織部と小梅がデートをした土曜の翌週から、戦車道の訓練は再開された。
最初の月曜日は、スケジュールの都合と、休みで鈍ってしまったであろう隊員たちの体を復活させるような形でランニングだった。5日ほどの休みを経て、隊員たちの全国大会での試合とパワーアップ練習での疲れも完全に抜けたようで、ランニングでは誰もが普段通りの走りを見せていた。
かくいう織部も、体力の無さは相変わらずだが、それでもここに来た当初よりは少し早いペースで走ることができている。小梅とは付き合い始めてから何度も共に夜ジョギングをしているし、少しは成長してきたという事だろうか。
そしてジョギングの翌日からは、全国大会期間中の濃度の濃い練習ではなく、その前のような基礎中の基礎ではあるが重要な基盤となる訓練が行われる。砲撃訓練や、迅速な行動ができるように制限時間内に陣形を構築することができるようにする訓練、さらには模擬戦などだ。
ところが、その練習で、何度か“不測の事態”が起きた。
陣形を構築する訓練の際、最初のまほの指示は楔形隊形の構築だった。隊員たちはその指示に従って、決められた手順に従い戦車を動かして陣形を構成しようとする。
しかし、あと少しで楔形隊形が完成するというところでまほから通信が入った。
『隊左前方より敵戦車乱入。楔形隊形から1列縦隊に隊形を変え、敵戦車を撃滅せよ』
唐突な隊形変更と敵戦車乱入と言う事態に、隊員たちも困惑する。そして車長が周りを見れば、カラーリングが黒森峰本来のどの車輌とも違うⅢ号戦車が1輌だけ隊列を大きく外れている。あれが、敵戦車―――つまりは仮想敵だろう。
その戦車は発砲してくることはなく、ただ黒森峰戦車隊の中をウロチョロ走るだけだ。
だが、こうして訓練中に敵戦車が妨害してくる事など隊員たちは知らされていなかった。おそらくこれは、隊長であるまほの抜き打ちだろう。
そしてこのウロチョロ走るⅢ号戦車の動きは、隊の中ほどのパンターに乗る斑田には見覚えがあった。全国大会決勝での高地包囲戦で黒森峰の隊列にさらっと混じり、そして隊列を乱したあのヘッツァーだ。
忌々しいヘッツァーの事を思い出して頭に血が上りそうになるが、まずはまほの言われた通り1列縦隊を構築しようとする。これで敵戦車を列から外して集中攻撃するつもりだろう。楔形隊形ではフレンドリーファイヤーの可能性もある。
まほの指示通り、1列縦隊になってから敵戦車に攻撃を開始する。だが、動きの良いⅢ号戦車はすぐに演習場の森の中へと消え去ってしまった。
訓練の後で、まほは不測の事態に対応するための訓練だとネタを明かし、このようなことは事前に言わないでおいた方が実際にそのような局面に当たった際に冷静に対処できるという事で何も言わないでおいたのだ。確かに、たまに行われる防災訓練も、事前に『ある』と言ってしまって生徒たちの緊張感も全くと言っていいほどない。
だから、あえて先に言わなかったのだ。隊員たちもそれで納得し、大きく息を吐く。
ちなみに、あのカラーリングの違うⅢ号戦車に乗っていたのは三河だった。足回りも悪くなく、そこそこの火力と装甲を持っていて、黒森峰以外の学校が所有する主力戦車全体の平均的な性能だから、選ばれたらしい。
そしてまほは、今後ともこのような訓練は何度かやっていくと告げ、隊員たちに緊張が走る。
不測の事態に冷静に対処し、柔軟に戦い方を変えることが目的とまほは言っていたが、この試みは隊員たちを緊張させるには十分なものだ。何しろ、こんなドッキリにも似た訓練は前代未聞だし、それがいつ起きるのかも周知されず分からないからだ。故に、これからの訓練は今まで以上に緊張感をもって取り組むこととなるだろう。
7月1日。今日はまほの誕生日だが、それでも訓練は通常通りに行われる。訓練を休みにして隊長の誕生日を祝おうとまで、黒森峰戦車隊も緩くはないし打ち解けてもいない。
