お互いに自分の事を全て打ち明けて話をしている間に、気づけば時間は正午を過ぎてしまっていた。
話も一区切りついたので、織部と小梅は、新学期初日にも訪れたドイツ料理店に向かう。定食屋でもなくファミレスでもない、ドイツ料理店を選んだのに深い意味はない。ただ、新学期に再会した時と違い今の織部と小梅の2人はお互いに相手の事を知っている。あの時のように相手が何を考えているのか、そしてどうしてここにいるのか分からないのではない。
店に入り、席に通された2人は向かい合って座る。
席に着き、店員がメニューと冷えた水、おしぼりを置いてその場を離れると、織部も小梅もメニューには触れないで座ったままだ。
織部も小梅も、相手の事を聞いて、言いたかったことは全て言ったつもりだ。
「・・・・・・私の事を、洗いざらい誰かに話したのなんて、初めてでした・・・」
「僕も、僕の過去を全て誰かに一から話した事なんてないよ」
そこでお互いに笑い合い、水を一口飲む。織部は息を吐き、明かりが灯る電灯を見上げる。
太陽ほど眩しくはない、しかし直視し続けるのは少し厳しいそれを少しの間見上げて、やがて顔を小梅に向ける。
「・・・正直、僕の過去は僕自身あまり触れないようにしていた」
「?」
小梅が首を傾げ、織部は話を続ける。
「僕が戦車道に携わりたい、戦車道連盟に就きたいと思ってここまで来たのは確かだけど、その触れたきっかけはいじめられていたからだ。これは、忘れる事はできない」
コップを持つ織部の手に自然と力が入る。だがガラスを握り砕くほどの握力を織部は持ち合わせてはいないので、冷えた水の温度が織部の手から身体に伝わるだけだ。
「そして戦車道連盟に就きたいと思うようになったきっかけ―――つまり僕がいじめられていた事を思い出すと、必然的にどうしてそうなったのか、何をされたのかまで思い出しちゃうものだから」
寂しそうに笑う織部の顔を見て、小梅もまた思い出す。
織部の口から告げられた、中学で何をされたのかを。その内容はあまりにもひどく理不尽で、自分が受けた苦痛と同等かそれ以上に辛いものだったのかを。
「・・・・・・・・・・・・私・・・」
小梅は、織部に対して酷な事をしてしまったと気付く。
小梅は心に蟠る過去と現状を全て話した。それによって、小梅が全て話したのだから織部も全て話すべきという事になり、織部自身も話さなかった―――悪い言い方をすれば隠していた、織部がどうして黒森峰に来ることができたのか、どうして身内に戦車道関係者がいないにもかかわらず戦車道連盟と繋がりがあるのかを全て話した。
極端に言ってしまえば小梅が、織部が過去のトラウマに触れるようにしてしまったのだ。
だが、織部は小梅が悪い、小梅のせいとは毛頭思っていない。
「小梅さんが気に病むことは無いよ。きっかけっていうのは忘れちゃいけない事だし、あれのおかげで今の自分があると思ってるから、今はそこまで辛くはない」
それに、と言いながら織部は小梅の方を見る。
「小梅さんは、僕と同じように色々仕打ちを受けても、自分の心の中にある強い信念を持って今までずっと黒森峰で頑張ってきた。僕と同じように今を生きようと頑張っている人がいるから、僕も頑張れる」
辛い、消えない、決して忘れる事の出来ない過去を背負っていても、その過去と向き合って今を生きている織部が、小梅には輝いて見えた。
だから小梅は、何も言わずにはいられない。
「・・・春貴さんは、私の事をすごいって言ってくれましたよね」
「?」
「でも、織部さんもすごいと私は思います」
織部が小梅の方を見る。小梅は織部の目を真っ直ぐに見つめて告げる。
「・・・過去に春貴さんがされたような事を他の人がされれば、誰だって傷ついて、ふさぎ込んでしまいます。でも、あなたはそこから自分の力で這い上がって、夢を叶えたいって一心で努力を積み重ねてきて、この黒森峰にまできた・・・。とてもすごい事だと思います」
「・・・・・・・・・・・・」
