朝目が覚めてみると、目の前に広がる光景が少し違うように見えた。
部屋の家具の位置も、全体的な色合いも、昨日とは何ら変わっていないというのに、全てが昨日までとは違って見えてしまう。
起き上がり、カーテンを開くと太陽の光が差し込んでくる。目を細めて、太陽の光を体全体で受け止める。やがて目が慣れて、外に広がる景色が目に入る。もう見慣れた街並みのはずなのに、なぜかこれも新鮮に思えた。
「・・・・・・・・・」
どうしてなのか、その理由は大方予想できる。
自分の想いに気付いたからだ。
「・・・・・・・・・」
昨日私は、春貴さんに恋をしているという事に気付いた。
いや、その片鱗はずっと前からあったのだから、正しくは“認めた”と表現した方がしっくりくる。
昔、私が中学の頃に実家に帰省した際、母が『恋をすると世界が見違えるぐらい輝いて見える』と話していた記憶がある。
思春期に入った私に昔の自分の事を重ねての発言だとは思うが、あの時は初恋もまだだったので、いまいち実感が持てなかった。
でも今は、母の言葉は正しかったというのが分かる。
現に今、私の目に映る全てのものが、前よりも輝いて見えているのだから。
それこそ、去年の全国大会直後、全てを悲観的に見ていた時とは比べ物にならないくらいだ。
「・・・・・・はぁ」
思わず、息が漏れる。
でも、いつまでも物思いに耽っているわけにはいかない。まずは着替えて学校に行く準備をしなければ。それと朝食の準備も。
でも、不思議と着替えている間も、朝食を作っている間も、私の心はなんだか温かい感じがした。
朝食を食べ終えて身支度をし、時間になったらいよいよ学校へ出かける。
いつもみんなと待ち合わせる交差点に向かう私の足取りは、いつもよりも軽いのが分かる。
やがて待ち合わせの交差点に着くが、まだみんなの姿はない。時計を見れば、どうやらいつもより少し早めに来てしまったらしい。
浮かれすぎたかな、と思いながら皆を待つことにする。
数分経ったところで、交差点の向こうから斑田さんが来た。
「あれ?赤星さん?」
「斑田さん、おはようございます」
「今日は少し早いんだね」
「ちょっと、早めに起きちゃって・・・」
そうして斑田さんと2人で後の2人を待つ。
けれど、ほどなくしてその2人は来た。
「おはよー」
まず最初に挨拶をしてきたのは、少し眠そうな顔の根津さん。休み明けで少し辛そうだった。
そして、根津さんの隣を歩くもう1人。
「おはよう、小梅さん、斑田さん」
春休みに初めて会った時と変わっていないはずなのに、なぜか昨日よりもほんのわずかだけど、輝いて見える春貴さんの姿が目に入った。
私は、春貴さんの姿を目にした途端、鼓動が早くなって、ほんの少し顔も熱くなってしまう。
でも、それは決して気取られないように、あくまでいつも通りにあいさつをする。
「おはようございます、春貴さん、根津さん」
私自身、普通に挨拶をしたつもりなのだけれど、春貴さんは『ん?』と何かの異変に気付いたらしい。
「小梅さん・・・なんだか嬉しそうだね」
「え・・・そうですか?」
「確かに、なんかちょっと明るくなったって言うか・・・・・・」
春貴さんの隣に立つ根津さんも、同じように気づいてしまったらしい。
私の傍に立つ斑田さんも頷いた。
「今日も少し早くに来ていたし、何かいいことでもあった?」
「えっと・・・・・・それは・・・・・・」
もちろんあった。
何せ、自分の春貴さんに対する想いと感情に気付いてしまい、しかもそれが恋、愛情という限りなく幸せに近いものだったのだから。
「まあ、ゆっくり休んでリラックスできたみたいで何よりだよ」
春貴さんは余り深く追求しようとはせずに話を切り、学校へ向けて歩き始める。私はその隣を歩き、斑田さんと根津さんがその後ろを歩く。
