織部の性格は、自他ともに認めるほど真面目だった。
小学生の頃から織部は将来の事を見据えて勉強に励んでいて、教師からの評価は専ら『真面目で手のかからない生徒』だった。
両親も織部の真面目ぶりを評価してくれたし、織部自身が真面目でありたい、ふざけたくはないと意識していたからでもある。
親友と呼べる友達も、織部の真面目ぶりを『いっそ面白い』と評して気に入ってくれたし、なんだかんだでクラスの中では人望もあった。
しかし、学級委員長などには立候補したりはしなかった。真面目であっても、クラスの皆を率いるようなリーダーシップは織部には無かったし、人の上に立って責任を負う覚悟もまた持ち合わせていなかったからだ。
ちなみに織部は、このころから戦車道連盟で働くことを夢見ていたわけではない。将来は堅実に働こうと考えていたが、具体的にどんな職に就きたいかはまだ決めてはいなかった。
小学校を卒業し、中学校に進学しても織部の真面目な性格は変わることなく、新しい学校の新しいクラスでも、織部の立ち位置は『大人しい真面目な奴』だった。
けれど中学生とは、今までは小学生だった子供が一皮むけるような時期であり、壁を一つ越えたような時期でもあり、はっちゃけたいと思うようになる年頃だ。
だが織部はその真面目な性格ゆえ、皆がふざけたりはしゃいだりしても、あくまで真面目を貫き通して自分だけは普通でありたいと思っていた。
それが、一部からすれば面白くないと思われたらしい。
だから、織部はいじめの対象とされてしまった。
いじめの原因は大きく分けて、主に容姿・外見によるものか、性格によるものかのどちらかだとされている。
織部がいじめられる原因は、後者だった。
さらにいじめを助長するのは、主に相手が自分とは違う、自分にはないものを持っているからという嫉妬や劣等感だ。
この2つの原因と要素が合わさり、織部はいじめられることとなってしまったのだ。
「僕がいじめられる理由が、『ただ真面目なのが気に食わなかったから』って聞いた時は、本当にショックだったよ」
織部の言葉を聞いて、小梅は口元を手で抑える。
いじめという単語自体は知っている。いじめの事件がニュースに取り上げられたのも、何度も目にしている。
そして、度が過ぎたいじめによって被害者が自ら命を絶つというケースもまた、報道されたのを覚えている。
だが、小梅がその被害者をこの目で見るのは初めてだった。
今目の前にいる織部の過去は、もしかすると自分以上に、凄惨なものではないだろうか。
「僕自身、普通に生きているつもりだった。なのに、それが気に入らないって理由だけで僕がいじめられることが、どうしようもなく理不尽だった」
織部に対していじめを仕掛けてきたのは、別に織部とは親しくもなんともなかった、ただの同級生だった。
教科書を破かれ、ノートは捨てられ、鞄はプールに投げ入れられ、筆箱の中身は壊された。机にカッターで傷をつけられ、ロッカーを荒らされた。
直接的な暴力ではなく、陰湿な嫌がらせが主だったが、織部の精神をすり減らすには十分だった。
織部は前に述べたような事をされる度に担任に相談して、担任から注意がいったという話だが、いじめは止まる気配を見せなかった。
さらに織部に対するいじめが始まった事で、周りにも変化が起きた。
クラスの誰もが、織部を遠ざけるようになったのだ。露骨に遠ざけているわけではなく、話しかけてもそっけない、あるいは無視される事が急激に増えた。
その理由は織部自身も分かっている。皆、巻き添えを喰らいたくはないからだ。それは別に恥ずべきことではないのは織部も分かっている。
ただ、織部自身も周りから遠ざけられたことで、誰かを頼るような事もしなくなった。それは周りを巻き込みたくないという考えもあったし、別の考えもある。誰かが、織部がいじめている奴の事を悪く言ったと根も葉もないうわさを立てるのではと邪推したからだ。
