この作品には全くと言っていいほど出てこないけどね!
「あの子が落ちなければ優勝できたのに・・・」
廊下を歩く私の耳に、心無い言葉が否応なく入り込んでくる。
「助けた子もそうだけど、そもそも落ちた方も・・・・・・」
私はその言葉に何も返さない。実際周りが言っている事には一理はある。
本を正せば、あの時私の戦車が、攻撃を受けたくらいでバランスを崩して川に落ちなければ、副隊長―――みほさんが戦車を降りて、狙い撃ちされる事も無かったのだから。
「あいつのせいで・・・10連覇が・・・」
「情けない・・・」
「黒森峰の面汚しめ」
中には、戦車道履修生ではない者がそんなことを言ってきたが、『試合に出てもいないのに好き勝手なことを言うな』とは言えない。
私は人の悪口なんて言ったことがほとんどない。もし言えたとしても、自分の立場が余計に悪くなるだけだ。それに、相手を傷つけてしまうかもしれない。
今、私が傷ついているのと同じように。
「あの子と一緒に、出ていけば清々したのに」
ここに、みほさんはいない。
そして、あの時私とⅢ豪戦車に乗っていた仲間も、もういない。
一緒に戦車道を始めた他のみんなも、私から離れていく。
私は、暗闇へと続いていく孤独の道を、歩いていた。
私の心は疲れ切っていた。
心無い言葉を陰で叩かれ、悪意に満ちた目で見られ、周りから人が離れていく今の状況に、身も心も疲弊していた。
もう、何も見たくない。
もう、何も聞きたくない。
でも、そんな私の思いとは裏腹に、周りからの言葉は容赦なく私の耳に入り込んでくる。
「そもそも、あの子が戦車道をしなければ・・・」
私の、戦車道という私が選んだ道を否定されそうになる。
目をギュッと閉じる。両手で耳を塞ぎ、音を遮ろうとする。
でも。
「あんたなんか、黒森峰に来なければよかったのよ・・・!」
その言葉は、私の心に、鋭い剣のように深く突き刺さった。
私の中で、何かが音を立てて切れそうになる。
目を開き、手をだらりと垂らす。
私の心は、今の言葉で崩れてしまって―――
「それは違うよ」
不意に、そんな優しい言葉が私の耳に滑り込んできた。
崩れかけた心が、元通りになる。
そして、私の右手が優しく誰かに握られる。
その人物を見れば、その人は私に優しく微笑みかけてきてくれた。
「君は、ここにいていいんだ」
もう片方の手で、私の頬に触れる。いつの間にか、私の瞳から溢れ出ていた涙を拭ってくれたのだ。
「君は、決して孤独なんかじゃない」
そして私と目線を合わせるように、少し屈んで、私の目を見る。
その目は、陰口を叩いていた人たちのような悪意に満ちた目ではなく、とても穏やかで、優しい目だった。
「僕は君から離れない」
その人は、私の事を優しく抱きしめてくれた。
「僕が傍にいる」
瞬間、暗闇に包まれていた私の歩いていた道の先が、光り出した。
そして、その光は私たちを包み込むように広がっていき、暗闇を打ち消していく。
光が完全に私の視界を支配するその直前。
私の事を抱きしめてくれた人が、ニコッと笑ってくれた―――
私の耳に、目覚まし時計のアラームが聞こえてくる。
薄っすらと重い瞼を開けてみれば、カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいる。
眠気で重い体を起こして、背伸びをする。
(・・・・・・・・・・・・夢、か)
先ほどまで見ていたビジョンは、夢だった。
実体験ではなく夢だったと認識すると、なんとなく身体から力が抜けてしまい、またベッドに倒れこんでしまう。
(・・・・・・・・・・・・・・・心地良い、夢だったな・・・)
見ていて気持ちのいい、そして寝覚めの良い夢を見たのも随分と久しくなかった。
どうしても寝る前に部屋を暗くし、横になるとあの時の事を思い出してしまいそうになったからだ。
戦車が川に落ち、光を遮られ、真っ暗な戦車に閉じ込められてしまった時の事を。
寝る前にそんな不安な気持ちになってしまうものだから、見る夢もあまり心地の良いものではなかったし、寝覚めも悪かった。
だから、先ほどのような気持ちで起きることができたのが、随分と久々に感じたのだ。
(・・・・・・・・・・・・・・・起きなきゃ)
