今日の天気は晴れらしい。それでも万が一の可能性を考慮して折り畳み傘は鞄に入れておく。
そして鏡の前で身だしなみをチェックし、問題が無いのを再三確認してから、私は玄関のドアを開ける。海の上を行く学園艦特有の、穏やかな潮風が頬を撫でていき、肌寒くなってきた最近は重宝する太陽の光によって、眠気も自然と薄れていく。
そして、自分の部屋の左の方を見れば。
「おはよう、根津さん」
「ああ、おはよう」
学校へ行く日は、ほとんど毎日どうしてか、同じタイミングで織部が部屋を出る。最初の頃は内心では随分と驚いたものだったが、何度も重なると流石に物珍しさが無くなる。
状況次第では恋に落ちてもおかしくはないシチュエーションだが、織部には申し訳ないけど織部は私の好みではないし、それ以前に織部は赤星と付き合っている。他人の恋人を奪い取るというのも私のポリシーではない。
「?どうかした?」
「あ、いや・・・なんか、こうして一緒のタイミングで出てくるのも、今思うとすごい事だと思って」
「ああ、確かにそうだね。でももう何度も起きた事だし、珍しくもなくなっちゃったね」
どうやら織部も私と同じで、何度も経験してるうちにありがたみが薄くなってしまっていたようだ。同じことを思っている、というだけで親近感が湧くものだ。
「そろそろ行こうか」
「そうだね、遅れるとマズいし」
あまり長話が過ぎると、待ち合わせている斑田と赤星にも悪いし、不測の事態で遅刻する可能性だってゼロではない。だから、私と織部は待ち合わせ場所へと向かう。
けれど、こうして共に登校するのも今日が最後と思うと、少し寂しいものだ。
半年を長いと思うか短いと思うかは人それぞれだが、私個人としては長い方だと思う。だから、その半年の間、外部から来た、しかも(一時とは言え)同じ学校と戦車道の仲間がいなくなるのは、何も感じないと言えばウソになる。
とはいえ、わんわん泣きながら別れを惜しんだりはしない。それは流石に私のキャラではないし、自分以外に人がいないのならともかく、周りに人がいる中でそんなことができるほど自分の肝も据わってはいない。
何はともあれ、今日が織部の留学の最後の日だった。
確か、最初に織部君に話しかけたのは、休み時間だった気がする。具体的には、午後の授業が始まる予鈴の前、西住隊長に呼び出された織部君に話しかけたのが、関わりが始まったきっかけだったと記憶している。
「最後の日に日直とはね・・・」
「まあ、いい経験になるんじゃない?」
参考資料の束を運びながら、がっかりしたように呟く織部君に、私はポジティブな言葉をかける。
日直は基本的に2人で、出席番号順になる。だが、織部君の留学が今日で最後だという事を知っていた担任の先生が、織部君を急遽日直に指名して私と組むことになったのだ。私にとっては別に問題なかったのだが、織部君からすれば急な申し出だったので面食らっただろう。
「どうしてわざわざ日直にさせるんだろ・・・」
「まあ、せっかくだからって事じゃない?」
「何の『せっかく』なのさ・・・・・・」
まだ織部君は不服のようだ。
織部君は、基本的に優しいという印象が強い。だが、今こうして教科書を運びながらぶつぶつ言っているのを見ると、彼もまた男の子っぽいイメージを持っていたのが分かる。
やがて教室の前に着いたので、私が先に扉を開けると、織部君はゆっくりと教室の中に入り、教壇の上に参考書の束を置く。
2人で分けて参考書を運ぼうと私は提案したのだが、織部君は頑として私に持たせようとはしなかった。それは私が落としたりするだろうからと疑っていたのではなくて、私に負担をかけさせまいと思っての事だというのは分かっていた。
織部君が、腕をプラプラと振って、腕の疲れを抜こうとする。そこへ、赤星さんが歩み寄ってきた。
「大丈夫ですか?春貴さん」
「ああ、大丈夫。心配しなくて平気だよ」
2年生に進級したての頃、赤星さんは今みたいに積極的に人と関わろうとはしていなかった。去年の全国大会の決勝戦以来、赤星さんは周りとの交流を断ち切ってしまい、孤独になっていて、私も同期メンバーだった以上どうにかしたかった。