「誰だって、過去の嫌な出来事からは目を背けたいものですけど・・・春貴さんは、きちんと夢を持つようになったきっかけだからという理由でその過去を忘れず、真摯に向き合っている・・・。春貴さんはとても、心の強い人です」
小梅に言われるが、織部は首を横に振る。
「・・・僕は、一度不登校になった・・・。本当に心が強い人は、そうならなかったと思う」
今度は小梅が首を横に振って、織部の言葉を否定する。
「でも、それを乗り越えて新しい夢を見つけて、また同じような目に遭うんじゃないか、という不安に打ち勝って、学校に戻ってきたのもまた心が強い証拠です」
「・・・・・・・・・・・・」
小梅の顔を、呆けた様子で見る織部。
“心が強い”と言われた事など一度も無かった。家族や周りからは『よく頑張った』とか『すごい努力家だ』と言われたことは何度もあるけれど、『心が強い』とまで言われたことは無かった。心が強ければ、不登校になどならなかっただろうから。
小梅自身も辛くて苦しくて悲しい過去を経験しているからこそ、同じような過去を背負う織部に言えるのかもしれない。
しかし、小梅が自分の事を素直にすごいと言ってくれたことに対しては、ちゃんとお礼を言うべきだと思った。
「・・・そう言ってくれたのは、小梅さんが初めだよ。ありがとう」
織部が笑みを浮かべて、小梅に感謝の言葉を告げる。
その織部の笑顔は、とても優しくて、温かい気持ちになれるものだった。
小梅は、自分が織部に会うまでずっと俯いて周りから目を逸らし、泣いてばかりいた。だから、今織部の浮かべているような笑顔を随分と久しく見ていない。
「・・・・・・」
織部の笑顔を見ているうちに、顔が熱くなってしまい、つい目を逸らしてしまう。だから、織部が怪訝な表情を浮かべているのも見えない。
だが、小梅がどんなことを考えているかなどつゆ知らず、織部はさらに追い打ちをかける。
「・・・・・・不思議と、小梅さんになら色々話せる気がする。僕の過去の事も、弱音も」
余計に顔が熱くなってしまう小梅。そんな事言われたの生れて初めてだったし、織部の優しい笑顔がまだなお頭から離れていないので、余計に恥ずかしくなる。
そしてつい、小梅も本音をこぼしてしまった。
「・・・わ、私も・・・・・・春貴さんになら全部、話せるような気がします・・・」
言った後で小梅は『しまった』と思う。少し踏み込み過ぎたと思ったからだ。
だが、織部は驚きはしているものの、不快な感情を抱いているようには見えなかった。
「・・・・・・じゃあ、これからもっと色々話していこう」
「・・・・・・そう、ですね」
そこでまだ料理を頼んでいない事を思い出し、2人はテーブルに置かれたメニューに手を伸ばす。
だが、そこで2人の指先がほんのわずかに触れて、小梅がビクッと自分の手を引っ込める。
「あ、ごめん・・・」
「い、いえ・・・・・・大丈夫です・・・・・・」
メニューは1つしかないので、どちらが先にメニューを決めるか織部は悩んだが、小梅が右手を引っ込めたままなので、とりあえず先に織部が何を頼むかを決めることにした。
その最中で小梅は、織部の指先と触れてしまった自分の右手を左手で握る。
さっき花壇の前で背中を撫でてもらったり、左手を包み込むように握ってもらったというのに、少し指先が振れただけで緊張してしまうなんて。
さっき織部の笑顔を(いい意味で)直視できず、織部の言葉に動揺してしまって、少し指が触れた程度でここまで焦ってしまうなんて。
これではまるで―――
「はい、小梅さん。僕は決めたから。ゆっくり決めていいよ」
「あ、どうも・・・・・・」
自分の行動を、ある感情を抱いているかのように例えようとしたところで、織部からメニューを手渡された。小梅は写真付きのメニューを凝視して、織部の事を考えるのをいったん止めようとするが、先ほどの織部の笑顔と言葉が頭から離れない。
そんな中でどうにか何を頼むかを決めて、織部が店員を呼んで注文する。
さて、『色々話したい』と織部は言ったが、小梅はどうもさっきからもじもじしていて織部と視線を合わせようとはしない。
