クラシック最終戦。菊花賞。
3歳馬が出走できるレースのうち、菊花賞より早い時期に3000m以上の距離を走るレースは存在しない。
つまり、すべての出走馬にとって3000mという距離は未知の領域である。
以前までは菊花賞と同じ京都3000mの嵐山ステークスがあったが廃止され、実質、この菊花賞だけが3000mのレースとなる。
コースはスタート直後に”淀の坂”と呼ばれる坂が存在し、レース中にその坂を2回も通過しなければならない。
この過酷さに耐え抜く身体の強さと、最後まで根性や闘争心を持ち続ける精神面の強さが必要になる。そのため菊花賞は『最も強いウマ娘が勝つ』と言われている。
勢いの皐月、運のダービー、そして、最後は真の実力で勝負が決まる菊花賞。
この秋のクラシック最終レースに向けて、1人のウマ娘は期待をされていない中、懸命に努力を積み重ねていた。
「…はぁ…、はぁ…」
神社の階段を手足に重りを付けて早朝から登り降りし、足腰を鍛えるトレーニング。
彼女、ライスシャワーは流れ出る汗を拭い深い深呼吸をした。
恐らく、皆が期待しているのは同じチームのミホノブルボンが三冠の栄光をとる姿だろう。
しかし、自分とて、誇りを持ってクラシックを戦ってきた。ミホノブルボンのようにG1を勝った栄光を手に入れたいと思った。
ただただ、同期のライバルであり、チームメイトである彼女に負けっぱなしで悔しくないわけがない。
共にトレーニングを積み重ね、切磋琢磨した仲だからこそ、横に並んで駆けたいと思った。
「次は…勝つ」
もう、その距離は手が届くところまで来ている。
ならば、後は迷う事は何もいらない。ライスシャワーは黒髪を静かに靡かせると、再び、坂路を一心不乱に駆けはじめた。
いつも、背中を追い続けていたミホノブルボンのように、坂路を力強く駆け上がっていく彼女の走りはいつもよりも研ぎ澄まされているようにも見えた。
さて、その頃、私ですが、姉弟子の最終調整に付き合ってました。
コンディションは言うならば完璧の姉弟子、しっかりと仕上がってますね。
貧弱な私はそんなゴリゴリ絶好調の姉弟子の調整トレーニングに付き合わされているわけでして、それはもう、鬼のようにキツいトレーニングでした。
「…あひぃ…か、勘弁をぉ…」
「弱音を吐くな! 走れ!」
「ひゃああ〜」
もう無理でち、走れないでち。
そんな私を他所に全力疾走で坂を難なく駆け上がっていくミホノブルボンの姉弟子。本当にね、化け物じみてると思います。
そんな中、クタクタになった私はひとまず一通りのトレーニングを終えて一休みに入ります。
さて、地獄のような練習を終えた私はその後、オグリ先輩にニンジンを餌に膝枕してもらうことにしました。
「あー…溶けるんじゃ〜」
「私の膝上で溶けてもらったら困るんだが…」
そう言いつつも私の頭を優しく撫でてくれるオグリ先輩、相変わらず心広くて優しくて可愛いです。
オアシスはここにあったのですね。
確かに私も重賞を控えているので、わからなくもないですけれど、ありゃキツいっすよ、義理母。
坂路の数覚えてませんもん、途中記憶が飛びましたもん。
というより、毎回のように四桁を軽く行く坂路、調整とは一体何なんでしょうね?
私は柔らかいオグリ先輩のお腹と胸と太もものジェットストリームアタックを受けながら疲れを回復させる。
こんな事で回復する私の単純さ、煩悩さには我ながら脱帽ですよ、うーん、太ももが柔らかいなりぃ。
同じような方法として、ダスカちゃんの膝枕かハグがあるんですけども、流石に後輩に先輩が甘えるというのは気が引けてしまうといいますか。
ダスカちゃんにうるせー! 乳揉ませろやー! なんて私みたいなチキンハートが言えるわけが無いんですよね。
それにスピカには、メジロマックイーンとゴールドシップとかいうヤバい人達が居ますのでできれば関わり合いになりたくないといいますか。
えっ? 私も大して変わらないですって?
失礼な! 私なんてファンの皆様やトレセン学園の皆からはチョロアフとか、小さなやんちゃ娘とかトレセンの残念マスコット枠とか暴走暴君なんて呼ばれて可愛がられてるんですよ!
