朝日杯のゲートに入り、私は呼吸を整える。
勝負は常に真剣勝負、勝者は一人、そして、今日のレースはいつものレースとは違い、G1級の実力者が雁首そろえて集結している大レースだ。
油断すればやられる、自分がこれまで積み上げてきたものをこのレースで全力でぶつけないといけない。
ファンファーレが鳴り響く中、ゲートの位置についた私は深い深呼吸をする。
「さあ、各ウマ娘、ゲートインが完了しました。そして、振り上げられた旗が今…」
私は走る体勢を整え、いつものように地面に手をつき、クラウチングスタートの構えを取る。
ゲートが開いた瞬間、必ず前を取りに行く。
スタートダッシュを決めるのは得意中の得意、なんの心配もない、今までのレースと変わらず走るだけだ。
「スタート致しましたっ! 先頭を取りに行ったのはやはりこのウマ娘っ! アフトクラトラス!見事なスタートダッシュを決めてきました」
先行を取れれば、レースのペースもコントロールしやすい、しかし、私の横からスッと並ぶようにエイシンチャンプちゃんが出てくる。
やはり、ここから勝負に来たかと私は笑みを浮かべた。
朝日杯の距離は1600m、先に立ったウマ娘が有利なのは当たり前の話だ。先行争いもそれなりに激しくなる事は予想できていた。
「アフちゃん、簡単には行かせないよ」
「…私のスタートにすかさず対応してくるなんて流石ですね」
「伊達に研究してないからね」
さらに、背後にチラリと視線を向けるとそこにはネオユニヴァースがしっかりとついてきている。
そのネオちゃんに追従するのはサクラプレジデント、だが、マークは完全に私に向いていた。
私は顔を顰め、思わず舌打ちをしてしまう。
走り辛いったらない、私は一応、逃げウマ娘を逃げさせて背後に控えて体力を温存しているのだが、抜け出す際にこうもマークされていては勝負に行った際に交わされてしまう。
差し返せば問題無いのだろうが、1番人気というだけで、彼女達に限らずほかのウマ娘達も私を警戒している事だろう。
(これなら大外からぶん回して一気に突っ走るしかないか…)
私は冷静に今の状況を打破する策を思案する。
外にさえ出ればあとは迷わず突っ走るだけで良い、残りが少なくなるにつれてだんだんと全体の走るペースが上がっていく。
と、残り600mを過ぎた辺りで状況は一変し始めた。
スッと抜け出し始めたのは…。
「おっとここでペースが上がってきたエイシンチャンプ! ここぞとばかりにやってくる! それに続いてネオユニヴァースもきた!」
一気にカーブで加速し始める二人、そして、サクラプレジデントも一気に差を詰めてくる。
私の前を三人が走る、残りは500mを切った。
咄嗟に私もギアを切り替える。このままだと三人の駆け合いだ、差し切らないとマズイ。
「さあ来た! さあ来た! アフトクラトラスがやってきたっ! 凄い勢いで先頭を追う! 間に合うか! 間に合うのかっ!」
しかし、差はなかなか埋まらない。
上手い具合にスリップストリームを使っている上にギアも一段階上にまで上げているのに三人の走りが遠く感じる。
勝負を賭けに行くタイミングを見誤ったのか? いや、そんなことはないはずだ。ならば、何故こんなにも遠く感じるのだろう。
それに残り400mまで足を普通は溜める筈…。
私はそこまで考えると、頭によぎった嫌な予想が脳内を過ぎる。
(…まさかっ…! 先に仕掛けて私を差しの展開にしたのは…っ!)
そう、それは、紛れもなくオハナさんの入れ知恵だったのだろう。
私が先行で走るレースを分析した結果、ある事に彼女達は気がついていたのだ。
それは、今までのレースは残り600mまでには私が必ず先頭を取っていたという事である。
私は足をセーブして、余裕を持って勝ってきたわけだが、残念なことに私はこれまでこの距離から足を全て使い切った走りをしていなかったわけだ。
余裕勝ちだから良い勝ち方なわけではない。
逆に言うなら逆境の時の走りを今までできてこれなかったのだ。
(やばい…やばいやばいっ!)
