有馬記念を静かに見守るスピカのトレーナーはアフトクラトラスとディープインパクトを見て感心していた。
あれほどまでに成長を遂げたウマ娘を見たことがない。
三冠を勝ち無敗のまま凱旋門を制して欧州まで征服した魔王。
片や三冠を勝ち獲り、アフトクラトラスに負けたもののそれをバネに凱旋門を勝利した英雄。
トレーナー人生の中であれほどまでのウマ娘に自分は育てる自信があるだろうか。
「すげーな、やっぱり……。遠山さんもあのお二人も」
アフトクラトラスとディープインパクトのトレーナーに思わずスピカのトレーナーは尊敬の言葉が溢れてしまう。
死してなお、これほどのウマ娘を残せる遠山トレーナーの偉大さがよりこの有馬を通してわかる。
あの主役のウマ娘二人が繰り広げる超高度な駆け引き、そして、圧倒的な存在感。
「俺もまだまだだな……」
「トレーナーさん?」
「あぁ、スペすまないな……気にすんな」
思わず涙が出そうになった眼を擦り、そう言いながら誤魔化すスピカのトレーナー。
だからこそ、スピカのトレーナーはこう思った。
今日のレースを決して忘れないようにしようと、スピカのトレーナーはこのレースは必ず伝説になるとそう感じていた。
ミホノブルボンから車椅子を押してもらい、ライスシャワーは有馬記念を観に来ていた。
本当なら病院から見ることも出来たが、アフトクラトラスが言った『最後まで見届けて欲しい』という言葉を守る為にわざわざ中山レース場まで足を運んだのである。
それは、テレビ越しなんかじゃきっとわからないとそう思っていたからだ。
「ライス、寒くないですか?」
「ううん、大丈夫」
「病院でも良かったのではなくて?」
会場にわざわざ足を運んだライスシャワーにマックイーンは気を使うようにそう問いかける。
だが、ライスシャワーは左右に首を振り、マックイーンに対してこう告げはじめた。
「家族の……晴れ舞台だから、私の代わりに頑張ってくれたアフちゃんを最後まで見届けたいの」
「ライス……」
「きっとアフちゃんは勝つ、でしょう? ブルボンちゃん」
そう言いながら、車椅子を押すブルボンに笑顔で問いかけるライスシャワー。
ミホノブルボンは複雑な表情を浮かべながらも、懸命に走るアフトクラトラスの姿を真っ直ぐに見つめる。
本当なら、もう走るのをやめて欲しい。
もう、大事な誰かが傷つくところなんて見たくない、見たくないはずなのに気づけばその姿を見て応援している自分がいる。
自慢の妹弟子、愛しているからこそ彼女を助けたいと心の底からそう思っていた。
「そうですね……。アフは……」
「ブルボンちゃん?」
声を震わせるブルボンに首を傾げる二人。
ブルボンはそのまま、自分の眼から溢れてくる涙を抑えるように手で両目を隠した。
アフトクラトラスは自分の思いも背負って、三冠に挑んだ。それだけじゃない、今はいろんな人の色んな思いを背負って走っている。
「……本当に強くなったんです……。だから……」
いつも、トレーニングでは涙を流しながら、坂路を走るのを嫌がった。
キツい練習から何度も逃げ出した事だってあった。
だけど、それでも歯を食いしばり、血の滲むような努力を積み重ねて、自分を慕ってくれた妹弟子が頑張ってる姿をミホノブルボンは知っている。
「わかるよ……ブルボンちゃん」
