病院。
義理母の見舞いに訪れたミホノブルボン先輩は悲しげな表情を浮かべたまま、見舞いのために持ってきた花を立てかけます。
いつも檄を飛ばし、鍛えてくれた鬼のようで暖かな母はベッドの上で迎えました。
身体は痩せていて、ミホノブルボンの姉弟子は手をそっと添えるように義理母に話しかけます。
「ただいま帰りました、お母さん」
「お帰り、頑張って来たみたいだね、見たよレース……とはいっても録画だがね」
「……ありがとう……ございます……」
義理母の言葉に噛みしめるように震える声でお礼を述べるミホノブルボンの姉弟子。
痩せ細った義理母の姿、それは、ミホノブルボンの姉弟子にとってはかなりショックな光景でした。
ミホノブルボン先輩はベッドの横で力強く握り拳を作っていました。それは、こんな義理母の姿を見て自分がしてあげられることがレースに勝つくらいしかない事への歯痒さからでした。
そんなミホノブルボンの姉弟子の手をそっと握った義理母は笑みを浮かべてこう告げる。
「見事な走りだったよ、流石、私が鍛えたことだけはある」
「……お母さん……、……妹弟子もきっと頑張ってます、ですから」
「……わかっておるわ、あいつもよくやってるよ」
義理母はミホノブルボンの姉弟子の言葉に頷き答える。
ミホノブルボンの姉弟子はその言葉に嬉しそうに笑みを浮かべていた。
桜が舞う季節、クラシックの足音がだんだんと近づいてくる。
姉弟子は自分の意思を継ぎ、義理母の夢を背負う小さく、元気で明るかった可愛い妹弟子が桜舞う中山レース場を走る姿を思い浮かべるのでした。
合宿を行なっている山の麓。
皐月賞まであと二日、私は最終的な仕上げに取り掛かっていました。
自身のコンディションを上げつつ、莫大な量のトレーニングをするという追い込み、ひたすら走り、身体を鍛えて、鍛えて、鍛えまくるのです。
「ほぅ、こりゃたまげた……」
「……ふぅ……ふぅ……」
オカさんは私の仕上がっていく身体と走りを見ながら感心するような声を上げる。
私の身体は絞りに絞って、無駄のない筋力と走ることに特化した身体になってきていました。
走り終わった私はオカさんから飲料水とタオルを受け取ると身体を拭きながら深呼吸し、呼吸を整えます。
「以前よりもさらに身体が出来上がってきてるな? ……私が見た中でも群を抜いて良い脚と筋力だ」
「……そうですか」
「なんだ、素っ気ないな、これでも褒めてるつもりだぞ? アフ」
そう言いながら、オカさんは腕を組んだまま満足気に私に告げる。
身体が出来上がってきている、ということはすなわちまだまだ質を向上できるという事。
まだ足りない、まだ、私には足りていないのだ全て。
今はもう勝つことしか頭に無い、周りの評価など後からついてくる。私の望むものを勝ち取るには全て結果で示すしかない。
「……随分と殺気立ってるな」
「クラシックのレース前です、ピリピリするのは当たり前ですよ」
ライバルを蹴散らし、勝つのは1人のみ。
そこに同情などは必要ない、皐月賞を制するのは自分だけだ、あとは有象無象だけ。
サクラプレジデント、エイシンチャンプも出てくるだろうが知ったことではない。
1着は私が貰う。
どんな相手だろうと、立ち塞がるのならねじ伏せなくてはならない。
確かに強敵には違いないだろう、だが、私はそれでも勝ちにいくために身体を絞る。
飲料水を乱雑に投げ捨てる私は静かな声色でオカさんにこう告げる。
「話は終わりですか? なら、筋力トレーニングをしたいのですが」
「あまり無理をせんようにな」
オカさんからの一言に背を向けたまま、私は軽く手を挙げて応える。
義理母が見る皐月賞で私の走りを見せる。
ライスシャワー先輩が教えてくれた勝つ為の飢餓、私は自分のすべき事を改めて自覚させてもらった。
私は重たいハンマーを片手に引きずり、タイヤの前までやってくる。
「がああああぁぁぁ!!」
腰を入れてハンマーを振り下ろす、私は声を張り上げ己を奮起させる。何度も何度も声を張り上げてひたすら振り下ろしては上げる。
腰が悲鳴を上げはじめる、足腰に力がだんだん入りにくくなる。