だから織部は、クラスの皆から離れていった。小学校以来の親友さえも、遠ざけた。
それほどまでに、織部は疑り深くなっていた。
「・・・・・・あの時は、僕自身精神的に追い詰められてた。友達に相談する事もできなくなるぐらい人を疑うようになっていて、僕以外は皆敵、あいつらの仲間だと思い込んでた」
小梅は、織部のその自嘲するような言葉を聞いて、先ほど自分に向けて言っていた言葉を思い出す。
『自分に火の粉が降りかかるのを恐れて、逃げようとする・・・』
『ひどい仕打ちを受けていれば、自然と心も荒んでいって、人を疑うようになるのも分かる』
あの言葉は、やはり織部自身も経験していたからこそ、ああして重みを感じさせるような話し方で言うことができたのだ。
織部の表情は、その自分が過ごした苦痛な日々を思い出しているからか、苦しみをかみしめるかのような表情で、斜め下を見つめている。
そんな織部を落ち着かせるように、今度は織部の右手を包むように小梅は左手を重ねる。
織部は徐々に、体調不良による授業中の退室、早退や欠席が増えていき、遂には学校に行くこともできなくなった。
織部の状態を心配した教師と家族からは『一度家に戻った方がいい』と言われて、織部は学園艦を離れてしばらくの間は実家に戻ることにした。
実家に戻った事で緊張の糸が切れ、さらに周りは敵しかいないと思っていたクラスから解放されたことにより、織部は随分と久しぶりに家族の前で声を上げて泣いた。
それからしばらくの間は、カウンセリングのために病院へ行くとき以外は、家で勉強あるいは読書をして大人しくしていた。
しかし、やはり根が真面目である織部は、このままずっと休んでいるわけにはいかない、早くどうにかしないと、と思うようになった。それと同時に、自分をいじめた奴らが家にまで押しかけてくるのではないかと、根拠のない恐怖に襲われることとなってしまった。
「・・・・・・学校に行かなくなってから1カ月はそんな調子だった」
小梅は、織部がどんな性格なのかはある程度理解しているつもりだ。小梅の事を真剣に心配して、過去と現状を聞いたうえでそれでもなお小梅の傍にいると言ってくれた。
織部は心優しく、真面目な性格をしているのは小梅自身よくわかっていた。
だからこそ、織部が休学中は遊び呆けずしっかり勉強していたのだろう。そして、いつまでもこのままではダメだと焦っていたのも納得できる。
しかし、そんな状態の織部はどうやって復帰したのだろうか。
「・・・でも、ある日僕は出会ったんだよ」
「?」
まるで小梅の心の中を読んだかのように、小梅の方を見て、微笑を浮かべる。
「戦車道とね」
織部が学校に行かなくなってから1カ月が過ぎたある日。
家に籠りっきりの織部は、いつまでも引きこもっているようではだめだと思い、少しずつ行動範囲を広げようとした。
カウンセラーに相談したところ『あまり遠出しなければOK』という許可が下り、織部は積極的に外出するようにした。
だが、外出している最中でも、あいつらと会ったらどうしようと不安になる事は幾度となくあった。それでも、そんな根拠のないような事に怯えていてどうする、と自らを奮い立たせた。
外出を始めてから数日後、とあるフェンスで囲まれた草原の横を織部が歩いていると、『ズゥゥゥゥン・・・』と、遠くの方から腹に響くような音が聞こえた。その音のした方向は、フェンスの向こう側。近くには、『戦車道演習場につき、関係者以外立ち入り禁止』と書かれたプレートが取り付けてある。
なるほど、さっきの音は戦車の砲撃音か、とだけ織部は思った。