あれ? 気のせいですかね? 最後の方はなんかゲテモノじみてましたけど。
つまり、自由に平等に皆に優しさを振りまく私は大天使というわけですね、もっと褒めてくれて良いのですよ!
私にとっての大天使はライスシャワー先輩なんですけどね、はい。
しばらく、私の頭を撫でていたオグリ先輩はふと、私にこんな事を告げはじめた。
「しかし、お前は最近会長に怒られてばかりだそうだな、先日もライブでやらかしたんだろう」
「そうですね、なんだか冷ややかなあの眼差しで見られるのにも慣れて来ました」
「大丈夫か、お前」
そう言って、膝枕している私の返答に顔をひきつらせるオグリ先輩。
もう手遅れかもしれません、トレーニングのし過ぎてルドルフ会長の冷たい視線を受けても平気な身体になっちゃいました。
ドMではないと思いたいです。もう、私はお嫁に行けないかもしれません。
誰か私を嫁に貰ってくれますかね? 一万円からセリ市をスタートさせてくれても良いですよ?
さあ! 一万円から!リーズナブルな金額! 購入者はいらっしゃいませんか!(ただし行くとは言っていない)。
純粋に私の落札額ってどんくらいになるんでしょうね? 教えてエ○い人!
ちなみにダスカちゃんのブラとかヒシアマ姉さんのパンツとかもオークションで高値で売れそうだなとか下衆な事を考えていたのはここだけの話です。
さて、話はだいぶ逸れてしまいましたが、私に膝枕をしてくれているオグリ先輩はふとこんな事を私に話してきました。
「もうすぐ菊花賞だったな、どうだミホノブルボンの調子は?」
「姉弟子の調子ですか? …うーん」
私はミホノブルボンの姉弟子の調子を問われなんて答えるべきか思わず悩んでしまう。
調子が良いと言えば良いのだが、何というか不安が拭えない。というのも、姉弟子自身がそう考えている筈なのだ。
悪くはない、勝てる見込みはある。だが、漆黒の刺客の影がゆらりゆらりと彼女の背後に迫り来る光景が私の頭にも浮かんでいた。
オグリ先輩に膝枕されている私は目を細めるとポツリポツリとこう語り出す。それは、私自身が個人的に思っている事だ。
「…調子は良いです。 ですが…何か精神的に不安ですね」
「そうか」
「えぇ、姉弟子にとっても3000mは未知の領域です。そして、はっきり言って、姉弟子はステイヤーではないです」
そう、ミホノブルボンの姉弟子はステイヤーではない。
どちらかと言えば、タイキシャトル先輩のようなマイルに適した身体つきをしている。そう言った身体つきを考えれば、姉弟子が菊花賞を戦うのは厳しそうだと感じてしまった。
皐月、ダービーをあれだけ圧勝した姉弟子だが、それだけは言える。
しかも、レース展開次第ではもっと厳しい戦いになるかもしれない。
だけど、私はミホノブルボンの姉弟子も好きだが、ライスシャワー先輩も同じくらい大好きだ。
複雑な心境、2人の努力を知っている身だからこそ、彼女達が悔いのない走りをしてほしいと心から思ってしまう。
ライスシャワー先輩の仕上がりも間違いなく良い、菊花賞を勝てれば彼女にとってみれば初のG1制覇だ。
2人ともに勝って欲しいなと思う私の複雑な心境を察したのか、オグリ先輩は膝枕をしている優しく私の頬をそっと撫でてくれた。
「勝者は1人…、優勝するのは果たしてどちらかはわからないが、それが勝負の世界だ」
「……わかってます」
「そうやって、拗ねるという事はまだまだ経験不足という事だアフトクラトラス」
オグリ先輩から笑みを浮かべられそう言われ拗ねた私は唇を尖らせる。
言われずともわかっている事だが、そう簡単に割り切るのは難しい。二人とも好きな先輩だからこそ、応援し辛いのだ。
だが、どちらが勝ったとしても心の底から祝福してあげようとは思っている。同じチームとして、そして、敬愛する先輩としてそれは当たり前の事だと私は思っているからだ。
今は2人の勝敗の行く末を私は見届けるしかない、それくらいしかできない今の状況がなんだか、少しだけ悔しかった。
そんな敬愛する先輩二人が激突するであろう波乱の菊花賞の前夜、私は義理母に呼ばれた。
義理母が私をトレーニング以外で呼ぶ事自体珍しいのだが、何やら意味深な表情だったのですぐに私は義理母の元へと足を運んだ