私はそれでもやめない、体勢を持ち直して、何回も何回も繰り返す。
呼吸が荒れはじめれば深呼吸をして、整えればいい、右腕が痙攣がおきはじめれば、左腕に力を込めて振り下ろしを再開する。
それが終われば鉄棒にぶら下がり、懸垂を繰り返す。
「ふっ……ふっ……! ふっ……ふっ……!」
汗が身体から垂れ落ち、身体が悲鳴をあげるが私は決してやめない。
重力に逆らい、手に血豆が出来れば治療し、手にバンテージを巻いて続ける。
何十、何百、何千、私は三桁を過ぎたあたりでもう数を数えるのはやめた。
身体の限界が来るまで何回も何回も、永遠に繰り返す。
身体を絞り、絞って、ひたすら最善を目指すために。
何のためにこんな苦しい思いをするのか。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「さあ走れ走れ! お前の力はそんなものか?」
何のために私は自ら自分を追い込むのか。
激しい雨に打たれて、それでも走る足は止めない。
地位や名誉のために走るのか?
いいや、ちがう。
ライスシャワー先輩に対抗心が出たからか?
いいや、ちがう。
G1を勝ち、皆からちやほやされて、満足感に浸るためにこんなに苦しいことをしているのか?
いいや、違う。
では、何のために私はこんな苦しい思いをしてまで、身体を虐めて、レースに勝つ事を望んでいるんだろう。
「もっとだ! もっと速度を上げろ! まだだ! いいぞ! そのまま!」
「はっ……! はっ……! はっ……!」
義理母の夢を叶える為に、ミホノブルボンの姉弟子の無念を叶える為。
いいや、違う。
それだけじゃ無い、私の根本にあるものではない、それは、理由の一つでしかないのだ。
私は勝ちたい、私の夢はなんなのか?
それは、誰も見たことがないような世界一のウマ娘になるためだ。
その先に何があるかはわからない。
夢を叶えた先の事は何にも考えてはいない。
だが、一つだけ言える事がある。
私がこうして、自ら身を削って走っているのは夢を叶える為だということだ。
支えてくれている皆がいる。応援してくれるファンや仲間がいる。
「あともう少しだ! いけ!」
「うああああああっ……!」
両足が悲鳴をあげる、だが、それがむしろ心地よい。
血が滲むような努力を私はアンタレスの先輩達からたくさん見せてもらった。
そうでもしなければ勝てないと皆がわかっているからだ。
ウマ娘として、私がこの先、どれだけのレースを走れるのか、まだ、わからない。
私は賢いウマ娘ではないものですからね……。
「着いたぞ」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息を切らしながら私は中腰になり、静かにオカさんの言葉に耳を傾ける。
多重な負荷のある凄まじい連続のトレーニング、そのどれもが、私の全身の身体の限界以上を叩き出すものばかりでした。
酸素の薄い、山の中で私は我武者羅にひたすらレースのためだけに自らを追い込み抜きました。
そして、最終日の今日、私はそれをやり切り、今、山の頂上付近まで辿り着くことができました。
そこからは、日が昇る光景が私の目に入ってきます。
私は込み上げてくる感情を爆発させて叫びました。
「私の目指す場所はここだああああああああ!!」
私は大声で叫び声を上げて天に向かい両手を突き上げました。
突き通した集大成、私とオカさんとで成し遂げた地獄のトレーニング。
きっと、これは私だけだと成し得ることができなかった事だ。
側で見守ってくれたオカさんはそんな私の姿を嬉しそうに見つめてくれていた。
そして、いよいよ、その時はやってくる。
皐月賞前日。
記者会見の場に私はオカさんから連れられてやってきた。
本来なら、三日間くらい前に行うものですが、私が合宿を行い身体を仕上げに入っていたので今日という日になったというわけです。
私はいつものように勝負服に身を包んだまま、記者会見に入ります。
記者に囲まれた私は早速、質問攻めにあいました。
「アフトクラトラスさん! 明日の皐月賞ですが意気込みのほどは……」