辺りを見れば、すぐ近くに演習場を見渡せる二階建てのコンクリート造りの無機質な建物が建っていて、その屋上には戦車道のファンらしき何人もの人が、双眼鏡で演習場を見ていた。あの建物は、見学用の施設なのだろう。
だが、その見物人たちも双眼鏡を仕舞い建物から出てくる。どうやら、さっき織部が聞いた音が決定打となって演習は終わってしまったらしい。
「・・・・・・・・・・・・」
なんとなく、織部がフェンス越しから演習場の中を見る。だが、はるか遠くの方で煙が上がっているのが見えるだけで、肝心の戦車の姿は見えない。まあ、このフェンスのすぐ近くで撃ち合いなどしていたら、うっかりフェンスを突き破って外にまで砲弾が飛んでくるかもしれないので、当然と言えば当然か。
戦車の姿が見えないと分かると、織部はすぐにその場を離れることにした。
だが、その近くに建ててあった掲示板を見て足を止める。
どうやら、今現在試合を行っているのは“黒森峰女学園”と言う学校と、“大学選抜チーム”というグループらしい。高校生と大学生、恐らくは経験も知識も違うチーム同士で試合をする事もあるのか、と織部は心の中で少し驚いた。強化試合と書かれているため、恐らくは黒森峰女学園とやらの練度向上が目的だろう。
そして、その黒森峰女学園と大学選抜チームの試合は今日が初日で、5日後まで続くらしい。
改めて振り返ってみれば、織部は戦車道など名前を聞いた事があるだけで、どんなことをやっているのか、その内容をこの目で見た事は無かった。
ニュースで戦車道の大会が行われていたとか、プロ戦車道の選手が結婚したなどという話をチラッと聞いた事はあるが、真剣に聞いたことは無い。
織部が通っていた学校のクラスにも、戦車道をやっている女子がいたような気もする。
しかし、男である織部は自分に戦車道など関係ないと思い、あまり深く戦車道の事を知ろうとはしなかった。
家族には別に戦車乗りも、戦車に関わる仕事をしている人もいない。
戦車道とは女の世界であり、男の自分が入る余地はない。
そう思っていたのだが、今、練習とはいえ自分の目の前で戦車道の試合が開かれていた。
(・・・・・・明日も試合はあるんだよな)
単純に、興味が湧いてきたのだ。こんな時ぐらいでしか、ぶっちゃけ時間に余裕がある今ぐらいでしか戦車道に触れる事なんてできはしない。
とりあえず、明日もここに来ようかな、と織部は心の中で思った。
その翌日、織部は親から双眼鏡を借り、昨日と同じ場所―――演習場近くにある2階建てのコンクリートの建物にやってきていた。昨日同様、戦車道ファンが自分の他にも大勢いる。年齢も性別もばらばらだったが、これから始まる戦車道の試合を今か今かと心待ちにしている。男女の比率は1:2と言った具合で、女性は若い人が目立つが、逆に男性は中年以上の人がほとんどで、織部のような成人していない者はいない。今日は平日で学校が普通にあるので、傍から見れば織部の方が浮いているのだ。
織部も他の皆と同じように、首から提げた双眼鏡で演習場を覗きこむ。
双眼鏡の先には、戦車がいた。両チーム共に10輌ずつ、合計20輌の戦車が向かい合っている。一方のチームの戦車は黄土色、もう片方のチームの戦車は鈍色だ。もっと目を凝らしてみれば、黄土色の戦車隊の前には黒の、鈍色の戦車の前にはグレーのタンクジャケットを着た女性が数名立っている。
両チームの選手が挨拶を交わすと、それぞれ戦車に乗りこみ距離を取る。お互いに、試合開始地点へと移動するのだろう。織部は、どちらの戦車隊の動きを見るか悩んだが、黄土色に塗られた戦車の動きを見る事にする。
やがて、試合開始の号砲が上がり、黄土色の戦車隊が草原を前進する。
織部の近くで同じように双眼鏡を覗き込んでいたファンの人たちも、『おぉっ』とか『始まったな』とか言っている。織部はそれ等の言葉を軽く聞き逃して、黄土色の戦車隊から目を逸らさない。
