“穢れ”し少年の吸血記 〜聖騎士の息子は、真祖の少女に救われた〜   作:ダート

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1章 第二の始まり
思い出は遠くまどろみの彼方


 なんとなく、これが夢だと分かった。

 

 そこはどこか懐かしい邸宅の庭だった。

 

 大きくはないが、丁寧に手入れをされた花が咲き、柔らかな光が降り注ぐ。そんな庭だ。

 愛情を注がれたことが、こんなにもはっきりと伝わってくる。

 

 草花の優しい匂いが、心地いい風と共に体をくすぐる。少しだけ、その心地よさに身を任せていた。

 

「……………………」

 

 邸宅は立派なもので、白い壁に柔らかな日差しが踊り、木がそよぐ度に葉の影が楽しそうに踊っていた。

 庭と同じく、大きすぎるなんてことはなく、孤独や不安を抱くような広さでもない。十分に自由に動けて、なのに守られて感じる絶妙な大きさ。

 

 それなのにこんなにも広く、大きく感じる理由は、自身の体を見下ろして分かった。

 

「なんで……()()は……」

 

 まじまじと、子どものように小さくなっている体を見下ろす。確かに元から大きくはなかった体ではあった。けれど、こうも幼さを感じるほどではなかったはず。

 

「ん……剣?」

 

 始めからそうだったのか、手には木剣がしっかりと握られていた。

 小さな体に、この木剣はすこし重い。

 それでも不思議としっくりくる……。振るうイメージが自然に湧いてきたのは、いつの記憶なのか。

 

「どうかしたのか、アトラ?」

「え——」

 

 不意の男の声に振り向くと、栗色の髪を汗に濡らした男が、温かな笑顔をこっちへ向けていた。

 上半身は、引き締まった無駄のない肉体をそのまま日の光にさらしている。そして手には、大人用にしても重そうな木剣が握られていた。

 

 ————お父さんだ……。

 

 なんで忘れていたのか分からない。

 今日は久しぶりに、剣の稽古の相手をしてくれていたんだっけ。

 

「……ちょっと、その……ぼーっとしてたんだ」

「何だ、そんなに疲れているなら休憩を伸ばすぞ?」

「ううん、いい。はやくつづきやろーよ、お父さん!」

「ダメだ、まだ休憩したばかりだろ? まだ1分も経ってないぞ。休む時はキチンと休む。大事なことだ」

「えー! ……わかった。ぼくはいい子だから……休む」

「はははは! ほおを膨らませなければ完璧だったな」

 

 父の手が頭に置かれ、力強く、けれども優しく撫でた。

 

 ゴツゴツとした硬い手のひら。

 すこしだけ痛くもあるその手のひらが、力強くて、優しくて、熱いくらい暖かだった。

 

「そういえばアトラ。お前母さんに将来の夢を語ったそうじゃないか。つれないなー、父さんに隠すことないだろ~?」

「う……」

 

 撫でられる感触に身を任せていたら、不意打ちに触れられたくない話題を出される。

 はぐらかそうにも、逃すつもりはないことが、手のひらを通して伝わってくる。

 

 将来の夢。憧れは、もうとっくにあった。

 ただ、それをお父さんに言うのは妙に恥ずかしくて、同時に怖くもあった。

 

 もし笑われたら……。

 もし、お前には難しいと言われたら……。

 もしそうなったら、きっと立ち直れない。

 

 もちろん、お父さんはそんなことは言わないと知っている。

 それでも、やっぱり怖かった。嫌な想像に限って、頭の中に居座り大手を振って歩き回るんだ。

 

「…………」

 

 顔を上げると、さっきと変わらない笑顔を向けてくれているお父さんと目が合った。どんな夢でも、きっと受け止めて背中を押してやる、そんな覚悟みたいなものがあった気がした。

 

 それで、不思議と覚悟は決まってた。

 

「ぼ、ぼく…………に、なりたぃ……」

「ん? 何て言ったんだ?」

 

 心臓がドキドキとする。

 それでも、勇気を出してもう一度言った。

 

「ぼく……、ぼく、聖騎士になりたい! お父さんと同じ聖騎士になって、お父さんもお母さんもアリアも、村のみんなも、守りたい……!」

「……………………」

 

 ずっと思っていたことを、叫ぶように吐き出した。

 

 一瞬の沈黙。

 お父さんは余程意外だったのか、目をパチクリとさせて、次の瞬間——

 

