皐月賞当日。
会場は凄い観客で満員状態でした。私の記者会見の効果かはどうかわかりませんけど。
啖呵を切った以上、私は私の出来る精一杯の走りをするだけです。
控え室にいる私は下着姿で静かに自分自身の姿を鏡を見つめます。
部屋には誰も入れないようにオカさんに頼んであるので問題はないでしょう。
深呼吸する私は瞳を閉じる。
「……大丈夫、大丈夫、私のやるべき事は全部やった」
独り言のように呟き、真っ直ぐに鏡を見つめなおす。
限界を超えて鍛えた身体、しなやかな白い肌に脚、血豆ができて潰れ、バンテージを巻いた両手。
私のすべき事をやった集大成を今日、皆に見せる時が来た。
勝負服を取り、着替えはじめる。
この勝負服はG1レースのためにだけ着ることが出来る特別な服だ。
長い靴下を履いて、椅子に腰掛けたまま特注のシューズの靴紐を結び、履き替える。
ピリピリとしたレース前の雰囲気。
朝日杯とはまた違う、クラシックという舞台。
ミホノブルボンの姉弟子もライスシャワー先輩もこの空気を知っている筈だ。
プレッシャーが押し寄せるようで、でも、それでも何故か心地が良い。
「よし! やるぞッ!」
フンスッ! と気合いをいれた私は控え室の扉を開くとレース場まで続く通路に足を踏み出す。
そこにはトレーニングトレーナーのオカさんが腕を組んで待っていてくれていた。
オカさんは笑みを浮かべたまま、私にこう告げる。
「準備はいいみたいだな?」
「えぇ、調子は良いです」
「よろしい、なら、全力で走ってこい」
バンッと力強く私の背中を叩き押してくれるオカさんの手。
私はぎゅっとバンテージを巻いた拳を握りしめ、通路を軽く駆け足で抜けていく。
そして、パドックの会場の裏に立つと黒いマントをスタッフから受け取り、それを身に纏った。
いつも、大舞台で身に纏う黒いマント、私のために義理母が用意してくれたマントだ。
朝日杯で披露したそのマントを身につけて、私は開いたパドックのステージに足を踏み入れる。
「2枠4番! アフトクラトラス!」
名前が読み上げられ、盛り上がりを見せる中山レース場のパドックに躍り出る私。
私の姿を見た会場の人々はさらに盛り上がりを見せる。そんな中、私は身に纏っていた黒いマントを脱ぎ捨てるようにして姿をあらわにした。
会場からは、私のその姿に思わず驚きの声があちらこちらで上がる。
「綺麗な脚だ……、凄い鍛えてるなありゃ……」
「相変わらずなんつー身体してんだ、すげぇな、おい」
「髪と尻尾が物凄く艶やかね」
私の凛とした登場に会場は釘付けになっている。
注目されるのは朝日杯やウイニングライブで慣れたと思っていたんですけど、この驚きようは予想外でしたね、なんだかむず痒いです。
私はそのまま観客席の方々に向かって何度かお辞儀をすると、ターンし、無事に何事も無くパドックを終えます。
「アフのやつ、きっちり仕上げてきたな」
「……連れて行った甲斐があったか」
「ん? ブライアン、なんか言ったか?」
「いや、なんでも無いさ」
そんな私を見て嬉しそうに笑みを浮かべ呟いているブライアン先輩に首を傾げるヒシアマゾン先輩。
パドックを終えた私はそのまま、皐月賞のゲートまでテクテクと歩いていきます。
観客席から、男性客だけでなく、女性客からも黄色い声が私に投げかけられました。
「アフちゃーん! 頑張ってー!」
「あ! こっち向いてくれたー! きゃー! 可愛いー!」
「もう抱きしめたいくらいちっさいっ!」
何故かそんな彼女達の反応に対して、集中していた私は軽く会釈してゲートに向かいます。
きっと彼女達には悪気はないんですよ、はい、まあ、私も応援してもらえて嬉しいんですけどね。
私はボキリと首の骨を鳴らしながら右腕をグルグルと回しつつ、皐月賞のゲートに入る。
そして、いつものように腰をかがめてクラウチングスタートの構えに入った。
「……ははっ! なんなのその構え! めっちゃダサいんだけどっ!」
「…………」
「何よ? 無視決め込もうってわけ?」
そう言って、何やら隣のウマ娘が私に突っかかってきているが相手にしない。