何かまだ気がかりな事でもあるのだろうかと思ったのだが、今までのように小梅の表情には愁いも苦しみも見られないのでどうもそう言うわけではないようだが、織部には小梅が今何を思っているのか皆目見当がつかない。
そこで、織部はじろじろと小梅の事を見てしまっている事に自分で気付いた。
陰口に晒されていた小梅にとって、何でもないような時間や場所で人から注目されるのは少し怖いのだろうか、と織部は思い、小梅から視線を逸らす事にする。
結果、2人は料理が来るまでの間も、料理が来てからも、目線を合わせずお互いに相手の顔を見ないで過ごすこととなった。
昼食を食べ終わり、会計を済ませて(またも割り勘)店を出て、織部と小梅は揃って空を見上げる。
今朝、花壇の前で小梅と会った時から少し時間が経ち、それに伴い太陽の位置も大分変わってしまっている。それを踏まえても、小梅には空がさっきまで―――今日織部に会って話をするまでとは違ったように見えた。
やはり、小梅が自分の心に突き刺さっていた過去と、今の自分を取り巻く現状を織部に話し、心の中の蟠りが無くなった。そして織部が『離れたりしない、傍にいる』と言った事で、自分の傍に誰かがいてくれる事に安心感を得た事で、小梅の心の負担が大きく軽減されたのだ。心に余裕ができた事で、空が違ったように見えるのも気のせいではないのかもしれない。
小梅と同様に空を見上げる織部もまた、小梅と同じような感覚―――空の色が違うような感覚を得ていた。
この後は特に用事もないので寮に戻ろうと思い、寮の方向へ足を向けたところで。
「織部君、赤星さん」
自分たちの事を知っているかのような呼び声。振り向いてみれば、そこには同じく制服姿の斑田と根津が立っていた。
声からして織部と小梅に声を掛けてきたのは斑田の方で、根津は右手を挙げて挨拶をしてくる。
「根津さん、斑田さん。こんにちは」
織部は根津と同じように片手を挙げて挨拶をする。だが、織部が横目に小梅を見れば、小梅は少し怯えたような表情で、斑田と根津の顔を見ずにわずかに下の方を向いている。
いくら織部が『根津と斑田は嫌ってはいない』と言っても、それが本当かどうかは定かではない。だから、こうして小梅が怯えてしまうのも仕方ないと言えば仕方ない事だ。
「2人とも、どうしたの?」
根津が世間話でもするかのように聞いてくるが、小梅はビクッと震える。
別に織部と小梅の間にやましいことは何一つとしてない。ただ2人で話をしていただけなのだが、その話している内容は余りにも重すぎるものだった。だから、人においそれと話せるような内容ではない。
「まあ、ちょっと色々・・・」
適当にはぐらかす事にする織部。
そこで斑田と根津は、小梅の怯えた表情を見て何かを感じ取った。
「・・・まあ、深くは聞かないでおくよ」
根津が頭の後ろで腕を組みながら言うと、織部も小梅も内心ほっとした。
「ところで、お2人は何を?」
織部が聞き返すと、斑田は頬を掻き困ったような笑みを浮かべながら答える。
「私たち、戦車道博物館に行こうとしたんだけど、今日設備のメンテナンスで休みだったんだよね」
「戦車道博物館?」
聞いた事の無い建物の名称を聞いて、織部が頭に疑問符を浮かべる。
「あれ、行った事無い?黒森峰の戦車道の歴史とか、戦車のレプリカとかがあって面白いとこだけど」
「・・・・・・そもそも聞いた事も無かった」
そんな場所があるなんて知らなかった。
織部は黒森峰に留学する事が決まった際に、黒森峰女学園の事については事前調査をしていたつもりだったのだが、学園艦内の施設までは把握することができなかった。
春休みに一度、下見に訪れた際にもその戦車道博物館の存在に気付けなかった。織部は、自分の詰めの甘さを痛感する。
「で、明日改めていこうと思ってたんだけど・・・良ければ明日、織部も一緒に来る?」
根津から誘われて、織部は少し考える。