ほどなくして、黄土色の戦車隊が砲撃を始めたのだろう、砲塔から煙を上げる。それに連動するかのように、遠くから砲撃の音が織部の耳に届く。昨日と同じように、腹に響くような低い音だ。
だが、相手のチームも砲撃を始めたようで、黄土色の戦車隊の近くで土煙がいくつも起きたり、戦車の車体に火花が散る。
それでも黄土色の戦車は怯むことなく前進を続け、その最中でも砲撃の手を緩めない。
その戦車が進む先に双眼鏡を向ければ、相手の鈍色の戦車隊も同じように砲撃をしながら黄土色の戦車隊の方へと向かっている。
両者の距離はどんどん狭まっていく。地面に着弾する弾の数も減っていき、それに反して戦車を掠る弾の数が増えていく。
そしてお互いの距離がほぼゼロになり、黄土色の戦車隊の1輌が放った弾が、鈍色の戦車隊の1輌に直撃して大破させる。そして撃破されたことの証である白旗が揚がった。
鈍色の戦車隊はそれに怯んだようで、前進を停止する。しかし砲撃は止めずに続けている。
だが、黄土色の戦車隊はその砲撃を傾いた装甲を利用して弾き、なお前進を続ける。
黄土色の戦車隊は決して退かず、敵の砲撃に怯まず、目の前に並ぶ鈍色の戦車隊へと肉薄して砲撃を続け、また1輌撃破する。
「・・・・・・一気に引き込まれたんだ」
織部がその時のことを今でも覚えているかのように、その目にわずかな輝きを見せながら話す。小梅はその織部の顔から目を離さない。
「あんな大きな鉄の塊が動いて火を噴いて敵を倒している姿をみて、男心をくすぐられたっていうのもある。でも、それ以上に引き込まれるものがあったんだ」
「?」
小梅が首をかしげると、織部は笑って言う。
「どれだけ撃たれても決して退かず、攻撃を弾き、前へ進み続ける戦車がすごく格好いいと思ったんだよ。いじめられて、学校に通えなくなって、前に進むことができなくなった僕にとっては、その戦車がすごく輝いて見えたんだ」
その翌日も、織部は戦車道の演習を見学した。
撃破された戦車の修理もあったのだろう、参加していた戦車の種類は昨日とは少し違っていたし、どれが何という名前の戦車なのかは全く分からなかったが、それでも試合はのめりこむぐらい見入っていた。
演習が終わった後、家に戻った織部は戦車道の事を調べて、有名な戦車の名前だけは覚えた。そして、戦車道連盟の公式サイトから配信されていた戦車道の試合も観た。
こんな風に、1つの事に熱中して脇目も振らず集中するのなんて、人生で初めてかもしれなかった。
その翌日もまた、織部は演習の見学をした。どちらの戦車隊も、動きがパターン化するということは無く、昨日とも一昨日ともまた違った戦い方を見せてくれる。
戦車道というのも奥が深いものだと、織部は実感した。
そして演習最終日、その日の天候は生憎の雨。平日の昼と言うのも相まって、織部以外に見学をしている人は誰一人としていない。
織部は雨合羽を着ながら双眼鏡を覗き込む。こんな天候でも戦車道の試合は行われるのだから、戦車道の世界も厳しいのだなと織部は思った。学校の体育などは雨が降れば体育館でとなるけれど、戦車道と学校の体育を一緒にするのも野暮だなと苦笑する。
やがて雨が降りしきる中で試合が始まり、両チームの戦車が前進を開始。距離を詰めると砲撃を開始する。
雨の中でも、装甲を貫けば黒煙が上がり、装甲が砲弾を弾けば火花が散る。雨雲のせいで少し暗くなっている下での火花や煙は、割と絵になる。
そして演習が終わり、織部が踵を返して帰ろうとしたところに、その人物は立っていた。
織部よりも身長がやや高い、恰幅のいいその人物は、黒い紋付き袴を着ていて頭には帽子を被っており、黒い傘を差している。歳は50前後と言ったところだろうか。