「織部の方こそ大丈夫か?身体の方は」
「何とか。この前はホントごめんね・・・心配かけたりして・・・特に根津さんなんて・・・」
「気にしないでいいさ。にしても、まさかあんなとこで倒れてるとはね」
先週、春貴さんが高台で倒れていたのを見つけたのは私だけど、保健室まで運んだのは私と根津さんだ。春貴さんも土曜日の訓練で根津さんに謝ったし根津さんも気にしなくていいと言っていたけれど、春貴さんは改めて根津さんに謝った。
「疲労とストレスねぇ・・・私たちも気を付けないと」
ちなみに、春貴さんが師範の威圧感に中てられたせいで倒れたという事を知っているのは私だけだ。他の人―――西住隊長やエリカさん、他の戦車隊の人たちには、疲労とストレスで倒れたと伝えてある。
内容はどうであれ、私と春貴さんだけが知っている秘密、と思うと少しだけだが嬉しくなる。優越感が生まれてしまう。
嬉しくて心躍り、スキップしそうになるのを堪えながら、私は春貴さん達と学校へと続く道を歩いて行った。
今日の戦車道の訓練は外周遊歩道の走り込みで、本来ならば織部もそれに参加するはずだったし、織部自身もそうだと思っていたが、今日は違った。
「知っての通り、我が校はドイツとの縁があって、使用している戦車もすべてドイツのものだ。主力戦車はティーガーⅠとⅡ、戦車隊を構成している戦車の4~5割はパンター。他にはヤークトティーガーやヤークトパンターなどの駆逐戦車も―――」
織部は今、研修室でまほの講義を受けていた。
受けているのは織部だけではなく、織部と同じようにタンクジャケットではない、黒森峰の制服を着ている同年代の女子が何十人以上といる。
今日は、今年度から黒森峰に入学した生徒が戦車隊に仮入隊する日だ。正式に入隊するまでには1週間の猶予があるので、まだ“仮”だ。故にタンクジャケットも支給されない。
入隊するかどうかは新入隊員自身が決める事だが、入隊するかどうかに関係なく全員に隊長自らが戦車隊と戦車道の事について講義をするのが、黒森峰の―――戦車隊の常だった。
この講義はまほから『受けろ』と言われたわけではなく、『受けるか?』と問われて織部が頷いた結果織部も受講することとなったのだ。ただ、新入生は男子が留学している事など知るはずもないので、今なおまほの講義を受けている新入隊員たちのうち数名がこちらの様子をうかがっていた。
織部もその視線には気づいているが、無視を決め込み講義に集中する。
戦車道の事については一通り勉強してきたし、黒森峰の戦車道については戦車道博物館で調べたが、何度も聞いておいて損はない。
皆のおかげで黒森峰にいられる以上、それに応えるためにも戦車道には何よりも真剣に打ち込むべきだと思ったからである。
将来自分の望む場所で働くためにも、常に研鑽をしていかなくてはならない。
途中10分程度の休憩を幾度か挟み、講義はおよそ3時間で終了した。
次に行うのは適性試験。戦車に乗った際自分がどのポジションに相応しいのかを決めるものだ。
戦車に乗らない織部がこの試験を受けても意味はないので、今度は手伝いに入る。今回この試験進行を手伝う根津と直下が試験用紙を一枚ずつ配っていくので、織部も同じように配っていく。織部たちが試験用紙を配っている間に、まほは試験の内容を説明する。
全員に配り終えたところで、適性試験が始まった。
その間、織部たちは試験を受けている生徒たちに不審な動きがないかを見張る。これは中間試験などの成績に反映されるものではないが、戦車での自分のポジションを決めるための、戦車道においては学校の成績以上に重要なものだ。他人に合わせて試験に答えてしまうと、試験結果に支障が出かねない。それは当然まほも試験前に説明したのだが、念には念と言う事でこうして見張っている。
