いつか会える日まで
菊花賞でミホノブルボンの姉弟子がライスシャワー先輩に負けた。
だが、私にはそれでも姉弟子は姉弟子であった。
たとえ、負けたとしても、私の目標であり道しるべであった。
トレーナーである義理母だってそうだ。
私は例え、クラシックレースに姉弟子が負けたとしても、また、次の目標に向かって共に頑張ろうと心に決めていた。
いつものようにまた三人で苦楽を共にする家族として、そういった毎日が送れるのだと私はそう思っていた。
あの日の夜、義理母から話を聞くまでは、少なくともそう信じていたのだ。
私は通路を走り、ミホノブルボンの姉弟子の元に向かっている最中であった。
負けた姉弟子になんと声を掛ければ良いか、まだ正直わからない、だが、何故だか気がついたら身体が勝手に動いていた。
すると、走っていた私は聞き慣れた声が聞こえてくると共にピタリとその足を止める。
「…すいません…マスター…、負けて…しまいました…」
ミホノブルボンの姉弟子を迎えに行こうとレース場に向かう通路を駆けていた私は姉弟子の声を聞いてサッと物陰に隠れた。
姉弟子の前には変わらずジャージを着た義理母の姿があった。その表情まではわからないもののその後ろ姿はとても大きい。
物陰に咄嗟に隠れた私は耳をピクンッと動かして聞き耳を立てる。
何故隠れたのかはわからない、しかし、こうしておいた方が良い気がした。
義理母はしばらくして、涙で目を腫らしているミホノブルボンの姉弟子の身体をそっと抱きしめるとこう話しを始めた。
「よう頑張ったなぁ…よう頑張った。立派だったぞ」
そう何度も言いながら涙声で義理母はミホノブルボンの姉弟子を抱きしめ労った。
見たことが無いそんな義理母の姿を見て、声を聞いて私は思わず目頭が熱くなる。
私は知っていたからだ。
この姉弟子のレースが義理母が観る事ができる最後のレースだということを。
物陰に隠れていた私の目からは絶え間なく涙がボロボロと溢れ出ていた。
そんな中、抱きしめられたミホノブルボンの姉弟子も言葉を詰まらせながら、震える声で義理母の身体を抱きしめてこう言葉を絞り出す。
「申し訳…っ…ありません…っ。…ひっく…っおかあさん…っ」
「…良い夢を見させてもろうたわ…。こんな孝行娘は何処にもおらん…」
「…ぐすっ…。あぁぁぁ…っ!」
再び涙が溢れ出すミホノブルボンの姉弟子を優しく抱きしめて何度も撫でる義理母。
姉弟子もきっと知っていたのだ。
義理母と最後に挑むレースがこの菊花賞になるという事を、だからこそ、このレースに賭ける思いは人一倍強かったに違いない。
義理母の身体には限界が来ていた。
あんなに罵声を浴びせ、厳しい鬼のように思えた義理母だったのに、そんな素振りなんて私達の前で一度も見せた事がなかったはずなのに。
もっと、義理母に教えてもらいたい事がたくさんあったのだ。私もミホノブルボンの姉弟子も。
厳しい指導と共に私達の側に義理母がいつも隣に見守ってくれる人が居なくなってしまう。
気がつけば私は一人、二人の会話を物陰で聞きながら静かに泣いていました。
胸が張り裂けそうで、声にできません。いや、姉弟子が辛いのに私が大声で泣けるわけがありませんでした。
義理母の夢を私が姉弟子の代わりに叶えて上げたかった。
目の前であの人に見てもらいたかったのに、認めてもらいたかったのにそれも最早できない。
「ありがとう…」
ミホノブルボンの姉弟子を抱きしめていた義理母も涙を流していた。
その涙は感謝からの涙だったのだと私は思う。
こうして、ミホノブルボンの姉弟子と義理母との二人三脚で突き進んで来たクラシックロードは静かにその幕を下ろした。
それから数日。
トレセン学園の坂路の前に私はポツンと一人で立っていた。
ミホノブルボンの姉弟子は菊花賞の翌日、トレセン学園の生徒会に行き、休学届けを提出した。
その後、寮から荷物を整理するとそのまま私にも何も言わないままで姿を消してしまった。
