有馬記念、当日。
この日、レース会場のチケットはいつも通り完売していた。
有馬記念当日の朝、私は少しばかり早く起きて軽くランニングをしていました。
完全な気晴らしで、こうでもしないと落ち着けないからだ。
雪が降る中、私は白い息を吐きながら黙々と走る。
そんな中、信号で私はピタリと止まった。赤信号を走って渡るのは危ないですからね。
「ランニング、一緒に良いかしら」
「………………」
そう言って、私の耳に聞き覚えのある声が聞こえてくる。
私がその声の方に視線を向けるとそこに居たのは、いつも私の側にいてくれたメジロドーベルさんだ。
ドーベルさんは私の事をかなり心配してくれていた。
倒れた時も、ライスシャワー先輩が故障して目が覚めなかった時も、そして海外遠征の時も彼女はいつも私の事を気遣ってくれた。
彼女が居てくれたから私はこれまで頑張れたのだと思う。
「えぇ、もちろん」
「ありがとうアフちゃん」
ドーベルさんはそう言って笑みを浮かべる。
そして、反対側には更に私のスポーツウェアの裾を軽く引っ張ってくる可愛いウマ娘がいました。
それは、私の走りを見て私について回るようになった可愛い後輩、ドゥラメンテちゃんです。
「……私も良いですか?」
「…………」
その言葉を聞いて私は笑みを浮かべて黙って頷きます。
別に軽く汗を流すだけの気を紛らわす為のランニングでしたから、人数が増えたとて、特に問題はありません。
それに、二人がなんで私についてきたいのかもよく理解していますからね。
「……それで、何か言いたい事でも」
「ううん、ただ一緒に走りたかっただけ」
「私もです」
ランニングをしながらそんな会話をする私と二人。
有馬記念を走ると決めてから、今に至るまで私は黙々とトレーニングに励んでいた。
多分、そうした中でドゥラちゃんは私を止める為に力量を知っていながらも何度も挑んできました。
本当はあの事について、私はドゥラちゃんに謝りたかった。
「ドゥラちゃん、あの時は……」
「良いんです、謝らないでください」
ドゥラちゃんは私がそれを言葉にする前にそれを遮った。
なんの事を言っているのか、わかっているからだろう。そして、それでもなお止まろうとしなかった事をドゥラちゃんは責めなかった。
私が今の状態でどれだけの覚悟を持って走っているのか理解していたからだ。
それはメジロドーベルさんも理解していた。
そして、トレセン学園につき、ランニングも終わりを迎える。
そんな中、メジロドーベルさんとドゥラちゃんの二人は足を止めると息を切らしながら、声を張り上げて私にこう告げる。
「有馬記念、頑張って! アフちゃん!」
「私達は応援してますからッ!」
その唐突な言葉に目を丸くする私。
いきなりそんな事を言われるなんて思いもしていませんでした。
それから二人は、互いに顔を見合わせると私にあるものを手渡してくる。
「良かったらこれ付けてください」
「私とドゥラちゃんの名前が入った鉢巻、気合い入るでしょ?」
それは、白い鉢巻。そこにはドゥラちゃんの名前とメジロドーベルさんの名前が書いてあった。
一人で走らせやしない、孤独で走らせたりなんて絶対にしない。
そんな強い意志が感じられた。きっとそれは、ゴルシちゃんからもらった、たこ焼きバッジもそうだ。
私はそれを受け取ると静かに頷く。
「えぇ、絶対に付けます。二人ともありがとう」
宝塚記念を走る前にライスシャワー先輩は言った。
私の想いも皆の想いも背負って走ると、だったら私だって皆の想いを背負って走る。
こうして、想いが籠ったものがあれば、私も皆と一緒に駆ける事ができる。
「……ありがとう!」
私は満面の笑みで二人にそうお礼を述べる。
その後、二人と別れた私は有馬記念に向けての準備をして寮を出た。
寮を出た頃には外には白い雪が静かに降り注いでいる。
寮から出てしばらく歩くと、そこで車を用意したオカさんが私を待ってくれていた。
「冷えるだろう? 乗りなさい」
「はい、ありがとうございます」
そうお礼を述べて、オカさんの車に乗り込む私。走って会場にいく事もできたが、レース前という事でオカさんが気を回してくれたのだろう。
それから私はオカさんが運転してくれる車に乗って有馬記念の会場へ共に向かう。
会場に着くと、まだ、開いてから間もないというのにかなりのお客さんが詰めよってきていた。
会場の外にはポスターが貼ってある。
魔王VS英雄、二度目の対決と銘打たれたポスター。
冷たい雪がしんしんと降る中で、熱を感じられるポスターに会場に来ていた皆は胸を熱くした。
「凄い熱気だな」
「そうですね」
オカさんの言葉に私は相槌を打つように頷く。
その熱気のある光景に私は懐かしさを感じる。
それは、いつの頃の記憶だっただろうか、もう思い出せない。
私は車から降りると、荷物を持って控え室に向かって歩き始める。
その控え室へと続く道中、私を待ち構えていたかのように壁に背を預けたまま瞳を瞑り腕を組むウマ娘が居た。
その姿を見た私は思わず笑みを浮かべる。
「出迎えですか……? ブライアン先輩」