だが、突如としてやってきた織部君には、赤星さんも他より心を開いていた。そして、赤星さんは織部君に出会ってから少し変わり、かつてのように私たちと言葉を交わして話をすることができるようになった。
1週間足らずで赤星さんと打ち解けたという事は、織部君も赤星さんにシンパシーの様なものを感じていたのかもしれない。もしくは、赤星さんと同じような経験を過去に織部君もしたのかもしれない。だが、それについては織部君は何も話さないし、織部君が傷ついてしまうのも可哀想なので聞けなかった。
「斑田さん、悪いんだけど・・・これ配るの手伝ってくれるかな?」
「あ、うん。いいよ」
「私も手伝いますね」
「ごめんね、小梅さん」
そんな事を考えていると、参考書を配るのを手伝うように言われてしまったので、考えるのは止めにして、参考書をそれぞれの机の上に置いていく。
日直だったけれど参考書は全部織部君に持たせてしまったので、これぐらいはしておかないとバチでも当たりそうだ。
昼休みになって、空腹感に襲われる。2時限目の体育のバレーボールで大分体力を消費してしまい、その後のドイツ語と数学で頭を使って糖分も足りてない。
一刻も早く昼食を摂ってエネルギーをチャージしなければと身体は叫んでいた。
フラフラと歩きながら食堂へと向かうと、タイミングよく根津と斑田、赤星さんと織部君に出会った。さらにいつの間にか、私の後ろには直下もいる。
皆は私が疲れ切ってることに何か言いたげだったが、とにかく今は一刻も早く栄養を補給したかったので、話は料理を頼んでテーブルに着いた後と急かし、食堂へと入る。
各々料理を頼んでテーブルに座り、全員揃うと食べ始める。今の私にとって、目の前のとんかつは他のどんな高級料理よりも美味しそうに感じられるし、実際口に含むと今までで一番美味しいと思う。
そんな私の正面で、織部君は唐揚げ定食を食べている。唐揚げも良いなと思ったが、なんとなくとんかつの方がボリューム感があると思いこちらにしてしまったが、悔いはない。
そう言えば、と私は思って織部君に聞いてみた。
「なんかさ、織部君て身体少し大きくなった?」
「え?」
最初に織部君と話をしたのは、戦車隊の訓練で走り込みをしている時だ。後方であまりにも苦しそうに走っているに見かねて、私が話しかけたのが、仲良くなるきっかけだったと思う。
その時の織部君は、今よりもずっと細かったような気がした。以前、(不本意ではあるが)隊長たちとプールで遊んだときの織部君も細かったが、今思うと初めて出会った時よりも少し大きくなった気がする。
「そうかな・・・。自分ではあんまりわかんないんだけど・・・」
「まあ、自分の身体の成長なんて、自分じゃわからないよな」
私の隣に座る根津が、実感が無いらしい織部君に同意する。確かに、自分の身体を成長させることに躍起になっていなければ、目に見える体の変化―――例えば身長などは自分では気づきにくい。
だがしかし、私も常日頃から織部君の事を見ているわけではないので、私の知らない間に成長していたのかもしれない。斑田から聞いたところによれば、トレーニングジムに通う織部君を見たらしいので、地道に体力づくりをしていたのかもしれない。
ただ、もうすぐ織部君はここを去ってしまうので、成長していたという事実に気づいたのは少し遅かった。
目の前で、皆と談笑しながら唐揚げを食べる織部君の姿も明日には見られないと思うと、少し思うところはある。恋愛感情は芽生えはしなかったが、それでも仲良くなれたからこそ、去るのは寂しいものだ。
感傷に浸りながらとんかつを食べると、味が一層濃く感じられたのは、どうしてだろうか。
「手伝ってもらっちゃってごめんね」
「いいよ、気にしなくても」
履帯を繋ぐピンを打ち直しながら、私は履帯を支えてくれている織部君にお礼の言葉を告げる。
今日の訓練は戦車の整備なので、普段の模擬戦や砲撃訓練の時のようにそこまで疲れずに済む。けれども、最近は肌寒くなってきたので、その場で動かないことが多い戦車の整備をするのは少し寒さを一層強く感じる。
「うん、全部完了。ありがとね」
「いやいや、雑用がここでの僕の仕事だからね」
