「誰が一番最初に気付くと思う?」
三日目、朝。
昨日と同じ、ほんの少しの肉と焼き肉のタレを入れたスープを手に、なでしこがそんな事を聞いてきた。
「……聞くまでもないけど、私達の遭難にって事だよね」
「ちょっと想像してみたんだけど、わたしたちが遭難したーって言っても、みんなは『そのうち戻ってくるよー』って流しちゃいそうな気がして」
「いやいや、流石にないだろ」
……と、信じたい。
そう付け加えてしまう位には、その光景は容易に想像できた。木々の隙間から覗く青空に、いつもケータイでやりとりしているメッセージの吹き出しがぽこぽこ浮かんでくる。
私たちが休んで連絡も取れない話題とか、誰かがキャンプ用具の写真を載せれば吹き飛んでしまいそうだ。
「……うん、考えれば考えるほど」
「ありそうだよねー」
なでしこはにっこりと微笑んでみせる。
遭難に気付かれないなんて、最悪の可能性であるはずなのに、空にメッセージが浮かぶ想像はコミカルで、悲壮感はない。
いの一番に空想に浸るなでしこが、楽しそうにしているからに違いなかった。疲れ切り、凍えた身体でも、空想はするすると頭に浮かんでくる。
「大垣が特にそうだけど、斎藤もああ見えて馬鹿騒ぎ好きだからなあ。遭難ごっことかやりそうだし」
「でもね、一番最初に気がつくのは、やっぱりあきちゃんだと思うんだ」
「そうか?」
「リンちゃんはあまり知らないかもだけど、野クルの部長は、みんなのことをすっごく考えてるんだよ。キャンプの企画するのも結衣ちゃんだし、ああ見えて凄いんだから」
「じゃ『ああ見えて』とか言ってやるなよ」
スープを飲み干した私たちは、たき火の側に隣り合って座った。二人で一本の木に寄りかかり、肩をそっと触れ合わせる。
そのままたき火を前に、空想の続きを楽しんだ。大垣。犬山さん、恵那。皆は、私たちが学校に来ていない事に、電話が繋がらないことに、どんな反応を見せることだろう。
「きっと、学校中が大騒ぎしてるよ。二人はどこだーって、探してくれてるはず」
「そうかな……」
「そうだよぉ。きっと、もうすぐ助けが来るってば」
なでしこは力強く断言して、私の肩に頭を乗せる。
「今頃、お姉ちゃんが山を抜けて、助けを呼んでくれてるよ。ううん、もうとっくの昔に山を抜けてるかも。実はすぐそこに車道が走っていて、楽々誰かと通信がとれちゃったりとか……そうじゃなくても、あきちゃんがテレパシー的な何かで、わたしたちの居場所を突き止めてたりして。こう、ツインテールをぴーんって上に向けて」
元気のいい声が、私に根拠のない自信をお裾分けする。
今にそこの木陰から、捜索隊を連れたお姉さんが顔を見せるのではないだろうか。
ほっとした笑顔に涙を溜めて、私たちは固く熱い包容を交わすのだ。
そうして、私たちは次の日には学校に行って、皆に武勇伝としてその様子を語って――。
……そんなわけ、あるか。
急に訪れた虚しさに、私の胸の希望は、風船が萎むように消えた。身体の内側を駆け上った寒さに、内蔵を鷲掴みにされる。
まだ三日目だ。これからもっと続くに決まっている。
死ぬ可能性の方が、ずっとずっと高いのだ。誰にも発見されない方が普通なのだ。
それを分かっている筈なのに。心の底で、もう絶望を感じているのに。
私はもう、甘い希望に縋ろうとしているのか。
馬鹿な空想だった。
その場しのぎの暇つぶしで、単なる現実逃避だった。
頭の隅に追いやって、考えないようにしなきゃいけない邪魔な思考だった。
けれど……なでしこだけは、本気だった。
それから先の事は、あまり覚えていない。なでしこが何か話題を振ってきて、私はそれに曖昧に頷く。萎んだゴム風船のように弾まない会話。
そうして、何をするでもなく、ただ延々と時間が過ぎ……ぐぅぅ。
大きな音に顔を上げれば、照れて赤くなったなでしこの顔がある。
「……えへへ……正直なお腹でごめんね」
「食べ物も少ないし、しょうがないよ。ご飯にしよっか」
はにかむなでしこに応じて、強ばった身体を動かす。
気がつけば、木々の隙間から太陽は見えなくなり、空がうっすらと紅くなり始めている。一体何時間思考を放棄していたのか、回想するのも躊躇われる。
一日をとても長く感じる。
食べて、話すことしか、やることがない。
生き物の気配のない冬の山で、来るか分からない助けを待ち望む。
耐え難い苦痛だった。私は、なでしこみたいに前向きにはなれない。
クーラーボックスを開くと、白色トレーの肉が五パック。当たり前ながら、食べる度に数が減っていく。
確実に減っていく命の目盛り。今日また一つを消費して、後四パック。約二日間。
その現実が、私の内臓をぎゅっと締め付ける。
度を超えた不安が、ある一言になって、私の脳裏を支配する。
――私は一体、何をしていたんだ?