その言葉を聞いていたライスシャワーもまた、同じような心情でアフトクラトラスのレースを見守っている。
自分の身体の事はきっとアフトクラトラスがよく理解している筈だ。
だけど、彼女は期待にも交わした約束にも必ず応えてくれた。
だから、いつか3人で同じレースで走りたいと思っていた。
そんな、遥かな、夢の11Rを見るために、アフトクラトラスはこれまでどれだけのものを背負ってきたのだろうか。
それはレースを見守っているメジロドーベルもドゥラメンテだってそうだ。
「……やっぱりかっこいいなぁ」
懸命に走るアフトクラトラスの姿を見て、ドゥラメンテはそう声を溢す。
あの日、ダービーで目に焼きついた彼女の走り。
朝日杯、皐月賞をテレビで見て、こんな強いウマ娘になりたいと思った。
確かに癖が強いって言われていて、なんで、彼女に憧れるようになったんだって他のウマ娘達からも言われた。
魔王だの、無慈悲だとかたくさん言われていたのをドゥラメンテは知っている。
だけど、懸命にいつもトレーニングを積み重ね、たくさんの試練を彼女が乗り越えてきた事を知っている。
だから、好きになった。憧れて良かったと心の底からそう思う。
「頑張れ……! アフちゃん先輩……! 頑張れ……!」
涙を浮かべ、祈るように手を握る。
無事に駆けて欲しい、また、いつものような笑顔を自分に向けて欲しい。
メジロドーベルはそんな隣で祈るドゥラメンテを見ながら笑みを浮かべる
これまでアフトクラトラスの側に居て、本当に彼女の色んなことが知れた。
たくさんの葛藤、そして、悩み。
メジロドーベルは知っている。アフトクラトラスはウマ娘として崇められるような崇高なウマ娘なんかじゃない。
魔王だとか、スパルタの皇帝だとか、関係なんて無いんだ。
彼女は自分達と同じように悩み、苦しんだ事もたくさんあった。
「……凄いね、アフちゃん。こんなに愛されて」
周りを見渡せばそんなアフトクラトラスとディープインパクトを応援する声で溢れている。
ここまで来るのにどれだけの覚悟を彼女はしたのだろうか。
だけど、ここにいる皆は知っているはずなのだ。アフトクラトラスがどんなウマ娘なのか。
馬鹿でおちゃらけていて、だけど、努力家で人一倍責任感が強いそんなウマ娘。
いつも、生徒会長のルドルフからは怒られてばかりのそんな愛らしいウマ娘が彼女なんだ。
「アフちゃん……! お願い神様……っ!」
どうか、あの娘を勝たせてあげて欲しい。
どんだけ魔王だとか無敗のウマ娘だとか持ち上げられていても、アンタレスにいる皆にとっても自分にとってもアフトクラトラスはアフトクラトラスなのだ。
大切なウマ娘、そこに居てくれるだけで皆を明るくしてくれる太陽みたいなウマ娘。
だから、彼女が勝つことを今はひたすらに願うしかできない。
残り800m付近に差し掛かってきた。
最終コーナーが見えて来る。私は深呼吸を入れて脚に集中する。
勝負駆けはここだ。一気に間を詰めて追い抜き、ゴール。
ここを一気に抜き去れば、後は直進だけだ。もうそこには私以外誰もいない。
だが、それを遠目に見ていたオカさんは違っていた。
ガタリとその場から立ち上がると冷や汗を流す。
(……違うっ! まだ早い! 身体を考えればそこじゃ無いぞ! アフッ!)