ピンを全て打ち直したところで、改めて感謝の言葉を告げると、織部君は本当に気にしていないとばかりに笑ってくれる。なるほど、赤星さんが惚れるのも分かる気がした。
織部君とは、(期待していたわけではなかったが)随分とロマンの欠片も無いような出会いを果たしたものだ。まさか、私が履帯を持ち上げるのに悪戦苦闘していたところで助けられたなど、情けないように聞こえる。
ともあれ、あの時織部君が手を貸してくれなかったらずっと知り合う事も無かっただろうと思うと、偶然とは恐ろしいと感じる。
「ウチの戦車は履帯が切れやすいからね・・・入念にチェックしとかないと」
私が戦車を見上げながらそう呟くと、別の場所から織部君を呼ぶ声がした。
「ごめん、呼ばれちゃった。もう行くね」
「ああ、うん。ありがとうね」
挨拶も早々に、織部君は呼ばれた方へと言ってしまう。
今日はまだ、私に会った人の誰も口にしてはいないが、織部君の留学は今日で終わる。それは織部君だってもちろん分かっているだろう。
だからか、今私の目の前を走り去っていく織部君の後姿がどこか寂しそうに見えたのは、織部君がここを去るのを寂しがっているのか、それとも私自身が織部君が去るのを寂しく思っているからなのか。もしかしたら両方なのかもしれない。
確かに私は、最初に出会った頃から話が合ったし、話しやすい人物だったのもあって、割と織部君とは親しい仲となることができた。だからこそ、別れるのが寂しいのだろう。
だが、私よりも寂しがっているのは、絶対に赤星さんだ。落ち込んでいた赤星さんが織部君と出会ってから明るさを取り戻したのは知ってるし、しかも2人は付き合っているのだ。離れ離れになって悲しくないはずもあるまい。
だが2人とも、お互いに離れ離れになりたくないという想いは顔に出してはいない。2人の関係が冷め切っているという事はあり得ないだろうし、恐らくは2人とも堪えているのだろう。
私は初恋もまだだけど、なんとなくそんな感じがした。2人は、悲しいのを堪えて、相手の事を心配させないようにしているんだと、そう思った。
整備後の号令で、織部は最後の日という事で挨拶をした。ただ、戦車の整備で皆が疲れているのを知っているのか知らないのか、あるいはいきなりの事であまり多くの事を考えられなかったのか、挨拶は無難な事を手短に述べてそれで終わりとなった。
織部が挨拶を終えて隊列に戻ると、隊長が号令をかけて解散となる。隊員たちの緊張の糸が緩み、それぞれ校舎へと戻っていく。その隊員たちに混ざって、織部もまた校舎へと戻っていく。
私は、そんな織部にゆっくりと近づき歩調を合わせて隣同士で歩く。
「一応、お疲れ様とだけ言っておくわ」
「逸見さん・・・・・・」
織部が心底驚いたように私を見る。いつの間にか私が隣にいた事がそこまで意外な事なのだろうか。
「まさか、逸見さんからそんな事言われるとは思わなかった」
そっちか。
「・・・バカにしてんのかしら?」
「全然。ただ、言われるのが初めてだったからね」
じろっと睨むが、確かに織部の言い分も分かる。『お疲れ様』なんて言葉、普段は隊長か同じ戦車のメンバーにしか言わない。それ以外の誰かにそんな言葉を言ったのは、確かに今回が初めてのようだ。織部が『初めて』と言ったのも、確かに頷ける。
「・・・・・・ま、頑張ったんじゃないの?色々と」
「・・・・・・そうかな」
ただ、私のその言葉は、本心に近い。最初に黒森峰に来た時は何事かと思ったが、一応与えられた仕事は最低限こなしていたし、報告書の出来は私が見てもまあまあ良かった。それに、多少仲良くもなれたのでねぎらいの言葉の1つをかけても文句は言われまい。
しかしながら、織部が私の敬愛する西住隊長の心に土足で踏み込んだことには腹を立てて、隊の空気が全体的に緩んだのもこの織部のせいだと思い込み、厳しく咎めたのも覚えている。あの後で、私は隊長から話を聞いて、間違っているのは私自身の方だったのだと気付かされてしまった。それで織部には謝り、和解・・・はできたのだと思う。でなければ、織部も私に向かって冗談など言いはしないだろう。