私もこれには思わず焦りを感じてしまう。
残りは少ない、三人との距離はまだある。大外を回ってはみたがスリップストリームが無くなった分、向かい風が当たりこれでは差は詰めれない。
そして、ゴールとの距離はだんだんと縮まっていく。
このままでは、間違いなく負けてしまうだろうことは容易に想像できる。
なんとかしないと、なんとか、でもどうすればいい?
直面したことがない壁に私は動揺するしかない、なんとかして打開策を打たないと、だが、私には今、走ることが精一杯だった、
最後の直線だというのに、何をやっているのだろうか、自分は。
「くそッ…! もっと! もっと走らないとッ!」
そうやって自分に言い聞かせてはみるものの、私は思わずこの状況に心が折れかけていた。
義理母との約束? 姉弟子を超える?
なんだ、この体たらくな走りは、自分が努力を積み重ねた結果がこれなのか。
「…こんな…結果…」
あぁ…、やはり、そうか。
自分は姉弟子とは違うのだ。
努力して義理母から鍛えられた姉弟子は才能の塊だったのだと、私は思う。
それに比べて私はどうだろう、少しばかり勝ったからといって周りから期待をされて、蓋を開けてみれば大したことない凡才。
こんな強者ばかりが集まるレースでぶつけた実力がこんなものなのか…。
走っていた私は思わず下を向きそうになる。
そんな時だった、私の耳に聞き覚えのある声が入ってくる。
「…前を見なさいッ! アフちゃんッ! まだ貴女の全部を出してないでしょうッ!」
「!?」
咄嗟に私は頭を上げ、その声の元へと視線を移す。
そこには真剣な眼差しでこちらを真っ直ぐに見つめてくる小さな漆黒の鬼の姿があった。
そして、彼女の姿を見た私は思い出す。
小さな身体のライスシャワー先輩がどれだけの努力を積み重ねて、あの姉弟子と戦ってきたのかを。
何度も負けて、立ち上がってきたあの姿を私は覚えている。
「レースはまだ終わってないわッ!」
ライスシャワー先輩は声を張り上げ、私に向かいそう告げた。
それに便乗するように観客席からナカヤマフェスタ先輩やバンブーメモリー、サクラバクシンオー先輩が身を乗り出すようにしてこちらに声を上げてくる。
「ラストスパートだっ!」
「捲れェッ!!」
「貴女ならやれるわッ!」
そのアンタレスの仲間達の姿を見た私は再び目に光が戻る。
そうだ、何故、諦めようとしていたのだろう。
私が積み上げてきたもの、走ってきた道のり、ライスシャワー先輩達と切磋琢磨してきた日々はとてつもなく濃いものだった。
義理母と姉弟子と積んできた特訓は死ぬほどキツいものだった。
それを、ここで否定されてしまうのか?
全て出し切らずに、何も出来ずに私は負けを敗北した姿を義理母に見せるのか?