明日は日曜日で、戦車道の訓練はない。新学期が始まって間もないので宿題を出されているわけではないし、懸念すべきドイツ語の授業の予習も1日かけてやるようなものでもない。
それに戦車道博物館は、将来戦車道に携わる者として行っておくべき場所だろうと直感で思ったので、頷いた。
「迷惑でなければ・・・いいのかな?」
「いいよいいよ」
根津が笑い、斑田もうなずく。
そこで。
「あ、あのっ」
これまで沈黙していた小梅が声を上げる。根津と斑田はもちろん、隣に立っていた織部も少し驚く。
しかし小梅は、声を上げたはいいものの、胸の前で手を握り視線は根津と斑田の首元辺りに向けて、何かを言いたそうにする。
そこで織部は、小梅が何を言おうとしているのか、分かったような気がする。
先ほど小梅と話した際に、自分が小梅に対して何と言ったのかを思い出し、さらに今の状況を見直して、小梅の言いたいことを理解する。
だが織部がそれを代弁する気はさらさらない。あくまで織部は、小梅が自分から言うのを待つだけだ。
やがて小梅は、か細い声で告げる。
「私も・・・一緒にいいですか?」
織部はそれを聞いて、少しだけ唇を歪める。
根津と斑田は、一瞬驚いたように口を小さく開けるが、すぐに笑みを浮かべて。
「・・・もちろん、いいよ」
「多い方が楽しいしね」
2人とも頷き、小梅の事を受け入れた。
小梅はその瞬間、瞳にわずかに涙をにじませて、笑みを浮かべてお辞儀をした。
「ありがとうございます!」
その後、途中まで4人は一緒に歩き、やがて途中の交差点で織部と根津、斑田、そして小梅の3手に別れた。織部と根津は同じ寮で、斑田と小梅はそれぞれ別々の寮だったからだ。
さよならの挨拶もほどほどに他の2人と別れた織部と根津は、少し歩いてから寮へと入り込む。ホールでエレベーターを待つ間、根津は織部に話しかける。
「・・・赤星、少し変わった気がする」
「・・・・・・」
織部は根津の事をちらっと見るだけで何も言わない。根津も返事や相槌を期待しているわけではなかったようで、さらに続ける。
「前は食事に誘っても断ったり、あまり赤星の方から話しかけたりもしなかったんだよ。だからさっき、自分から『私も一緒に』って言ったのがすごい新鮮に思えた」
「・・・・・・そうだったんだ」
口ではそう言うが、織部はどうしてそうなったのかは想像がつく。
花壇の傍で話した時に織部が、『少なくとも根津と斑田は小梅のことを嫌ってはいない』と小梅に言ったことで、小梅の中にある根津と斑田に対する不安や怯えが幾らか晴た。そしてさっき、それが本当なのかどうかを小梅の方から確かめようとしたのだろう。
本当に根津と斑田が小梅の事を嫌っているとすれば、小梅から言っても断るだろうから。
だが根津と斑田は、小梅の勇気を持った言葉を受け入れて、一緒に戦車道博物館へ行くと約束してくれた。
織部が傍にいると言って、小梅が孤独から解放されても、まだ周りとの間に溝があるのに変わりは無い。そして、その溝があったままでいいとも小梅は思っていない。
戦車と言うチームワークの塊に乗っていて、その戦車がいくつも集う戦車隊に所属している以上、周りから孤立していてはこの先やっていけない。だから小梅は、壁を取り払おうとして自分から声を掛けたのだ。
そして根津と斑田は、小梅の勇気を持った言葉に応えて、一緒に戦車道博物館へ行くと約束してくれた。
「・・・・・・まさかとは思うけど」
「?」
チン、と甲高い音が鳴り、エレベーターの扉が開いたところで、根津が何やら意味深な笑みを浮かべて織部の方を見た。
「織部が何か言ったの?」
根津の推測は外れてはいない。むしろ的中している。
けれど、あの時あの場所で話した事は、いずれは同じ戦車道を歩む根津にも話さなければいけない事ではあるが、小梅の口から話した方が良い事だ。だから、織部からは何も言わない。
「・・・少し、アドバイスをしただけだよ。小梅さんが何やら思い詰めていたようだから」
「ふーん・・・・・・」
エレベーターに乗り込みながら織部ははぐらかす。しかし根津はまだなお織部の事を見ており、このまま見られ続けられるのも少々いたたまれないので、話題を変えることにする。