でも、いつまでもこんな風に寝てはいられない。
すぐに起き上がり、陽の光が漏れ出しているカーテンを開く。カーテンを開けば、眩しい太陽の光が私の身体を照らし出す。
(・・・・・・・・・・・・・・・)
少し前の私なら、朝が来る事が怖かった。
また、陰口を叩かれて、悪意に満ちた視線に晒され、皆から避けられる、孤独な1日が始まってしまうと思っていたから。
だから私は、朝が嫌いだった。
でも、今は違う。
私は独りじゃなかった事に気付かされた。
私の事を、ちゃんと見てくれていた人がいた。
そして、私の中にある揺るぎない信念を認めてくれる人が、私の傍にいると言ってくれた人がいた。
(・・・・・・春貴さん)
さっき見た夢の中に出てきた、私の手を握ってくれた人は、私に微笑んでくれたのは、私の事を抱きしめてくれたのは、春貴さんだった。
春貴さんの言葉は、私の胸に残っている。私の事を忌み嫌う人の陰口に上書きするような形で、今なお私の心の中に残っている。
春貴さんは、暗闇にいた私の事を引き揚げてくれた。そして根津さん、斑田さんとまた前のような関係に戻ることができた。
春貴さんにはもう、感謝しきれないくらい感謝していた。
「・・・・・・ありがとう」
気づけば自然と言葉に出てしまっていた。
少し恥ずかしくなってしまい、私は壁に掛かっていた制服を手に取り着替える事にする。
けれど、私はさっきまで見ていた夢の事、そして春樹さんの事を忘れる事は、決して無かった。
「おはよう根津さん」
「おはよう、織部」
玄関を出ると、根津とばったり会った。確か新学期2日目の金曜日も偶然会ったから、生活パターンが類似しているのだろうか。
そして、また流れで一緒に登校する2人。
「今日体力テストだったっけ」
「あー、そう言えば・・・・・・」
根津がなんとなく切り出してきた話題を聞いて、織部はビクッと身体を震わせる。配布された時間割表を見て分かっていた事なのだが、今日は新学期最初の体育の授業がある。新学期が始まって最初の方の体育の授業は大体個々人の体力を調べるためのテストがある。
それは織部が中学生だった時も、1年だけ通っていた高校の時もあった事だ。
「織部は体力あるほう?」
「いやー、僕は運動はからきしで・・・」
歩きながらそんな話をして、交差点に差し掛かったところで横合いから声がかかった。
「春貴さん、根津さん」
この黒森峰学園艦で、織部の事を名前で呼ぶ人物は今のところ一人しかいない。
だから織部は、その人物が誰であるかを推測した上で、その声のした方向を向く。
「おはよう、赤星」
「小梅さん、おはよう」
やはりそこにいたのは小梅だった。
しかし、その表情は昨日までとは違う。昨日まではその表情に愁いや恐れを帯びていた感じがしていたのだが、今はそれらが感じられない。これが彼女本来のもののような、優しい笑顔だった。
小梅は織部と根津の下へと駆け寄り、織部の隣に並び3人で学校へと向かう。
そこで根津が、気になった事を2人に聞いてみる事にする。
「そう言えば2人とも、名前で呼び合ってるんだな」
「・・・・・・そうだね」
思い返してみれば、先に相手の事を名前で呼んだのは織部の方だ。初めて小梅の事を名前で呼んだのは、小梅の今を取り巻く現状と過去についてを聞いた後。小梅と対等な立場でありたいという思いと、小梅の事を安心させるために、織部がそう呼んだ。
そして小梅もまた、織部と同じ立場でありたくて、そして織部を信用して織部の事を名前で呼ぶようになった。
「赤星の事を知ってるのもそうだし、もしかして2人とも知り合いだったの?織部がここに来る前から」
根津が当然の疑問を投げかけると、織部は簡単に、しかし小梅の触れてほしくはない場所には触れないように話す事にする。
「春休みに僕がここに来た時、一度会ったんだ。それでそこで少し話をして」
「へぇ~」
小梅は、織部が自分が泣いていたことを悟られないように話をぼかしているのに気付いた。小梅はそのことに心の中でだけ『ありがとう』と告げる。
根津は織部の言葉を疑わずに、学校に向けて歩くのを再開した。織部と小梅も一緒に行く。
その途中でさらに斑田とも合流し、4人で一緒に何気ない話をしながら学校へと向かう。
