高度がある山地。
トレセン学園に帰った私は荷物をまとめて、この地にまできました。
空気が薄く、走るにはもってこいの場所でしょう。
今回はトレーナーのオカさんももちろん、私がお願いして同行してくれています。
準備運動をしている私は一週間後に迫る皐月賞のためにこの地にまで来ました。
「さて、どういう心境の変化か、聞かせてもらえるか? アフ」
「何がですか?」
オカさんの言葉に淡々と問いかける私。
私はいつものように手足につけている重石の具合を確認するように手で弄っていた。
「何やら、いつも以上に意気込んでいるようでな? ……分校でライスシャワーにでもあったか?」
オカさんの言葉に私は振り返ると静かに彼の目を見つめます。
何故、それがバレたのか驚きはしません。
オカさんの慧眼は素晴らしいですからね、なんせシンボリルドルフ先輩の専属トレーナーだった方なんですから。
オカさんは私の反応を見て面白そうに鼻で笑うとこう言葉を紡ぎ始める。
「お前さんに気合いを入れるには良い刺激になっただろ」
「えぇ、おかげさまで」
「少しばかり入れ込むかなとも思っていたけど、こうして、私を呼んだのは少しばかり成長したかな」
オカさんはそう言うと立ち上がった私の肩をポンと叩いてきます。
あの時、私はあの人が死にものぐるいで天皇賞を戦うために身体と魂を削っているのに、私は一体何をしていたんだと己に怒りを感じました。
だからこそ、こうしてオカさんを連れて今日、この場所に皆に何も知らせずにやって来ています。
これから、皐月賞まで、この場所で私は身体と軸、スタミナ、そして、新走法の完成に全力を尽くすつもりです。
私はオカさんの方へと真っ直ぐに視線を向けると静かにこう告げます。
「一番人気はいりません、一着が欲しいです」
「なら、両方手に入れたら良い、お前さんなら簡単だろう?」
「誰に向かって言ってます? 当たり前です」
「なら見せてもらうとしようか」
こうして、私の長い一週間はスタートした。
日中、全てをトレーニングと筋力トレーニングに費やす日々。
濃密で身体の限界ギリギリを更に越えるトレーニングメニューの繰り返しだ。酸素が薄いので肺にいつも以上に負荷が掛かる。
身体には重石を巻きつけ、ひたすらに坂を登り、降る。
それが、アンタレス式の地獄メニューだ。
いつも義理母に言われていたトレーニングメニュー、更に、そこに私はオカさんから教わったトレーニングメニューを取り入れた。
体幹も重点的に鍛えに鍛えています、軸がしっかりとしていれば決してレースでもブレたりはしないはずですからね。
その計り知れないキツさを誇るメニューは私が想像していたよりも遥かに身体に負荷が掛かりました。
「オェェェッ! ゲホ……ゲホ……!」
トイレで吐いたのなんて、いつ振りでしょうかね。
義理母が居た時は頻繁に吐いていたんですけど、それでも、全く吐かなくなって久しいんですがね。
そんな私が、トイレで胃の中のものを全て出し切る程にトレーニングは過酷なものとなりました。
何故、こんな過酷なメニューを許したのか、オカさんは宿舎で私にこう話してくれました。
「お前さんはやめろと言ったところで聞かんだろう、なら、より強くするために、効率的で更にキツくするメニューにするしかあるまい」
当初はトレーニングを甘く見積もるのではないかと勘ぐっていた私の度肝を抜いてくるような話でした。
オカさんは一流トレーナーとして、私により強くなるようにむしろ逆に厳しく当たってくれたのです。
それは、義理母から聞いた私の話を元にオカさんが選択した決断でした。
「仮に、お前さんのウマ娘としての人生が短くなったとしてもそれはお前さんの選択だ、私にはどうにもできんよ」
「……ありがとうございます」
