弥生賞まで、二週間あまり。
合宿から帰ってきた私は仕上げの為にいつも通りハードなトレーニングをこなしていました。
帰ってきて早々に涙ながらにブライアン先輩に抱きつかれたのにはびっくりしましたけどね、そんなに私が恋しかったのか…(恐怖)。
でもまあ、必要とされる分には悪い気はしないです。
私も少し寂しいなとは感じることはありましたので、こうして再びトレセン学園の皆さんと顔を合わせるとなんだか落ち着きますね。
そして、ブライアン先輩と同様に私がしばし留守にしている間になんだか拗らせた人が約1名。
宿舎の増築が終わり、今年から私と同じ部屋になった鹿毛ロングのクールビューティーな美少女ウマ娘さんである。
「ねぇアフちゃん?」
「なんですか? ドーベルさん?」
「アフちゃんをめちゃくちゃにしたい」
「何言ってんですか貴女」
割と真顔でそんなことを言ってくるもんだから私も思わず真顔でそう返すしかなかったです。
私がいない間に何かに目覚めたとでも言うのでしょうかね? いや、割とその兆候は以前からあったんですけども。
メジロドーベルさんは頬を染めたまま、さらに続けるようにこう語りはじめた。
「アフちゃんの抱き心地が恋しくて…」
「抱き心地…ほんと、私はなんなんですかね…」
「うーん、それを語るには原稿用紙が百枚以上いるかしらね」
「どんな超大作作るつもりですか」
禁断症状? それはおかしい、私は何か危険なドラ◯グかなんかですかね? あと、ドーベルさん、超大作小説を作るのはやめてください、売れませんから。
え? ド◯ラですって? やかましいわ!
まあ、そんな感じで取り乱して、目がハートになっているようで息遣いが荒いメジロドーベル先輩を宥める私。
気を取り直して、そんな訳がわからない出来事もありつつも私は順調に弥生賞に向けてコンディションを上げつつありました。
弥生賞ではきっとまたネオちゃんが立ち塞がってくるでしょうしね。
気を引き締めておかねば足元掬われてしまいます。
と、私はそう思っていたのですが、私は彼女が所属するチームリギルのトレーナーであるオハナさんから信じられない話を耳にしました。
「ネオユニヴァースは…弥生賞には出ない」
「…え?」
トレーニング前、準備体操をしていた私の側で、オハナさんはそう呟きました。
その意図はわかりません、ですが、もしかすると私が今1番ライバル視しているウマ娘について忠告する意味で教えてくれたのかもしれないですね。
オハナさんは眼鏡を軽く上に指で上げると続けるようにして私にこう話してきました。
「あいつは今頃フランス入りしていることだろう」
「ふ、フランスっ!? なんでまた…」
「私の勧めでな、ほら」
そう言って、柔軟体操をしていた私はオハナさんから今朝の朝刊を受け取る。
新聞が読めるウマ娘、なんかカッコいいですよね? まあ、それはさておき。
そこには大見出しでキャリーバッグを引いて空港でインタビューを受けているネオちゃんの写真がデカデカと載ってました。
「朝日杯の前に重賞レースを勝っていたおかげで向こうの重賞レースにも出れる。それに、朝日杯2着と実績は申し分ない」
「…ほほぅ…なるほど…」
「彼女は貴女にリベンジしたがってたみたいだけどね」
オハナさんは肩をすくめて私にそう告げる。
私だってそうだ、ネオユニヴァースちゃんのことだから皐月賞で雪辱を晴らしてくると思っていた矢先にフランスに遠征、確かに彼女には優秀なトレーニングトレーナーがついてはいるが…。
そして、その時、私の脳裏にはあることが過ぎった。そう、海外の地を知るトレーニングトレーナーに欧州へのコミュニケーション能力の高さが光るネオユニヴァース。
そこから導き出される答えは一つだった。
「もしや…、目的はフランス2000ギニーですか?」
「…勘が鋭いのね」
「…しか考えつきませんよ、この時期にフランス遠征なんて」
私の言葉を否定せずに笑みを浮かべているオハナさん、それは、すなわち肯定ととって良いだろう。
フランス2000ギニー、ロンシャンレース場1600mの直線を走り、最速を競い合うG1のマイルレースだ。
では、なぜ、マイルレースなんかにネオユニヴァースちゃんが出るのか?