それは他の生徒からすれば別に何の変哲もない、ありきたりな風景だが、ごく一部の人―――小梅からすればそれは久しく体験していない事だった。
あの全国大会の前から、小梅は西住みほとも親交があったため、時々みほと2人で登校する事もあった。それ以外にも途中で出会った同じクラスの人と登校する事だってあった。
けれどあの全国大会決勝戦後、みほは周りから孤立し、小梅もまた孤立してしまった。だから、今のように誰かと一緒に登校するというのは、去年の全国大会以来だった。
「今日体力テストだっけ?」
「そうだったね・・・。はぁ・・・」
「春貴さん、不安なんですか?」
「僕はてんで運動がダメでね・・・」
「まあ、戦車道やってると体力自然につくぞ」
「ああ、そうかも。私も最初は・・・・・・」
朝日が照らす、黒森峰女学園へと続く道を、4人は並んで登校していく。
その様子を、同じく黒森峰の制服を着ていた何者かがじっと見ていたが、4人はそのことには気づかなかった。
迎えた体力テストの時間。織部のクラスの生徒全員は体操着に着替えてグラウンドに集合していた。
織部は、1年の間に通っていた学校の体操着を着ている。
すでに準備運動は済ませてあるので、後は教師から何のテストをやるのか指示を受けるだけだ。しかし、グラウンドの中央に設置されている競技用のタイマーを見て、織部を含むクラスの全員は、今日何のテストをやるのか大方の予測はできていた。
やがて教師がやってきて、今日のテストは持久走だと告げる。その瞬間クラスメイトからは落胆交じりのため息が上がる。それは織部も同じだった。
織部は今朝小梅たちと話したように、運動が苦手だ。特に、長距離走など相性が悪いにもほどがある。
だが、高校1年の時の体育の成績はどうにか平均レベルだったのと、それ以外の科目では比較的高い水準を誇っていたので、どうにかして黒森峰に来ることができたのだ。
しかし授業は織部の意思など無視して進む。
クラス内で自由に二人一組に分かれ、一方が走りもう一方は記録するという形になった。
織部は根津とペアを組む。小梅は斑田と組むことになった。意外にも、小梅は自分から斑田と組もう誘っていた。少しでも、クラスに溶け込もうとしているのだろう。
織部はそれを見て安心したが、それはさておき今から始まる持久走に集中しなければならない。
今回の持久走は、クラスの内の半分の人数が走り、もう半分が記録という形になっている。女子よりも走る距離が500m長い男子の織部は、強制的に後半とされた。なので、織部は前半はペアの根津の記録をする事になる。ちらっと目をやれば、小梅も前半で走るようだった。
やがて前半戦がスタートする。持久走でいきなり全力疾走するような阿呆はいないようで、全員ジョギングぐらいのスピードで走っている。根津もその例に漏れず、自分の体力とペースを考えてしっかり走っているようだ。
1周する度にその時間を記録していく織部。他の後半戦に参加する生徒も同じように、用紙にタイムを書いていく。
ただ、中には運動音痴の生徒もいるようで、集団から離れてしまったり途中で走るスピードを落として歩く生徒もいる。その生徒たちを見て織部は親近感を覚えた。
集団の先の方を見ると、小梅の姿が目に入った。小梅は息も絶え絶えに走っているというわけではなく、息も上がっておらず、姿勢も崩さず一定のペースを保ちながら走っている。
そう言えば、初めてこの学園艦で小梅に会った時、彼女はジャージを着ていた。普段からジョギングをしているとすれば、走り慣れている小梅にとってこの持久走はあまり苦ではないのかもしれない。
なんて事を思っていると、根津がまた1周したのでそのタイムを織部は記録する。
やがて一番最初に走り終えた生徒が膝に手をついて、肩で息をする。ペアらしき生徒が『お疲れさまー』と言いながら肩をさする。
根津も一着ではなかったが走り終えて、織部の下に来た。
「お疲れ様」
「いやぁ、やっぱり持久走はしんどいな」
そうは言いつつも、1000m走ったというのにあまり息も上がっていない。やはり今朝言っていた通り、戦車道で体力がついたのだろうか。
前半に走った生徒が全員走り終えると、少しの間休憩し、やがて後半戦が始まる。