私はオカさんのその言葉に笑みを浮かべ感謝の言葉を述べる。
確かに、身を削り、魂も削り、身体をいじめ抜けば、きっとオカさんが言う通り無茶で自分のウマ娘としてのキャリアを削る行為だと思われるだろう。
オカさんは間を置くとしばらくして、こう告げはじめる。
「良いことを教えてやろう、アフ。王者は常に一人、時には情を捨てさり、ただ勝つことを要求される、お前が目指す道というのはそういう道だ」
「…………」
「私はな、ルドルフにレースを教えてもらったよ、皇帝という名はそれだけ重い称号であり、誇りだ」
オカさんは私を真っ直ぐに見据えてそう話してくれた。
情を捨て、ただ勝利だけを求められる。それはレースという世界において皆がそう思い期待しているのだ。
だからこそ、オカさんは私を見つめたままこう問いかける。
「非情になれないなら、お前さんはそこまでよ」
「……言ってくれますね」
「遠山さんを師と仰いでいるなら尚更のことだ」
オカさんは静かな声色で私にそう告げる。
時に冷徹に、そして、毅然として振舞うことを勝者は要求される。
地位や名誉を手に入れるため、皆が死にものぐるいで立ち向かうのを蹴ちらさなくてはならない。
私は冷静な口調でオカさんにこう告げる。
「確かに、オカさんの言う通り、私は雑魚に構っている暇はないのですからね」
「不遜だな」
「でも必要なんでしょう? ならやりますよ、私は」
才能という言葉が嫌いだ。
私は姉弟子とライスシャワー先輩を間近で見てきてそう思いました。
悔しかったのはライスシャワー先輩から私に才能があると言われたことだ。
私は姉弟子とライスシャワー先輩と変わらないと思っていたのにその言葉がただ痛かった。
「……山の坂を軽く登ってきます」
「なら身体の限界まで、走って来なさい」
「言われずとも」
オカさんの言葉に私は静かに頷いた。
今まで、四桁だの三桁だの、走る量を決めていましたが私は今は身体の限界まで走るように心がけている。
ぶっ倒れてもオカさんが私を回収してくれますからね。
「はぁ……はぁ……ゲホ! ゲホ!」
私は減量用のパーカーと服装を身に纏い、山の坂を登りながら再び降る。
これをひたすら繰り返し、さらに、合宿所に戻れば筋力トレーニングを際限無く行います。
「ふっ……ふっ……」
呼吸を整えて、素早く坂を駆け上がる私。
雲ゆきが悪くなり、雨が降って来ますがあまり関係ないですね。
足場が悪くなろうが、逆に私にとってみれば足場が悪い場所を走るトレーニングになります。
最近、この山の周辺では目を光らせたすごい速さで山を駆け巡る魔物が現れるという話が出て来ているらしいです。
そんなものがいるなら、私も会ってみたいものですけどね。
山の中は余計なものもなく集中力が研ぎ澄まされるので、やはり、私としても実に恵まれた環境で走れているという実感を得れます。
あと、一週間、皐月賞までに身体を完璧に仕上げる。
中腰になった私は深呼吸をし、再び途方もない距離を見据えて、身体がボロボロになり限界を迎えるまで、山をひたすら走りはじめるのでした。
一方その頃、私がオカさんと山に向かう三日ほど前。
空港では騒ぎが起きていました。
たくさんの記者がそのウマ娘の帰国を待ち構えるようにカメラを持っていました。
そして、出口からキャリーバッグを持ってそのウマ娘がいよいよ姿を見せる。
「あ、来たぞ!」
「早く行け! 早く!」
それは、昨年、日本でのG1クラシック二冠を達成したウマ娘。
数ヶ月の間、海を越え、戦いの場を外に移し結果を残し帰ってきた。
自分を見つめ直す為、新たな挑戦のために彼女は海を渡り、栄光を引っさげて帰ってきた。
鍛え抜かれた身体、海外でもその姿から、サイボーグと呼ばれ一目置かれているウマ娘、姉弟子、ミホノブルボンだ。