「……別にいつも通りですね」
私の思わぬ返答に困惑する記者、普段とは違う雰囲気を察したのかざわざわと記者達は慌ただしくなる。
別にナイーブになっているわけでもなく、別段、話す必要性を感じなかったのでそうコメントしただけである、他意はないです。
気を取り直して、他の記者が私にマイクを向けて、次の質問に入る。
「えー、アフトクラトラスさん? 体の小さな貴女の走りでは皐月賞は厳しいという意見もあるのですが、それはどういう風に思われてるんでしょうかね?」
「……どうも思いませんし、周りの意見なんてどうでも良いので、以上です」
私はため息を吐き、質問してきた記者に淡々とそう告げる。
人の身体のことに対し、レースに結びつけてこんな事を聞いてくる記者の質問、しかも明らかに煽りが入ってたので私は無慈悲にそう告げました。
だいたい予想できますけどね、多分、ライスシャワー先輩の事を特にバッシングしていた記事を出していた会社の記者だということは即座に理解しました。
そして、続くように別の記者からこんな質問が飛んでくる。
「伝統あるクラシックレースですが、一番人気であるアフトクラトラスさん、今どんな心境なんでしょうか?」
「そうですね、別に、人気にもあまり興味がないです。あるとすれば皐月賞の勝利です」
私の一言にどよめく記者達。
サニーブライアンさんもびっくりのビックマウスぶり、というより、別にウマ娘であればクラシックの皐月賞で勝ちたいと思うのは自然な事です。
そして、記者達は次の質問を投げかけはじめます。
「アフトクラトラスさんといえば、やはり、ウイニングライブですが今回はどんな……」
「すいませんが、レースの事だけ考えているのでライブの事は全く考えていません」
私は静かな声色でそう告げる。
いつもよりも鬼気迫るような雰囲気の中での私の言葉に思わず困ったような表情を浮かべている質問した記者。
和やかな記者会見になると大人数が思っていたのだろうが、完全に今の私は記者泣かせだと思います。
そんな中、こんな質問が私に飛んできます。
「貴女が皐月賞の勝利したいと強く思う理由はやはり、遠山トレーナーと昨年、優勝したミホノブルボンさんを意識してでしょうか?」
私はその質問を聞いて思わず目を丸くした。まさか、義理母と姉弟子の話を持ち出してくるとは思いませんでした。
しかも、割と鋭い。
質問を飛ばしてきたのはとある女性記者だった。しかし、その眼には私の口から聞きたいと言わんばかりの強い意志を感じた。
私はその記者の質問に思わず笑みが溢れました。
「良い質問ですね、確かに以前までは私が勝ちたいと強く願う動機、原動力という意味ではその通りですね……ですが……」
私はそこで一旦言葉を区切る。
それは、ただの一つの動機に過ぎない、私は気付かされた、私が目指すべき場所と夢を。
私は真っ直ぐに記者を見据えたままこう言葉を告げはじめる。
「今は私自身の夢の為に、世界一のウマ娘になる為に走りたいと思っています。だから、私は皐月賞の為に最善を尽くして身体を鍛えてきました」
私は女性記者に笑みを浮かべたまま、ゆっくりとそう告げました。
誰かのために走るのも、願いを背負い走るのももちろんだが、私がこんな風にキツい思いをしてまで叶えたかったのは私自身が走る事が好きだからだ。
だから、誰にも負けたくないと強く思っている。
質問に答える私の言葉に質問した記者は頭を下げてお礼を述べてきます。
私は深呼吸をすると、静かな声色で記者達にこう告げます。
「今日の記者会見はおしまいです、私の走りは明日、見せます。では」
私はそう一言告げると、記者達を背に立ち去っていく。
出来ることは全てやった。
身体を絞り、自分の限界を超えて皐月賞の為に鍛えてきた。
それは、姉弟子や義理母の夢、思い、願いもたしかにあっただろう。もちろん、それも背負って走るつもりだ。
だが、これは、私のウマ娘としての人生でもあるのだ、だから、私はそれも全部ひっくるめて背負っていく。
私の目標の為に、私自身の夢を叶えるために私は走る。