目を覚ましたのは、日も高くなった昼時だった。
辺りは今までと変わらず、生き物の気配はどこにもなく、木の葉の落ちる音さえ聞こえるような静寂だった。
昨夜の出来事が夢のように感じられる。けれど、踏みしめられた土の跡と、土にまみれて横倒しになったクーラーボックスが、現実を否応なしに突きつける。
クーラーボックスの中は空っぽだった。中には血の一滴も残っていない。
しばらく、現実を信じられなかった。訳もなく、軽くなった箱を振ってみる。結果は変わらず、私は折った膝の上で、クーラーボックスを抱える。
こんな状況もお構いなしに、空腹感は容赦なく私たちを襲う。寝起きの身体が、栄養を寄越せと内蔵を叩いていた。
栄養を求める欲求が、まるで地獄からの呼び声のようだ。
「リンちゃん……逃げた方がいいよ」
呆然と膝を折った私の下に、なでしこが危なっかしいケンケンで近寄ってくる。顔には、昨夜の恐怖がありありと浮かんでいる。
「あの熊、また来るかもしれないよっ。どこかに逃げないと……!」
「無駄だよ」
早口でまくし立てるなでしこは、私のたった一言で黙り込んでしまった。私は薄暗い感情を隠しもせず、怯えきったなでしこの目に向き直る。
「たき火をしなきゃ凍えちゃう。火を起こせば気づかれる。どこに行っても、どうせ嗅ぎ付けられるよ」
「っ……そ、そんなの分かんないよ。ここにいるよりずっと」
「――だいたいっ!」
突然の大声に、なでしこの身体がびくりと跳ねる。バランスを崩したなでしこが尻餅をついて、折れた足に衝撃が走ってうめき声が上がる。
クーラーボックスを掴む手が震える。浮かんだ感情は、やるせなさを源泉とした――どうしようもない怒りだった。
「逃げるって、どこに行くっていうのさ。なでしこは、その足でどれだけ逃げられるっていうの? 私に支えてもらいながら、熊の縄張りを出るまで何キロも歩けって言うのか?」
「……それ、は……」
「それに、水を手に入れるための仕掛けも、火を起こす道具も持って行かなきゃいけないんだぞ? なでしこを支えながら、そんなの持てない。私だけ二往復しなきゃいけないんだ。こんな寒い中、防寒も十分じゃない中、体力を温存しなきゃいけないのに。栄養だってこの先摂る手段も――」
そこまで言ってから、私はやっと、目の前のなでしこが怯えている事に気がついた。
ばくばくと、心臓が高鳴っている。ぐんぐんと頭に登る血液が酷く不快だった。
息が浅く荒い。興奮で……なでしこへ怒りをぶちまけることに、夢中になっていたのだ。
一体、何をやっているんだ。
我に返ると、急に自分がなさけなく感じられる。
「……ごめん、言い過ぎた」
「ううん……わたしが間違ってた。ごめん……」
何とも言えない、溜まらない沈黙が支配する。
今すぐここから逃げ出したい。けれど、私にそうする術はない。
「……ここで、助けを待とう。熊が来るよりも早い事を祈って」
「……うん」
沈んだなでしこが、とぼとぼとたき火の側へと戻っていく。
その背中が遠く感じたのは、衰弱した身体が見せた、幻覚に違いなかった。
残された体力で、私は薪割り斧を振るい、多すぎるくらいの薪を作る。
たき火で湯を沸かし、焼き肉のタレを混ぜて飲む。塩気と醤油の風味と果物の甘みと、それらが大量の湯に薄まってバラバラになった味は、控えめに言って最悪だった。
それが終わると、私たちは本当に、虚無に放り出された。何もする事がなく、ただ木に寄りかかり、たき火のチラチラと揺れる橙色を見つめる。
「考えたら、わたしたちが場所を移動しちゃったら、お姉ちゃんもわたしたちを見失っちゃうもんね」
「……そうだな」
「やっぱり、ここに残って正解だったよ。リンちゃん、やっぱり凄いね」
食料はもうない。残された体力が消えるまでの、耐久戦。
あるのは水と、残り半分の焼き肉のタレ。
それと、隣に座る……、……
「しゃべらない方がいいよ、なでしこ。少しでも、体力を温存しないと」
「っ……分かった……そうだね。ごめん、リンちゃん……」
たき火が揺れる。ぱちんと音が鳴る。
やがて夜が来た。待ち望んだようで、二度と来て欲しくないようで。
一瞬と永遠を同時に感じるのは、凍えた心に酷く堪えた。
助けは、まだ来ない。
短い話が続きます。
普段は一話5000字くらいを目標にするんですが……ソリッドシチュエーションでやることもないから是非もないネ