私と織部の関係は、何とも微妙なものだ。ぶつかり合ってはいたが、今ではそこそこの付き合いというのも、ものすごい絶妙だと思える。
「一応、隊長にも個人的に挨拶ぐらいしといた方がいいわよ」
「・・・・・・もちろん、するよ」
私が一応助言しておくと、織部は少し悲しそうな笑みを浮かべて答える。そんな顔をしている理由は、私にも分かる。
織部はこの前、隊長から告白を受けた。だが、織部は赤・・・小梅と付き合っていたし、織部自身隊長に恋してはいなかったから告白は断った。
織部が何度か隊長から相談を受けていたのは知っている。だからこそ、織部からすれば自分を頼っていた人の事を自分で突き放してしまったのが、心苦しいのだろう。
私は告白された事はおろか、初恋もまだなので、他人の告白を断った時どんな気持ちになるのか、それは分からない。だが、あの日織部の落ち込んだ様子から尋常ではないような後悔の気持ちに襲われるというのは分かる。
ともあれ、挨拶をしないのは隊長の世話になった者の身としては無礼だし、その点を織部も忘れてはいないだろう。
「・・・・・・まあ、色々気まずいだろうけど、頑張んなさい」
「・・・・・・ああ、そうだね」
とりあえず、もしもの時は骨は拾っておいてやろう。
それぐらいの考えで、私はそう言ってやった。
「半年の間、お世話になりました」
「ご苦労だったな、織部」
今日の戦車道の時間は戦車の整備だったので、報告書を出す必要も無い。だが織部は、私のいる隊長室へと足を運んでいた。
そして驚く事に、入室して私の前に来ると、織部がエリカに席を外すように言ったのだ。だが、エリカも別に驚きはせず、むしろ逆に笑いながら『分かったわ』と応えて外へ出た。この2人、いつの間に仲良くなったのだろうか。
ともかく、隊長室には私と織部の2人だけになり、織部は改めて、私への感謝の言葉を告げた。
だが、それだけのためにエリカを部屋の外に出したわけではあるまい。
「隊長のおかげで、戦車道について色々勉強することができました」
「・・・そうか、それはよかった」
織部が本心でそう言っているというのは、目と顔を見ればわかる。改めてそう言ってもらえると、こちらとしても嬉しい限りだ。
その言葉が聞けただけで、私が直接織部を黒森峰に招いたわけではないが、それでも戦車隊での経験が織部の血肉となったのであれば、隊を率いる隊長として満足だ。と言っても、もうすぐ隊長の座はエリカに譲るのだが。
「・・・・・・あの、隊長」
「なんだ?」
と、そこで織部が先ほどとは違い、少し暗い表情になる。何かを言おうとしているのは分かるが、その表情からではあまりいい話題ではなさそうだ。
「あの、その・・・・・・」
どもる織部。それで何となくだが、エリカを部屋の外に出したのも含めて、何が言いたいのかが、だんだん見えてきた。
「・・・・・・この前の話、なんですが」
「・・・・・・ああ」
この前の話、と言っただけで私も何の事かは分かる。
私が、織部に告白をした話だろう。
「本当に・・・・・・すみませんでした。隊長の気持ちに応えることができず・・・・・・」
「その時の事はもう気にしなくていい」
そう言ったように、私はもう、あの時の事を気にしてはいない。あの時は私の思いの丈を織部にぶつけたが、織部にはもうすでに“先客”がいたのだ。それは私が遅かっただけの事で、誰が悪いという話ではない。織部が謝る必要も無い。だから割と、あの時の事は多少残念ではあったが、すんなりと諦める事はできた。
織部が自分が選んだ好きな人と結ばれることを望んでいるのであれば、一歩引いて織部の幸福を願うのが、私にできる最善の手だ。
すんなりと諦められる辺り、自分も意外と“耐性”はついていたようだ。西住流の戦車道で手にした強靭な心ゆえだろうか。
ともかく、今目の前で思い悩み停滞している織部には、何か言葉をかけて、前に進んでほしかった。
「・・・・・・私の事はもう、気にしなくて大丈夫だ」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・織部が、心に決めた人と結ばれ幸せになるのが、私の本望だ」
