黒森峰女学園も、夏休みへと突入した。
生徒会や部活動に所属しておらず、赤点などで休み期間中に学校に呼び出される事も無い生徒たちは、学園艦を離れて実家で悠々自適に過ごす者が割といる。あるいは、実家に帰るのも面倒だし友人と過ごしたいと言って学園艦に留まる者もいる。
だが、戦車隊に所属する者たちは、夏休み期間中も最後辺りを除いて訓練がほぼ毎日行われるので、帰る暇がない。
それに忘れてはならないが、宿題という悩みの種も当然存在する。戦車隊の訓練と宿題を両立するのは非常に難しく、皆で協力して片付けようという作戦を取る者も多い。
そして夏休みに入って何週間かが経過したある日曜日。この日は戦車道の訓練が休みの日で、戦車隊に所属する者からすれば宿題を進めるチャンスとも言える日だ。
だが今、まほ、エリカ、そして小梅の3人は、本土と学園艦を結ぶ連絡船の搭乗口前にいた。今日は休日にも拘らず、3人ともが制服だ。
やがて、3人の視界に1隻の船が目に入る。
「・・・・・・あれか」
「恐らく」
まほが、誰に話しかけたわけでもないのだろうに呟くと、エリカがすぐに返す。
これから来る人物は、大体この時間に来ると前日連絡していたし、道中でトラブルに巻き込まれたりしない限りは時間通りに来るだろう。まあ、おっちょこちょいなところがあるので寝坊したりする可能性だってあるが。
その1隻の船―――連絡船を小梅はじっと見つめている。彼女の顔には、多くの感情が宿っていると、この場にいない織部がいれば分かるだろう。それぐらい小梅の顔は緩んでいて、それでいて少し寂しそうだった。
船はどんどん近づいてきて、遂には黒森峰学園艦と速度を合わせて平行に並ぶように航行し、乗船用のタラップを伸ばす。
そして連絡船と学園艦を繋ぐタラップを、その人物はゆっくりと歩いてきた。
きわめてごく一般的な、襟に緑のラインが入った白いセーラー服に黒のリボン、そして緑のプリーツスカートという学校の制服。栗色のショートボブに茶色い瞳、少し垂れ目なところが引っ込み思案な性格を表しているようにも見える。
「よく来てくれた、みほ」
「・・・お姉ちゃん、久しぶり。エリカさんと、赤星さんも」
その人物とは、かつて黒森峰の戦車隊で副隊長を務め、現在は大洗女子学園の戦車隊を率いる隊長として全国に名を馳せている、西住みほだった。
織部は、夏休みの宿題は1科目ずつ終わらせていくタイプだ。中途半端に終わらせて、途中で何か別の科目に手を出すと自分がそわそわして集中できなくなってしまうからだ。
そして織部は計画的に課題を進めていき、夏休みの終わる2週間前ぐらいには全ての課題を終わらせている事が多い。中学の時、遊び呆けて夏休み終了間際になって泣きを見る人を何人も見てきた。
黒森峰で提示された夏休みの課題は、織部の本来通う進学校と比べると少しだけ少ない。1年生の時は、進学校レベルの夏休みの課題の多さに辟易したものだが、学力をつけるためと割り切ってどうにか切り抜けてきた。
しかしながら、あまり集中し続けていると逆に疲れて肩が凝ったり、部屋の中で黙々と机に向かって課題を片付けて、息がつまりそうになる。そんな時は大体、外を散歩したりして気を紛らわせていた。
そして今、織部は同じように気分転換で外へ出ていた。だが、ただ散歩に出かけたわけではなく、ちゃんとした目的地を立てている。
その目的地とは、トレーニングジムだ。
この前プールに行った際に皆から『細い』と言われて、織部は内心では少しショックを受けていた。何度か小梅とジョギングを重ねているうちに体力はそこそこついてきたものの、筋肉の方はからきしだ。なのでこのトレーニングジムで、少し鍛えようと思ったわけだ。
ちなみに織部は、今日の自分に課した夏休みの課題のノルマを8割がた終わらせている。残りの2割は、ジムから帰った後でも十分こなせる。
利用に必要なジャージとシューズ、そして学園艦で生活していることを証明するもの・・・学生証などを提示すれば無料で利用できる。織部も、仮発行されている学生証を提示すると、問題なく脚を踏み入れることができた。
ここは何も、戦車隊の隊員だけが利用できるというわけではなく、この学園艦に暮らす者全員が等しく利用できるものだ。だから、トレーニング用の器具が揃うフロアにも、戦車隊には属していなかったはずの黒森峰の女子や、恐らく非番の教師、さらには身体が衰えないように鍛えている老人、とまでは言わないがそれなりに歳を食っている人もいた。