本来ならば、彼女はマイルではなく中距離から長距離が主戦場だろう。
それは、フランス2000ギニーというレースの特殊性にあった。
「フランス三冠レースを獲りに行く気ですね?」
「えぇ、そうよ」
そう、フランス2000ギニーとは、フランスで行われるフランス三冠レースの最初の登竜門だからである。
フランスだけではない、アイルランド、イギリスでも同様に三冠レースはこのマイル戦から入る。
そこには海外の中でもより力をつけた猛者達がズラリと集結しており、勝つのは非常に困難だと言わざる得ない。
「なるほど…、確かにネオユニヴァースちゃんの脚質を考えればこその選択ですね」
「えぇ、そうよ、あの娘に菊花賞は長すぎるわ」
「最終戦のパリ大賞典は2400m、確かにネオユニヴァースちゃんの射程圏内ですものね…ですが…」
私はそこで表情を曇らせた。確かにいい選択肢だと思いますし、私はむしろ賛成ですしネオちゃんを応援したいとも思っています。
ですが、私にはある海外のウマ娘の影がうっすらと脳裏にあった。
それはアイルランドが生んだ化け物、このウマ娘を制することができなければまず厳しい戦いになると言わざる得ない。
その名は…。
「…フランスダービーには、おそらく、あのダラカニが出てきますよ」
「…そうね…」
私の一言にオハナさんもその表情を曇らせた。
『ダラカニ』、史実では生涯勝利数9戦8勝、そのうち、あの凱旋門賞を含んだG1レース4勝をあげた化け物だ。
なお、私達の同世代にはアメリカにもう一人、ダートでキチガイじみた強さを誇るウマ娘もいることをここに付け加えておこう。
よりにもよってあのダラカニを相手にフランスダービーを獲らなくてはいけないというのはネオユニヴァースちゃんにとってみれば相当ハードルが高いと言わざる得ない。
海外遠征も今回が初、朝日杯以前にネオちゃんが渡ったという話を私は聞いたことがない。
言うならば、相手はアイルランドのナリタブライアンと言えるだろう。
彼女の姉、デイラミも化け物じみて強かった事で知られている。
私も欧州三冠を狙うのであれば彼女とはいずれぶつかることとなるでしょう。
今年は有馬でシンボリクリスエス先輩と、そして、凱旋門ではダラカニを相手取り、蹴ちらさなくてはいけない。
「今年は荒れますね」
「えぇ、間違いないわね、今年の貴女達の下の世代には怪物、そして、同期にも化け物揃いよ、…それに、貴女、大事なことを忘れてるんじゃないかしら?」
「…え?」
「ゼンノロブロイよ」
オハナさんは鋭い眼差しを私に向ける。
そう、ゼンノロブロイことゼンちゃん、彼女はG1と成ったホープフルステークス(史実ではこの頃G1ではない)で、6身差の大勝。
その実力は下手をすれば、今はネオちゃん以上と言っても過言ではないだろう。
中距離から長い距離に特化したその脚は菊花賞でかなりの脅威になるはずだ。
「確かに、ステイヤー脚質、ゼンちゃんの脚は脅威ですからね」
「…えぇそうね」
「それに、下にはキングカメハメハ、ハーツクライ、ダンスインザムード、ダイワメジャー…怪物ばかりですね…、そして、その下の世代には…」
「ディープインパクトね」
オハナさんの言葉に私は静かに頷いた。
あの英雄と呼ばれるディープインパクト、駅伝でしのぎを削りあった彼女の姿を私は思い返す。
凛とした佇まい、そして、秘めたる圧倒的な才覚は絶対的なものだった。
金色の暴君、オルフェーヴルと共に彼女達はいわゆる天才と呼ばれている部類のウマ娘だ。そういう星の下に生まれた者たちなのだろう。
とはいえ、ディープインパクトはやたらと私を意識していたように見えましたね、やっぱり魔王なんて名前が付いてるからでしょうか。
ん、待てよ、ダラカニと同世代という事はだ。
「…ゴーストザッパー、プライドと同じ世代かぁ…私はぁ…」
私は現時点でわかっている海外の有力なウマ娘達に頭を抱える。
というか、上の世代にはハイシャパラルも居るじゃないか。
ダート遠征予定のメイセイオペラ先輩もそうだけど、今年の凱旋門賞が鬼畜仕様すぎて泣けてきますよ。
勝てんぞ、これは、鍛えてなければもう勝てる気がしませんね全く。
私が今、話をしているハイシャパラルというウマ娘とは、史実では生涯戦績13戦10勝を上げ、その内、G1勝利数は6勝、さらに、ブリーダーズカップターフを2度も勝っているとんでもない化け物だ。
おそらくはシンボリクリスエス先輩と五分かそれ以上の実力を誇るウマ娘と言って良いだろう。
彼女の名前の由来は「樫の高木の密林」というところから取られている。
「イギリスダービーか、フランスダービーか…動向次第ですね」
「そうだな…、それに今年はクリスエスも凱旋門賞に出る予定だそうだ」
「…はっ?…う、嘘でしょう!?」
おい、誰だよ、今年、欧州三冠獲りに行くとかほざいていた馬鹿は。
え? じゃあなんですか? ハイシャパラルとプライドだけでなく、ダラカニとクリスエス先輩を相手に私は凱旋門賞を勝たなきゃならんのですか?