織部は最初その人物をスルーしようとしたが、その人は明らかに織部の事を見ていたので、無視するわけにもいかなかった。
どうしたものかと悩んでいると、向こうから声を掛けられた。
「君、最近よく見るね」
「え?はぁ・・・・・・」
織部が気の抜けた返事をすると、その男は後頭部を掻いて済まなそうな笑みを浮かべる。
「ああ、すまない。急に話しかけてしまって」
男は謝りながら、懐から1枚の小さな紙を取り出して織部に差し出す。名刺のようなサイズのその紙を織部が見ていると、その人物は名乗った。
「私は児玉七郎。日本戦車道連盟の理事長をやっている」
その後織部と、児玉と名乗った男は、雨の中で話すのも厳しいので、見学をしていた建物の1階へと移動する。
児玉によればこの建物は、戦車道の演習を見学したい人のために戦車道連盟が建てたもので、1階部分は休憩スペースになっている。中にはいくつかの木製のベンチと自動販売機が1つ設置されている。
織部と児玉は、ベンチに座り話を始める。
聞けば児玉は、初日から演習が行われている間ずっとここで試合を見ていたらしい。織部が気付かなかったのも、試合に見入ってしまっていて周りが見えていなかったからだろう。
「すまないね、急に声を掛けたりして」
「いえ・・・・・・」
児玉理事長は、少し困ったような顔で織部に話しかける。
児玉曰く、織部のような若い男子が戦車道に熱中しているのが珍しかったらしい。戦車道は乙女の嗜みなので、男性からの人気は低い。いたとしても、児玉のような大人が多いという。だから織部が珍しく見えたのだ。
「・・・・・・」
そこで織部は、自分がここにいる経緯を思い出す。
確かに今この見学施設にいるのは戦車道にハマって試合を見たかったからではあるが、どうして戦車道にハマったのか。
それはやはり、忘れる事の出来ない自分が受けたいじめのせいだ。
織部の表情に陰りが差したのに気づいたのか、児玉が話しかけてくる。
「何か、悩みでもあるのかな?」
織部はここで悩む。自分の今置かれている状況を話すべきか、話さずにおくべきか。
織部は、入学当初は別に軋轢も無かった者がいじめを仕掛けてきた事で、半ば人間不信になっていた。だから、この初対面の児玉に全てを話すというのも憚られた。
しかし織部は、戦車道に出会ったおかげで、閉塞していた日々から抜け出すことができたのだ。色を失っていた織部の日々に、戦車道という名の色が付いたのだ。
そしてこの児玉は、その戦車道のトップとも言うべき人物。
ここで、繋がりを持っておきたかった。
家族以外、友達すらも信用できない織部は、人生で初めて熱中した戦車道に携わる人物と新しく関わりを持ちたかった。
だから織部は、全てを話すことにした。
「・・・・・・実は、僕は・・・」
自分がいじめられたこと、それによって今は学校に通っていない事、そしてそんな中で戦車道の世界に引き込まれたことを正直に話した。
「・・・戦車が、どれだけ撃たれても一歩も引かずに前に進み続けている姿が、とても格好良くて」
「・・・・・・そうか」
「それで、戦車道にハマったんです」
児玉は織部の生い立ちを聞いて、気の毒だと思った。そして、どうにかしてあげたいと思った。
いじめを受けて学校にも行けない目の前の少年が、戦車道の世界に触れて活力を取り戻し、前へ進みだそうとしている。少年の心を動かしたのが、児玉自身が携わっている戦車道なのだから、とても他人事で済ます事はできない。
だから児玉は、織部にこんなことを聞いた。
「・・・・・・織部君」
「?」
織部が児玉の顔を見上げる。児玉は、その織部の顔を真剣な目で見つめてこう言った。
「もっと、戦車道について詳しく知りたいかい?」
「あの時は、信じられなかったよ」
空を見上げる織部。影の伸びている方向は変わっていて、小梅と出会って話をし始めてから大分時間が経ったのが分かる。