とりあえずここでは、男の自分は浮かないようだと一安心した織部は、早速ストレッチに取り掛かる。
と、そこで織部は見知った人物に出会った。
「あっ、織部君」
黒森峰のジャージを着たその人物は、斑田だ。
「斑田さん、こんにちは」
「こんにちは。赤星さんは一緒じゃないの?」
いきなり小梅の所在について聞かれる辺り、自分が普段から小梅にくっついていると思われていることが窺える。間違ってはいないのだが、面と向かって聞かれるとこそばゆいものだ。
そして、今小梅はみほと会っているのだが、まほとエリカからそれは口外しないように言われているので大人しく従う事にし、斑田には心の中で謝りながら誤魔化す。
「小梅さんは、今日人と会う約束をしてて」
「ふーん・・・」
斑田は、それ以上深入りはせずに、ストレッチで前屈をする。
織部も、斑田から少し離れた場所でストレッチを始める。体育の前の準備体操に似たところがあるが、少しばかり違うところもある。
そしてしつこいようだが織部は運動音痴で、身体も柔らかくない。前屈をするにしても手は足につくほど伸びはせずただ痛いだけだ。果たしてストレッチになっているんだかなっていないんだか、分からない。
ともかく、運動音痴なりにストレッチをこなしながら、織部は小梅のことを思う。
夏休み前に、織部はなるべく小梅と一緒にいると約束したが、今日ばかりはどうしようもなかった。
何せ今、小梅はまほ、エリカと共に、西住みほと会っている。みほと面識のない織部がいても、何の役にも立ちはしないし、いたらいたで逆にみほとギクシャクした雰囲気を作ってしまい、後々のためにならない。
それに、みほが黒森峰に来るそもそもの理由を考えれば、織部はいないほうが都合がいい。
だから織部は、誠に遺憾ながら小梅と離れざるを得なかった。
まほの誕生日の7月1日。織部と小梅は、2人でそれぞれ誕生日プレゼントをまほに渡した。
その後2人は帰ろうとしたのだが、その直前でまほに引き留められ、話があると告げられた。
その話とは、みほを黒森峰学園艦に招くという事だった。
それについて、エリカは事前に聞かされていたらしく、その話を切り出した際にエリカは驚きもせずに小さく頷いていた。
まほは、みほと積もる話が色々とあるようで、電話やメールではなく直接会って話がしたいと前々から思っていたらしい。そして、全国大会優勝の祝いも兼ねて呼ぶそうだ。
話をする事について、織部は前に2回ほどまほから『みほときちんと話をして、それから謝りたい』という相談を受けていたので驚きはしない。
小梅も、一番最初に織部がまほと話をして、まほがみほに対して負い目を感じているのは盗み聞いていたから、意見したりする事も無かった。
ではどうして、織部と小梅の2人にその事を話そうとしたのか。
まず小梅だが、まほは小梅が去年の全国大会でみほに助けられたことを知っていて、今年の全国大会決勝戦での試合前の挨拶の後に小梅がみほと話をしていたのを見て聞いていた。だからまほは、小梅はみほと親しい存在だと考えているし、それでみほを招待しようとしているのを伝えたかったのだ。そしてもしみほが来た際は、会って話をしてもいいとまほは思っている。
織部に話したのは、みほとの確執についてまほが織部に相談していたから、前もって話しておく事にしたのだ。確かにまほの事情を聞こうとしたのは織部の方だが、織部に相談したのはまほの意志だ。だからまほは、自分が相談を持ち掛けて多少なりとも織部を悩ませたのに、相談した相手に知らせず自分たちで勝手に解決してはいおしまい、というのも相談した者に対しては礼を欠いた事だとまほは思う。
だからこの2人に、まほは話したのだ。
だが、まだ黒森峰に来てほしいとはみほには言ってない。だから本当に来るのかどうかも分からないし、みほが断る可能性だって十分に考えられる。
けれど、もしもみほが黒森峰を訪れるとしたら、小梅はぜひ会いたいと言っていた。しかし織部は、みほと面識がないから別に会っても意味は無いので、織部は辞退した。
そして数日後、まほから送られてきたメールに、みほは了承の返事をして黒森峰に来ることが決定したのだった。
「お姉ちゃんのメール怖かったよ・・・いきなり『黒森峰に来い』なんて・・・果たし状かと思った」
「メールを打つのには慣れてなくてな・・・妹相手に敬語と言うのも少しおかしいし・・・」