試験は大体30分ほどで終わり、織部たちは試験用紙を回収する。そこで、新入隊員たちは解散となった。
試験を手伝った織部と根津、直下は試験用紙を回収して、別室にある判定用の機械に通す。
この判定する機械は、戦車道の授業がカリキュラムに組み込まれているほぼ全ての学校に支給されている。戦車道の授業があるにもかかわらずこの機械がない学校―――例えばつい最近になって戦車道を始めた学校などは、それぞれ自由にポジションを決める形をとる。
根津と直下の案内で織部が試験用紙を、判定用機械のある部屋へと運ぶ。
その機械がある部屋に運び終えると、機械に通すのはやり方を事前にまほから教わった根津と直下だ。機械に試験用紙を通すと、マークシート方式の回答を機械がスキャンして最適なポジションを書き加えていく。1枚目の試験用紙にはスキャン後、ポジションの場所に“通信手”と新たに書き加えられていた。
「・・・・・・さて、今年は何人残るかな」
膨大な量の試験用紙を前にして、根津がポツリと呟く。
残るか、というのは恐らく、1週間を終えて正式に戦車隊に入隊するのは何人か、という意味だろう。
「・・・・・・去年は、半分ぐらい辞めちゃったからね・・・」
直下が残念そうにつぶやく。
確か、黒森峰戦車隊は練習の厳しさの余り辞める人が多いという話だ。しかし、黒森峰は強豪校として全国に名が知れている。簡単な道程では戦車に等乗れないだろうというのは、戦車に乗らない織部でも分かる。
「私らだって、皆には続けてほしいと思ってるよ?でも、如何せん、隊長が厳しすぎるからなぁ」
「まあ、西住流の後継者だし、仕方ないよね」
根津も直下も、もう仕方がない、というように苦笑した。
確かに、皆戦車道を歩みたくて、黒森峰の戦車道に憧れてここに入学して、戦車隊に入ったのだから、続けてほしいという思いはあるのだろう。でも現実はそこまで甘くもなく、やはり強豪校ゆえにと言うか、訓練は厳しいもので容赦なく新入隊員をふるいにかける。
その訓練の上で残る人は、やはり心の底から戦車道を愛し、また黒森峰の戦車隊に入りたいと願う人だということだろう。
という事は、今織部の目の前にいる根津も直下も、そう言う思いがあって今なお戦車隊で活躍しているという事か。
そう思うと、何だがこの2人がとてもすごい人物だと思えてきた。
「・・・・・・2人とも、結構すごい人だったんだね」
「?」
「どうしたの、急に?」
「いや、ちょっとね」
「なんだそれ」
根津が苦笑し、直下もあははと笑う。そして、次の用紙をスキャンさせた。
数十分ほどで、全ての書類をスキャンし終える。後は全ての用紙をポジション(車長、砲手、装填手、通信手、操縦手)ごとに分ければ、この作業も終わりだ。
この仕分けは織部にもできる事なので、積極的に手伝う。そのせいなのかそうではないのか、仕分けもまた数十分ほどで終わった。
ポジションごとに書類を箱に分けて、後はこの書類をまほのいる部屋に持って行けば、それで今日の作業はおしまいだ。
と、その時部屋のドアがノックされた。
織部が先んじて立ち上がり、ドアを開けるとそこにいたのは小梅だった。
「あれ、小梅さん。どうしたの?」
マラソンの後のせいで少し額に汗を浮かべているが、着ているのは黒森峰の制服。ジョギングを終えたという事か。
「春貴さん達のお手伝いがしたくて・・・」
小梅の言葉は本心であるが、他の考えもある。
今日の訓練はジョギングだったのだが、小梅は斑田、三河と一緒に走っていた。
けれど本音を言わせてもらえば、織部と一緒に走りたかった。この前の夜―――小梅が転んでしまったあの日はあまり走れなかったので、その挽回がしたかったし、何よりも少しでも織部と一緒に時間を過ごしていたかった。
