何をしていても現実感がない__踏みしめる脚にも__耳に入る聲__音__目に見えているはずのモノのかたち__口にする言葉も___息をしていてさえまるで水の中から外界を眺めているようだった。
まやかしに生活を紡いだつもりでいるだけの自分でさえ虚像に感じるほどに__
「紐切り鎬」言葉の通りに体内に存在する無数の紐(血管、リンパ管、腱、神経など)を断つ技を主体にしていた鎬昂昇は目に見えない自らの紐に身動きが取れず己の信念を揺るがされる程、雁字搦めになっていた。
今日は愚地独歩と渋川剛気の見送りへ、二人の顔を見たらこの枯渇した何かを湧き上がらせるものがあるかと期待していたが、湧き立つ感情は芽生えなかった。
帰り道に兄からメールが入る。
「pm21:00 東京ドーム地下の地下闘技場に来い」
簡素な内容だが兄弟間のやりとりなど、どこもこんなものなのだろう。
兄には逆らえないので行くしかない、恐らく抜け殻のようになっている自分を気にして活気ある試合を見せてその後食事でもしながら説教が始まるのだろうと想像に容易かった。さしたる予定もないし、タダで食事にありつけるのなら断る理由もないだろう。
「了解」
簡潔に返信を済ませた。街をブラつきながら時間を潰し、夜になると15分前には後楽園に到着していた。家紋の入ったエレベーターへ近づくと老紳士が声を掛けてくる。
「鎬昂昇様、お待ちしておりました。皆様がお待ちしております、こちらへ」
髭を蓄え、いかにも紳士ですというような身なりをした地下闘技場ではおなじみの見届け人に促され家紋の入ったエレベータへ乗る。
観客席に通されるものかと思ったのだが降りたフロアは選手控え室のある見覚えのある場所だ、普段はけたたましいほど熱狂している観客の熱気が伝わってこないことを鎬昂昇は少し疑問に感じていた。何度か通ったあの長い廊下を踏みしめるように歩く、通路の奥には明かりや人の気配すらしない、ただの待ち合わせ場所にこんな場所を選ぶなよと半ば呆れながら、闘技場へ歩みを進める。
ジャリジャリとした砂を踏みしめる、懐かしい匂いがするなぁなどと回想をしている間もなく眩しいくらいのライトが昂昇を照らす。
紅葉「10分前に着くとは少しは大人になったな」
目の前にはスパッツにタオル地のタンクトップを着た兄、鎬紅葉が滝のような汗を流しながら腕立て伏せをしていた。その後ろには笑顔の徳川光成とその横に丁寧に刈り込まれた頭髪をした白人の大男が腕組みをして座っている。
昂昇「兄貴、急に呼び出して一体なんだっていうんだッ!?」
紅葉「ウォーミングアップが済むまで待っていて貰えるか?後9分もあるんだ、お前も着替えてくるんだな」
昂昇「ウォーミングアップッッ!?一体何の為にッ!?」
昂昇と紅葉の温度差のあるやりとりにくっくっくと笑いを堪える白人の大男はジャックハンマー。そのやりとりを見ながら、光成が説明をする。
光成「戦うんじゃよ、お主とスーパードクター鎬紅葉の世紀の兄弟対決のリターンマッチじゃ!」
一体何を言っているのか理解出来ずに立ち竦む昂昇を置いてけぼりに、紅葉は腕立て伏せの速度を上げた。
昂昇「馬鹿馬鹿しい、俺は帰らせて貰うからなッ!!」
踵を返し、闘技場を後にしようとする昂昇へ兄が冷徹に言い放つ。
紅葉「逃げるのか?お前が無様に負ける姿を見せない為に徳川さんに頼んで今日はギャラリーを入れて貰わなかったんだ」
昂昇「そういうことを言っているんじゃないッッ!!何も聞かされずにここへきたんだッ!それに俺のコンディションだって___」
ジャック「クックック、コンディショントハヨク言ッタモンダナ」
ジャックハンマーが組んでいた腕を解き、腕を頭の後ろで胡座をかくように組み分かり易く呆れた様子を示した。手を広げるとこの漢の頭の小ささと腕の長さがよく見て取れる。本当にデカい。
紅葉「残念だ、たった一度の敗北が原因で戦うことさえ怖くなってしまったようだな、それなら昂昇よ、この場を提供してくれた徳川さんに謝るんだ、今の俺は挑まれた勝負にさえ背中を向けることしか出来ない腑抜けた負け犬です。兄さんにはとても敵わないので今日は帰らせて貰いますと」