連絡船の搭乗口から黒森峰女学園の校舎に向かうまでの間、みほとまほは雑談を交わしている。だが、みほの『メールが怖かった』という言葉については一理あると、エリカも小梅も思っている。何しろ必要最低限の事しか書かないので、慣れなければ恐ろしさを覚えるのだ。車長たちの懇親会とも言える昼食会でさえ、隊員を集めるメールは『昼休み食堂に集まれ』だ。一昔前の軍隊や知波単学園ではあるまいし、そんな威圧的な文面では懇親会と分かっていても恐ろしくてたまらない。
エリカや小梅は慣れてしまったが、あれは初見で見ればシンプルに言って死刑宣告、百歩譲って赤紙みたいなものだろう。
ともあれ、みほとまほの間に心の壁のようなものはなく、2人とも気兼ねなく話せているようで、小梅は一先ずホッとした。2人は姉妹なのだし、仲が良い方がいいに決まってる。小梅は一人っ子なので、姉妹や兄弟がいる感覚が分からないが、妹や姉がいるというのも悪い感覚ではないのかもしれないと思った。
そして聞いた話によればエリカにも姉がいるらしい。だが、仲はそこそこといった具合で、何かにつけてエリカを子供扱いし、エリカ自身はそれが気に食わないようだ。
姉妹も一長一短だな、と思いながら、4人は黒森峰女学園の校門をくぐった。その直後、みほは立ち止まって校舎を見上げる。
「どうした?」
まほは問うが、小梅は一瞬みほの事を心配に思う。みほにとって、去年の決勝戦でとった行動が理由で、黒森峰でされた事、言われた事は忘れられない事だろう。だから、また黒森峰にやってきた事でそれを思い出し、不安定になってしまう事だってあり得る話だ。
だが、学校を見たいと言っていたのはみほの方だ。なので今更、怖気づいたとは考えにくい。
黒森峰戦車隊でみほの事を毛嫌いする人は、恐らく今年の全国大会の結末を見届けた事でいなくなったとまほたちは信じているが、念のために学校に人がほとんどいない夏休みの日曜日、戦車隊の訓練も無い日にみほを招いた。だから、人と会う機会はほとんどないと思うのだが、気は抜けない。
みほは、黒森峰の校舎を見上げてポツリと呟いた。
「・・・変わってない」
安心感に似たような気持ちを感じさせるみほの言葉。やはり、どんな経験をしていようとも、ここがみほの母校の1つであることに変わりはない。1年弱ほどいたのだから、ここに懐かしさを感じるのも当然だろう。
まほと小梅は、心配事も無駄だったと思い心の中で小さく息を吐く。だが。
「そりゃ1年も経ってないんだし、当たり前でしょ」
エリカが皮肉るように言うと、みほが少し苦笑する。まほも小梅も、至極まともなエリカの意見に小さく笑い、歩を進める。
みほも、皆の後に続いていった。
訪れたのは、戦車の格納庫だ。この日は先ほども言ったが戦車隊は休みで、機甲科も活動をしていないので、本当にここには猫の子一匹いない、はずだ。
格納庫の中を歩き、戦車を見ていく。あの決勝戦で激戦を繰り広げ、砲塔がへし折れたヤークトティーガーも完全復活を果たしていた。
「まさか、これが川に落とされるなんてね」
エリカがヤークトティーガーを見上げながら呟く。小梅も確かに、ヤークトティーガーがやられたという通信を聞いた時は耳を疑ったものだ。ましてや、川に落ちてひっくり返ったなんて状況、聞いた事も無い。
「ウサギさん―――1年生の皆が頑張ってくれたから・・・」
「M3か。あれにはエレファントもやられたからな、侮れない」
格納庫を進んでいくと、パンターやティーガー、Ⅲ号戦車などの主力戦車、ラングにヤークトパンターなどの駆逐戦車もいる。そして何より威圧感を放っているのは、超重戦車マウスだ。難攻不落と思われていたマウスも、大洗の奇策に嵌められて撃破されてしまった。その奇策を思いついたみほのひらめき力と洞察力は、自分を超えているのかもしれないとまほは思う。いや、みほが勝った時点でまほは越えられていると、思っている。
そして奥の方には、黒森峰にいた時にみほが乗っていた、車体番号217のティーガーⅠがいた。
「このティーガー・・・・・・」
みほが近づき、右手をそっとティーガーⅠに添える。まほは、みほの後ろに立ってその背中を見つめる。
「・・・・・・もしまた、みほが帰ってくる事があったら、と思って整備していたんだ」
今、格納庫の電灯は点けられているがこのティーガーⅠが置かれている辺りは少し暗くなっている。だから、まほの表情がどうなっているのかは、エリカと小梅、そして戦車を見るみほには分からない。
「だが・・・・・・もう大丈夫みたいだな」
けれどそう告げるまほの顔は、多分笑っているんだろうなぁと小梅とエリカは思った。そして、振り返ったみほはまほの顔を見て、みほは少しだけ申し訳なさそうに笑っていた。