けれど、小梅の左手は変わらず織部の右手を包むように握っていて、小梅は織部から目を逸らしていない。
織部の過去を真剣に聞いてくれている。
「偶然にも理事長と会って、僕を取り巻く環境の事を話して・・・戦車道連盟の本部に招待されるなんて」
戦車道連盟の本部は、基本的に特別な事由が無い限りは行かないものだ。
戦車道連盟は、全国各地に支部がある。プロ・アマチュアを問わず、大体の用事は管轄内にある支部で用事を済ませてしまうからだ。
小梅ですら、本部には行ったことは無い。そんな場所に織部が行ったことがあるとは。
織部の話には、驕りや自慢と言った感情は見受けられない。あるのは、辛く苦しいものではあるが忘れる事の出来ない過去を思い出した事による、悲哀や懐古だ。
「それで連盟の本部を見学させてもらって・・・。そこで、ネットとかには載ってない、戦車道の具体的な歴史を教えてもらって、戦車道とは本来どういうものなのかを教えてもらって・・・」
そして、と言いながら織部はまだなお小梅の手に重ねている右手を握る。
「・・・・・・僕も将来は、僕の人生を変えた戦車道に携わりたいと思うようになった」
その意思を児玉に伝えると、児玉は笑みを浮かべた。
閉ざされていた織部の将来が、戦車道によって開かれたのだ。
児玉は目の前にいる、男でありながらも戦車道の道を志す少年を見て、その夢を応援したくなった。
当然ながら、理事長を務めている児玉は戦車道の事を愛している。
その愛している戦車道によって、織部は閉塞されていた日々から抜け出したのだ。そして、新しい未来を見つけたのだから、これほどまでに嬉しい事も無い。
児玉は、織部の今置かれている環境を鑑みて、『できる限りサポートしたい』と織部を応援する旨を伝えた。
織部は、将来の方向性が固まったことで、3カ月ぶりに学校に戻る決意を固めた。
戦車道にハマって、日本戦車道連盟本部に赴いて、それで決まった自分の将来の夢の事を話すと、織部の両親は背中を押して応援してくれた。
学校に復帰する際はやはり緊張した。またいじめられるのではないか、本当に夢を叶えられるのか、という不安に襲われた。
けれど、信用していなかった小学校からの親友が織部の傍にいてくれた。
織部が“そう思っていた”だけで、織部の親友は織部の事を心配してくれていたのだ。
だから、織部が復帰した日には笑って迎えてくれたし、また一緒に遊ぼうと誘ってくれた。
織部も、その時は涙浮かべながらも、笑って『うん』と答えてくれた。
そして、織部も真面目一辺倒ではなく、少しだけだが柔軟に富むようになった。言ってしまえば、妥協を覚えたのだった。前までは『こうでなければだめだ』『こうしなければならない』という考えに縛られていたのだが、今では『別にそうでなくてもいい』『できないこともある』と考えるようになったのだ。
けれども織部は、3カ月のブランクを取り戻すために勉強を今まで以上に頑張った。
後に聞けば、織部をいじめていた連中は、『真面目なのが気に入らなかった』のと『織部の困る様を見るのが面白くてやった』らしい。だが、流石に教師や保護者から何かを言われたのか、いじめはいつしか無くなっていた。
一方で児玉は、本来の業務の傍らで、織部が戦車道連盟に就く事ができるような道を模索していた。
戦車道連盟に所属している人物のほとんどは女性だが、男性もわずかに在籍している。しかし、その男性というのは家族に戦車乗りがいたり、母親が戦車道連盟で働いていたり、妻がプロ戦車道の選手だったりと、皆何かしら戦車道とかかわりがある者だ。
織部の家族は戦車道とは無縁の、ごく一般的な家庭だ。だからこそ、どうすれば戦車道とつながりを持つことができるのかが、課題となっていた。