何故なら相手にするだけ無駄だと思っているからですね、私は既に頭を切り替え、スタートをいかにして素早く切るかという事に集中しています。
「ねぇ、ちょっと」
「何よ! ちょっと今……」
「五月蝿いから黙っててくれないかしら? レースに集中する気が無いなら出口はあっちよ三下さん」
すると、その隣にいたエイシンチャンプちゃんことシンちゃんが強烈な一言と満面の笑みを浮かべ私に突っかかっていた彼女に無慈悲に告げた。
そう、今はもう戦場の真っ只中、勝負は既に始まっているのだ。
そうともわからず勘違いしているウマ娘にこうして出ていくように促すだけ、シンちゃんは優しいのかもしれませんね。
シンちゃんの鋭い眼光で怯んだウマ娘はそれからだんまりと口を閉じてしまった。
私はチラリとだけ視線をシンちゃんに向ける。
シンちゃんもまた、先日の朝日杯の屈辱を晴らすべく、体を仕上げてきているはずだ。
もちろん、手抜きなどできないし、するつもりもない。
私はこのレースに全力を尽くすだけだ。
そして、その時は近づいてくる。
鳴り響くファンファーレ、満員の観客達の盛大な拍手と合いの手。
私は思考を研ぎ澄まし、ただ真っ直ぐに開かれるであろうゲートを真っ直ぐに見つめていた。
「各ウマ娘、ゲートイン完了しました。そして……今ッ! スタートですッ!」
パンッ! という音と同時に開くゲート。
脚に力を込めた私は勢いよくゲートから飛び出ると好スタートを決めた。
「さあ、先頭を取りに行くのはどのウマ娘か! あっと、早速一番人気アフトクラトラス最高のスタートを切りました! 好位を取ります」
私は早速、戦法通りに好位をキープ。
後ろにはぴったりとサクラプレジデント、エイシンチャンプの2人が付いてきます。
予想通りと言ったところでしょうかね、一番人気でなおかつ、朝日杯を勝った私をマークするのは定石でしょうし、私が同じ立場なら迷わずそうします。
ライスシャワー先輩も……きっと彼女達のような心境でいつもミホノブルボンの姉弟子の背を見つめていたんでしょうね。
ですが、私は彼女達に手を抜く事は一切しません、全力で潰しに行きます。
「……はぁ……はぁ……すごいロケットスタートね……アフちゃん」
「ふっ……ふっ……予想通りだけどね」
サクラプレジデントとエイシンチャンプの2人はそう呟くと笑みを浮かべる。
だからこそ、倒し甲斐があるというもの。
未だ無敗、自分が彼女に黒星という証を刻めるなら、それに勝る勲章はないだろう。
だったら、全力で潰しにかかる。アフトクラトラスというウマ娘を倒した証はそれだけで今や価値があるものだ。
そんな始まったばかりの皐月賞を見守る、あらゆる伝説を打ち立てた1人のウマ娘が通路に背を預けるように立っていた。
そして、私を皐月賞に送り出した1人のトレーニングトレーナーはゆっくりと話しかけます。
「見に来てたのか、ルドルフ」
「オカさん……、えぇ、少し気になりまして」
「そうかい」
そう言って、伝説的なウマ娘であるルドルフ会長の言葉に満足気に瞳を閉じたまま笑みを浮かべる名トレーニングトレーナーのオカさん。
2人は数々のレースを共に乗り越えてきた盟友であり、戦友でもある。
ルドルフといえばオカさん、それくらい絶大な信頼関係がある2人は今でもまだ切っても切れない絆で繋がっていた。
「……アイツは強いぞ、今や手がつけられん程にな、私も手を焼いていて困ってるよ」
「オカさんもでしたか、すいません」
「いやはや、やはり強いウマ娘ってやつは一筋縄ではいかんやつばかりで困ったもんだよ、お前さんもだがな」
「あははは……反論しようがないですね」
困ったような表情を浮かべて、オカさんの言葉に肩をすくめるシンボリルドルフ生徒会長。
彼女自身、昔からたくさんの迷惑をかけてきた事実があるためにオカさんには何とも言えない後ろめたさがあった。
気を取り直しレースを見つめるルドルフ会長は続けるようにこう語り出す。
「……しかしながら、アフのやつ、だいぶ出てきましたね」
「王者の風格がかね?」
「はい、見てれば分かりますよ、雰囲気が以前とは全然違う、圧がありますね、まるで……」