根津からの『頑張れ』という激励を背中に受けて、織部はスタートラインに立つ。
隣には小梅とペアを組んでいる斑田が立っており、身体を解している。織部も屈伸をして、長距離走に備える。
黒森峰のグラウンドは1周200m。持久走で女子の走る距離は1000m、男子は1500m。つまり、織部は他よりも2周半長く走らなければならないのだ。それを考えるだけでも織部は憂鬱になる。
全員スタートラインに立ち、準備が整ったのを確認すると、教師がライカンピストルを撃った。
織部だって別に最速記録を更新したいとか、格好よく走って良いところを見せたいとかそんな願望は無いので、普通に走ることにする。
1周目は別に問題ない。2周目もまだ大丈夫。ただ3週目あたりで息が上がり始める。なので、織部はペースを落として呼吸を整える事にする。
織部の先を走る斑田との距離はどんどん離れていき、後ろの方にいた女子からも追い抜かれていく。しかし、この際男としてのプライドは捨てて自分の体力を回復させることに専念する。
4周目を過ぎた辺りで体力が少し戻ってきたので、ペースを少し上げる。斑田とは半周ほどの間が開いている。しかし、周りを気にしていると知らず知らずのうちにペースが崩れる。
今は周りのことは考えず、自分の事を考えていればいい。
だが、少しペースダウンをして体力がわずかに戻ったとはいえ、やはり万全と言うわけではない。すぐにまた息が切れてしまい、スピードが落ちる。さらに何人ものクラスメイトに追い抜かれる。
やはり、織部の体力はあまり無かった。
ついに1000m走り終えた女子が出てしまった。その生徒は織部とは面識が無かったが、ふらふらと走っている織部を見てくすくす笑っている。プライドをとうに捨てた織部でも少し恥ずかしい。
やがて斑田も走り終え、ペアの小梅がとった記録を見てふむふむと頷く。
それを尻目に、織部は5周目を終えて6周目に突入する。後、2周と半分。
教師は女子が全員走り終えたのを確認して、残る走者の織部を見る。両者ともに走り終えたペアは、記録用紙を教師に渡して解散となり、まだ走っている織部の事は気にも留めず着替えたり水を飲んだりするためにグランドから去っていく。
間もなく6周目も終えて、7周目に入る織部。しかし限界が近い織部は、視界がぐらぐらと揺れていて、胸が張り裂けそうなくらい鼓動が高鳴り、呼吸する事すらも苦痛になってきていた。
思えば、高校1年の時の体力テストでもこんなザマになっていたような気がする。いや、もっと前中学の頃もこんな感じだった記憶がある。
とにかく、今はそんな事を考えている場合ではない。倒れそうになるのを必死に堪えて、脚を無理やりにでも動かし、前へと進む。
と、そこで走っている織部の視界に、グラウンドの脇に立つ小梅の姿が目に入った。隣には斑田もいる。
普通に考えれば、お互いに走り終えているのだから小梅も斑田もここに残っている必要はないのだが、なぜ2人はまだ残っているのか?
そんな事を考えていると、小梅が胸の前で織部と視線を合わせながら笑い、小さく手を振った。
それを見て織部は、無性に嬉しくなる。
(・・・・・・もう少し、頑張ろう)
自然と、ペースが上がる。体力も、ほんのわずかだが回復したような気がした。
7周目に入り、後は1周半。前の織部ならいよいよ限界を迎えて歩くスピードと変わらない速度にまで落ちてしまうところだったが、今回はなぜかスピードがあまり落ちていない。
なぜか、小梅の笑顔と手を振っているのを見てから、活力がわずかに戻った気がする。
どうしてなのか、それは分からないまま織部は走り続ける。
やがて、遂に7周半走り終える。そこで立ち止まらずに、スピードを下げてクールダウン。ゆっくり歩いてスタート地点に戻る。
スタート地点に戻ると、タイマーは既に止められていて、教師は『お疲れさん』と言って根津から記録用紙を受け取る。
膝に手をつき肩で息をする織部の背中を、小梅が優しくさする。
「大丈夫ですか?」
「・・・・・・ありがとう、小梅さん・・・」
そこで、根津と斑田が教師に言われてタイマーを運ぶように言われたのを見て、織部も手伝おうとする。しかし、2人はそれを手で制した。
「こっちは大丈夫だから。織部君は体を休めてて」