小梅はもう、自分は織部の事が好きだという事に気付いているし、認めている。だから、好きな人と少しでも一緒にいたくて、先ほどのジョギングの時間も一緒にいたかった。
けれどもそれは叶わず、今日小梅は織部と走れなかった。だからせめてと思い、こうして手伝いに来たのだった。
独りよがりとも、自分勝手とも思うかもしれないが、それでも、織部と一緒にいたいという気持ちは抑えられなかった。
「ありがとう。でも、作業はもう終わっちゃって、後は書類を西住隊長の所に運ぶだけだから・・・・・・」
「あ、そうでしたか・・・・・・」
少しシュンとしてしまう小梅。
それを見た直下が。
「あー、ごめんね織部君。私たちちょっと用事を思い出しちゃって、悪いんだけど織部君が西住隊長の所に持って行ってくれないかな?」
「え?」
「え?」
直下の言葉を聞き返したのは、織部だけではなく根津もだ。だが根津は、直下に何か耳打ちされると、『ああ』と納得した。
「そうだな、織部が運んできてくれ。赤星は織部を隊長のいる部屋まで案内して」
「え、ええっ?」
いろいろ言いたいことはあったのだが、織部は仕方なく小梅と一緒に試験用紙の箱を持ってまほのいる部屋へと向かった。
窓の外はもうすでに暗くなってしまっている。早く帰りたいものだ。
「小梅さん、大丈夫?ジョギングしたばかりなのに・・・」
「私は大丈夫です・・・それより、春貴さんこそ大丈夫ですか?」
「いや、これぐらいどうって事無いよ」
今、織部は試験用紙が入った箱を3つ、小梅は2つ運んでいる。
はじめは織部が全ての用紙の入った箱を持って行こうとしたのだが、小梅が『私も持ちます』と言ってきた。しかし、走り終えて間もなく疲れているはずの小梅に負担を強いるわけにはいかなかったので、全部持つと織部が言った。が、そこまでではないが大きい箱を5つ持って腕が震えている織部を見て、小梅が何も言わずに箱を2つ持ち、今の状況に至る。
後で、ちゃんとお礼を言っておかないとな、と織部は心の中で思っていると、『あ、ここですよ』と言われて立ち止まる。
『隊長室』という、戦車道の隊長専用の部屋があるとは、戦車道強豪校は徹底していると織部は思った。だが、ここは織部も来た事がないので少し緊張する。
ノックをして、中からまほの『どうぞ』という声が聞こえると、ドアを開く。
中は、1度入った事のある黒森峰の校長室と同じぐらいの広さがあり、応接用のソファと執務机が用意されてある。高校生の身分でこれだけの設備が揃う部屋を持てるとは、流石と言うかなんと言うか。
「失礼します。適性試験の結果を持ってきました」
要件を告げると、まほの代わりにエリカが言葉を発した。
「ご苦労様、そこの机の脇に置いといて」
「はい」
織部と小梅が、持ってきた箱を応接机の脇に置く。そこで、何かの書類に目を通していたまほが顔を上げて織部に声を掛けてきた。
「根津と直下はどうした?2人にも手伝いを言っておいたはずなんだが」
「2人でしたら、用事があると言って先ほど急ぎ帰ってしまいました」
「そうか・・・・・・」
まほは少し考えこむような仕草をとる。一言隊長であるまほに言っておくべきだったんじゃないだろうか、と織部は少し思った。
やがて、まほが顔を上げて織部に言った。
「織部、すまないが書庫に行って、未使用のファイルを5冊ほど持ってきてくれるか」
「あ、はい。いいですよ」
「書庫とファイルの場所は、赤星から聞いてくれ」
「分かりました」
織部は部屋を出て、小梅の案内で書庫へと向かう。おそらくは、あの適性試験用紙をファイリングするためだろう。