オカさんが言う通り、仕掛けるには早いことは私も重々承知だ。
だが、このままでディープインパクトを交わしきれるのかと言われれば、私には自信が無い。
ならば、私は私の直感を信じるだけだ。
「おっと! アフトクラトラス! ペースアップして最終コーナーに差し掛かかろうとしていますッ! 早い仕掛けかッ!」
体勢を低くして、体勢を整えて一気に加速する。
ズンッと地面を蹴り上げた私は急加速して、先頭にいるウマ娘を交わして先頭に躍り出た。
だが、ディープインパクトもそれを直感的に予期していたのか、私に合わせてペースを合わせて、一気に翼を広げた。
「アフトクラトラスの地を這う走りが炸裂ッ! ディープも翼を広げたッ! これはどうだッ! まだ最終コーナーを抜けていないぞッ!」
これで押し切って、そのまま勝ちだ。
私はそう確信していた。このペース配分でここまで来れたのだ。いつもの必勝パターン、最後の直線に入ればこのまま……。
急加速し始めた私達に会場はいっきに盛り上がる。
だが、その時だった。
ドクンッと私の心臓の音が高鳴り、脚が痙攣をしはじめた。急激な胸の痛みに私は表情を曇らせる。
「……!? おっと!? これはどうしたことかアフトクラトラスッ! どんどんと失速していくッ……!」
会場はその光景に目を見開き騒めき始めた。
どうした事か、私の身体がみるみると失速し、まるで、その輝きがいっきに失われたようだった。
それを目の当たりにしていた会場の皆からは悲鳴が上がる。
「あぁ! 何という事だッ! アフトクラトラスの走りがッ先程とは別人のようだッ! どうしたんでしょうかっ!」
私はズルズルと失速していき、それを目の当たりにしていたウマ娘達も戦慄した。
この時誰もが思った事だろう、まさかと。
身体に力が入らずにズルズルと抜かれていく私、気がつけば中盤あたりまで引き下がっていた。
それを目の当たりにしたディープインパクトは驚いた表情を浮かべる。
「……先輩、まさか……っ!」
こんな状況でも、私の身体に何が起きているのかすぐに彼女は理解した。
これまで、幾人のウマ娘が走ってきた中山レース場、その場所で私の身体はついに悲鳴を上げたのである。
実況アナウンサーのその言葉を聞いたナリタブライアンは生徒会長のルドルフにこう告げる。
「会長っ! すぐに救急車の手配をッ!」
「あぁ、わかってる!」
すぐさま手配をかけるルドルフ会長。
だが、ナリタブライアンはそんな状況でも走り続けようとするアフトクラトラスを見て顔を曇らせた。
ボロボロになりながらも、走る事をまだ止めようとしない。
「くそっ……!」
走るのを止めに入るべきだろう。本当ならば。
だけど、その姿を見てブライアンはアフトクラトラスが走るのを止めるなと言っているように思えた。
どんな事をしても最後まで走り切ると、しかし、そんな事を言っている場合じゃない。
ナリタブライアンはその場からすぐに走り出すと有馬記念の観客席の先頭へ向かった。
中山レース場の会場からは悲鳴が上がった。
アフトクラトラスを応援しにきていたファンは彼女のその姿を見て戦慄する。
まさかと、最悪な事態が脳裏に過ぎった。
「アフちゃんは……、病気なのか……?」
「え?」
「……だってあんな走り見た事無いぞ」
観客の一人がそう呟く。
あんなアフトクラトラスを今まで誰一人として見たことがなかった。
まるで、翼をもがれたように苦しむ鷹のように、もう、あの鋭い走りでは無い。
そして、皆は同時にこう思った。
アフトクラトラスは終わったのかと、魔王は既に身体が限界であったのかと悟ったのだ。
「アフトクラトラスもこれまでか……」
「あぁ……そんな」
アフトクラトラスの走りを見てきたファン達からは悲しみの声が上がる。
アンタレスにいる皆も、アフトクラトラスと仲の良いウマ娘達も、アフトクラトラスの身体を知っているが故にその観客達の絶望したような声に何も反論する事はできなかった。
アフトクラトラスの無敗伝説の終焉。
そこにいる皆はその事を悟ってしまった。たった一人を除いては。
「終わってなんかないッ!!」
彼女の声に皆は一斉に耳を傾ける。
涙を流し、どれだけの人がアフトクラトラスというウマ娘がこれ以上走れないと思っていたとしても、彼女は違った。
アフトクラトラスに憧れて背中を追い続けている彼女は信じていたのだ。
「こんなもんじゃない……! こんなもんじゃないんだッ! アフちゃん先輩の走りはッ!
あのダービーも凱旋門も! 皆さんは忘れたって言うんですかッ!
