なんだから!」
屈託の無い笑顔が、なでしこが本気でそう思っていることを教えてくれる。
生き残るかどうか、助けが来るかどうか。
そんな薄暗い賭け事なんて微塵も考えずに、なでしこは『その後』の事を考えているのだ。
私が言葉を失っている内に、なでしこはぐっと体を寄せてきた。私の反対側の肩を掴んで、引き寄せる。
お餅のように柔らかいほっぺたが重なる。私の心臓がどきんと跳ねた。
「はい、チーズ!」
何か言う間もなく、なでしこはケータイのインカメラでシャッターを切った。
画面には、笑顔でピースを作るなでしこに、訳も分からず目を丸くした私の、少し赤くなった顔。
その写真を大事そうに眺めて、なでしこは笑った。
いつもの通り、屈託無く。どこかも分からない山間の、押し潰されそうな静寂の中で。
「ちゃんと皆に伝えないと。わたしたち、こんなに大変な目に遭って、リンちゃんはこんなに頑張ったんだって!」
「……」
腹の底が震えた気がした。
訳も無く感極まって、涙が出る代わりに、身体の中の悪いものが全部吹き飛ばされたように感じられる。
必ず助かるとか、きっと生きて帰るとか、そんな励ましさえ馬鹿らしく感じられる。
この時私は、本当に、心の底から、彼女の友達になれて良かったと思えた。
そんな万感の思いを胸に、私もいつも通りに、溜息と一緒に唇を綻ばせる。仕方ないなぁと、困ったように。
「……だな」
「でしょ? 遭難なんて、そうそうできる事じゃないもんね!」
「そうそうあってたまるか」
「あはは……ね、リンちゃんのケータイも貸して」
そうして、なでしこは私のケータイでも、同じように写真を撮った。今度は私もぶきっちょに笑って、胸の横でピースを作って。
「電波がないと写真も送れないから……これでおそろいだね、リンちゃん」
なでしこの満面の笑みと、対照的な自分の固い笑顔。
表情は違うけれど、二人のケータイに、同じ写真が入っている。
深くは言わなかったけれど、これはきっとお守りなのだろう。
生きて帰れるように、ずっと笑っていられるようにと、なでしこの優しさが詰まったプレゼントだ。
私は待ち受けにその写真を選んだ。いつか本当に電波が通った時のために電源は切っていたけれど、時々、思い出したようには起動して、その写真を眺めた。
二人の笑顔が見られる内に、きっと帰れるという願いを込めて。
――その日は、それ以上何も起こらなかった。