「え——うわあ!」

 

 満面の笑みで、ぼくの小さな体を抱き上げた。

 

「あっははははは! そうか聖騎士か! 俺と同じ……父さんみたいな聖騎士かー! わははははは!」

「わっ、わわわ……!」

 

 撫で、キスをして、高い高いをしたと思えば、強く抱きしめる。

 怖れていたのと違って、お父さんのはしゃぎ様はすごかった。

 

 窓から見ていたお母さんも、呆れ顔で庭に出て来る。それを見て、お父さんは自慢気な表情を浮かべた。

 

「おおアリシア聞いたか?! アトラはなぁ、ははっ、アトラはなぁ、俺みたいになりたいって——」

「はいはい、聞こえてたしこの前アトラから聞いていたから落ち着いてねナクラム。アトラが目を回しちゃうから」

「っと……悪かったなアトラ。父さん、ちょっと興奮していた」

 

 お父さんの強烈なスキンシップからやっと解放される。

 お母さんの言うように目は回っていたけど、こんなに喜んでくれたのが嬉しくて、照れ臭くて、それが気づかれないように、クラクラが治っても目が回っているフリをした。

 

「けどねナクラム。あまり真に受けすぎてもダメなんだからね? あなた、張り切りすぎちゃうところがあるんだから……」

「わ、分かっている、大丈夫だとも。さ、そうと決まれば特訓だな、アトラ! はっはっは、任せろ! 父さんが必ず聖騎士になれるところまで引っ張ってやるからな!」

「はぁ……ケガさせないでよ?」

 

 お父さんの様子にため息を吐きながら、母の顔は明るかった。

 

 当たり前の日々——

 

 もう見れない、失った光景——

 

 ごめんなさい、お父さん。

 ぼくはもう、聖騎士にはなれないみたいで…………。

 

 あんなに喜んでくれたのに。

 

 あんなに楽しみにしてくれたのに。

 

 あんなに大切にしてくれたのに。

 

 あんなに、愛してくれたのに。

 

 ほんとうに、ごめんなさい————

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

「ぅ……ん……」

 

 まどろみから抜け出して目を覚ますと、ぼやけた視界が迎えてくれた。

 

「——ん、……は? 泣いてたのか、オレ……?」

 

 顔に触れた手は、目から溢れた涙で濡れていた。

 理由は分からないが、ひとまず服の袖で涙を拭う。視界が回復し、世界が輪郭を取り戻す。

 ぼやけた思考も、少しマシになった。

 

 と————

 

「あれ? オレのじゃない……」

 

 ひと目で分かる異変だった。

 

 村で目覚めた時は、確か腹部に孔の空いたボロボロの服を着ていたはずだ。

 それが今はシミひとつない、肌触りのいい服に変わっている。かなり上質なものだと思うけど、こんなの、着ていなかった。

 

「村のときと違う。村の、……そうだ!」

 

 村での出来事が一瞬で頭に浮かぶ。

 

 転がる死体、襲ってきた男たち、そして……白銀の槍……体の孔。

 

「っ——!」

 

 体に掛けられた布団を跳ね飛ばし、服をまくりあげる。

 そこには、貫かれて出来た孔が————無かっ……た。

 

「どう、なって……」

 

 孔は確かにあったはずだ。

 記憶をたどっても、孔が塞がったなんて記憶はない。

 貫かれて、虫のように倒れ伏した。それが最後。それから奇跡の復活なんて記憶は、当然あるはずない。

 

 なら、そもそも孔などなかったのだろうか————

 

「ありえない。あんなのが夢だったわけ…………!」

 

 夢にしては、あれはあまりにも生々しかった。

 

 貫かれた時を思い出す。

 始めは、貫かれたとは気づかなかった。

 貫かれたと気づいた後も、痛みが襲ってくることもなく、ただ感覚が孔の付近から徐々に消えて、自分が欠けていく……それが何よりおぞましく、そして恐ろしかった。

 

 じっとりとした汗が、全身から滲み出るのを感じる。

 

「…………ふぅ、落ち着け……落ち着け……」

 

 思い出すと気分が悪くなる。

 落ち着こうと、胸に手を当てて目を閉じて、少し上を見上げる。

 

 相変わらず鼓動は感じられない。

 心臓は動かず、死ぬときは灰になる……。

 

「本当に……人間じゃないんだな」

 