「・・・ところで、明日は何時に集まろうか?」
「ああそうだ、忘れてた。まあせっかくの休みだし、遅めにするかな?」
「それがいいかもね」
貴重な休みなのでゆっくりしたいという根津の意見で、待ち合わせは10時半に戦車道博物館前とした。しかし織部はその博物館の場所が分からなかったので、その30分前に根津と寮の前で待ち合わせて一緒に行くこととなった。
「赤星と斑田にも伝えなくちゃだな。でも赤星のアドレス私知らないんだよな・・・」
「ああ、だったら僕が送っておくよ。アドレス知ってるから」
「あ、そうなの?じゃあ任せた」
「分かった」
織部と小梅は、先ほどのドイツ料理店でアドレスを交換したのだ。
少し遅いお近づきの印―――というより、お互いに他人に気安く話せないような自らの過去を知っているので、その絆の証という感じのものだ。
エレベーターが目的の階に到着して、2人はエレベーターを降りて長い廊下を歩く。根津の部屋は織部の部屋の隣なので、その部屋の前に着くと根津が『また明日』と言って部屋に引っ込む。織部もその隣の自分の部屋に入る。
玄関のドアを閉めたところで、織部は大きく息を吐いた。
もしかしたら今日は、人生でも五本の指に入るくらいの重要な日になったのかもしれない。
小梅が自分の事を話し、織部もまた自分の事を話した。小梅には強い信念がある事を織部は知り、小梅は織部の事を心が強い人だと言ってくれた。
心が強いと言われたことは素直に嬉しい。一方で織部もまた、揺るぎない信念を抱いて黒森峰に留まっている小梅も心が強い人だと思っている。
(・・・・・・言っておいた方がいいのかな)
小梅も心が強いというのは、言っていなかった。ただ単に言い忘れていただけである。何かの機会に、言っておいた方がいいだろう。小梅も喜ぶ、と思う。
織部の話を聞いた小梅は、『皆から嫌われている、遠ざけられている』という恐怖や不安を振り払い、勇気を振り絞って根津と斑田に声を掛け、明日会う約束を結んだ。小梅がどんな気持ちなのか、どんな過去を背負っているのかを分かっていたからこそ、根津と斑田に声を掛けるのに、どれだけの覚悟や度胸が必要だったかはある程度織部にも想像がつく。
それが根津と斑田に受け入れられたのは、小梅の話を聞いて涙を流し、怒りを露わにするほどに小梅に共感した織部も嬉しかった。
と、そこで織部のポケットの中の携帯が震える。回数からしてメールだ。
靴を脱ぎながら部屋に上がり、画面を開けば。
『新着メール:赤星小梅』
早速メールを開く。
『今日はお話を聞いてくださり、
ありがとうございました。
心の中に溜まっていたモヤモヤが無くなって、
心が軽くなった気分です』
最初の文を見て、織部もホッとする。
心の中にある蟠りとは、簡単に晴れないものだ。それは織部自身も蟠りを抱えていたからこそわかる。他の事をして気を紛らわそうとしても、必ず思い出してしまう。
けれど、心の負担を減らすためには声に出して誰かに話すというのが一番良い。相手が親身になってくれればなお良い。
織部も、自分が話し相手になり、小梅の不安の捌け口となる事で小梅の負担を減らせたと思うと少しホッとした。
画面をスクロールする。
『さっき根津さんと斑田さんに声を掛けられたのも、
春貴さんからの言葉があってこそです。
あなたの言葉が無ければ、
私は2人に声を掛けられませんでした』
少し違う、と織部は思った。
確かに織部は『多分根津と斑田は小梅のことを嫌ってはいない』と言ったが、だから仲良くしろとまでは言っていない。
小梅が2人に話しかけたのは、間違いなく小梅の決意の上での事であり、小梅の意思によるものだ。織部はただ、きっかけを作っただけに過ぎない。
『春貴さんがいなければ、春貴さんの言葉が無ければ、
私は恐らくずっと独りで、誰を信じることもできず、
ただ泣いているだけの日々を送っていたと思います』
さらにスクロール。