今日の訓練は10輌対10輌の模擬戦だったのだが、そこでも“不測の事態”が起きた。
まほの乗る隊長車であるティーガーⅠの動力系と無線機に異常が発生するという事態が起きた。ティーガーⅠは動きを止めてしまい、さらに隊長からの指示も聞けなくなったことで、まほのチームの戦車たちはそれぞれ自身の判断で戦うこととなってしまう。
まほのチームのメンバーたちは最初はどうするか迷ったが、副隊長のエリカ率いる敵チームの攻撃は続く。やがて隊を二分して、フラッグ車を守る隊と敵を攻撃する隊に分けて戦闘を再開するが、やはり半数だけでは敵チームとは戦えず、敗北を喫してしまった。
その日のミーティングで、まほの車輌に異常が起きたというのは嘘で、不測の事態にどう対応するのかをまほが見極めるものだったと明かされる。これもまた、臨機応変な対応力を養うためのものだった。
試合の結果はまほのチームが負けてしまったが、チームが指示なしで隊を二分するという結論に至ったのは良かったと評価し、後はそれで勝てるようになればなおよしと、まほは言っていた。
「・・・・・・西住隊長、随分思い切った行動に出ましたね・・・」
ミーティングも終わって、自分たちの教室に戻った織部と小梅。小梅は、織部の隣の席に座って、織部が報告書を書き終えるのを待っている。
「・・・どういう心境の変化だろう」
織部がレポート用紙から目をそらさずに呟くと、小梅は『んー・・・』と少し考えこむように可愛らしく唸って、やがて答えを見つけ出した。
「全国大会で、みほさん達大洗の打ち出した奇策に何度も嵌められて、それでじゃないでしょうか?」
確かに、決勝戦後のミーティングでも、今後はマニュアルに囚われない、柔軟性に富んだ訓練を取り入れていくと言っていた。それが、ここ数日の訓練での作為的なアクシデントだろう。
「・・・・・・そう言う事かぁ。でも、西住隊長のチームの人は、生きた心地がしなかったんじゃないかなぁ」
織部が苦笑しながら言うと、小梅もあははと困ったように笑う。
模擬戦でまほのチームにいた隊員たちは、まほの車輌が撃破された際に土下座するような勢いで謝っていた。それだけまほを守れなかったことがショックだったし、不測の事態に対応できなかった自らの事を不甲斐なく思っていたのだろう。
実際にはまほもそのような結果になる事は理解していたようで、あまり悔しがってはいなかったし、謝ってきた隊員たちを責める事もしなかった。
確かにいきなりこのような事態になって、冷静に対処できる人間は黒森峰にはそういない。まほもそれは十分理解していたから、咎めはしなかったのだろう。
それにしたって、随分と大胆な事をするなと織部は素直に思う。
「よし、書けた」
「じゃあ、行きましょうか」
織部がペンを置き、書き上がった報告書を見直して特に問題ないのを確認すると、レポート用紙と、机の中に入れていたラッピングされた小包を取り出す。小梅も織部の準備ができたのを確認すると小さな紙袋を持って、織部と共にまほのいる隊長室へと向かう。
小梅が織部の事を待っていたのは、一緒に帰りたかったからと言う理由もあるが、別の理由もある。
それは、今からまほに誕生日プレゼントを渡すためだ。
1人で渡しても別に構わないのだが、2人ともそれぞれまほには世話になっているという共通点がある。だから一度に渡してしまった方が手間がかからないし、まほの時間も取らせないで済む。
そう言うわけで2人は隊長室へと向かい、無事に到着するとノックをする。中からまほの『入れ』と言う声が聞こえると、織部はドアを開いて入室する。
まほは、織部が小梅と一緒に入室するのを見ると、少し怪訝な表情をした。その傍らに立つエリカは、織部と小梅がそれぞれ小包と紙袋を持っているのを見て、フッと小さく笑う。どうやらエリカは、自分が織部と小梅にまほへのプレゼントを用意するように促したから、何を持っているのか分かったらしい。
「本日の報告書です」