その内容は私と何やら二人で親子水入らずで話したいことがあるという事だった。
私は義理母と共に夜のトレセン学園のグラウンドに移動する。
そうして、私は坂の芝の上に腰を下ろす義理母の隣に並んでちょこんと座った。何故かわからないが、その時は私は義理母に対していつものような緊張感はなかった。
その日は雲が一つも無く輝く星が見える綺麗な夜だった。
私は隣に座る義理母に首を傾げたまま、こう問いかける。
「珍しいですね、義理母がこうして話したいなんて」
「なぁに、ちょっとお前と話したいことがあっただけだ」
義理母は夜空を見上げ、笑みを浮かべながら私にそう語る。
こうして、義理母と二人で話すのは何年振りになるだろうか、しかしながら、私の隣に座る義理母はいつものように檄を飛ばすような、そんな雰囲気ではなかった。
夜空を見上げた義理母は私にポツリポツリとこう語り始める。
「アフトクラトラス…。私の夢はな、自分が鍛えて鍛え抜いたウマ娘が三冠ウマ娘になってくれる事だ」
「…………」
「鍛えて最強ウマ娘を作る。私は常にそう考えてお前たちに接してきた。私が鍛えたお前達なら、きっと三冠ウマ娘になれると思っておる」
そう語る義理母の私を見る眼差しは優しかった。
そして、義理母は優しく隣に座る私の頭をポンと撫でると何度も何度も優しく撫でてくれた。
鍛えて私も強くしてもらったという自覚はある。確かにキツくて今日も身体が動かなくなるまで扱かれた。
だが、そこには義理母の愛情がある事も私は知っている。
そして、義理母は優しい眼差しのまま淡々と私にこう語り始める。
「遠山厩舎の集大成と呼ばれるほど、お前とミホノブルボンはよく私について来てくれた。ミホノブルボンも皐月賞、ダービーも勝ってくれて、トレーナー冥利に尽きる」
「そりゃ、義理母は菊花賞の3000mは陸上で例えれば400mなんて言う位ですからね」
「ふふ、そんな事も言うたかな」
義理母は私の言葉に思わず笑みを浮かべる。
無理なハードトレーニングで周りからの批判を浴びた事もあった。
だが、走らないウマ娘は涙を浮かべ、敗北を受け入れるしかない。
勝って走る楽しみを味わわせてやりたい、キツくても、それが、ミホノブルボンの姉弟子にとっても私にとっても一番だと義理母は考えていた。
そうやって、義理母と姉弟子と私はトレセン学園に入っても共に勝ちを分かち合い、チームメンバーとも喜びを分かち合った。
きっと苦しい時があってもこんな風に勝って喜びを分かち合えるんだなという嬉しさを私はトレセン学園に来て、学んだ。
それがずっとこれからも続いていくんだとそう信じて疑わなかった。
「義理母には私は感謝してますよ…ほんとに」
「ははは、トレーニングでは弱音ばっかり吐きよるのによく言うわ」
「…うっ…確かにそうですけど…ほんとにそう思ってますよ私は」
確かにすぐに弱音も吐くし、サボりたがりますが、私はトレーニングをする時は妥協したことはありません。
バテても這い蹲っても立ち上がってトレーニングをしていたのはやはり、義理母に認めてもらいたいという気持ちがあったからだろう。
そして、いつか、ミホノブルボンの姉弟子と並んで走る立派な姿を義理母に見せたいと私は常々そう思っていた。
私が勝った横には厳しくても愛があるトレーナーが自分の横にいるんだとそう思いたかった。
義理母の私の見る眼差しは何処か、悲しみを含んだ眼差しであった。
何故、私をそんな目で見るのか全く理解出来なかった。
せっかくの姉弟子が三冠を取るチャンスが目の前にあるというのに、もうすぐ、義理母の夢が叶うその時が来るかもしれないと言うのに。
義理母の私を見つめる眼差しは優しく、そして、悲しげな眼差しだった。
そして、暫しの沈黙の後、意を決したかのように義理母は私にゆっくりとこう語り始める。
その義理母の口から語られる話の内容は私が言葉を失ってしまうような衝撃的な話であった。
「ーーー私はお前に謝らないとならん」
「…えっ?」
そうして、義理母は私にある事を打ち明けてきた。
それは、遠山厩舎の集大成として期待を寄せていた私へのせめての償いの気持ちからだったからかもしれない。
だが、私はその義理母から語られる話に頭が真っ白になった。
運命の菊花賞の前夜、私は初めて運命というものに対して深い憎しみを抱いた。