 ぽつりと、未練がこぼれた。

 全部夢という最後の希望もなくなって、ようやくオレは人間であることを諦めた。

 諦める以外になかっただけだけど、認めてしまえば少しだけ楽になる。

 

 それが錯覚だとは理解した上で。

 いやそもそも、自分が人間という感覚こそが夢なのかも知れない事実に思い至った。

 

 人間としての感覚なんて、ひどく希薄なものだったじゃないか。まるで見ていた夢を思い出そうとするような、気を抜くとすぐに消えてしまいそうな感覚。

 

 なら、きっと人間だったことこそが夢だった。

 それでいいはずだ。そうに決まってる。そう思おう。

 

 ………………………………………………………………そんなの……ムリだ…………。

 

「はぁ…………で、ここはどこだ?」

 

 ようやく自分の内側から、外側へと意識が向く。いや正確には、心の中の蟠りから目を逸らした先に外があったというだけだったけれど。

 

 少し落ち着いて辺りを見れば、またも知らない場所だ。もっとも、知っている場所なんてどこにもない。

 

 目を覚ましたオレは、なぜか知らない村から知らない部屋へと場所を移して、やっぱり寝ていたらしい。血を吸った泥の上から柔らかなベッドの上へと移動しているところを見ると、少しは状況が好転したと思いたい。

 

「埃っぽいな……なんの本なんだ、これ?」

 

 部屋の特徴はとにかく本がたくさん積まれているというくらいで、その他は至って普通……というには天井が高いが、木造家屋の一人部屋という雰囲気だ。

 だがとにかく本が多い。

 

 なんとなく、この部屋は普段から使っているわけじゃないんだと思う。

 

「————————」

 

 やっぱり現実感はない。記憶の連続性がなさすぎて、これらを自分ごととして実感するのが難しい。

 眠るたびに、別人の人生に切り替わっているんじゃないか、なんて荒唐無稽な妄想が頭の片隅に居座っている。

 

「……、と。これは……一応読めるのか」

 

 何となく、一番近くにあった本を手に取ってみる。文字の意味は苦労なく理解できたから、たぶんオレと同じ言語圏の本なんだ。国も同じならいいなと思った。

 

 赤が特徴的な本は、タイトルも赤に似合う物騒なものだ。

 

 『誰でも簡単! 楽しく出来ちゃう拷問術 ~入門編~』

 

「……………………」

 

 ソッと元に戻した。

 何となく今のをナシにしたくて、今度は紺色の本を手に取る。やり直しだ。

 

「えーと? 『歴史に見る三国間の緊張関係・後編』…………なんか難しそうだな」

 

 また戻した。

 自分のことも分からないのに、どこぞの国の外交関係なんて早すぎる。

 そうしていくつかの本を取っては戻しを繰り返した。

 

『帝国の外交戦略』、『魔法陣の先駆者』、『紋様学1 総論』、『そして王国は成った』…………読む気は起きない。

 いや、そもそもどんな本なら読みたいのかも分からない。ただ時間ばかりが過ぎて行く。

 

 20冊ほど積んだ時点で、部屋の外から近付いてくる気配に気がついた。

 いや、それは近づいてくるというよりも、まるでいきなり現れた感じで、オレは何の心構えも備えもなかった。これだけ時間を使って、結局は心の準備ひとつできていなかったのだ。

 

「えっ、まず——!」

 

 反射的に本を戻そうとして、積み上げられた本に手が当たった。本の塔が、ゆっくりと嫌な緩慢さで倒れていく。

 

 それが音を立てて崩れて埃を舞いあげるのと、部屋の扉が開かれるのとは同時だった。

 

「開けるわよ——あら、何? 随分と散らかしてくれてるのね」

 

 入って来たのは、赤く艶のある長い髪に、灰色のローブが特徴的な女性だった。ローブは不思議なことに、チリチリと燃えているようにも見えて、端の方は霧のように輪郭を霞ませている。

 

 女性が部屋に入った瞬間、空気が変わった。

 まるで炎が空間を食い尽くすような、圧倒的な存在感。

 本能が告げていた——この人間は危険だと。敵意とか害意を向けられている感じはしない、ただ、強いという予感だけがあった。

 

 そんな女性は、部屋の惨状と埃臭さに目を細める。

 

「目覚め時くらい静かにできない?」

「おわっ?!」

 