そして、私の義理母。
義理母もまた、トレセン学園のアンタレスのチームトレーナーを退任し、トレセン学園から出て行く事になった。
理由は身体のことである。
義理母の身体を気遣うオハナさんが退任を進め、義理母は今回のミホノブルボンの姉弟子の菊花賞をもって、トレーナーを引退することを決意していたのだ。
義理母はその後、そのまま病院に入院することとなった。
癌が身体から見つかったからだ。
私はその話をあの日の夜に聞いた時に頭が真っ白になった。
何も考えられなかった。
そして、義理母も姉弟子も居なくなり、私は一人、トレセン学園に居る。
アンタレスは形上残ってはいるが、そこには私の大好きなトレーナーもミホノブルボンの姉弟子もいない。
ポツンと一人だけ、トレーナーも居ないウマ娘となって、私は一人、懸命に姉弟子であるミホノブルボン先輩と駆け上がった坂路を静かに見つめるしかなかった。
「…一人に…なっちゃいましたね」
私は静かにそう呟くと静かに下を向く。
あれだけキツい練習をしていた坂路も静かだ。
いつもなら、義理母の檄が飛び、私と姉弟子が懸命に汗を流していた坂路、努力を積み重ねる日々。
それがずっと続いていくものだと思っていた。だが、この坂路には、もう誰も居ない私以外は誰も。
すると、しばらくして、坂路をずっと見ていた私の背後からそっと誰かが肩を叩いて来た。
「…アフちゃん…」
そう言って、優しく声をかけて来てくれたのはいつも見慣れた黒髪を靡かせているライスシャワー先輩だった。
しかし、私に声をかけて来てくれたライスシャワー先輩のその声は明るいとは言い難いものだ。
声をかけられた私はゆっくりとライスシャワー先輩の方へ振り返る。
「ライスシャワー先輩…」
「…あの…ごめんなさい…私」
「何言ってるんですか、菊花賞おめでとうございます」
第一声でいきなり謝って来たライスシャワー先輩に対して、私は手を握りしめて笑みを浮かべながら彼女にそう告げる。
彼女が私にこうやって謝ってくる理由はわかっている後ろめたい気持ちがあるからだろう。
私がこうやって、孤独になってしまったのは自分のせいかもしれないとライスシャワー先輩はきっと考えているのかもしれませんね。
けれど、それは全然違います。
あの菊花賞は間違いなく、ライスシャワー先輩の実力で勝ち取ったものだ。
だから、私はライスシャワー先輩に謝って欲しくはなかった。
自慢の先輩なのだから、胸を張って私に声をかけて来てほしかった。
それからしばらくして、近くのベンチに下ろすライスシャワー先輩と私。
私に声をかけて来てくれたライスシャワー先輩はこう話を始める。
「…菊花賞に勝って、私はこう言われたわ。ミホノブルボンの三冠を台無しにしたウマ娘って…」
「……なんてことを…」
「良いの…、事実なんだもの、期待もされてなかったみたいだから、私は」
そう言って、ライスシャワー先輩は悲しげな表情を浮かべたまま私にそう語ってくる。
事実かどうかはわからない、だけれど努力を積み重ねてきたウマ娘に対してなんて心無い言葉を掛けるんだと怒りが湧き上がってくる。
ライスシャワー先輩のそんな表情を見ていた私はそっと手を彼女に添える。
そんなことはない、そんな事は決してないのだ。
あのレースは私が見たレースの中でもミホノブルボンの姉弟子とライスシャワー先輩の全力を出し切った素晴らしいレースだった。
姉弟子はあのレースで負けて、義理母も姉弟子もこの学園から姿を消してしまったけれど、私はそれがライスシャワー先輩の責任だとは全く考えていない。
手を添えた私はライスシャワー先輩の目を真っ直ぐに見据えたままこう話をし始める。
「ライスシャワー先輩の努力を私は一番知っています。姉弟子の積み上げてきた努力も知っています。だからそんな顔をしないでください」
「アフちゃん…」