そう告げると、織部は一瞬だけハッとしたような表情を浮かべ、やがて泣きそうな笑みを浮かべて深く頭を下げて、そしてもう一度だけ告げた。
「・・・・・・本当に、すみませんでした」
そして織部は、隊長室を出て行き、入れ替わるようにエリカが入ってくる。
おそらく今さっきのやり取りが、織部との最後のやり取りだっただろう。明日にはもう織部は黒森峰にはいないのだから、織部の姿を見る事ももうない。
改めてそう考えると、少し寂しいところもあった。みほが黒森峰を去った時の寂しさと比べればそこまででもない。だが、それでも短期間とは言え隊に所属し、破れはしたが恋慕していた者がいなくなるのも、何も感じずにはいられない。
ただし、織部に告げた言葉も、紛れも無い私の本心だ。
あの言葉を糧として織部が前に進めるのであれば、それでいい。
そして、私自身も、前へと進んでいく。
黒森峰を卒業した後、どうするのかは既にお母様とも話してあるし、学校側にも話は通してある。
西住流の、戦車道の新しい可能性と戦いを見つけるために、日本を離れる話は、既に始まっている。
そこで私は、首に提げていた金の懐中時計を手に取る。織部が、私の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。
その懐中時計は、止まることなく正確な時を刻んでいる。
その日の夜。最後の日という事で、小梅の部屋で夕食を小梅と共にした織部は、夜の学園艦を歩いていた。もちろん、傍には小梅もいる。
というのも、食後の後片付けをしている最中で、小梅が『少し、歩きませんか?』と言ったのが全ての始まりだった。
無論、織部も夕食を一緒に食べただけで、黒森峰で過ごす最後の日を終わらせるつもりは無かったし、小梅と色々話をしたくもあったから、小梅の申し出は願ってもいない事だった。
制服のまま、2人は夜の学園艦の町を歩く。明確にどこを歩くか、というのは決まっていた。2人が度々ジョギングで走るルートだ。
まず訪れたのは、営業時間を過ぎてシャッターを下ろす店の目立つ商店街。人気が無くなり、ただ明るい白い街灯が照らす道は、どこか廃れた感じを醸し出している。2人は、特に何も話さずに商店街を歩いて行く。
その次に訪れたのは、公園だ。何の変哲もないこの公園だが、新学期が始まる前の春休みに、この公園で織部と小梅は初めての出会いを果たしたのだ。桜の木の下で泣いていた小梅に声をかけた織部、あれが全ての始まりだった。桜の木も夜になった今ではシルエットしか見えないが、風に揺れる木の葉のざわめきは心地良く聞こえる。
続いて2人は、整備された小川の脇の小路を歩く。小川のせせらぎも夜になると、より澄んだ風に聞こえるのだが、この季節と時間ではそれが少し肌寒く感じる。織部がポケットに手を突っ込もうとすると、その前に小梅が織部の手を小さく握ってきてくれた。小梅の手も冷たかったが、その手を温めるように、織部は優しく握り返す。
さらに2人は、学園艦外周部の遊歩道を少しだけ歩く。全部歩くととてつもない距離になってしまうので、ほんの少し歩くだけだ。すぐそばには速度無制限のアウトバーンがあって、車の通りが激しいと一歩外に出ただけでお陀仏だが、今は車の音もせず、アウトバーンの向こうに広がる夜空と夜の海がよく見える。織部の記憶が正しければ、この近くに、小梅が躓いた地面の出っ張りがあるはずだ。だが、夜で明かりも無い今ではそれも判別がつかない。
そして2人は、少しの間だけ夜の海を見た後、2人にとってはとても、とても重要と言える場所を訪れた。
あの花壇だ。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
2人は、さも当然と言わんばかりに花壇の傍のベンチに座り、空を見上げる。
座るために一度離していた織部の手に、再び小梅の手が重ねられる。
織部がチラッと花壇を見れば、時期を過ぎて萎れた花がいくつかあるが、それでもまだ何輪かは咲いている。
「・・・思い返してみれば」
そこで小梅が、小さくポツリと呟く。織部は、自然と小梅の顔を見るが、小梅は夜空を見上げて微笑んでいた。
「・・・私と春貴さんの関係は・・・ここから、始まったんですよね」