 女性が呆れた表情を浮かべながら指を振るうと、一陣の風が吹き、部屋中の埃やチリを集めて拳ほどの球体を作った。

 それは一瞬空中に留まった後、自然の法則に従って落下し、床に落ちる直前に燃えて消えてしまう。

 

 部屋には埃一つない。

 今の一瞬で、『本で散らかった埃臭い部屋』は『本で散らかった埃一つない部屋』になっていた。

 空気の匂いがまるで違う。本の匂いで満たされていた。

 

 目の前で起きた現象に、無意識に口が動いた。

 

「魔法……」

「魔法は初めて、坊や? まだ魔力を自覚できていないのね。未覚醒者だなんて……本当に面倒だこと」

 

 女性が、硬い足音と共に部屋を横断する。

 どうなっているのか分からないが、床に広がった本は女性が歩くのを妨げない様に道を開ける。

 その様子を見て直感した。彼女が、この館の主だ。

 

「————————」

 

 その不思議な光景を、ただ口を開けて見ることしかできなかった。

 頭が目の前の光景を理解しようと回転するのに、まるで間に合わない。

 警戒心すらなりを潜めてしまうくらいに、頭の中は混乱で漂白されていた。

 

「間の抜けた顔。もうすぐルカちゃんも来るんだから、これでも飲んでシャンとなさい」

 

 女性が、持ってきたティーカップを置く。

 白くて薄く、波打つようなデザインのカップとソーサーは、何となく高そうだなと思った。

 

「ぁ……どうも……」

 

 色々と突然すぎて、気の無い返事を返すのが精一杯だった。女性はそのまま何も言わずに、こちらを一瞥してから退室した。

 

 扉が閉まる音。混乱の元凶がいなくなったからか、はたまた今の音が合図になったのか、停止していた思考はようやく活動を再開した。

 

「————あっ! 色々訊きそびれた!」

 

 女性の閉めていった扉を眺めても、もう遅い。

 本来ならまっさきに訊くべきあれこれを、何一つ訊けていない。

 

「誰か来るって……ルカ……だっけ? ルカって誰だ? いや、そもそもここは? さっきのは誰なんだ?」

 

 いくつもの疑問に、当然扉は答えない。

 部屋の静けさが虚しい。

 自己紹介くらいして欲しかったけど、やはり今さらだ。

 

 いや、逆に考えると、自己紹介しなかった上に、向こうから誰何されることもなかった。ならもしかして、オレについて知っている人なんだろうか?

 そうなら納得がいく。どことなく雑な対応をされたのも、知り合い故の距離感からなんだとしたら、オレについて教えてもらえるかも知れない!

 

「いや落ち着け……まだそうとは決まってない…………殺されたばかりなんだ、警戒心を持たないと……」

 

 落ち着く為に、まずは一息入れるのも良いかもしれない。

 

 視線を下げると、机の代わりになっている本の山、その上に置かれたままのカップがある。

 

 手に取って、一口飲んでみた。

 途端に、柔らかな味が口に広がり、落ち着く香りが鼻に抜ける。

 そのまま飲み込むと、胃に落ちた温もりがじわ~と身体中に広がって染み込んでいくのが分かった。

 

「————ホゥ……」

 

 経験したことのない味に、思わずカップを見る。

 

 カップの中で揺れている液体は特に色を持たなかった。

 ゆらゆらと揺れては、時折キラリと不思議な光の粒子を浮かべる。

 カップの底には赤いものが塗られていて、それが液体に赤く溶けていた。

 

「あっという間に飲んじゃったな」

 

 今更ながら、警戒心のカケラもない行為に苦笑する。

 何だか一度死んだせいか、自分の命にぞんざいになっている気がしないでもなかった。

 

 カップの中身を飲み切り、ぼんやり余韻を感じるころにはすっかり頭は軽くなって、寝起き特有の気怠さは消えていた。

 

 もし、あの女の人が入って来た時に今くらい頭が動いていれば、ちゃんと訊きたいことを尋ねて、少しは自分自身というものに進展があっただろうに。

 

 そんなことを考えて時間を潰していると、また何かが急速に近づく気配がした。

 

 はて、自分はこんなにも感覚が鋭かっただろうか?