みほは、大洗という新しい地で多くの仲間と友を作り、さらには自分だけの戦車道を見つけた。全て黒森峰では手に入れる事も、見つける事もできなかったものだ。
最早、みほは大洗にいるべき人材であり、西住流という枠組みでみほの才能を殺してきた黒森峰にはいるべきではないのかもしれない。
だからまほは、『もう大丈夫』だと言ったのだ。
格納庫から出ると時刻はもう昼を少し過ぎている。連絡船の到着は少し遅めだったからか。
昼食はどうしようかと悩んだところで、食堂が夏休み中で休みだという事にまほたちは気付いた。まだ学校で見たいところはあるかをみほに聞いたが、みほはもう十分だと言ったので、学校を出る事にした。どうやら、戦車を見れただけで十分らしい。
そんな彼女たちが向ったのはドイツ料理店だ。席に通されると各々料理を頼む。そこでエリカがハンバーグを頼んだのを見て、みほはクスッと笑った。
「・・・・・・何よ」
エリカが不服そうに聞くと、みほは微笑みながら言った。
「ハンバーグ好きなの、変わってないんだなって」
エリカの口元がひくひくしているのが、エリカの真正面に座る小梅にははっきりと見えている。そしてエリカの隣に座るまほは、うんうんと腕を組んで何に納得したのか分からないようにうなずいていた。
「みほがこうして軽口を叩けるようになるとはな・・・。随分変わったと思う」
「そうですね・・・。みほさん、何だか生き生きとしている気がします」
まほの言葉に、小梅も同調する。確かに、黒森峰にいた頃のみほは何処かしら心配なところ―――ドジでおっちょこちょいなところなど―――が目立っていて、それに引っ込み思案な性格も相まって、暗いイメージがあった。だが、大洗に転校した今ではそれが嘘のように、明るく振る舞っている。
「そうね・・・・・・・・・確かに変わったわね」
「エリカさん・・・・・・」
肩をすくめて目を閉じ、エリカが鼻息混じりに呟く。みほも、皮肉屋な一面を持つエリカが素直に認めてきたのが少し意外だったらしい。
だが、ゆっくりとエリカは身を乗り出して、斜向かいに座るみほの鼻を思いっきりつまんだ。
「でも、私の好物まで馬鹿にするのはちょーっといただけないわねぇ」
「
鼻声のみほの声に、みほの隣に座る小梅が思わず吹き出してしまう。エリカも、みほのみっともない声が聞けて満足したのか、してやったりな顔を浮かべて席に戻る。
まほはこのエリカとみほのやり取りを見て、内心ではホッとしていた。
エリカは元来真面目一辺倒な性格をしていて、規律や風格を重んじている傾向があった。だから、織部が来た事で戦車隊の空気が弛んでいることに憤りを感じ、それを織部にぶつけた。さらにエリカは、普段の言葉遣いに若干の棘を含んでいて、接する者は大体畏怖したり敬遠していた。
だが、今こうしてみほに対して(いい意味での)ちょっかいをかけたり冗談を言ったりしたのを見て、その普段のエリカのイメージも払拭されつつあると思った。期末試験明けで戦車隊の空気が若干緩んだ時も憤りを見せることはなかったし、この前行ったプールでも織部や、同学年の根津たちと普通に遊んでいたので大分打ち解けてきていると実感している。いや、根津たちに限らず、他の隊員たちとも幾分かは打ち解けることができているようにも見受けられた。
ルクレールではあれだけみほに憎まれ口を叩いていたのが嘘のように、エリカはガラッと変わった。やはりエリカも、あの試合をきっかけに、エリカの中でも何かが変わったようだ。
ともかく、こうしてみほと普通に付き合いができるようになれたのは、みほの姉であり、エリカの先輩・上司であるまほ個人としては嬉しい事だった。
食後に4人が向ったのは戦車道博物館だ。みほもここは訪れた事があるだろうが、どうやらせっかく黒森峰に来たのだからと、ある種のもったいない精神で行きたかったらしい。
まほ、エリカ、小梅の3人は黒森峰の生徒であるため割引料金が適用されるが、残念ながらみほはもう黒森峰の生徒ではないので、通常料金を払わなければならなかった。
戦車道の概要と起源、歴史を流し読み程度で見ていき、そして黒森峰女学園と戦車隊の歴史へと移る。歴代の戦車隊長を見ている中でみほが『お母さんだ・・・』と呟く。どうやらしほの写真を見つけたようだ。
そして先代の隊長はまほも知っており、その下は空欄となっている。どうやら、隊長が卒業した後で、その隊長の写真と来歴が追加されるらしい。まほが卒業すれば、ここに追加されるのだろう。
みほが歴代隊長の写真を見ていたのに釣られ、エリカと小梅も自然とそこに集まる。