そう言う斑田だが、彼女もさっき走り終えたばかりで疲れているだろうに。
だが、そうこうしているうちに根津と斑田はタイマーを運んで行ってしまった。疲れなど感じさせないように。
小梅は織部に、『先に戻りましょう』と言う。織部も、今さら手伝うのも何だったので、小梅と共に教室へ戻る事にした。
昼休みに入り、食堂で昼食を摂ったり昼寝をしたりして、黒森峰の生徒たちはつかの間の休息を満喫している。
だが、食堂で織部はテーブルに突っ伏して死んでいた。
隣に座る小梅はもちろん、向かい側に座る根津と斑田も心配そうに織部の事を見ていた。
「体力無いって聞いてたけど、本当だったんだな」
根津が愉快そうに言いながらうどんを啜る。その隣に座る斑田は、織部の事を心配そうに見ながらカレーライスを食べている。
「言ったでしょ・・・運動はだめだって・・・」
突っ伏しながら織部が呟くと、隣に座る小梅が過去に思いを馳せるように視線を上に向ける。
「私も前は、織部さんみたいに運動が苦手でした・・・」
「あー、私も。でも、戦車道初めて自然と体力ついた感じかな」
小梅の言葉に斑田が同調する。根津も、うどんを食べながら頷く。昔から運動が得意で体力があるという女子はあまりいないらしい。
「・・・・・・どうにかして、体力をつけないと・・・」
織部がぼやきながらゆっくりと起き上がり、自分の頼んだ唐揚げ定食に手を付ける。何か策を考えなければ、織部は間違いなく皆から置いて行かれてしまう。
一方、小梅は織部と同じく唐揚げ定食を食べながら、別の事を考えていた。
「・・・・・・まあ、今日の戦車道も頑張れ」
根津が笑いながら織部に話す。
織部は、頭に疑問符を浮かべた。一体、何を頑張るというのだろうか?
気になって斑田の方を見ると、斑田も気まずそうに織部から目を逸らしている。
小梅は根津の言葉の意味と、斑田の気まずそうな目の理由を知っていたので、少し織部には酷だという事は分かりつつも話す事にする。
「今日の戦車道・・・走り込みなんです」
もしかすると、今日は命日になるかもしれない。
織部はふとそう思った。
「すまない、スケジュール表を渡していなかった」
迎えた戦車道の時間。集合して点呼を終えた後で、まほが少し済まなそうな表情をして、A4のプリントを織部に渡してきた。そのまほの恰好は、黒のタンクジャケットではない、黒森峰の校章がプリントされた薄いグレーのタンクトップに、同色のハーフパンツを着用している。副隊長のエリカや、格納庫前に集合していた隊員たちも、まほのようなスポーツウェアや学校指定の体操着を着用している。
そして、体育の時間に着たものと同じ体操着を着ている織部は、呆然とした表情でスケジュール表を受け取る。そのスケジュール表によれば、確かに毎週月曜日は走り込みとなっている。
戦車を動かすには、相応の体力も必要だ。戦車と言う密閉された空間で、長時間集中力と忍耐力を使い続けるにはスタミナが要る。そのために、身体を鍛えるためにこの走り込みはあるのだ。
準備運動を終えると、早速走り込みがスタートする。走り込みのルートは、学園艦を縁取るように伸びている遊歩道と、速度無制限のアウトバーン(自動車高速道路)だ。
遊歩道はともかく、なぜ速度無制限のアウトバーンがあるのかと言うと、それは“ガス抜き”のためである。
黒森峰は真面目な校風と雰囲気で通っているため、自然とそこで暮らしている人間も真面目に生きるようになる。しかし、四六時中ずっと肩肘張っているというのは中々に辛く、ストレスも溜まりやすい。そのストレスを発散するために、このアウトバーンがあるのだ。
学園艦の甲板上は私有地と言う事で、免許を要する乗り物を動かすのに免許は必要ない。本来なら免許の必要な戦車も無免許で動かせる(公道で走る際は免許がいる)。だから自動車も無免許で運転する事が可能なのだ。尤も、事故を起こした際は全て自己責任となってしまうのだが。
それはともかく、今織部は他の戦車道履修生と一緒になって学園艦の外周遊歩道を走っている。スピードは先ほどの持久走と同程度だが、それでもやはり皆と比べるとペースは遅い。現に織部はどんどん後ろから追い抜かれている。
走り込みを始める前、まほから休憩は各自取って構わないと言われたのだが、だから休憩を頻繁に挟んでろくに走らずに今日はおしまい、と言うわけにもいかない。