さらに言えば、(どの企業や会社にも言える事ではあるが)戦車道連盟も馬鹿では就けない。相応の知識と教養が必要である。先ほどのように何かしら戦車道と縁がある男性も、やはり並大抵の学校卒ではなく、一般以上のレベルの学校を卒業していた。
だから織部も、戦車道の事が学べて、なおかつ平均をはるかに上回る学校で勉強させる必要がある。
やがて児玉は、戦車道の強豪校で教養を重ねればいいという結論に至った。戦車道の強豪校とは大概レベル―――偏差値が高く、規模の大きい学校であるからだ。
しかし、それもまた実現不可能に近い道である。何せ、戦車道の強豪校とはほぼ女子校であるため、そこに男の織部が入学する事など不可能、あり得ない事だ。
戦車道のカリキュラムが組み込まれている共学の学校もあるにはあるのだが、そこは大体偏差値が並みかそれ以下だ。
けれどこれ以外の道が思いつかない児玉は、ダメもとで頼み込んでみることにした。
その頼む相手は、“あの”西住流が後ろについている戦車道の強豪校・黒森峰女学園。
西住流の家元は高校戦車道連盟の理事長を務めているため、日本戦車道連盟理事長の児玉とも面識が、繋がりがある。
そして、黒森峰女学園の戦車隊は、織部が戦車道の世界に踏み込むきっかけとなった黄土色の戦車隊が所属している。
その繋がりと織部の想いに賭けて、児玉は頼むことにしたのだ。
だが黒森峰女学園の校長及び西住流師範の西住しほに最初頼んだ際は、当然ともいえるが却下された。やはり、どんな理由があれ女子校に男子を入学させるなど前代未聞であるからだ。
それでも児玉は、戦車道に心動かされて人生の道を再び歩き始め、新しい未来を見つけた1人の少年の事を放っておくことが、その少年に諦めろと言う事ができなかった。
その熱意を伝えると、やがてしほと校長は、1つの提案をした。
高校1年生の間の織部の学業・素行を確認し、黒森峰と西住流が問題ないと判断した場合は、留学という形での転入を許可する、と。
「その話が届いたのは中学2年の時。それ以降、1日の勉強時間が前の倍以上になったよ」
織部が苦笑しながら話す。小梅は閉口したまま、織部の話を聞いている。
織部が黒森峰に来た経緯が、自分の想像以上に規模の大きなものだったからだ。
日本戦車道連盟と繋がりを持った経緯も、黒森峰に留学できたのも、そして黒森峰の試合を見たのがきっかけで織部の人生が変わったのも、全てが小梅の予想外だった。
「1年生の間だけでも普通の高校に通っていたんじゃ、箔はつかない。だから、頭のいい・・・言ってしまえば偏差値の高い学校を目指すようになったよ。そのために塾にも通い出して、友達と遊ぶ暇も惜しんで勉強漬けになったよ」
受験に合格したら、反動で皆と結構遊んだけどね、と乾いた笑身を浮かべながら織部が話すが、小梅は全く笑えなかった。
織部の言っていた日本戦車道連盟に繋がりがあるという話は、嘘ではなかった。
そしてその日本戦車道連盟の理事長が織部のために黒森峰に、あの西住しほに頭を下げて織部を転入させたいと頼み込んで、条件付きでそれが認められた。
今織部がここにいるという事は、その条件をクリアしたという事だろう。
「友達と別れるのは寂しかったけど、どうにか平均よりもレベルの高い高校に入ることができたよ。でも、それで終わりじゃない。そこからさらに1年間は勉強を続けて、いい成績を取らないと黒森峰に行けなかったから。黒森峰に認められなかったから」
織部の額に冷や汗が浮かんでいる。あの、中学2年の頃の黒森峰への条件付き転入の話が上がった時から今に至るまでの自分の努力と苦労の日々を思い出したのだ。
「・・・それで、僕の努力が認められて、黒森峰で本格的に戦車道の勉強をすることができるようになって、僕はここにいる」