あんなに強いウマ娘を捩じ伏せて! アフちゃん先輩は約束を守ってきたんですっ! 伝説はまだ終わってなんていないッ!」
涙を流しながらそう訴えかけるドゥラメンテ。
諦めかけていた会場にいるファン達に強く言い切る。何故、一番頑張っている自分の先輩の背中を押そうとしないのかと。
無敗のウマ娘と言われて、後ろ指を刺される事だってあった筈だ。
それでも、彼女は誇り高くターフを駆けた。今もなお、諦めずに走ろうとしている。
それを黙って聞いていた、ゴールドシップはツカツカとドゥラメンテへと歩いて行く。
「ちょっ……! ゴールドシップさん!?」
「行かせてやれ」
呼び止めようとしたスペシャルウィークにそう告げるスピカのトレーナー。
何か考えがあってのことだと、すぐに彼は察していた。
スピカにいる面々もアフトクラトラスとの繋がりは深い、ダイワスカーレットもウォッカも、スペシャルウィークもサイレンススズカも。
その中でも特にゴールドシップはアフトクラトラスとはかなり仲が良かった。
だからこそ彼女しかわからない事がある。
「その通りだ馬鹿野郎どもッ!」
ゴールドシップはドゥラメンテの側に近寄ると観客席に向かい罵倒の言葉を吐いた。
無理だとかもう走れないとか、外野がとやかく言っているが当の本人は今も戦っている。
どんだけ痛みを伴っていても、まだ顔を下げていない。
ゴールドシップは声を張り上げて、皆に話を続ける。
「そうさっ! 確かにアイツは病気だッ! 医者からは走るのだって無理だろうって言われてやがるッ! だけどな、あの馬鹿はそんな事知るかって突っ張って身体を張って走ってんだ! そんなアイツを応援出来んのは誰だよッ! 私らだけだろうが!」
そう、どんな風になってもそれは変わらない。
一緒に思いを背負って走っている。
どんなになってもそれは変わらない、勝手に終わったつもりになってるんじゃ無いとゴールドシップは皆に言い切ってみせた。
すると、観客席にいたウマ娘の皆からは声が上がり始める。
「そうだッ! アフちゃん先輩はこんなもんじゃ無いッ!」
「言われなくともわかってるってぇの!」
アフトクラトラスがそんくらいで終わらないウマ娘だって皆が知っている。
どれだけの困難に見舞われても決して顔を下げなかったウマ娘。
観客席にいた観客達も顔を見合わせると声を張り上げてそれに同調する。
「あたりめーだッ!」
「こんな事でアフちゃんが負けるかッ!」
「癖しかない上に世界一馬鹿なウマ娘だぞ!」
「そうだそうだ!」
会場にいる皆はアフトクラトラスの事を知っている。
馬鹿で、癖が強くて、観客にも喧嘩を売るような無法者みたいなウマ娘。
だけど、責任感が強くて優しくて、愛らしさがある、それがアフトクラトラスというウマ娘だ。
そんなウマ娘を誰もが愛して尊敬していた。
会場が一体になったように『アッフ!』という掛け声を張り上げる。
その光景はまさに信じられないような光景だった。会場が一体になって一人のウマ娘の名前を呼んでいるのだ。
会場の先頭にやってきたブライアンはその会場の雰囲気に言葉を失う。
「これは一体……!」
会場にいる人達誰もがその名を口にする。
アフトクラトラスというウマ娘の名前を誰もが呼んだ。
その圧巻の光景に思わず鳥肌が立つ、これが、これこそが有馬記念。
「凄い……」
「アフ……。貴女……」
もう、彼女が走る姿を直視できないと思っていたライスシャワーもミホノブルボンもこの雰囲気に言葉を失う。
これだけの人々の心を動かせれる、そんなウマ娘になったのだと、二人はその光景に唖然とさせられた。
それだけ、彼女は望まれていた。
そこに居たのは魔王という言葉で片付けられるようなウマ娘なんかじゃない。
海を渡り、挑戦し、世界に日本のウマ娘の存在を示したもう一人の英雄の姿がそこにはあった。