『多分、春休みに春貴さんと会わなければ、
こうはならなかったでしょう。
だから、改めてお礼をさせてください』
そして最後に。
『本当に、ありがとう』
最後の文を見て、織部の胸が温かくなったような気がした。
確かに、あの春休みに織部が小梅に声を掛けなければ、こうはならなかっただろう。小梅はずっと独りでいて、織部もまた小梅と関わることは無かった。
あの時小梅に声を掛けたのは、小梅が過去に涙を流していた織部自身とよく似ていたのと、泣いている小梅を無視することができなかったからだ。
あの時の織部の行動から今があると考えると、中々感慨深い。
そして織部は、別に小梅に対して特別な事をしたつもりは何もない。ただ小梅がどうして涙を流し、悲しい表情を浮かべているのかその理由が聞きたかっただけだ。
小梅の話を聞いた後で織部がしたことは、少しだけ小梅の周りの人の事―――根津と斑田が小梅に対してどんな印象を抱いているのかを話し、そして強い信念を持っている小梅の事を嫌っていないと言っただけだ。ああしろこうしろと命令した覚えはない。
織部がアドバイスのような事を言えたのは、小梅が自分から全てを話そうとしたからだ。そして勇気を振り絞って根津と斑田に声を掛けたのも、やはり小梅自身だ。
全ては小梅が選んだ道だ。織部は差し詰め、その道を示す道標とでも言うべきものだ。
だから、織部はそのことをきちんとメールに書き、ついでに明日の待ち合わせ時間も書いて、メールを返信する。
小梅は寮の自室に戻ってからすぐにメールを送って、コーヒーを淹れようと電気ケトルでお湯を沸かしていた。
粉末のコーヒーとカップを用意しているところで、小梅の携帯がメールの着信を告げる。画面を開くと。
『新着メール:織部春貴』
自然と、小梅は速いスピードでメールを開いていた。
『僕も話を聞いてもらえて嬉しかった。
それに、僕の事を心の強い人と言ってくれたのも、
すごく嬉しかったよ』
出だしの文章を見て、小梅は微笑む。
メールをスライドする。
『小梅さんは、僕の事を心の強い人と言ってくれたけど、
僕からすれば、強い信念をもって黒森峰に留まっている
小梅さんも、とても心の強い人だと思う』
だが、その一文を見て、小梅の呼吸が止まる。
目を見開き、その文章を脳に刻み込む。
『根津さんと斑田さんに声を掛けることができたのは
僕の言葉のおかげだって言ってくれたけど、
言葉をかけようと決意したのは他ならない、小梅さんだよ』
さらに画面をスクロールしていき、次に表示された織部の文を見て、思わず声が出そうになり、口元を抑える。目頭が熱くなってくる。
さらにメールをスライドする。
『小梅さんが勇気を振り絞ったからこそ、
根津さんと斑田さんはそれに応えてくれた。
明日皆で一緒に出かけられるのも、
小梅さんが勇気を出して一歩踏み出した結果だ』
抑えられなかった。
小梅の瞳から涙が流れるのを。
最後には明日の待ち合わせの時間が書いてあったが、それが読めないくらいに小梅の視界は歪んでしまっていた。
携帯を持ったまま跪き、もう片方の手で目からあふれる涙を拭う。
織部の言葉に、嘘偽りはないのだろう。小梅の話を親身になって聞き、自身の過去も話し、お互いに腹の内を曝け出し合ったのだから、嘘をつくとは思えない。
だからこそ、織部の正直な気持ちが記されているこのメールが、とても嬉しかった。
他の誰かからかけられたどんな言葉よりも、一際胸に響く言葉で、心を温めてくれる言葉だった。
どれだけ涙を拭っても涙は収まらず、涙で顔がぐしゃぐしゃになりながらも、小梅の頭には織部からの言葉が残っている。織部の笑顔を覚えている。
泣きじゃくりながらも、小梅は笑い、心に浮かんだ正直な言葉を、口にする。
「・・・ありがとう・・・・・・春貴さん・・・・・・っ」
エーデルワイス
科・属名:キク科ウスユキソウ属
学名:Leontopodium alpinum
和名:西洋薄雪草
別名:―
原産地:ヨーロッパアルプス等
花言葉:勇気、大切な思い出