厳密に言うと、最初に会ったのはこの場所ではなく、先ほど通りがかった公園だ。
だが、この場所で小梅と織部は、それぞれ過去に経験した辛い事を包み隠さず告白し、全てを曝け出して、そして確かなつながりをつかみ取った。
「・・・そうだ、大事な話をしたのも、ここだった」
2人が自分の中にある相手への隠しきれない、抑えられない想いを告げて、恋人となることができたのもこの場所だ。
お互いにとって、人生で一度しかないファーストキスを捧げたのも、この場所だった。
それから、何度もこの場所には訪れていた。2人にとってこの場所は、人生の転換点とも言える場所だ。大袈裟かもしれないが、それぐらい2人はこの花壇を重要視している。
「・・・そして、最後なのも・・・」
小梅の声が震えている。瞳が揺れ、潤んでいる。ふとしたきっかけで、涙を流しそうになるぐらい、濡れていた。
「・・・・・・最後じゃないよ。また会える」
「でも・・・・・・っ」
織部の手を握る小梅の手に力が入り、手が震えているのが織部にも伝わる。
「・・・・・・私・・・嫌だよ・・・」
瞳から涙があふれ、一筋の涙が頬を伝い、落ちる。それで抑えが利かなくなってしまい、小梅は泣き出してしまった。
「・・・・・・春貴さんと離れるなんて・・・嫌だよ・・・・・・」
今日はこの時まで、小梅はその寂しい、離れたくないという感情を表に出しはせず、織部に心配をかけさせようとはしなかった。ずっと、悲しいのを、寂しいのを堪えてきた。
だが、もう限界だった。抑えきれないほどの哀しさや寂しさを、小梅は吐き出した。
その小梅を、織部は抱き締める。少しでも安心させるように、織部がいなくなることに対する寂しさと哀しさを涙で表す小梅を慰めるように、優しく抱きしめて、背中をさすり、頭を撫でる。だが、それは却って小梅が感情を吐き出せるように促す事になってしまい、なお小梅は涙を流し続ける。
それを見て織部は、自分は涙を流せない、絶対に泣けないと思った。織部だって、小梅と離れ離れになるのは胸が張り裂けそうなぐらい辛い事だし、涙を流しそうになるほど心苦しい事だった。
だが、ここで織部が泣けば小梅の心配を煽ることになってしまいかねないし、それだけ織部も別れるのが悲しくなってしまう。だから、小梅の前で泣くのは無しだ。
少しの間、小梅は涙を流して泣き続け、織部はその間は決して小梅を離す事は無かった。
そして小梅が少し落ち着いたところで、織部は優しく小梅に話しかけた。
「小梅さん、聞いてほしい」
「・・・・・・?」
「僕は絶対に、また小梅さんに会いに行く。どれだけ遠くに離れても、絶対に、会いに行く」
「・・・・・・」
すすり泣く小梅だが、織部の言葉を聞いているのは分かる。だから織部は続ける。
「・・・小梅さんは、過去の事に思い悩んで、泣いていた前とは違う。昔みたいに根津さん達、友達との付き合いを取り戻して、戦車にもまた乗ることができて、そして副隊長になれるぐらいに成長している」
「・・・・・・」
「小梅さんは、もう強い人だ。だから・・・・・・」
僕がいなくても大丈夫だ、と言おうとしたところで織部は止めた。その言葉を言うと、小梅を余計に心配させると思ったし、加えてもう織部が会いに来ることができないかもしれないと、暗喩しているように聞こえてしまうからだ。
「・・・春貴さん」
そして何かを言おうとする前に、小梅が先に言葉を発する。
「春貴さんに会うことができなかったら、今の私はいなかった・・・。立ち直る事も、また皆と話をしたりご飯を食べたりすることも、戦車に乗る事だってできなかった・・・。副隊長になるなんてことも、できなかった・・・!」
「・・・・・・」
「春貴さんが、私を変えてくれた・・・。春貴さんのおかげで私はここまで来ることができた・・・・・・」
「・・・・・・」
「ありがとう・・・・・・春貴さん」
最後になってしまうから、言いたかったことを織部にぶつける小梅。
織部は、その言葉を否定する事無く、優しく抱きしめながら聞き届ける。それは、全部その通りだと織部が驕っているからではない。今だけは、小梅の言葉を否定はせず、ただ小梅の心からの言葉を聞き届ける。