そんな態度が誰かに見られ、学校に知られれば最悪強制送還されかねない。それは流石に織部も困るので今は大人しく走っている。
だが、やはりペースは徐々に落ちていた。一緒にスタートした小梅、根津、斑田も今は先に行かせていた。別に格好つけたわけではなく、他よりも体力の無い織部に合わせて走っていては、他の皆の鍛錬にはならないと思ったからだ。
しかしてやはり、織部自身の体力も限られている上に低いので、今は競歩に近いスピードで走っている。
「・・・・・・ぜぇ・・・はぁ・・・」
ほんの少し前に持久走をしたばかりなので、息も絶え絶えと言わんばかりに走っていると。
「あのー、大丈夫?」
横合いから声を掛けられた。声に聞き覚えは無い。
横を見ると、自分と速度を合わせて走っている、眼鏡をかけたショートボブの黒髪の少女だった。
「いえ・・・・・・大丈夫・・・・・・です・・・・・・」
息も絶え絶えに織部が答えるが、その少女は織部から目を逸らそうとはしない。
「いや、全然大丈夫そうじゃないから。一先ず休んだほうがいいよ?」
仕方なく、少女に言われて立ち止まる。柵に寄り掛かって深呼吸をし、呼吸を整える。4月が始まって間もないのに、体中が汗ばんでいた。
声を掛けてきた少女も、織部の横に立った。
「話をするのは初めてだね」
「そう・・・ですね」
少し呼吸が整ってきたので、織部も少女を見て返事をする。
少女の言う通り、織部は彼女の顔をクラスでも見た事がない。しかしここにいるという事は、紛れもなく彼女も戦車道履修生と言う事だ。
「私は三河。2年生で、Ⅲ号戦車の車長だよ」
「Ⅲ号戦車・・・・・・」
三河と名乗った少女が口にした戦車の名前を聞いて、織部は思い出す。
そう言えば、小梅が去年の全国大会決勝戦で乗っていたのも、Ⅲ号戦車だった・・・
「どうかした?」
「え、いや、何でもないよ・・・」
何かを勘づかれそうになったので、織部は適当に誤魔化す。三河もあまり踏み込まず、ふぅと空を見上げる。
「織部は走り込みは初めてでしょ?」
「うん。それに加えて、今日の4時間目が持久走だったから余計に辛くて・・・」
「あー、そりゃ苦痛だねぇ」
話してみると、三河は割と打ち解けやすい性格のようだ。唯一の男である織部に対してこうして臆面も無く話してくれる。寮の部屋が隣同士の根津や、同じクラスの斑田ともまた違う感じだ。
歩き出し、徐々にペースを上げていこうとする織部と三河。
「私もケッコー体力が無い方でねぇ。最初の頃の走り込みなんて汗だくで泣きそうになった」
「そうだったんだ・・・・・・」
「でもま、毎週こんなことをやってたからか自然と慣れてきて、体力も付いてきた」
こんなのに慣れるのも少し怖いけどね、と三河が苦笑しながら走る。
並走する織部も、こんな学園艦外周の走り込みに慣れてしまうのも少し恐ろしいと思う。
その後も三河は織部と並んで走り、織部が疲れてペースを落とした際にも一緒にペースを落とし、まほから指示された外周道路3周を終えると格納庫の前に戻った。既にほとんどの隊員たちは戻っており、付き合わせてしまった三河に対して申し訳ないという気持ちが込み上げてくる。
「いやぁ、疲れたねぇ」
「そう・・・だね・・・・・・」
いい汗をかいたと言わんばかりに三河が腕で額に浮かぶ汗を拭う傍らで、織部がぜぇはぁと呼吸をする。今日は下手すると帰った直後に疲れの余り寝てしまうかもしれない。
「ごめん、僕のペースに合わせちゃって・・・それでだいぶ遅くなって・・・」
「ああ、いいのいいの。気にしないで」
織部が謝るが、三河はあっけらかんと手を振り他の生徒と合わせて整列する。織部もまた、定位置だった列の一番端に立つ。
全員いるのを副隊長のエリカが確認すると、まほによって解散を命じられる。まほだって、エリカだって外周道路3周を走り終えたばかりで疲れているだろうに、汗1つ掻いていない。やはり、隊長副隊長クラスは格が違う、と織部は思った。
解散を告げられると、履修生たちは伸びをしたりストレッチをして身体を解し、着替えるために校舎の方へと戻って行く。
織部もそれに倣い、軽くストレッチをしてから校舎へ戻ろうとしたところで。