それは、徹底的に避難する自己否定の言葉。責任感と不安から生まれた、ぬぐい去れない焦燥感。
薪は十分か? 付近に食べ物はないと、探しもせずに決めていいのか? ひしゃげた車に使えるものがあったんじゃないのか? 電波は本当に繋がらないのか?
何かできることがあったんじゃないのか?
生きるために、もっとやるべきことがあるんじゃないのか?
何もする事が無くぼうっとして、そのくせ、その時間が過ぎ去ってから、根拠のない焦りに心を焦がされる。
鍋に肉を入れて煮詰める。温かい湯気が顔にへばりつく。
ぐつぐつと沸騰するスープを見ていると、根拠のない自責の念が存在感を強めていく。
何かできた気がする。
無駄に過ぎたこの時間で、私達の死が決定づけられた気がする。
こんなことをしている場合じゃない気がする。
このままずっと、何も起こらないのではないか。
何の動きもない山中の景色が、本当に、死ぬまで変わらないのでは――。
「リンちゃん、リンちゃん」
「え?」
声をかけられて、鍋から顔を上げる。その無防備な顔を、スマホのカメラが待ちかまえていた。
またも不意打ちにシャッターが押され、私の惚けた顔が画面に保存される。
「今日の記念! キャンプでも、食事のネタは必須だからね! ちゃんと撮っておかなきゃ」
見せられたスマホの画面には、陰気な表情で思い詰めた私が映っている。スマホの横から、なでしこの心配そうな表情が覗く。
「どうしたの、リンちゃん。考え事?」
「いや……待つのって、結構しんどいなって」
「……そうだよね。いつもは、一日が三十六時間あればいいのに、とか思うのにね」
なでしこも、私の不安にそう応じる。けれど、彼女の悩み顔は、コロッと笑顔にとって変わられる。
「ね、リンちゃん。リンちゃんは、助かった後は何をしたい?」
「助かった後……?」
「何でもいいんだよ。駅前のあのスイーツ食べたいとか、キャンプ用具新調したいとか。楽しいことを考えてれば、時間なんてあっという間にすぎちゃうよ」
助かった後みんなに自慢話するために写真を撮る、なでしこらしい提案だった。そして、死ぬことしか想像せず嫌になって思考放棄していた私自身を、言われて初めて気がつかされる。
助かった後のこと。色んな像が浮かんでは、形にならずに消えていく。
私にはどうしても、現実味を伴った空想ができなかった。今私たちを包む死の存在感が余りに強くて、一週間先のことなんて、まるで違う惑星のように感じられる。
「……ちなみに、なでしこは?」
「キャンプ!」
「……」
元気な返答に絶句してしまう。そのキャンプで、足を折るような目に遭っているのに。
「もしかして、寒さで頭を……?」
「違うよ! 次のキャンプで、行きたい場所があるんだ。どこか、綺麗な丘のあるところ!」
「なんで?」
聞くと、なでしこは身じろぎし、添え木で固定された自分の足をさする。
「ほら、足を折っちゃったから、治るまで結構かかるでしょ? その間、松葉杖とか、車椅子生活になっちゃうよね」
「……それで、何で丘のキャンプ?」
「足が治ったぐらいに、車椅子を持ち込んでキャンプしたいの。それでリンちゃんに言ってほしいんだ。『立った! なでしこが立った! ワーーイッ!』って」
「言わんぞ」
呆れた前向きさだった。一昨日の怪我を、悲鳴を上げるほどの痛みを、もうこんな風に笑いとばせるなんて。
適当な応急処置しかできず、今も痛むに違いないのに。感染症の疑いだってあるのだ。可能性で言えば、立てなくなる可能性だって否定できない。
「むー、じゃあ、主人公役はあきちゃんにお願いしようかな。たき火で山羊のチーズを焼いて、とろ~っとなったのをパンに乗せて食べるの!」
「是が非でもやる気なんだな……そもそもその怪我が、ちゃんと治るのかすら分からないのに――」
言ってから、自分がどれだけ酷い事を言ったかに気づく。
私の馬鹿! 例え事実だとしても、なでしこに言う理由がどこにある。
「ちがっ、なでしこ。今のは――」
「治るよ、きっと」
私が謝るよりもずっと早く、なでしこはそう断言した。言い掛けた謝罪が喉元で止まり、溶けて消える。
「治らなくても、わたしはまたキャンプするよ。だって、まだぜんぜん楽しみたりないんだもん!」
なでしこは目を輝かせて夢を語る。まるで、ここが満点の星が見下ろす、テントの側であるかのように。
「見たことない景色も、食べたことないおいしいものも、いっぱいあるはずだよ。それに、いつか道具を揃えて、一人キャンプもしてみたいし!」
その希望は、私には余りに眩しかった。
到底真似できない、なでしこの前向きな笑顔。来るかも分からない助けを、まるで遠足前日の夜のように、指折り数えて待っていられる、底なしの陽気。
そんな力を起こせる原動力を、私は知らなかった。
「私は……ベッドで寝たいかな、とりあえず」
「あはは、家族旅行するおばあちゃんみたい。でもリンちゃんらしいかも」
「誰がおばあちゃんだ」
目に見えない、なでしこの素晴らしい原動力が、本当にどこかの警備隊を引っ張ってきそうで。
そんな妄想を抱いて、私達は凍える夜を迎え入れた。
怒涛の更新で後に引けなくする作戦です。