来た道をそのまま引き返そうと歩いていた昂昇の足が止まった。
体は動かさずに首だけ3人の方へ向ける、こめかみの血管を浮かび上がらせ、血走らせた眼を見開き、兄の紅葉を睨む。
昂昇「誰が腑抜けた負け犬だとッッ!!やってやろうじゃねぇかッッ!」
開戦を知らすドラは鳴り響かず、徳川光成が急いで観客席にダイブをし、それを無表情でジャックが受け止めた。
それを合図に鎬昂昇が兄、鎬紅葉へ飛びかかる。両の手を猫科の猛獣のような握りのまま、その手で兄である紅葉の上半身を切り刻む。連打、連打、いや、連撃と言っていいほどの猛攻。
首の後ろ辺りから三日月を描くかのように放たれた、掌を握り込まずに指の第2関節から硬く折り込んだような独特の形からの初撃、続けざまに左手がガードを固めた紅葉の右の腕を切り裂くかのような勢いで打ち込まれる、そしてまた右。今度はつま先を握り込んだ足刀が空気を切り裂くような音を立てて走り抜ける
光成「ほぉー飛ばしよる!飛ばしよる!!」
ジャックに抱えられながら子供のように手を叩いてはしゃぐ光成をジャックが隣の席へ片手でひょいっと置いた。
物のように扱われたことを気にしてる素振りすら見せず、というよりもこの老人は興奮しすぎていて最早他のことは目に入っていないような気がしないでもない。
昂昇(幼き頃は決して倒せなかった大きく、強かった兄。その絶対的な存在を、その肉体を、それを今こうして再び__ッッッッ!!!??)
だが、勝負を決定付けるほどの奇襲とも呼んでもよい先制攻撃をしていたはずの昂昇が瞬時に紅葉から距離をとる。
光成「おやっ?どうしたんじゃ一体?」
違和感___そう__確かな違和感を感じた__この手が兄の肉体を切り裂いたかと思ったがその手応え__硬い__これではまるで___まるで___
昂昇が切り裂いたとさえ思った紅葉の肉体は事実、切り裂かれていなかった。ガードを解く。拳を握り込み両の肘と握り込んだ拳の小指同士を合わせ、それ顎の前に持ってくる鉄壁のガードである。超肉体をその骨格に携える紅葉だからこそ可能な筋肉の要塞。着ていたタンクトップを破り捨て、紅葉は不敵に笑う。
光成「ジャック、お主はどう思う……?」
ジャック「くっくっく、アノ野郎、アレホドノ肉体信仰ヲ捨テヤガッタノカ、スパイダーシルクプロジェクト‥‥完成シテイタトワナ」
瞳が見開かれ、退屈そうでさえあった観戦を立ち上がり、紅葉の肉体を吟味するかのように凝視している。ぽかんと口を開けている徳川にジャックが続ける。
ジャック「蜘蛛ノ糸ノ強度ヲ知ッテイルカ?」
光成「蜘蛛の糸の強度?そんなもん、絡まったらすぐ切れるし考えたこともないのぅ」
ジャック「オヨソ鋼鉄ノ5倍、防弾チョッキニモ利用サレルケプラー繊維ノ4倍ホドダ」
光成「え?そんなに………?」
ジャック「鉛筆ホドノ太サノヨリ糸デ作ラレタ蜘蛛ノ巣ハ理論上ジャンボジェット機ヲ止メラレルホドノ強度ガアルトサエ言ワレテイル。ソレホドノ繊維ダ。医療、軍用、様々ナ需要ガアルタメ近年世界中ノ研究チームガソノ新タナ繊維ノ研究ニ躍起ニナッテイル」
光成「ほぅほぅ、それで……それが一体どういうことなんじゃ??」
ジャック「くっくく、マァ要スルニ人工皮膚ダ。アノ紅葉ノ身体ヲ覆ウ皮膚ハ今、鋼鉄以上ノ強度ヲ持ッテイル」
ジャックの声を聞いていた紅葉が振り返った
紅葉「さすがだなジャック、少し補足させて貰おうか」
余裕の表情で昂昇の攻撃を看破した、紅葉が説明を始めた。
紅葉「強度はもちろんのことその耐熱性も250〜300度程ある。日本ではクモの糸のタンパク質を作る遺伝子を組み込んだ蚕に蜘蛛の糸を吐かせることに成功している。お察しの通り課題はその生産性にある。蜘蛛の吐き出す糸が生産性欠けることから世界中が様々な遺伝子操作を行い多くの生物で試している。例えばそう、バクテリアから蜘蛛の糸を作れないか?とか、ジャガイモから蜘蛛の糸を作れないか?とかね。」
少し得意げにさえ話す、紅葉に対して対峙する昂昇の表情は暗くなっていく。