「本物の魔王のようさね」
そう呟くオカさんの言葉に目を見開くルドルフ会長。
レースの雰囲気を見ていれば、歴代、歴戦のウマ娘ならすぐに気づく、アフトクラトラスの持つ風格。
研ぎ澄まされた身体、鍛えに鍛え抜いたという裏付けのあるバックボーン。
それに加えて元々ある天性の才能、努力する天才ほど恐ろしいものはない、さらに、それに付け加えるなら継続して自ら己を追い込むことができる継続力がある。
慢心せず、自らの限界を常に超えてさらに上へ上へと邁進しようとする強い意志は群を抜いてアフトクラトラスは高いことをオカさんは理解していた。
そんな彼女が、王者として、さらに、怪物としての領域に踏み込み風格を身につけることなど当然であるとオカさんは分かっている。
「ありゃもう、今の同世代には敵がおらん、強いて言えばネオユニヴァースかゼンノロブロイがどれだけ伸びるかもよるだろうが、後はもう有象無象よ」
「そこまで言い切りますか」
「あぁ、言い切れる、お前さんやナリタブライアン、オグリキャップと走らせても十分通用するだろうて……、とはいえ、アイツはまだまだこれからもっと伸びるだろうがな」
オカさんは真っ直ぐにレースを見つめながら、ルドルフ会長に笑みを浮かべて告げる。
アフトクラトラスには伸び代はまだまだある。さらに、鍛え抜けばこれから先、どれだけでも凄いレベルに到達できるだろうポテンシャルを秘めている。
オカさんはレースから視線を外すと真っ直ぐにルドルフ会長に向き、真剣な表情のまま、彼女にこう告げる。
「高みの見物を決め込むような余裕はないぞ? やるべき事をやらねばお前さんでも抜かれかねんからな」
「………………」
ルドルフ会長はその言葉を告げるオカさんの目を真っ直ぐに見据える。
その言葉が、冗談ではなく本気で言っていると理解しているからだ。
長年のパートナーであるトレーニングトレーナーであるオカさんが言うのであればそうなのだろう。
ルドルフ会長は静かに瞳を閉じると、背を預けていた壁から身体を離し、踵を返すとレース場に背を向けたまま静かに立ち去るようにして歩き出す。
そして、私が走る皐月賞のレースはいよいよ残り800mまでゴールが迫っていた。
既に、順位は入れ替わり、先頭には私が踊り出る形で前に出てきている。
「さあ、残り400m付近! アフトクラトラス先頭! このまま押し切れるか! 後続はどうだ!」
ここから、一気に後続のウマ娘達がスパートをかけてきている気配を背中で感じる。
しかし、私の頭の中はやけに冷静でした。
誰が来ようが関係ない、私は私の走りを通し切るだけだけです。
私はゴール目掛け、脚に力を込め、体勢をどんどんと低くしていくと脚の回転力を上げていき、加速を上げます。
「ぐぅ……!」
「スリップストリームが使えないッ!?」
私を追撃してくるウマ娘は驚愕する事でしょう。
差しの為に溜めた脚が風の抵抗により半減させられるこの現象に戸惑っているみたいでした。
スリップストリームが意味をなさない、そして、身体に風が当たり、上手いようにレースが運べない状況になれば尚更。
これが私の新走法、遠山式スパルタ走法です。
地を這うように、黒い風が駆け抜ける姿に会場のファンは目を疑った。
小さいながらも、駆け抜けるそれは、風格すら感じさせられる。
身体は小さくとも、力強く地面を駆ける。
どこまでも際限無く伸びる脚、その疾風は瞬きをする間にあっという間に駆け抜けてしまう。
その疾風があっという間にゴールを決めた時には会場は静まり返っていた。
何が起きたのか、後続から来るウマ娘達がスローに見えてしまうほど、圧倒的な爆発力に言葉を失うファン。
「……い、1着……、1着はアフトクラトラスです……!」
実況席のアナウンサーですらこの現象についていけない。
会場が盛り上がったのは、その実況が聴こえてから約15秒も後のことであった。
深く深呼吸して空を見上げ佇む私。
その後、振り返るとワッと割れんばかりに盛り上がった会場に向かって静かに頭を下げお辞儀をして応えるのでした。