人並外れた努力の積み重ねによって織部は今ここにいるのだと思うと、小梅は怯えにも似た感覚に陥る。
いじめという決して忘れられない辛い過去を背負い、それを人生の転機としバネに変えて、ここまでのし上がってきた。
そんな織部の事を、小梅は尊敬せずにはいられない。
「・・・・・・すごい」
自然とそんな言葉が小梅の口から漏れ出ていた。
「・・・僕は、ここまで僕を導いてくれた戦車道連盟と、僕のことを認めてくれた黒森峰女学園、そして西住流の師範には感謝している。理事長の児玉さんと、黒森峰の校長にはもうお礼を言ったんだけど、師範の西住しほさんにはまだお礼が言えてないんだ」
しほの名前を聞いた途端、小梅の肩がビクッと震える。織部は、しほの名前を出したのは軽率だったかと反省した。
小梅は、西住流の教えに反した行動をとったみほがいなくなってしまったのを悔やんでいて、恐らく西住流に対して恐怖心を抱いている。それをあおるような発言は控えるべきだと織部は改めて思った。
「・・・・・・戦車道に触れたそもそもの理由は、僕がいじめられていたからだ。だから、これはあまり話さないでいたんだよ」
織部が締めると、小梅は尊敬に満ちた表情を織部に向けてくる。
「・・・・・・春貴さんって、すごい人だったんですね・・・」
「僕は別に・・・・・・ただここに来たくて努力をしてきただけだよ」
「・・・・・・・・・・・・それなのに、私は春貴さんの事を・・・」
小梅はまだ、織部を自分の都合で自分の下から離れさせないようにしたことを悔やんでいる。そしてさっきの話を聞いて、尋常ではない努力を積み重ねてきた織部を利用しようとしたことに対する罪悪感が、どっと押し寄せてきたのだ。
「小梅さんは、そんな罪悪感に苛まれる必要はないんだよ」
それでも織部は、小梅の事を許してくれた。
「僕だって、繋がりが欲しくて児玉さんに話をした。そして小梅さんも、僕との繋がりを断ち切りたくなくて、昨日みたいに言葉をかけてくれて、今日僕に話をしてくれた」
織部が笑いながら小梅に話しかけてくれる。小梅は、なお笑って小梅の事を責めない織部から目を離すことができなかった。
「小梅さんは人として、何も間違った事はしていない。だから僕は小梅さんを責めたりはしないよ」
織部が、真っ直ぐな瞳を小梅に向けて告げる。
その言葉に嘘偽りがない事は、小梅にも分かる。
だから小梅は、また謝って織部を困らせるようなことはせずに、感謝の気持ちを言葉にした。
「・・・・・・ありがとう」
小梅の心には、今なお去年の全国大会の出来事が突き刺さっている。
しかし今、それを上書きするかのような別の何かが芽生えてきていた。
織部は、初めて出会った時小梅の身を案じて声を掛けてくれて、その背中を撫でてくれた。
新学期に再開した日には、様子のおかしい小梅の事を心配して何があったのかを聞いてきた。
小梅が根津や斑田を避けて、織部を繋ぎとめようとして、疑心暗鬼に陥って織部を疑っても、織部は小梅の事を見捨てようとはしなかった。
そして『離れたりしない。傍にいる』と言ってくれた。その言葉はとても胸に響いたし、忘れることは無く、小梅の心に残っている。
織部は自分と同じ―――いや、それ以上の過去を背負っていて、それでも戦車道の世界に触れて、戦車道に携わりたいという夢を抱いて、誰にでもできるようなものではないほどの努力を積み重ねてここまで来た。
そんな織部に対して小梅は、尊敬だけではない、多くの感情を抱いていた。
その中でも一際大きな感情が芽生えているのだが、小梅はその正体にはまだ気づいてはいない。
ヒガンバナ
科・属名:ヒガンバナ科ヒガンバナ属
学名:Lycoris radiata
和名:彼岸花
別名:
原産地:中国
花言葉:悲しき思い出、諦め、独立、情熱