紅葉「カナダのベンチャーとアメリカ陸軍が協力して2002年に蜘蛛の糸を出す遺伝子をヤギのDNAに入れ、そのヤギの乳から蜘蛛の糸を作ることに成功している。その後オランダの研究者がオランダ法科学ゲノムコンソーシアムと共同で研究を進めている属に云うスパイダーシルクプロジェクトでは、そのヤギの乳から強度の高い人工皮膚を作り出すことに成功。論文を読んだ時は歓喜したよ、これだ。私が求めていたものはまさにこれだとね。
その皮膚は22口径のロングライフルの弾丸でさえ跳ね返すんだ、まだ研究段階ではあるがね。だが私は手に入れた、手術中に手が震えたのは後にも先にもあの時だけだよ」
紅葉「どうだい?兄の新しい肉体の感覚は?今はまだ肩から手首、そして上半身の前部だけであるが昂昇よ、私は今、文字通りに完璧な肉体を手にしたんだッッ!!」
今では常識人として、医師として登場することの多かった紅葉であるが、その顔は以前この場所で刃牙と戦う前の姿。入院患者へ人体改造を施したり、実験体としてその体を弄り回していたあの頃の面影が鑑みえた。
ジャック「ハッハッッハハハッ!!コイツワイイゼッ!面白イモノヲ見セルッテイウノハコウイウコトカ!!」
唖然とする光成を尻目にジャックの笑い声が地下闘技場中に木霊した。
紅葉「今度はこちらから行くぞッ!!」
嬉々とした顔で今度は紅葉が昂昇へ距離を詰め、その腕を十分に振りかぶり、ただでさえ質量を携える紅葉の腕が鋼鉄以上の硬度を持ち昂昇を吹き飛ばす。その一撃は強烈で昂昇は闘技場の囲いまで飛ばされてしまった、尻もちをついたような状態の昂昇に対して嬉々としてストンピングを続けるその姿は最早兄弟と呼べるものではなかった。
辛うじて頭を守り防御をする腕の隙間から昂昇は紅葉を睨んでいた。
光成「なんということじゃ…」
勝負ありを告げる者がいないことにオロオロとする光成はジャックを見て止めてくれと懇願するがジャックはそれを拒否した。
ジャック「安心シナ、何カ面白レェコトガ起キソウダゼ‥」
ジャックがそう口を開くと同時に昂昇は攻撃を受けながら立ち上がった。その体は今まで弱々しく垂れ流していただけであったオーラを力強く纏っている。
紅葉「ッッ!!!??」
昂昇「兄貴、よくわかった……俺が次の一撃で目を覚まさせてやる。刃牙がそうやったようにな」
紅葉「ダメージはないのか・・・?」
紅葉の言葉を無視して大きく前後の足を広げた。軸足を外側へ腰を入れ__体を反らす__大きく美しい三日月を描いた昂昇の右のハイキックは紅葉の顎を掠め、当たったその瞬間には既に紅葉は意識を失っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
地下闘技場の医務室のベットに横たわった紅葉。ここに来るのは何年ぶりであろうか、普段から見慣れた簡素な病室のベットだが自分が横になってみると見える世界が全く違うこと今更ながら気がついた。そんなことを考えていると横に居たジャックが声をかけてきた。どうやら意識が戻るまで待っていてくれたようだ。
ジャック「弟ハアッチヘ行ッチマッタゼ」
紅葉「そうか。今何時だ?俺はどれくらい意識を失ってた?」
ジャック「モウ朝ダ、緊急病棟ヘ移スッテ話モアッタンダガ、ドコモ異常ナイミタイナンデ様子ヲ見テイタ。人工皮膚トハ驚カサレタゼ」
紅葉「朝まで眠っていたのか、ふっ、面白いものっていうのはそれじゃないんだ。」
笑いが止まらないような顔をしながら紅葉が自分の腕を顔の前に持っていき確かめる様に確認した後、目を爛々と輝かせている。その顔は弟が異世界へ行った事などに一片の興味さえ持っていないようだった。
紅葉「これがそう。ふふふ、徳川さんには弟が無様に負けるのを見せたくないからとギャラリーを払って貰ったのだが、本当は私が無様に負けるのを見せたくなかったんだ。人工皮膚は準備段階に過ぎない。本命はこれさ。何か秘密があると思っていたのだが予想以上だよ。」
不敵な笑みを浮かべる紅葉の体を淀みなく包むオーラをジャックには見えていないが何か今までの紅葉とは違う気配を感じていた。そして敗者であるはずの紅葉の大きな嗤い声が医務室を包んでいった。その声と顔は明らかに今までの紅葉のモノではなく底知れぬ欲望に塗れているかのような品性のないものであった。