「お姉ちゃんの写真も、ここに飾られるんだよね?」
「・・・ああ、そうだな」
みほの問いかけに、まほも少し寂しそうに答える。
そしてその寂しさを孕むまほの言葉に、エリカと小梅の表情にも陰りが差す。エリカと小梅は、3年生のまほより1つ年下の2年生だ。そしてまほは、2年生の時から隊長を務めていたから、2人が入学した時から隊長はまほだった。それに2人は、まほの事を大いに尊敬している。だから、卒業して、隊長がまほではなくなってしまうというのは少なからず寂しくなるものだ。
それはまほも同じようで、照明が暗めのこの室内でも、まほの表情が少し曇っているのがみほにも分かる。2年間率いていた隊から離れてしまうのも少し辛く悲しいものなのかもしれない。
「あ、なんかごめんね・・・?変な空気にしちゃって・・・」
みほが取り繕うように笑うと、まほも小さくふっと笑い、先へと進む。
小梅もその後につこうとしたが、エリカの表情が引き締まっているのに小梅は気付いた。一体なぜ、そんな表情をしているのかは小梅には分からない。
だが、エリカは分かっていたのだ。
まほが卒業し、除隊すれば、その次の隊長となるのは、現在副隊長である自分になるのだと。
自惚れているわけではないが、戦車隊の中では自分の才能は他よりも少し秀でているし、だからこそ1年の時はみほの補佐を務めて、みほが去った後副隊長となることができた。
おそらくは他の隊員の才能が開花してエリカを超えない限りは、エリカが次の隊長となるだろう。
それを改めてエリカは自覚して、緊張した面持ちでいるのだ。
博物館を出ると、4人は適当に学園艦を散策する事にした。商店街でお菓子屋のおばちゃんからなぜかおすそ分けの煎餅を貰ったり、水路の傍の遊歩道を歩きながら川の流れの音をBGMに今の黒森峰戦車隊の話をして、学園艦外周遊歩道を歩きながら大洗の仲間たちの話をして。
そして気づけば、もう時間は夕方の4時を過ぎている。今黒森峰女学園艦と大洗女子学園艦の航行している場所を考えれば、そろそろ出ないとみほは日付が変わる時間ぐらいに帰ることになってしまうだろう。それに、連絡船の数も限られている。直近の時間の連絡船を逃すと次は夜中になってしまう。
学園艦外周遊歩道から戻り、小梅にとっては見慣れた、だが懐かしさを感じるあの花壇へたどり着いた。夏を迎えたので、旬を過ぎた花の一部はすでに萎れてしまっている。
そこで、みほの携帯がメールを受信した。そして携帯の画面を見て時刻を確認したみほが、ポツリと呟いた。
「そろそろ、帰らなきゃ・・・」
随分と久しい、みほとの他愛も無い会話は時間を忘れさせるものだった。それはまほ、エリカ、小梅の3人全員がそう感じた事らしく、みほの言葉に全員がハッとしたような表情を浮かべた。
エリカとしては、みほとの会話は決して不愉快と感じていなかった。全国大会のトーナメント抽選会で再会した時は、自分を忘れそうになるほどの憤りを覚えたというのに、今ではそれも無く普通に話すことができた。あの去年の決勝戦前、砕けた調子でやり取りをしていた時に近い感覚だ。やはりみほの力を認めて、心の中に突っかかっていたものが無くなったからだろうか。
小梅も、こうして黒森峰でみほと話をすることができてよかったと思う。黒森峰でみほが迫害を受けていた時、小梅は自分がみほの友達でいれば、みほの傍にいていればみほが転校しなくてもよかったのかもしれないとずっと迷い悔いていた。
だが、新天地でたくさんの仲間を作り、そして自分の戦車道を見つけたみほは今、憑き物が落ちたかのように晴れやかな表情をしている。そんなみほと話ができたのが嬉しかったのだ。
そして、まほは。
「・・・みほ」
「なに?お姉ちゃん」
みほを呼び、足を止めるまほ。みほは立ち止まって振り返り、まほを見ると、まほが先ほどまでの穏やかな表情とは違う、真剣な表情をしているのにみほは気付いた。
そして小梅とエリカは、遂に話すのか、と気付いた。そして2人はまほに、『少し席を外します』と告げて、その場を離れる。
まほが何のためにみほをここに招いたのか、2人はそれを忘れてはいなかった。
今日みほと再会してから今に至るまで、4人はほぼ全ての時間を一緒に過ごしていた。だから、みほとまほが2人きりになる時間ができなかった。
まほだって、あの時の事を話し、そして自分の思っていたことを伝え、その上で謝りたいと言っていたのだから、それを他人に聞かれるのは嫌だろう。
そのまほの意図を汲んで、小梅とエリカはその場をいったん離れたのだ。