勝てる気がしないのはきっと気のせいではないですね、こいつはヤベーぜ。
メイセイオペラ先輩も大概ですけどね、未だにダートに君臨しているアゼリとゴーストザッパーとかいう変態どもとやりあわないといけないんですから。
三国志でわかりやすい例えを言いましょうか?
戦った事ない文官がいきなり武器持たされて呂布と関羽と張飛に挑まされるようなものですね。
確かにメイセイオペラ先輩はかなり強くなりましたよ、いくつもの勝利数を重ねて、去年のユニコーンS、ダービーグランプリ、スーパーダートダービー、帝王賞を勝ち、東京大賞典も勝利、さらに、今年はフェブラリーSに向けて身体を仕上げにかかっていますからね。
そりゃもう、地獄に耐える日々を歯を食いしばりながら進んでしていますから。
今年に入って強力なライバルが姿を現しました、そう、アブクマポーロさんです。
彼女がなかなかの難敵らしいですが、メイセイオペラさんはフェブラリーSの後に海外へ、ペガサスワールドCに出る予定です。
なので、アブクマポーロさんと顔合わせをするのは夏から秋にかけてだという話でした。
地方のウマ娘が海外を制するか否か…。
ですが、彼女が戦うであろう面子を見るだけで背筋が凍りつきそうです。
そして、私自身も走る相手を見て背筋が凍りつきました。
ブザケルナ! ブザケルナ! バカヤロー!(涙顔で顔芸)。
「…ま、まあ? やるしかないですね? 余裕でやってやりますよ?」
「声が震えてるぞ?」
「武者震いってやつですよ」
私の様子に呆れたように肩をすくめるオハナさん。
私の気持ちをおそらく察してくれたのだろう、何にも言えないというくらい気の毒そうな眼差しを私に向けていました。
ですよね、私もそう思いますもん。
そんな中、私の肩をポンと叩いてくるウマ娘が居ました。
「いえーい! アフたん元気にしてるー?」
「!? …なんだデジタルさんですか」
「いえーす!」
そう言いながら、準備体操をしていた私の背後からハグしてくるこのウマ娘。
栗毛の跳ねた特徴的な髪に赤いリボン、そして、私とおんなじくらいちっこい身長を持つこの娘こそ、アグネスデジタルその娘である。
はい、皆さん大好きアグデジさんです。
アグネスデジタルすこなんだ! みたいな顔文字が出てきてもよろしいですよ? この人変態ですけどね。
チームリギルに加入したアグネスデジタルさんはダートもターフもいける二刀流のウマ娘です。
男性も女性もいける二刀流というわけでは…、いや、もしかしたらいけるタイプの二刀流かもわかりませんね、はい。
さあ、そんな猫なで声で私に頬ずりをしてくるアグネスデジタルさんなんですけど、私は面倒臭そうな表情を浮かべていました。
「ねぇ、アフたん」
「なんですか? アグデジさん」
「アフたんをめちゃくちゃにしたい」
「朝もどっかの誰かから聞きましたよそれ」
そう言うとアグデジさんは目を丸くしながら私の言葉に信じられないといった表情を浮かべます。デジャヴですね、こんなデジャヴあってたまるか!
アグデジさん、変態が自分一人だと思わないことですね。
あそこの物陰を見てみてくださいよ、木の陰からジッと私を見つめているクールビューティーなウマ娘がいるでしょう?
きっと私がそうしてしまったんだなぁ、と私はたまに自己嫌悪に陥りそうになります。
嫉妬の眼差しが痛い。
そんな眼差しを背中に受けつつ、準備体操が終わった私は弥生賞に向けた最後の仕上げに取り掛かるのでした。
私、皐月賞勝ったら国外逃亡するんだ(白目)。