書庫は、隊長室から少し離れた場所にあり、中には棚がいくつもあって窮屈なイメージがある。ドアを開けた途端に、紙と埃の匂いが鼻を突く。長時間いると息が詰まりかねないと織部は思い、早く空のファイルを見つけることにした。
そう思い、それがこの中のどこにあるのかを小梅に聞く。
「小梅さん、ファイルはどこに・・・」
「えっと・・・確か、あの棚の上かな・・・」
小梅が指差したのは、真正面にある棚の上。『業務用ファイル』と書かれた段ボールがあった。
おそらくあれだろうが、織部が背伸びしても届かないような高さにある。何か踏み台のようなものはないかと辺りを見れば、二段の脚立があった。けれど、少しガタが来ていて不安しかない。
けれどこれを使わなければあのファイルの箱は取れない。織部より背が低い小梅が脚立無しで箱を取る事など不可能だし、こんな見るからに危ない脚立に小梅を乗せて怪我でもさせるなんて論外だ。
迷わず織部はその脚立を持って来て、その上に乗る。
「き、気を付けてくださいね」
小梅も脚立が少し危なっかしいというのが分かっているのか、不安そうに織部に声を掛けてくる。だが織部は、危ないとは分かっていても脚立に乗り、段ボールを手に取る。
せめてこの時だけは耐えてくれと、脚立に祈っていた。
だが、織部の祈りもむなしく、脚立から『メキッ』という不穏な音が聞こえた瞬間、織部はバランスを崩した。
「あっ・・・・・・」
両手で段ボールを持っているためどこかを掴んで体勢を整えることもできない。重力に従い床に落ちるしかない。
「危ない!」
その瞬間、小梅が駆け出して、織部を支えようとする。
だが、それでは小梅も巻き添えになってしまう。織部はファイルの事は諦め咄嗟に手を離し、小梅を守るような形で手を伸ばそうとする。
そして倒れこむ織部と小梅。
「・・・・・・だ、大丈夫?」
「え、ええ・・・。何とか・・・」
小梅が床に仰向けになって倒れながら頷く。織部はその上で、小梅の顔の近くの床に手をつけて、小梅の上に覆いかぶさるような形で四つん這いになっている。
「「・・・・・・・・・・・・・・・」」
これは、傍目から見れば誰がどう見ても織部が小梅を押し倒しているようにしか見えない。
当然、当事者である織部も小梅もそれは分かっていた。普通ならばすぐにでも織部はどかなければならないし、小梅だって拒絶する反応を見せるものだ。
普通なら。
「「・・・・・・・・・・・・・・・」」
だが、織部は押し倒されている状態の小梅の顔から目が離せなかった。
少し癖のある赤みがかった茶髪も、少し垂れた感じの目も、灰色の瞳も、薄桃色の唇も、全てが織部の視線をくぎ付けにさせる。
今のように人を押し倒しているような状況はもちろん、他人の顔から目が離せなくなってしまう事など、織部は今までで一度も無かった。
今の織部には、小梅がとても魅力的な存在に見えてしまう。
ずっと目に焼き付けておきたいと思えてしまうくらい、小梅は綺麗だった。
対する小梅は、なぜか押し倒されているこの状況が、どうしてなのか、まったく不快と感じていない。それどころか、ずっとこのままでいたいとさえ思えてしまう。
しばしの間、織部は小梅にくぎ付けになってしまい、小梅は今の状況のまま嫌がるそぶりを見せる事もなかった。
だが、先に冷静になったのは織部の方だ。
「ご、ごめん!わざとじゃないんだ!本当にわざとじゃない!本当にごめん!」
慌てて小梅の上からどいて、散らばったファイルと空の段ボールを集める織部。小梅はやっと思い出したように体を起こす。
「だ、大丈夫です・・・。ところで春貴さん、怪我はありませんか?」
「あ、ああ。大丈夫、大丈夫だよ」