2人が視界から外れるのを確認すると、まほはすぅっと小さく息を吸い込んでからみほに言葉をかける。
「みほ、今日は来てくれてありがとう」
「え、急にどうしたの・・・?」
エリカと小梅が示し合わせたかのようにこの場を離れ、まほが急に畏まってお礼を言ってきたので、面食らうみほ。それに、みほの知る限りではまほがこうしてストレートに『ありがとう』と言ってくる事自体が珍しい。
つまり、恐らくまほは何か重要な話をしようとしていることにみほは気付いた。
「・・・実はな」
「・・・うん」
涼やかな風が吹き、仄かな潮の香りが鼻腔をくすぐる。花壇に咲く花が揺れるが、みほは決してまほから目を逸らさない。まほも、みほを見据えたまま話を続ける。
「今日、みほをここに呼んだのは、みほに言わねばならない事があったからだ」
「・・・・・・?」
「・・・・・・去年の全国大会の後の事だ」
「!」
その話題は、みほが心の奥にしまっていた辛い過去だ。それをまさかまほが引き出してくるとは思わなかったので、みほのショックも大きい。まほだって、みほの表情が硬くなったのを今この目で見たし、それでみほが落ち込む事だって織り込み済みだ。それは実に心苦しい事だが、話をする上でそのことは言っておかねばならない。
「・・・あの決勝戦の後、責められていたみほを私は庇う事もせず、みほが黒森峰を去ると決めた時は、ただ背中を押す事しかできなかった」
「・・・・・・・・・・・・」
「ただ、本当の事を話したい」
「本当の・・・こと?」
みほにとって不可解な言葉を聞き返すと、まほは小さく頷く。
「あの時私は・・・信用が失墜し、空気や連携が無茶苦茶になってしまっていた戦車隊を立て直そうと躍起になっていて、みほの事を気にかけることができなかった」
「・・・・・・・・・・・・」
「そして、西住流の後継者であり、西住流を体現した黒森峰戦車隊の長である私がみほを庇えば、西住流の教えが間違っていると捉えられるやもしれなかった」
「・・・・・・・・・・・・」
みほは何も言わない。だが、まほが何を言おうとしているのか、だんだん理解してきたようで、緊張した表情が徐々に驚きを含むようになってきた。
「私がみほに言葉をかける事もできなかったから、みほに『自分は見捨てられた』と思い込ませてしまった・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「だけど私は・・・・・・みほのあの時の行動は西住流としては間違っていたけれど、人として間違った事はしていなかった。むしろ、誰にでもできるような事ではないことをやってのけたみほの事を、誇りに思う」
「・・・・・・・・・・・・」
みほの瞳が揺れ、僅かに潤う。
「だが、西住流の名を守るという理由でみほを庇えず、私の妹で同じ西住流だからと色々負担をかけてしまい、私は結局どうする事もできなかった・・・」
そしてまほは、頭を下げて、ずっと言えなかった一言を、正直に、はっきりと、告げる。
「・・・・・・みほ、本当に・・・・・・ごめん、なさい」
こうして畏まり面と向かって謝る事は、まほ自身も慣れていないのだろう。その言葉も、頭を下げる動作もぎこちなくて、普段の凛々しいまほからはまるで想像できないような所作だった。
まほは頭を下げている間、みほが次に何を言うのかが怖かった。
今さらこんな姉面をして謝っても、みほの過去が全てきれいさっぱり無くなるというわけではない。みほの中のトラウマが拭い去られるという事も無い。
決勝戦の後のやり取りで少し昔のような距離に戻ったような気がしたのに、また自分とみほは疎遠になってしまうのだろうか。
今のまほは、普段では考えられないほどネガティブになってしまっていた。戦車道の試合でも、失敗するビジョンに囚われる事などなく、またネガティブな発想にも至らないのに。
やがて、みほが言葉を発した。
「・・・・・・お姉ちゃんって・・・」
その先に続く言葉は、何だ。
まほの心は揺れ動き、否定されたり拒絶されるとどうなるのか、分からなかった。
だが、みほの次の言葉は、まほの予想に反して優しい声とともに告げられたものだった。
「・・・・・・本当に、優しいんだね」
まほが思わず、下げていた頭を上げてみほの顔を見る。見れば、みほの瞳からは一筋の涙が流れていたが、その表情は穏やかで優しく、微笑んでいた。
どうして“優しい”なんて言葉が言えるのか、今のまほには分からない。
「・・・覚えてる?ずっと昔、まだ私たちが小学生ぐらいのころ」