「ご苦労。確認する」
まほが報告書を受け取り、読み進めていく。そして報告書から目をそらさずに、まほが織部に話しかけてきた。
「急な事だったが、良く書けている」
「・・・ありがとうございます」
急な事とは、あの偽の動力系異常だろう。織部も、審判として高台で試合を観ていた時、突然まほのティーガーⅠが動かなくなって何事かと慌てたものだ。
最終的には演技だったと打ち明けたが、それでも驚いたものだし、試合の最中であれだけ驚いたのは忘れはしないだろう。
「・・・うん、問題ない。ありがとう」
「いえいえ」
まほが頷き、報告書を机に仕舞う。
さて、ここからが本題だ。織部が小梅にちらっと目配せをすると、小梅は織部の傍に寄ってきて、まほの前に立った。
「ん?どうした?」
まほが小首をかしげると、小梅は紙袋から、ラッピングされた箱を取り出し、それぞれ手に持つ小さな箱をまほに差し出す。
「西住隊長、お誕生日おめでとうございます」
小梅が代表して言うと、まほは嬉しそうに、ではなく少し困惑したような顔をしていた。
「・・・誕生日、知っていたのか?」
「エリカさんから聞きました」
まほがエリカの方を見ると、エリカは瞳を閉じて微笑み、小さく頷く。
「・・・西住隊長は、私をまた戦車に乗せてくれましたので、そのお礼も含めて・・・」
小梅が言い終えると、次は織部の番だ。
「僕は、西住隊長や戦車隊の皆さんにもお世話になっていますから・・・感謝の気持ちも籠めて」
まほは、少し呆けたような顔をするが、やがて小さく笑う。
「・・・2人とも、ありがとう」
まほは、小梅と織部のプレゼントを1つずつ受け取る。
その横でエリカは、この前まほと話したことを思い出す。
昼食をプライベートで共にした時、黒森峰戦車隊でも横のつながりを作っていきたいと、まほは言っていた。
最近ではエリカも、まほと一緒に下校したり食事をしたりすることは増えてきたが、今こうして小梅と織部がプレゼントを手渡した事で、また一つ横のつながりが増える事になるだろう。
この2人はそれを恐らくは知らないだろうが、図らずともまほの考えに加担する形となった。
そしてまほも、新しい繋がりを得た事で1つ成長できるだろう。
「開けてみてもいいか?」
「はい」
「もちろん、良いですよ」
まずまほは、小梅のプレゼントの包装を解く。青いケースに入っていたのは、金の意匠が施された深緑の万年筆だ。
「・・・ありがとう、大切にする」
まほが万年筆を見て笑うと、小梅もまたにこりと笑った。
そしてまほは、その万年筆のケースを閉じて机に置き、次は織部のプレゼントを開ける。
ところが、包装を解いた後に出てきた長方形の桐の木箱を見て、まほも少し驚いたようだ。まさか、こんな高級そうなものが入っているとは思わなかったのだろう。
そして木箱を開けてまほは。
「・・・これは」
まほだけではない。その傍らに立つエリカも、僅かに目を見開いている。
その木箱の中身は、織部はもちろん知っているし、あの時あの場所に一緒にいた小梅だって知っている。
だが、そのプレゼント―――金色に塗られた懐中時計はまほを驚かせるには十分なものだ。
「・・・・・・」
まほは、しばしの間その手の中にある懐中時計を見つめる。蓋を開けば、時計の針が正確に時を刻んでいる。
エリカは、ちらっと織部の方を見て少し皮肉っぽい笑みを浮かべていた。その表情は織部には、『やるじゃない』と言っているようにも見える。
「・・・・・・これ、いくらしたんだ?」
おそらくこの懐中時計、まほの予想を超えるような品だったのだろう。思わず聞いてきたまほには気付かれないように、織部は心の中で達成感を抱く。
「1万もしませんでしたよ。ですが店の人曰く、とてもいい品だそうです」
ちなみにこの懐中時計が仕舞われていた木箱だが、店主のおじいさんがサービスしてくれたものだ。