織部は極力小梅と目を合わせないようにファイルを集める。段ボールに入っていたファイルもちょうど5つだったので、段ボールは後で破棄してしまえばいい。後は、壊れた脚立の事も報告しないと。
なんて事を考えながら織部はファイルを持って隊長室へと戻る。先ほどの小梅とのお見合い状態になった事を思い出さないようにするためだ。
再び隊長室に戻り、ファイルを渡し、書庫の脚立が壊れたことを報告したところで、織部と小梅は帰っても良いと告げられた。
2人は教室に戻り、自分の荷物を回収しようとする。
陽もとうに落ちてしまい、外は真っ暗で、誰もいない教室。声も通りやすいこの状況で織部は、小梅に話しかけた。
「・・・・・・小梅さん」
「・・・はい?」
だが、目線は合わせられない。目線を、顔を合わせたら、先ほどの書庫での出来事を思い出してしまいそうになるからだ。だから、織部が見据えているのは小梅の後姿だ。
「さっきは、本当にごめん。あんなことしちゃって・・・」
書庫でのことを謝る織部。だが、小梅は首を横に振る。
「・・・大丈夫ですよ。私は気にしてませんし、それに春貴さんに怪我がなくて何よりです」
普通なら、あんなことをされれば誰だって拒絶するだろうに、小梅は全くそのようなそぶりを見せない。いや、もしかしたら心の中では織部の事を軽蔑しているのかもしれないので、とりあえず今度何か埋め合わせをしようと思った。
「でも、僕も何かお詫びをしないと・・・・・・」
「そんな・・・私は気にしてませんから・・・・・・」
「いや、でも・・・・・・」
そこで、小梅が振り返って織部の方を向く。
だが小梅の顔を見た途端、織部の脳裏に先ほど小梅を押し倒す形になってしまった事をふと思い出してしまう。
そして、あの時間近に見た小梅の顔を、思い出す。
「・・・・・・っ」
たまらず、顔を逸らしてしまう織部。
そして小梅もまた、織部の顔を見てしまい、自らが押し倒される体勢となってしまったさっきの事を思い出す。
あそこまで織部の顔を間近に見てしまった事など、いや男の人の顔にあそこまで接近した事など今まで無かった。あの夜のジョギングの時は背中越しだったからノーカンだ。
ともかく、小梅もまた間近に見た織部の顔を、また思い出してしまい顔を赤らめてしまう。
「・・・・・・と、とにかく・・・今度何か、お詫びをしないと、僕としては申し訳ないというか・・・・・・」
織部が小梅と視線を合わせず、申し訳なさを感じさせるような話し方で言うと、小梅もまた織部とは目を合わせようとはせず、小さく呟いた。
「・・・そう、ですね・・・。では、いつか・・・・・・」
そう言って小梅は、鞄を持って教室を出ていってしまった。
織部は、何も声を掛けることができず、その背中を見送る事しかできなかった。
そして、机に手をついて先ほどの事を思い出してしまう。
あの、小梅の顔を間近に見てしまった事を。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
男として最低な事をしてしまい、罪悪感が湧き上がってくるが、それ以上の感情が罪悪感を上書きするかのように現れる。
それは、あの時間近に見た小梅の事がとても可愛らしく、愛おしかったという感情だ。
途端に顔が熱くなってしまい、思わず顔を押さえる。
そして前に小梅と至近距離で接した時、夜のジョギングで足を挫いた小梅を背負って小梅の寮まで戻った時の事も連鎖的に思い出す。
あの、小梅の体温を、吐息を肌で感じて。
『心の強い・・・・・・優しい人なんですね』
あの時言われた、今も忘れてはいない言葉を思い出す。
余計に顔が熱くなり、しゃがみ込む。
なんだ、これは。
どうしてこんなことになってしまうのか、どうしてこんな気持ちになってしまいうのか。
それは、なんとなく気付いていた。