「・・・・・・・・・・・・」
みほは今、何を思い、何を考えて、過去の事を思い出すように促しているのか。まほはまだ、不安に囚われていた。
「2人でアイスを食べて、私がはずれ棒を引いたらお姉ちゃんがあたり棒をくれて、戦車から落ちそうになった私を支えてくれて・・・。私が寝てるお父さんにいたずらしてお母さんに怒られた時に庇ってくれたり、他にもたくさん思い出があるけど・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
色褪せていた思い出が蘇ってくる。あの頃のみほは、10人中10人がやんちゃと言うほどにはやんちゃだった。あの時はまだ、西住流の後継者としての自覚も薄かったから、背負うものもそんなになかったから楽しかった。
ついでに、みほが寝ている父にいたずらをした際、しほが割と本気で怒っていたのも思い出して少し寒気を覚える。果たしてそれがみほのいたずらの度が過ぎたからなのか、しほが夫の事を本気で好いていたからなのか、どうなのかは謎のままだが。
だが、みほにとっては自分で言った思い出は黒歴史に当たるもののようで、少し恥ずかしそうに語っている。
「・・・あの時も、お姉ちゃんは、優しかった。そして今も」
そしてまほの事を見据える。みほの話した思い出には全てにまほが関わっており、それらは全てまほがみほを気遣い、想っていたが故の行動が含まれている。
そのまほの行動が、みほはとても優しいと感じていたのだろう。
「まだ私が黒森峰にいた時、お姉ちゃんは陰では私の事を心配してくれていて、今日までずっと、私の事を助けられなかったことを後悔していて・・・。それだけ、私の事を心配してくれてたって事が、お姉ちゃんの口から聞けてよかった」
まほの、みほの事を本当は心配していたという想いが伝わり、そしてみほは、やはり自分の事を陰ながら心配してくれていたまほの事を優しいと、今改めて思ったのだ。
「それに、お姉ちゃんが大変だったのだって知ってる。私のせいで、戦車隊がバラバラになりそうだったのに、お姉ちゃんはそれを必死でまとめ上げていた。まだ副隊長だった私は、全部知ってる。だから私の事を気にかけられなかったのも、悪い事だなんてちっとも思ってないよ」
まほの肩が、感動とも少し違う、嬉しさに近い感情ゆえに小さく震える。目頭が熱くなり、涙が流れる前兆が現れる。
「・・・・・・ありがとう、お姉ちゃん。私の事、心配してくれていて・・・そして、謝ってくれて」
そして決定的な言葉をみほは告げた。
「お姉ちゃん、大好きだよ」
みほの、心底優しそうな笑顔。それだけで、まほの中の緊張が抜け落ちる。心の中の蟠りが晴れていく。疑念が消え失せる。胸につかえていたしこりの様なものがすとんと落ちる。
まほは、小さく息を吐いて、久しく流していなかった涙を、音もなく流した。
「・・・・・・ありがとう・・・」
許してくれて、みほを守れなかった自分を優しいと言ってくれて、自分の事を分かってくれていて、そしてそんな姉の事を大好きと言ってくれて。
それらを含めた上での『ありがとう』だ。
そしてみほは優しくまほの事を抱き締めてくれた。まほも、みほの事を抱き締める。少し力が強かったのか、みほが『お姉ちゃん、痛いよ・・・』と少し照れるように、困ったように告げる。
だが、みほに対する申し訳なさと、ありがたさがないまぜになって心の底から湧き上がってきて、それが抑えられずみほを抱き締める力も強くなっている。
2人は少しの間、抱擁を交わしていた。
その日の夜、織部と小梅は学園艦を縦に貫くように流れる人工水路に掛かる橋にいた。2人の着ている服はジャージで、先ほどまで走っていたのだという事が分かる。
すでにみほは大洗へと戻り、もう黒森峰にはいない。
織部が今日の宿題のノルマをこなして夕食の準備に取り掛かろうとしたところで、小梅から『夜、一緒に走りませんか?』とジョギングの誘いのメールが来た。それに二つ返事で了承し、夕食を摂った後のジョギングの途中である。
休憩がてらこの橋で立ち止まり、そして小梅の口から今日はどんなことが起きて、どんな結末を迎えたのかを全て聞いた。
「・・・そっか。隊長、仲直りできたんだね」
「はい。最後には、みんなで写真を撮ったんですよ」
そうして小梅は、ポケットからスマートフォンを取り出して画面を操作すると、1枚の写真を表示させて織部に見せる。その写真には、実に楽しそうな笑みを浮かべるみほと、小梅。そしてわずかに笑みを見せるまほとエリカが写っていた。
