そうなん△   作:オリスケ

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第8話

 たき火の爆ぜるパチッとした軽い音に、どうしてか、私ははっと目を覚ました。

 

 

 目の前には、強く燃え上がる橙色の炎がゆらゆらと揺れている。

 見えるのは、炎で照らされた、ほんの少し先の地面と木の幹だけ。あとの全部は、真夜中の黒に塗り潰されている。

 炎に炙られて、空気が揺れる。自分の呼吸が聞こえるくらいに、空気がしんと静まりかえっていた。

 

 

 ――はっ ――はっ ――はっ ――はっ

 

 

 隣で眠るなでしこの吐息が聞こえる。

 浅く早い、尋常じゃ無く震えた、なでしこの呼吸。

 私はそれに、反応すらできない。

 目を覚ました瞬間に、私は金縛りに襲われていた。

 

 

 

 

 ――蠢く気配が、一つあった。

 

 

 

 

 全身の筋肉が、凍り付いたように動かなくなる。

 身じろぎもできず、私は木に寄りかかった姿勢のまま、目だけを動かして、それを見つける。

 

 

「……、………………」

 

 

 肺が締め付けられ、呼吸が止まる。

 黒い塊が、動いていた。

 たき火の明かりが届かない、黒い世界。その向こうで、更に黒を重ねたような巨大な影がもぞもぞと蠢いている。

 太い四本脚。寸胴のように大きな胴体。何かを漁る、水っぽい鼻息。

 冬の雪山という環境において、押し潰される程に圧倒的な生命の鼓動。野生の気配。

 疑いようもなく、それは私達にとって、最も恐れていた命の危機だった。

 

 

 ばくん、と心臓が跳ねる。

 左胸が引きつった痛みを訴える。バクバクという鼓動で、内側から弾けてしまいそうだった。

 悲鳴を上げなかったのは殆ど奇跡だ。冷たい空気が気道を抜け、ひゅうと小さく音を立てる。

 

 

(嘘。だって、火は……!)

 

 

 自分の目を疑うも、たき火は今も盛大に燃えている。

 熊は火を怖がらないのだろうか? 抱いていた安心が一気に吹き飛ばされ、恐怖がじわじわと、動かない身体の芯に染み込んでいく。

 呼吸がうまくできない。肌がビリビリと痺れる。

 瞬きの仕方を忘れた目が、次第に暗闇に慣れていく。

 熊は、肉の入ったクーラーボックスに顔を突っ込んでいた。荒い鼻息に併せ、くちゃくちゃという音が聞こえてくる。

 大事な肉が食べられていた。生きていくのに必要な栄養が、容赦なく奪われていく。水っぽい租借音に、心臓を鷲掴みにされる。

 

 

 ――り――ちゃ

 

 

 小さな呼吸音に併せて、小さな声が聞こえた。

 目だけを動かせば、シュラフにくるまったなでしこが、私をじっと見つめていた。見開かれた目。わなわなと震える唇。厚いシュラフにくるまった状態でも、身体が小刻みに震えているのが分かった。

 ビー玉のように丸い目を力一杯に見開いて、なでしこは私に助けを求める。

 りんちゃん、ともう一度。声にならない、蚊の羽音よりもか細い声。

 

 

 もしかして私は、ずっと、ずっと呼ばれていたのだろうか。

 一体いつから……私が起きるどれだけ前から、なでしこはこうしていたのだろう。目尻から頬にかけて、涙の通った後がはっきりと分かる。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。見開かれた目が、ただ彼女の混乱を伝えてくる。

 私は、衣擦れ一つすら立てないよう、口元に人差し指を立てるのが精一杯だった。

 抵抗する事も、逃げる事もできない。物音一つ立てれば、その瞬間終わる気がした。

 

 

 熊はクーラーボックスに顔を突っ込み、咀嚼を続けている。

 私となでしこは、恐怖に震えるほか無かった。あの咀嚼音が、荒く水っぽい息が、自分に向くかもしれない。そう考えると、心臓が爆発し、悲鳴を上げて発狂しそうだった。

 やがて音が止まり、黒い影がのっそりと頭を持ち上げる。

 たき火の橙色に照らされ、二つの目が暗闇に浮かび上がった。

 

 

「――――――――――」

 

 

 無機質な黄金色の相貌。感情を計れない不気味な目が、私たちをじっと見つめている。

 私達は金縛りにあったように身を縮こまらせ、その目を見つめ返す。

 夜の冷気が眼球の水分を奪い取り、酷く痛む。それでも、瞬き一つがきっかけで襲われたらと思うと、目を離すことができない。

 唾液に濡れた獣の吐息が聞こえる。恐る恐る呼吸をする鼻腔に、濃密な肉の匂いがする。

 

 

 たき火がパチパチと弾ける。地獄のような時間が過ぎる。

 やがて、熊はゆっくりと後ずさりを始めた。

 暗闇に浮かぶ目が小さくなり、ふっと消えた。

 それでも私たちは目を見開いたまま、熊の消えた暗闇を凝視し続けた。

 今に、そこの暗闇から、あの目が飛び出してくるのではないか。今もどこかで、舌なめずりして狙っているのではないか。

 

 

 

 

 そんな恐怖からやっと解放されたのは、何時間も経った後。

 視界がうっすらと開けると、そこはいつもの、何も変わらない冬の山の景色があるだけだった。

 やっと呼吸の仕方を思い出した私達は、震える身体を互いに寄せ合って、声も出せずに泣きじゃくった。

 

 

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