いいや、違う、頑張るのは今だ。
死にものぐるいで努力してきたものを全て出し切ってしまうのは今なのだ。
「あああああッ!! うああああッ!!」
私は気合いを入れ直すように声を張り上げて足を更に前へ前へと加速させていく。
私がこのレースに向けて特訓し、なんども走り、試行錯誤して編み出した新しい形。
身体を小さく、素早く、前のめりにして、一気に、真っ直ぐに、一直線に何も考えず今まで持っていた脚を一気に解放する。
リギルの観客席でヒシアマゾンの隣で座っていたナリタブライアンはその走りを見て、その場から思わず立ち上がる。
「…そうだっ! その走りだッ! アフッ」
そう告げる握りしめた彼女の拳には力が込もっていた。
それは、目の前で開花する才能が芽吹く瞬間を前にして滾る血潮が疼いたのかもしれない。
アフトクラトラス新走法、それは、彼女が己にスパルタを課した結晶体。
地が爆ぜたかと思うと、這うように一気に先頭で争っていた三人の姿がみるみるうちに縮まっていく。
「…んなっ! させるかァ!?」
「クッソォ!」
サクラプレジデントとエイシンチャンプの二人はそれに食らいつこうと地面を強く踏みしめるが、既に完成したアフトクラトラスの新走法を前にして成す術なく並ばれる。
そして、気がつけばあっという間に抜かれていた。
「は、速いッ!」
「もうっ無理〜…!」
だが、それでも、そのアフトクラトラスに抗おうとする一人のウマ娘がいた。
抜かれまいと食らいつく最後の一人。
そう、同期の好敵手であるネオユニヴァースだ。彼女は息を切らせながらも死にものぐるいでアフトクラトラスを抜かせまいとしていた。
「抜かせ…ないッ…! 勝つんだァ!」
ネオユニヴァースは隣まで迫るアフトクラトラスを横目に見ながら最後のスパートに限界を超えまいと足を動かす。
ここまで、オハナさんがお膳立てをしてくれたのだ。勝たねばならない、勝って、応えたい。
だが、ネオユニヴァースの隣まで加速したアフトクラトラスが並んだ時だった。
まるで、静止したような中で、一言だけ、私はネオユニヴァースに向けて静かに話をし始める。
「……いや…」
私はゴールを真っ直ぐに見据える。
今、はっきりと私には勝ち筋が見えてしまっていた。
冴え渡るような頭の中で隣を走るネオユニヴァースに私ははっきりとした口調でこう告げる。
「…私には更に上がある…ッ!」
次の瞬間、バンッという力強く地面を蹴る音と共に私は一気に並んでいたネオユニヴァースを引き剥がした。
まさに、大捲り、一気に加速した足は止まらない。
残り距離50mに差し掛かったところで、私と三人には明確な差が開いていた。
そして、その速度は衰えるどころか更に上がっていく。
加速した私はそのまま何も考えず、風を切るように一気にゴールを突き抜けるようにして完走していった。
「抜いたァー! 速い速いッ! 何という捲りだァー! アフトクラトラスッ! 今、1着でゴールインッ! スパルタの皇帝が最後の最後でとんでもない走りを見せつけてきましたァ!」
これには実況席も大盛り上がりを見せ、会場はどよめいていた。
当初はあからさまに差が詰まらない状況にこれはアフトクラトラスが負けるかもしれないと観客達は思っていたのだ。
それが、あり得ないような走りで先頭との差を一気に詰めたかと思うと置き去りにしてしまった。
「朝日杯FS! 勝ったのはアフトクラトラスですっ!」
実況席の声が辺りに響き渡る。
すると、観客席からは拍手がだんだんと沸き起こってくる。
息を切らし、膝に手を付いていた私は顔を上げると拍手を惜しみなく送ってくれる観客席にと視線を向ける。
鳴り止まない心臓の音と共にずっと得たいと思っていたG1勝利者へ送られる賞賛。
冴え渡るような頭には何も今入って来なかった、だけども、私はこれだけは感じることができた。
走るのが楽しいと。
それは今まで感じたことはなかった感覚かもしれない、辛い中で得られた勝利というものがより一層嬉しく感じられた。
紛れもなく今までで1番楽しいレースだった。
ギリギリまで、諦めずに走ってよかったと私は心の中からそう思う、きっとこれが、いつも姉弟子が見ていた景色なんだ
私の目の前には何故か背中が見える。その背中はいつも私が追いかけていた背中だった。
大きかった姉弟子の背中、私にはその背中との距離がようやく少しだけ縮まったような気がした。