「…二人がいつでも帰って来れるように頑張りましょう? タキオン先輩やナカヤマフェスタ先輩、メイセイオペラ先輩達も皆そう言ってくれました」
私はライスシャワー先輩に静かに声を震わせながら手を握りしめてそう告げた。
いつ帰ってくるかはわからない、だけど、いつか、二人がまたアンタレスに帰って来れるように居場所を守っておかないといけない。
誰かがやらないといけない、だったら自分達が頑張ってアンタレスを守って行こうと皆さんが言ってくれた。
ライスシャワー先輩は静かに涙を流しながら頷いてくれた。
私はライスシャワー先輩の菊花賞の勝利をその日、みんなで祝う事にした。
同じチームメイトとして、努力を積み重ねてきた身近な身内の一人として私は彼女を祝ってあげたかったから。
確かに、姉弟子が学園を休学し、義理母は病院に入院する事となった事は悲しい出来事だ。
だからこそ、私がもっと頑張らないとと思った。
チームのみんながこう言ってくれたのだから、私が一番頑張って、そして、勝ち続けないといけないと強く感じた。
それから、私は重賞に向けて一人でトレーニングをする事になった。
自分の専属してくれるトレーナーをオハナさんやスピカのトレーナーさんから打診されたことはあったが、私は全部断りを入れた。
その理由は、私のトレーナーは義理母だけだと思っていたからだ。
いつか、私が勝ち続ければ義理母が帰って来てくれるかもしれない、そんな期待が胸の中にあったのだと思う。
「…はぁ…はぁ…、こんなんじゃダメだ…こんなんじゃ…もっと、もっと走らないと…」
私は姉弟子がいつも走っていた坂路をひたすら走り続けた。
義理母がいつも私に与えてくれた練習メニュー通りに、ある日はそれ以上に私はトレーニングを行った。
私には敗北は許されない。
絶対許されないんだとそう何度も何度も坂路を走りながら自分自身に言い聞かせていた。
負けたくない、負けたら、義理母と姉弟子はもう帰ってきてくれない。
そんなのは嫌だと、私は毎日、毎日、黙々と坂路を駆け上がった。
血反吐を吐いてでも、他のウマ娘よりも努力をしないと勝てないと、私はそう思っていたから…。
そんな私のトレーニングを見ていたメジロドーベル先輩は何度も何度も私を止めに入った。
「もういいっ! アフちゃん! それ以上はダメっ!」
「はぁ…はぁ…」
「またこんな無茶なトレーニングしてっ…! 身体が壊れるわよっ!」
その度に私はそれを振り払い、トレーニングを行った。
何度かぶっ倒れて、その度に私はナリタブライアン先輩やオグリ先輩、ライスシャワー先輩やチームの先輩達からも注意を受けたがやめようとは思わなかった。
記憶がないまま、ベッドの上で眼を覚ますたび、私はすぐに着替えを済ませると坂路に向かう。
私の顔からは笑顔はすっかり消えていた。
あるのは勝利への強い欲求にひたすら強くなる事だけであった。
そうして、過ごすうちに、私は重賞の日を迎える事となった。
もちろん、人気は私が1番人気に推されている。
鍛えに鍛え抜き、勝利への渇望だけを糧にこの日までトレーニングを積んできた。
パドックでステージに立つ私の目には最早、勝つことしか見えてはいない。
「おいおい…」
「なんつー身体してんだよ…」
パドックで私の身体を見せた観客達の中には絶句する者も居ましたが、私は気にも止めませんでした。
私は静かにパドックのステージを降りると何事も無いようにそのままゲートに向かうことにした。
「貴女がアフトクラトラスさんですか! 今日はよろしく…」
中には私に声をかけて来ようとしてきたウマ娘も居ましたが、私は見向きもしませんでした。
ライバルでしかない者と握手なんて気分になれませんでした。
身勝手な事は悟ってはいたが、私自身にそんな余裕が今は全く無いのだ。
私が勝てば、いやきっと勝ち続ければ、また、隣に義理母と姉弟子が帰ってきてくれる。
今の私はただ、そんな自己暗示を己に言い聞かせるしかなかった。