あの、小梅を部屋に送り届けた後で、織部自身はその感情に気付きかけたが、自分からその感情に目を逸らした。
だが、今はその感情からは目が逸らせない。
どうやら、自分は。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・恋、したのか」
小梅に、恋をしたらしい。
陽も落ち、電柱に取り付けられた街灯が道を照らす中で、根津と直下は並んで寮への道を歩いていた。
「赤星さん、上手くやったかな」
「・・・・・・さあ、それは赤星次第だな」
あの時、小梅が手伝うと言ってきた時、真っ先に小梅の意図に気付いたのは直下だ。
直下は当初、小梅が手伝いに来たのは純粋な善意によるものだと思っていた。小梅は1年生の頃から共に戦車道を始めた仲で、あの全国大会決勝戦以降は少し疎遠になってしまっていたが、小梅が優しい性格をしているというのは元より知っていた。だから、あの時手伝いに来たのも、最初は小梅が進んで手伝いに来たものだと思っていた。
だが、織部が『作業は終わった』と聞いて小梅が落ち込んでしまったのを見て、直下は思った。
もしや、小梅は作業を手伝いに来たのかもしれないが、別の理由もあったのではないかと。
そしてその理由とは恐らく、織部にある。
ショッピングモールで織部と小梅が何やら甘い雰囲気を醸し出していたので、もしかしたらと思い、先ほどのように2人を引き合わせることにしたのだ。
「まだ2人とも好きだって決まったわけじゃないのに、直下もせっかちだな」
「いやぁ、なんかあのまま赤星さんを無下に追い返すのも気が引けたし」
先ほどのような事を言ったからと言って、直下は小梅が織部の事を好いていると決めつけたわけではない。それを見極められるほど直下の目はよくはない。根津も同様だ。
これからどうなるのかが楽しみだな、と直下と根津が思ったところで、後ろから誰かが走ってきた。
振り向くが、薄暗いせいで顔が見えない。しかし、その走ってくる何者かとの距離が近づくにつれて、その人物の顔が見えてきた。
「あれ、赤星さん?」
「どうした、そんなに急いで」
直下が挨拶をしようとしたが、小梅は2人に目もくれず、返事もせずそのまま通り過ぎていってしまった。
だが直下と根津は、通り過ぎていった小梅の顔がどんなものだったのかを、見ていた。
その顔は、とても赤かった。
「・・・・・・脈あり、かな」
「どうだろうな」
直下の、実に面白そうにつぶやいた言葉に根津は肩をすくめる。
途中で直下、根津に会ったような気がするが、そんな事はどうでもいいと言わんばかりに小梅は駆け足で寮の自分の部屋に戻る。
ドアを閉めて鍵をかけて、靴を脱いでベッドに倒れこむ。
頭の中を占めているのは当然、書庫でのハプニングだ。
あの時小梅は、織部に押し倒される形で倒れた際、織部を突き飛ばそうとも、どくように言ったりもせず、ただただあの体勢のままでいた。
傍から見ればシャレにならないような、事案とも取れるような体勢だったにもかかわらず、当の小梅はまったく不快感など抱かなかった。
本当に何故だか、織部が近くにいるというだけで心が安らいでしまったのだ。あんな体勢であっても、小梅は織部に安らぎを覚えてしまっていた。
枕に顔を押し付けたまま、声にならない声を上げる。
少しして、枕から顔を離す。
鏡が無くても、自分の顔は赤らんでいて、瞳は揺らいでいるというのが分かる。
やがて、小さく息を吐いてから、呟いた。
「・・・・・・こんなにも、好きになるなんて・・・」
スターチス
科・属名:イソマツ科イソマツ属
学名:Limonium sinuatum
和名:花浜匙
別名:リモニウム、チース
原産地:ヨーロッパ、地中海沿岸
花言葉:愛の喜び、誠実(黄)