『自分用かい?』とおじいさんに問われた織部は『お世話になっている人への贈り物です』と答えると、店に余っていた木箱に収めてくれたのだ。しかも無料で。『それなら、少しでも見た目はよくせんといかんよ』と言って渡してくれたおじいさんには感謝感激だ。
「・・・そうか」
まほは、手の中で静かに時を刻む懐中時計を、優しい笑みを浮かべて眺める。
そして実際にその懐中時計を首から提げて、その懐中時計を愛おしそうに見つめる。
だが、織部に向けられていたエリカの皮肉っぽい笑みが、『ムキー』という表現が似合うような顔に変わっていることに、織部も小梅も気づいていない。
「2人とも、ありがとう」
まほが笑い、織部と小梅も、笑ってお辞儀をする。その言葉を聞けただけで、プレゼントを贈った価値は十分にある。
最後に挨拶をして、帰ろうとしたところでまほが『そうだ』と思い出したように声を上げた。
「赤星・・・少し話したい事がある」
「はい?」
小梅が顔を上げる。そしてまほは、織部にも顔を向けた。
「織部にも、聞いてほしい」
「?」
織部も呼ばれた事には少し驚く。
織部と小梅がまほに顔を向けたところで、まほはエリカにちらっと目をやる。するとエリカもまほの視線に気づき、小さく頷いた。どうやら、まほがこれから話す内容はエリカにも聞いてほしい事なのか、あるいはエリカは既に聞いた話なのだろう。
「実はな・・・・・・・・・」
まほから1つの“話”を聞いた織部と小梅は、陽も沈んですっかり暗くなってしまった通学路を並んで歩き、帰路に就いていた。
「西住隊長、喜んでいましたね」
「いやぁ、いらないとか言われたらどうしようかと思ったよ」
織部が苦笑いを浮かべて、天を仰ぐ。
まほからされた”話”はともかく、まほに喜んでもらおうと思ってあの懐中時計を買い求めたのは事実だが、突っ返される事態にはならなくて心底ほっとした。
それにまほが首から提げて喜んでいたのは事実だから、織部も『贈ってよかった』と今は思っている。決して安い出費ではなかったが、相応の対価は得られたと、織部自身では思っていた。
「あ、そう言えば気になったんですけど」
「ん?」
小梅が、少し未前かがみになって織部の顔を覗き込むようにして問いかける。
「春貴さんの誕生日って、いつなんですか?」
小梅は、自分の誕生日を祝ってもらい、さらにまほの誕生日も今日でプレゼントを渡したことから、織部の誕生日を知りたくなったのだろう。
だが織部は、その質問をされると少しだけ表情を曇らせてしまった。今は夜でも、近くにいる小梅にはそれが分かった。
「・・・・・・9月、30日」
「あ、まだ先なんですね・・・」
答える織部は、少し悲しそうだった。けれどまだ過ぎてはいない。今度は小梅が織部の事を祝う番だ。
だが、次に織部が言った言葉は、小梅も動揺するものだった。
「・・・・・・僕の黒森峰での留学が終わる日だ」
「・・・・・・・・・・・・・・・あ」
そう、小梅は失念しかけていたが、織部は元々黒森峰の人間ではない。あくまで一時的に黒森峰の生徒として登録されていて、正式には黒森峰とは違う別の学校の人間だ。
それはエリカも言っていたことだし、織部が新学期に黒森峰で挨拶をした際に言っていたことだから、言ってないから小梅も知らないというわけではない。小梅だって、それは分かっていたはずだ。
そしてそれは、織部と小梅も離れ離れになってしまう事とイコールで結ばれる。
「・・・・・・・・・・・・」
その事実に気付き―――いや思い出し、小梅もまた落ち込んでしまう。それを見た織部は、自分の発言で小梅を落ち込ませてしまった事に罪悪感を感じて、取り繕うように笑って小梅の気分を持ち直させようとした。
「・・・でも、まだ3カ月ぐらいある。だから、それまでは―――」
だが、織部が何かを言う前に小梅が織部の右手の指をきゅっと握る。強く手をつなぐわけでもなく、抱き付きもしない、今まで起こした事の無い行動を受けて、織部も何も言えなくなる。