「・・・・・・よかった。本当によかった」
織部は写真を見て、本当にみほとまほは仲直りができたのだと実感し、我が事のように嬉しそうに笑い、告げる。織部も、まほから『みほと話をしたい、みほに謝りたい』という相談を持ち掛けられていたから、他人事と捉えられなかった面がある。親身になって聞いたところもあるから、織部にとっても喜びはひとしおだ。
「私も、安心してます。隊長とみほさんが、ちゃんと仲直りできて・・・やっぱり、姉妹ですものね。仲が良い方が、いいですよ絶対」
織部も頷く。
これで、まほの中の不安や後悔は無くなったと言っていい。過去に縛られる事は、もうないだろう。
と、そこで織部のスマートフォンが電話の着信を告げる。画面を見れば、『着信:西住まほ』だった。
織部は小梅に断りを入れて少しその場を離れ、通話ボタンを押す。
「もしもし、織部です」
『こんな時間にすまない。今、大丈夫だろうか?』
「ええ、大丈夫です」
挨拶もほどほどに、まほが早速本題を切り出した。
『みほと会って、色々話をした。それで、やっと・・・・・・謝ることができた』
「・・・・・・良かったですね」
まほの声は、安心したような、やり切ったような感情が含まれているように聞こえた。まほも、今日のようにみほに全てを話して、そして謝る日を心では望んでいたのだと、織部には分かる。
『・・・こうすることができたのも、君のおかげだ』
だが、流石に織部自身のおかげと言われる事は予想外であったし、間違いでもあるからそこは訂正させてもらう。
「いえ、みほさんに直接謝ったのも、みほさんを黒森峰に呼んだのも、すべては隊長がご自分で判断なさった事です。僕は何もしていません」
『いや、君と最初に話をした時、君が私の事を聞かず、みほの事をどう思っていたのか、と聞いていなければこうはならなかった。君が、あの時赤星を助けたみほが私にはどう見えたのかに気付かせてくれたから、今日謝ることができたんだ』
「・・・・・・・・・・・・」
正論、に聞こえるが織部からすれば少し恥ずかしい。織部自身、別に大したことを言ったつもりはないし、あの時はまほの心に踏み込んでしまって申し訳なかったという気持ちが強かった。
『改めて、お礼を言わせてほしい。ありがとう』
あのまほから、こうしてお礼の言葉を素直に言われては、口答えなどできるはずもない。織部も、少し唇が歪むのを自覚しながらも、小さく頷いて答える。
「どういたしまして・・・・・・と答えた方がいいんですかね?」
途中で分からなくなってしまったので聞き返したが、『それでいいんだ』まほが小さく笑いながら言い、織部も少し吹き出した。
それで、電話は終わりだ。
そして小梅の所に戻ると、小梅は『誰からの電話ですか?』と問いかけてきたので、織部は正直にその相手がまほだったと伝える。
「僕としては、特別な事は何もしていないのに、僕のおかげだって言ってくれて・・・」
「でも、私もそう思います」
「え?」
小梅の『そう思う』とは、まほの意見に賛成するという意味だろう。当事者であるまほが言ったのならともかく、小梅までそう言うとは思わなかった。単なるリップサービスか、それともちゃんとした理由があるのか。
「春貴さんが、真摯に西住隊長に向き合っていたから、西住隊長は春貴さんに全部を話すことができて、そしてみほさんに謝りたいって思うようになったんだと思います」
「・・・・・・・・・・・・」
「そう思えなかったら、西住隊長も恐らくみほさんとは本当の意味では仲直りはできなかったと、私はそう思います」
「・・・・・・・・・・・・」
小梅が真っ直ぐな瞳で織部の事を見ている。つまりは織部のおかげでもあると、小梅の目が語っている。
織部は、小さく頷き、小梅の言葉を素直に受け取る事にした。
「ありがとう・・・・・・小梅さん」
自分の事を信じているからこそ、こうして小梅は織部のおかげでもあるのだと告げられる。その信頼に対して織部は、礼を告げた。
小梅も頷くと、2人はまた走り出し、夜の遊歩道へと姿を消していった。
ハナビシソウ
科・属名:ケシ科ハナビシソウ属
学名:Eschscholzia californica
和名:花菱草
別名:カリフォルニアポピー
原産地:北アメリカ西部
花言葉:和解、希望、成功、富、希望の持てる愛
次回の話は、少し時間が飛びます。
ご注意ください。
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