「ミホノブルボンさん! お帰りなさい! フューチェリティS、先日のドバイターフ、見事でした!」
「今回の帰国理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
すぐに彼女に近づいて、取材を試みようとする取材陣。
だが、帰国したばかりのミホノブルボンの姉弟子は嫌悪感が混じった視線で彼らを見つめるとスタスタと足を進める。
「その話はまた今度、簡単に言うと休暇です」
「次はチャンピオンズマイルという話ですが」
スパルタの風の凱旋。日本の記者達はこぞって取材しようと躍起になっていた。
だが、当の姉弟子はというとその取材を煩わしく感じ、軽くあしらうように振り切る。
別に取材をして欲しくて走っていたわけでもない、今回は自分の妹弟子が走る皐月賞を見にわざわざ帰国したに過ぎないのである。
(……本当は……、貴女の天皇賞も見たかったんですけどね、ライスシャワー……)
皐月賞が終わってすぐに、一週間後にはチャンピオンズマイルに姉弟子は出らなくてはならない。
アジアマイル王、現在、姉弟子は路線をマイルに変えて短距離でのレースを主戦場においている。
また、中距離レースも視野に入れており、もちろん、それにはフランスのロンシャンレース場で行われる凱旋門賞を視野に入れている。
さらには、プリンスオブウェールズS、BCターフとレースのローテーションを考えていたところであった。
まだ、確定では無いため日程に折り合いをつけて修正する腹づもりではあるが、姉弟子は確実に海外のメディアからも注目を集めている。
「どうせ、安田記念には帰国します、詳しい話はそこで多少なりとお話しますよ、では失礼」
姉弟子はそう言うと車に荷物を載せると、そのまま、車に乗り込む。
トレセン学園に休学届けを出しているため、顔を出しにも行かなくてはいけない。
何より、自分がいない間に妹弟子がどれだけ成長したのかもこの目で確かめてみたかった。
それに、義理母にも近況を報告しに行かなくてはならないだろう。
すると、隣にいた姉弟子の付き人が先程の記者達への対応についてこう問いかける。
「取材をあんな風に断ってよかったので?」
「えぇ、別に構いません。……私の盟友の偉業をこんな風に批判して書く人達の取材なんて受ける気もさらさら起きませんからね」
そう言うと、姉弟子は付き人の方に随分と前に出た新聞を渡す。
そこに書かれていたのは天皇賞へと挑む、ライスシャワー先輩への批判の言葉だった。
ミホノブルボンの姉弟子の三冠を阻んだ時もライスシャワー先輩は多方面から言われもない中傷を受けていた事を姉弟子は知っていた。
その上で、彼らの取材を受ける気は全くなかったのである。
ウマ娘の本分は走り、レースに勝つ事、死に物狂いで積み重ねた努力を批判する人間に協力する必要など無いというのがこの時の姉弟子の考えであった。
姉弟子は話を切り上げ、他の話題を付き人に問いかける。
「それより義理母のいる病院は……」
「はい、今向かっているところです」
「……それは良かった、ありがとうございます」
入院してから見舞いをしに行く機会もなかった上に、何より、病院からもいろんな話を聞いている。
それに、出迎えにきてくれなかった妹弟子の様子も気にかかる。
皐月賞も近いので出迎えに来なかった事自体は特に問題は無いのだが、何も告げずに海外へと行った自分の事をどう思っているのか、そこが気がかりであった。
「……会うのが少し、不安……ですね」
義理母の事を気にかけ、静かに呟く姉弟子を乗せた車はそのまま病院へと走っていく。
車から外を見れば、桃色の桜の花が広がるように散る光景が目に入ってくる。
久しぶりにミホノブルボンが帰国した日本は綺麗な桜が咲き、散りゆく季節であった。