そして小梅の瞳は、寂しそうに、悲しそうに、海のように揺れていた。そして、縋るように織部の事を見つめる。
「・・・・・・3カ月“しか”ないです・・・」
物の捉え方にもよるが、どうやら小梅には織部といられる残りの期間があと3カ月“しか”ないと思ってしまっているらしい。
しかし織部が留学を終える日以降、もう織部と小梅は会うことはできない、今生の別れとなる、と言うわけではない。携帯という連絡を取る手段があるし、海の上の学園艦で暮らしているから簡単に会えないとはいえ、会おうと思えば会いに来る事もできる。それに、将来は結ばれることを約束したのだから、2度と声が聞けなくなるわけでも、会えなくなるわけでもない。
だがそれでも、自分の傍からいなくなってしまうというのはとても辛く悲しいだろう。ましてや小梅にとって織部は、失意の底にいた自分に手を差し伸べて、救ってくれたかけがえのない存在だ。そして初めて自分の事を“大好きだ”と言ってくれた、最初にして最後の小梅が愛する、恋人だ。
だからこそ、離れ離れになってしまうのが余計辛いのだ。
「・・・我儘だっていうのは分かってます。でも、やっぱり・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「春貴さんとは・・・離れたくない、です」
恐らくの話だが、織部と小梅が恋人同士でなく、ただの知り合い、良くて友達ぐらいの関係ならば、ここまで小梅は頑なに織部と離れることを嫌がりはしなかっただろう。
だが2人は既に親密な関係にあり、お互いに相手の事を心から好きでいる。自分のこれからの人生を共に歩む人と誓い合っている。
だからこそ、僅かな間でも離れてしまうのが苦しくて、悲しくて、耐えがたいものなのだ。
そしてそう思うのは、小梅だけではない。織部だってそうだ。
「・・・・・・僕も、小梅さんとは離れたくないよ」
右手の指を握る小梅の手を優しく解き、そして両手で小梅の手を優しく包み込む。
「・・・・・・でも、それで僕たちの関係は終わるってわけじゃない」
「・・・・・・」
小梅は何も言わずに、織部の言葉を聞く。
「・・・・・・僕たちは一度離れ離れになっちゃうけど、それでもその先で、ずっと一緒にいられるようになる」
「・・・・・・・・・・・・」
それでもなお瞳を揺らす小梅を、織部は優しくゆっくりと抱き締める。小梅は、嫌がる素振りも見せず、ただ織部の抱擁を甘んじて受け入れる。
「・・・僕が帰るまでの間、できる限り小梅さんと一緒にいる。もっと、たくさんの思い出を作る。だから・・・・・・悲しまないでほしい」
「・・・・・・・・・・・・」
とはいえ、織部が黒森峰から去るまでの間にできる事は、そう多くはない。今織部が言ったように、小梅の傍にいてやれるぐらいの事しかできない。多くの思い出を作るというのも、織部と小梅が離れ離れになっている間の寂しさを埋めるためのものだ。ありていに言えば、慰めだ。
それは、小梅も分かっていた。
「・・・・・・・・・・・・」
織部が黒森峰から去るのは避けられない事だ。小梅1人でどうにかできる事ではない。
だから、小梅は織部が黒森峰を去る日をただ待つ事しかできない。
これ以上、自分のわがままを突き通すのは織部にとっても迷惑だし、何より無駄でしかない。
だから、避けられない織部とのひと時の別れを受け入れる悲しみを押し殺して、小梅は織部の身体に身を寄せた。
その日、小梅は織部を自分の部屋に誘った。
もう小梅の部屋は何度か訪れて見慣れてしまったが、それでもやはり身体の方は慣れない。何しろ、女の子の部屋に上がった事なんて、小梅と知り合う前までは皆無だったからだ。
さて、織部が小梅の部屋に来たのには、『小梅とできる限り一緒にいる』という言葉からのものでもあるし、まだ他の理由もある。
その1つは、ここ最近ではもう慣れてしまった、小梅と一緒にご飯にするから。