 村で目覚めたときよりも、感覚の冴えは増して感じる。

 

 首をひねる間にも、気配は近づいて来る。

 そして、想像していたよりも軽い足音を立てながら、気配は扉の前でキキィーなんて音をさせて停止した。

 

 直後————

 

「アトラ! 大丈夫?!」

 

 けたたましい音を響かせて、扉が勢いよく開かれる。部屋には一人の少女が入って来た。

 

「……あ、えー、どうも?」

 

 予想外の少女の勢いに、用意していた言葉がどこかへふっ飛んだ。やっとのことで、たどたどしい挨拶を口にする。

 

 挨拶は返ってこない。

 少女はズカズカと近づいて来ると————

 

「ちょっとお?!」

 

 そのまま黙ってオレの着る服を掴み、捲り上げた。

 

「な、なにして、ぐぅぅッ——うそだろ?!」

 

 押さえようとする腕ごと上げられる。

 こんな細い腕に、男たちを圧倒していた腕が負けている。完全に力で負けている。

 

 抵抗するオレを他所に、少女は真剣な顔でオレの腹を見たり触ったりした後、安堵の表情を浮かべて蛮行をやめた。

 

「よかった……本当に大丈夫なんだ。ルミィナが大丈夫って言ってたんだけど、見るまで安心できなくて」

 

 よかったを繰り返して、少女は笑顔を向けてくる。

 それを見て、不思議と文句を言いたい気持ちは消えてしまった。

 

「……まあいいよ。えー、そう、それより……ここは?」

「ここ? ここはねぇ、ルミィナのお家。あの村から安全なここまで運んだんだ」

「ルミィナ?」

「あ、私が来る前に会ったよね? 髪が長くて、赤くて、キレーな人! ルミィナはね、魔法が得意なの。【魔女】なんだ!」

 

 キラキラとした目で、少女は「すごいでしょ!」と早口に語る。

 どうやらさっきの女性の名前は『ルミィナ』らしい。

 

 魔法に長け、少女のために何でもしてくれる優しい女性だという。オレはもっと冷血というか、鋭利というか、そういう印象を抱いていた。

 

 さらに博識でもあり、この部屋にある大量の本はすべて、彼女の著した本の一部だという。これは素直に驚いた。いったい何年間を費やせばこんな量を書けるのか。いや、そもそも本の内容は多岐にわたっていたから、著者の知識量もそれだけ広く深いことになる。そんな知識を得るまでの労力を思っただけでも、あのルミィナなる人物が只者でないことは当然に思われた。

 

 ただ気になるのは、彼女が天才であろうことはともかくとして、拷問の本なんて書いてる人が、はたして優しいなんてあり得るのだろうか。人間性の方に不安を抱かずにはいられない。

 

 口にはしないけど……。

 

 そしてさらにもう一点気になるのが、目の前の少女が口にする『アトラ』という言葉だ。

 

「それでね、その時にルミィナが————」

「ちょ、ちょっとごめん。教えてほしいことがあるんだけどさ……」

「ん? どうしたの?」

「その、さっきからオレのことアトラって呼んでないか?」

「……? アトラはアトラだもん……?」

「ってことは、オレはアトラなのか…………アトラ……そっか……」

 

 その音の響きが、空洞だった胸の奥に染み込んでいく。

 失くしたと思っていた自分の一部が、ようやく戻ってきたような——いや、初めて自分という存在に輪郭が与えられたような感覚だった。

 

 空っぽの心に、芯になるものが宿った感覚。名前一つでこうも自分が定まるなんて、知らなかった。

 

「えっ、アトラ? どうしたの……どこか痛い? 痛いってあるのかな……だいじょうぶ?」

 

 唐突なオレの変化は、少女をずいぶんと狼狽させてしまっていた。痛いってあるのかな、なんて訳のわからないことすら口走るくらいに。

 

「ぃや……なんでもない……。……君が、ルカ……だよな?」

「う、うん、急にどうしたの? ルミィナに診てもらった方がいいかな……」

 

 『ルカ』は扉とオレとで視線を往復させる。今にも『ルミィナ』を呼びに飛び出して行きそうで、だけどオレを1人にするのも不安という様子だった。

 

 そんな心の底から心配してくれている様子に、オレの覚悟は決まってくれた。

 

「じゃあ、ルカ。聞いてもらいたいことがあるんだけどさ」

「……うん、なに?」

 

 何かを感じたのか、ルカの表情が真剣なものに変わる。

 それを見て————

 

「実はオレ……記憶がないんだ」

「————え?」

 

 ————オレは、自分の欠陥を打ち明けた。

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