「・・・・・・ありがとう、小梅さん。大好きだよ」
「・・・・・・私も、春貴さんの事、大好きです」
そしてお互い、言葉で愛を確かめ合い、さらに唇を少しの間重ねる。
少しの間そうしていて、どちらからともなく唇を離す。
「・・・・・・絶対、また会いに来てください」
「・・・・・・約束する」
気づけば大分時間が経っていて、花壇を離れて2人が寮へと戻る頃には、既に時刻は日付を超えようとしているところだった。
「・・・副隊長、頑張ってね」
「春貴さんも、頑張ってください」
恐らく、織部は元居た学校に戻ればクラスの連中から質問攻めにされるだろう。それを抜いても、この先大学を受験したり、戦車道連盟に就くために努力を更に重ねなければならないだろうし、確かに大変だ。
だが織部は、思い描いている未来をつかみ取るために、努力は欠かさない、止めない所存だ。
そして、毎朝織部と小梅、そして根津と斑田が落ちあう交差点にやってきたところで、小梅が『あっ』と気付いた。
「?」
「春貴さん」
そこで小梅は、改まって織部に向き合う。織部は、畏まった小梅の態度に若干疑問を抱くが、そして小梅は口を開いた。
「・・・・・・誕生日、おめでとうございます」
そこで、織部も時計を見る。0時を過ぎていて、織部が黒森峰を去る当日になり、そして同時に織部の誕生日でもあった。
「・・・・・・ありがとう、小梅さん」
誕生日プレゼントは、ない。
強いて言えばそれは、少し早めに貰った小梅からのキスと、再会の約束だ。
「おはよー」
「おはよ」
「おはようございます」
翌朝根津は、眠そうにあくびをしながら、いつもの交差点で小梅、斑田と落ち合った。だが根津の隣には、昨日までいた人物はもういない。
「・・・織部、行ったか」
「・・・ええ。今朝一番の連絡船で、本土へ戻りました」
根津が誰に聞いたわけでもないように告げると、小梅は少し寂しそうに言った。しかしそれは、実際に船に乗るのを見送ったからではなくて、昨日それを聞いたからだ。見送りにいかなかったのは、織部が去る瞬間を見てしまうとまた泣いてしまって織部を心配させかねなかったからだ。
「・・・・・・寂しいね」
「・・・そうだな」
斑田と根津が、しんみりとそう告げる。そして、小梅の顔をちらっと見るが、小梅はそこまで悲観した表情ではない。
「・・・・・・赤星さん・・・」
「・・・私は、大丈夫ですよ」
斑田が小梅を気遣うように声をかけるが、小梅は大丈夫だと言わんばかりに微笑み、首を横に振る。
「・・・春貴さんは、また会いに来るって約束してくれましたから。絶対だって言ってくれましたから。それだけで、私は大丈夫です」
その顔は、嘘をついているようには見えないが、それでも寂しいという感情までは隠せはしなかった。
「・・・・・・そうか」
「・・・・・・それなら、大丈夫だね」
だが、それを突き詰めるという無粋な事を根津も斑田もしない。だから心の中でだけは小梅の事を心配しながらも、同じように笑って小梅の言葉に頷く。
「・・・ここまで赤星に好かれるとは、織部も幸せ者だな」
「・・・・・・いいよねぇ。私もそんな恋がしてみたいよ」
「あはは・・・・・・た、多分できますよ、多分」
「なんで多分を2回言うの・・・・・・」
そして3人は、学校へと向けて歩き出す。
ふと空を見上げると、清々しく晴れ渡っていた。
それは、織部と小梅が再会を誓いながらも、一時だけ離れ離れになってしまう日にしては、いささか澄み過ぎている気もした。
ミヤコワスレ
科・属名:キク科ミヤマヨメナ属
学名:Gymnaster savatieri
和名:都忘れ
別名:
原産地:日本
花言葉:しばしの別れ、また会う日まで、穏やかさなど
これにて、黒森峰での織部の留学は終了です。
後もう少し、ほんの2~3話でこの物語も完結いたします。
最後までお付き合いいただければと思います。
次回からはこれまでとは違い、少々駆け足気味ではありますが、
重要な場面を書いていきますのでよろしくお願いします。
感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。