そしてもう1つは、今織部の取っている行動にある。
『もしもし?』
「あ、もしもし母さん?春貴だよ」
『あら。どうしたの?珍しい』
スマートフォンの向こうから聞こえてくる、自分をこの日まで育てくれた者の声。織部の母だ。
織部に小梅という彼女ができ、そしてその彼女と結婚することまで見据えていることを伝えて以来の電話だが、母の調子は別に変った様子はない。
ちなみに母の『珍しい』という言葉だが、普段電話をする際は母から織部に電話を掛ける事が多い。だから織部から電話をかけた事が、母からすれば珍しい事だったのだ。
「えっと、夏休みの話なんだけどね?」
『うん』
と、小梅が織部のスマートフォンに耳を寄せてきた。何を話すのかが気になっているのだろうが、小梅との距離が急接近しているので織部の心臓はものすごく高鳴っている。
「そっちへ少しの間帰ろうと思うんだよね」
『それは別にいいけど・・・黒森峰の予定は大丈夫なの?』
「ああ、それは大丈夫。夏休み最後の2~3週間は休みになってるから」
今日の訓練終了後、まほから夏休みの予定について発表された。織部が先ほど言ったように、夏休みの最後の2~3週間は訓練が無い。それまでの日は、月曜から土曜まで戦車道の訓練がある。本当に訓練が無いのは日曜日だけだ。
無論、織部も一時とはいえ戦車隊の一員であるから訓練には参加しなければならない。
「8月の・・・21日から24日まで。その間帰ろうと思うんだけど、いい?」
『ちょっと待ってね・・・・・・ああ、大丈夫よ』
どうやらカレンダーを見ていたらしい。少し電話口から離れたような感じがした。
そして織部は、本題を切り出す前に1つ確認したいことを聞いてみる。
「それでさ・・・・・・その日って、父さんいる・・・?」
『・・・そうね、いるわね。でも何で?』
これで、最初の前提条件である『織部の両親がいる』ことは確定した。あとは、その本題を告げるだけだ。
織部は、小さく深呼吸をして、そしてその本題を告白した。
「・・・・・・その日・・・彼女を、連れていきたいんだ。それで、父さんと母さんに紹介したい」
『・・・・・・・・・・・・』
電話の向こう側の母が、息をのんだように思える。
傍にいる小梅は、果たして織部の母がどのような言葉を発し、どのような反応をするのかが気になって止まないのだろう。瞳が揺れている。
やがて電話越しから、小さく息を吐くような音がした。
『・・・そう、そうなの・・・。分かったわ、お父さんにも伝えておく』
「・・・・・・ごめん」
なぜか謝らずにはいられなかった織部。だが、織部の母は呆れるような笑うような口調で続ける。
『謝る事なんて無いわよ。むしろ嬉しい事。だって、我が子に彼女ができたんだもの』
「・・・・・・そういうものなの?」
『そういうものよ。あ、ところで』
何かを思い付いたかのように呟く母。織部は『?』な顔をしたが、やがて母が嬉々とした語調で聞いてきた。
『彼女さんの写真とかはないの?』
そう聞かれて、織部も『そう言えば』と思う。
生憎、写真の類は持っていないが、今まさに傍にその彼女である小梅がいる。
「あー・・・無いね」
『あら・・・残念』
そこで織部は、この会話を聞いているであろう小梅に目を向ける。小梅も、織部の視線に気づき、そして小さく頷いてきた。
そのサインを織部は理解して、母に話しかける。
「今傍にいるんだけど・・・話す?」
『あら、いいのかしら?』
「ああ」
そして織部は、小梅にスマートフォンを渡す。受け取った小梅は小さく頷き、小さく咳き込みそして話し出した。織部も先ほどの小梅と同じように、スマートフォンに耳を近づけて会話に意識を向ける。
「もしもし」
『あ、はい。もしかしてあなたが?』
「はい。春貴さんとお付き合いをさせていただいている、赤星小梅と申します。電話越しで失礼します」