「春貴さん」
小梅が織部の下に駆け寄ってきた。小梅も走った後なので、汗で髪が額に引っ付いている。
織部は最初に、完走し切った事に対するねぎらいの言葉を小梅に言う事にする。
「小梅さん・・・お疲れ様」
「春貴さんも・・・・・・持久走で疲れていたのに・・・大丈夫ですか?」
「どうにか、ね」
織部は首を回して疲れを取ろうとする。その様子を小梅は心配そうに見ているが、その視線に気付いた織部は心配ないと言わんばかりに微笑む。
「でも、体力はこの先つけた方がいいよね・・・」
「そうですね・・・走り込みは毎週ありますから・・・」
どうしたものか、と織部が顎に手をやって考える。
そこで小梅は、昼休みの時も考えていたことを、織部に話してみる。
「あの、春貴さん・・・」
「ん?」
校舎に向かって歩きながら、何でもないように小梅が聞く。
「よろしければ、夜のジョギング、ご一緒にどうですか?」
「・・・・・・え?」
突然の小梅の誘いに、織部は驚きを隠せない。
小梅は、結論を急ぎ過ぎてしまったと自省して、改めて織部に話す。
「えっと、私も実はあまり体力がある方ではないので・・・週に2,3日夜にジョギングをして基礎体力をつけるようにしてるんです・・・」
織部は何も言わない。少し図々しかったかな、と小梅は今更になって思う。だが、ここまで言って最後まで言わないというわけにもいかないので、つまり何が言いたいのかを告げる。
「ですから・・・・・・その時は織部さんもご一緒にどうでしょうか・・・・・・なんて」
「・・・・・・」
織部の方を恐る恐る見てみれば、織部はあっけにとられたように目を開いている。
急にそんな事を言われれば当然だよね、と小梅がしょんぼりとして思ったが、すぐに織部は微笑みこう言ってきた。
「そうだね・・・・・・小梅さんの迷惑にならないのなら・・・一緒にいいかな?」
思いがけず織部がやりたいと言ってきたので、誘った当の小梅が一番驚いている。
「そ、そんな迷惑だなんて・・・・・・」
織部には自らの事を卑下してほしくなかったので、慌ててフォローする小梅。そして、小梅はできるだけ笑って、織部のお願いとも言える言葉に応える。
「・・・・・・分かりました。では、一緒に走りましょう」
織部は、小梅が自分から織部の事をジョギングに誘った事が嬉しかった。
最初に会った時や、新学期に再会した時のような、悲しげな表情で周りと距離を置いていた小梅が、親しくなった織部を自分から誘ってくれたことが、だ。
小梅は自らを孤独と思う事をやめ、周りとも少しずつだが接し始めている。
そうなるまでには、織部の言葉もあったが、やはり小梅自身が自分から動き出した事が大きい。
少しだけだが、小梅の成長―――というより小梅が立ち直るのに力を貸すことができて、織部は嬉しかった。
小梅が織部をジョギングに誘ったのには2つのわけがあった。
1つは、先ほど織部が言っていたように織部が基礎体力をつけるためにどうしようかと悩んでいたから。
小梅は、織部が力をつけられるように協力したくて、織部をジョギングに誘った。そして織部はその誘いに乗り、一緒にジョギングをする約束をしてくれた。
もう1つのわけは・・・・・・正直小梅自身もどう説明していいのか分からないようなものだ。
先ほど学園艦外周の走り込みから戻ってきた時、織部は三河と共に走り戻ってきた。
織部と三河が楽しそうに何かを話しているのに気付いた小梅が、その2人の様子を見て、少しだけだが胸が痛んだ。
小梅はもう、織部が他の人から小梅についての悪い噂を聞かされていると思い込んだりはしない。
だというのに、小梅はなぜか、あの2人が仲良さげに話しているのを見ると、胸が痛んでしまう。
どうしてだろうか。
それはまだ、小梅には掴めなかった。
ススキ
科・属名:イネ科ススキ属
学名:Miscanthus sinensis
和名:薄、芒
別名:
原産地:日本、中国、朝鮮半島、台湾
花言葉:活力、心が通じる
三河・・・アニメ本編11話、12話に登場したⅢ号戦車車長。
『お前らの火力で装甲が抜けるものか!』の人。
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