「…………そんなとこだ」
そこに居たのは、長いこと私を可愛がってくれたナリタブライアン先輩だった。
彼女は私がこの道を通る事を知った上で待っていたのだろう。
そう言えば、ナリタブライアン先輩も有馬記念は何回か走った事があったんでしたっけ。
ブライアン先輩は背を壁から離すと、ゆっくりと私に近づいて私の鼻先にシールのようなものを貼り付けてきた。
シャドーロール、それはブライアン先輩が付けていたのと同じもの。
それを付けたブライアン先輩は笑みを浮かべたまま私にこう告げてくる。
「私からの御守りだ。会長からはもう貰ってるだろう?」
「……えぇ」
私はいきなり付けられたシャドーロールに驚きはしたものの、ブライアン先輩の言葉に頷き応える。
ルドルフ会長からは既に外套を頂いている。これと共に私はこれまで駆けてきた。
ブライアン先輩は私の顔を見ると静かに頷きこう告げてくる。
「私からは言う事は特に無い、良い顔つきになったなアフ」
「……はい!」
おそらく、今の私は色々と吹っ切れたような顔をしている事だろう。
今はただただ、有馬記念で走る事に集中している。そこで待つ一人のウマ娘を倒す為に。
私はブライアン先輩から貰ったシャドーロールが付いた鼻を軽く擦る。
ブライアン先輩とお揃いというのは、なんだか照れ臭くはあるが、確かに御守りとして、あるだけで少しだけ心強く感じる。
それぞれ、皆から貰った想いが詰まった物。
私はそれを快く受け取る。受け取って、それと共に今日は駆ける。
「行ってこいアフ」
「はい、行ってきます」
私はブライアン先輩から受け取ったシャドーロールを鼻に付けて、そのまま控室へ入ります。
そして、自分の荷物を下ろすと、そこからシューズや自分の勝負服を取り出して着替える。
今までとは違ったデザインの勝負服。
青と黒、私の色に染まった服だ。これは、今は亡き義理母が最後に私にくれた勝負服。
今日、この日のために私はこの服を持って来た。
私はその服に腕を通し、鏡を見ながら衣装を確認する。
「似合っていますね、妹弟子」
「……姉弟子」
そして、その衣装の感想を言う前に控え室に入ってきたミホノブルボンの姉弟子にその感想を言われた。
姉弟子はディープインパクトについて行き、彼女を鍛えに鍛え抜いた。
全ては私の事を思ってのことだろう。
私をディープインパクトに止めてもらう為、きっとマトさんも同じような気持ちで動いていた事は察する事ができる。
私もその事は重々承知している。それに、むしろ彼女をあそこまで成長させてくれて感謝しているくらいだ。
「その衣装、マスターと一緒に作った甲斐がありました」
「……姉弟子もこれを?」
「えぇ、そうです」
そう言って、姉弟子は笑みを浮かべながら私の肩にポンと手を乗せてきます。
その手は震えていました。それは、私の身体の事を姉弟子も知っているからでしょう。
本当は走らせたくなんてない、走らせたらまた、ライスシャワーのようになってしまうのではないだろうか。
そんな想いが姉弟子にあった。
「……アフ……走らなくても良いんですよ」
「姉弟子……」
「無理に走らなくても貴女は充分頑張ったではないですか」
姉弟子の震えた声に私は何にも応える事ができない。
もしかしたら、そうなるかもしれない。だけど、私にはそれ以上に走る意味がある。
姉弟子を悲しませたくない気持ちもある。
けれどもそれ以上にディープインパクトとの約束を果たさなければならないという使命感が私にはあった。
だから、私は振り返り、姉弟子の身体を優しく抱きしめた。
「ごめんなさい姉弟子、私の我儘です」
「……行くのですか?」
「はい、勝つ為に走ります」
姉弟子を抱きしめたまま私は迷わずそう告げる。
これまで一緒に越えてきた苦難の数々、そして、追い求めてきた背中。
涙を流しながら、何度も登った坂路。
次から次へとボロボロになっていく、たくさんのシューズ。
それら全てはこの時のためだったのだと私は思います。
姉弟子は私に抱きしめられたまま、私の言葉を聞いて静かに涙を流していました。
レース場に続く道を私はゆっくりと歩いて行きます。
通路の先から漂ってくる芝の匂い、そして、大きな歓声。そのどれもが、私の気持ちを昂らせます。
そして、その通路を抜けた先には。
「………………」
静かに私を待ち構えるように一人のウマ娘が待っていました。
彼女は真っ直ぐに私を見つめ、私も同様に彼女を真っ直ぐに見据える。
青いリボンに鹿毛の長く美しい髪、透き通った白い肌、綺麗な水色の瞳に小柄な身体。
いや、その小柄だった身体は以前よりも鍛え抜かれたしなやかな身体に変貌している。
私にはわかる。あれは並々ならぬトレーニングを重ねたからこそ出来上がる身体だ。
そして、極め付けはあの鬼気迫るような眼。
その瞳は私を倒す事だけを考えている。
以前、ライスシャワー先輩がミホノブルボンの姉弟子に向けていたのと同じ目だ。
私はそんなディープインパクトの顔つきを見て思わず笑みが溢れる。
魔王と英雄の二回目の激突。
激闘の有馬記念の火蓋が今切って落とされようとしていた。