『あらあら・・・ご丁寧にどうも~。春貴の母です~』
こうして改まって『付き合っている』と言われると、どこかこそばゆいところがある。そして女性はどうしてか、電話をする時は大体声のトーンが少し上がり、声も少し間延びした感じになる。
『そうですか・・・あなたが・・・。本当に春貴と付き合っているんですねぇ』
「はい・・・恐縮ですが・・・」
『いえいえ・・・夏休みはウチに来てくれると息子が・・・』
「ええ。一度直接お会いして、ご挨拶させていただきたいと思いまして」
『ああ、そうでしたか・・・。分かりました、お会いするのを楽しみに待ってますので~』
「はい、どうかその時は、よろしくお願いします」
『ええ、ウチもお待ちしておりますので~』
相手に見えているわけでもないのにぺこぺこと頭を下げる小梅。と言っても、織部もよくやる事なので別に悪くは思わない。だだ誰も同じなのだなと思う。
そこでまた、母が代わるように言ったので織部にスマートフォンを渡す。
「もしもし?」
『あんた・・・随分といい子じゃない』
「・・・・・・僕もそう思うよ」
織部が少し、現実味が無さそうに告げると、隣に立つ小梅がくすっと笑う。
何はともあれ、これで話をする場の準備はできたし、親の印象もそう悪くはない。
「じゃあ、また詳しい時間とかが決まったら連絡するよ」
『分かったわ。じゃあ、またね』
そして、電話は切れた。
その瞬間、織部と小梅は大きく息を吐く。緊張感が切れたからだ。相手の家族と話した小梅はもちろんの事、織部も家族に重大な事を発表するのだから緊張した。
胸に手をやれば、少し鼓動が早くなっている。
「・・・・・・お母さん、優しい方ですね」
「・・・そうだね。たまに変な冗談かましたりするけど」
「え?」
冗談と言って思い出すのは、彼女ができたと最初に電話した時だ。『エイプリルフールはとっくに過ぎた』と言われたアレだ。
「・・・・・・後は、小梅さんの方だね」
「・・・はい」
織部の親に話は通した。
後は、小梅の親だ。そうすれば、お互いに話をする場は全て整い、直接話をすることができるようになる。
「多分私の親は、春貴さんの事を悪く思ってはいない、とは思いますけど・・・」
それでもやはり、小梅だって心配なのだろう。自分のスマートフォンを握る小梅の手は震えている。
親と大事な話をするのが少し緊張するのだろうし、根底にあるのは恐らく、もし小梅の両親が織部の事を認めなかったら、という不安だろう。
織部は、そんな小梅の震える手を優しく握る。
「・・・小梅さん」
「?」
「・・・・・・もし、小梅さんの両親が僕を認めなかったとしても、僕は認められるように努力する」
「・・・・・・」
真っ直ぐに小梅の目を見据えて、決して目をそらさずに、自分の決意を告げる。
「僕はもう・・・小梅さん以外の人と添い遂げるつもりは無い。だから何としてでも、僕は小梅さんと結ばれるように、誠心誠意努める」
織部の言葉を聞いて、小梅は僅かな間目を見開き、口を小さく開けたが、やがて真剣な表情になって小さく頷いた。
織部の言葉で、恐らく勇気がついたのだろう。そしてまずは、小梅が両親に話をしなければ事は始まらない。
小梅は、スマートフォンの画面をスライドさせ、“お母さん”と登録されている電話番号に、繋いだ。
トリトマ
科・属:ツルボラン科シャグマユリ属
学名:Kniphofia uvaria
和名:
別名:トーチリリー、クニフォフィア
原産地:南アフリカ
花言葉:恋するつらさ、あなたを思うと胸が痛む
小梅・織部と小梅の家族の電話の内容ですが、
織部の母との電話とほぼ同じと受け取っていただけると幸いです。
同じなのにわざわざ書くと冗長だと思いましたので省略しました。
感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。
誤字報告をしてくださった方、本当にありがとうございます。