93年、天皇賞(春)。
極限まで削ぎ落とした身体に鬼が宿る。
王者メジロマックイーンの三連覇を阻んだ漆黒のステイヤー。
悪役(ヒール)か、英雄(ヒーロー)か、悪夢か、奇跡か。
そのウマ娘の名は……。
天皇賞(春)。
歴史が長く、伝統あるクラシックレース。
このレースに挑む小さき黒い刺客が居た。
サイボーグミホノブルボンに何度も挑み、敗北してもなお、諦めずに戦い抜いた末にG1という栄光を手に入れたウマ娘。
だが、皆は彼女をそれでも認めようとはしなかった。
しかし、彼女はそれでも己のプライドにかけて、どんなに苦しくても、キツくても、投げ出したくなっても、毎日、走り続けた。
雨の日も雪の日も走り続けた、それは、自分自身がウマ娘として誇りを持っていたからだ。
皆から嫌われても、アンタレスの仲間達、友人や可愛い後輩が支えてくれた。
彼女が彼女らしく今日まで頑張ってこれたのは彼女達の存在があったからだ。
後悔しないレースをしよう。今まで積み上げてきた事を全て出し切ろう。
彼女、ライスシャワーは静かに瞼を閉じたまま深い深呼吸をする。
「……ふぅ……」
対するはステイヤーの絶対王者。
この伝統ある天皇賞を昨年も勝ち、二連覇を成し遂げた怪物。
ステイヤーという土俵であれば、もはや、他の追従を許さない、そんな怪物に挑む為に彼女は身体を鍛えに鍛え、徹底的に身体を苛め抜き削ぎ落としてきた。
その目には執念が宿っている。
必ず勝つ、勝つ為に全てをトレーニングに捧げてきた。
「……メジロマックイーン……」
淀の刺客が今、目覚める。
自分のトレーニングトレーナーから鍛えてもらった身体。
アンタレスの皆から支えてもらい、可愛い後輩や友に応援してもらいここまで来た。
そして、自分が持つウマ娘としてのプライドを賭けて、鬼となった彼女はゆっくりとレース場に続くゲートを歩いていく。
その背中からは漆黒のオーラが漂い出ているような錯覚さえ、感じてしまうほどであった。
天皇賞が行われる京都レース場は天気にも恵まれ、よく晴れた良い天気であった。
私、アフトクラトラスも姉弟子ミホノブルボンと共に観客席に座り、ライスシャワー先輩がレース場に現れるのを今か今かと心待ちにしている。
義理母も姉弟子も帰ってきたチームアンタレス。そんな、二人がいない間、チームの皆と共に私を支えてくれた大事な先輩。
私の敬愛すべき先輩であるライスシャワー先輩の晴れ舞台。
このレースでライスシャワー先輩はあのマックイーン先輩と激突する。
ステイヤーの絶対王者に挑む先輩を私は見届けなくてはいけない。
「緊張しますね、やっぱり……」
「えぇ、そうね」
「大丈夫でしょうか、ライスシャワー先輩」
真剣な表情を浮かべているミホノブルボン先輩に不安げに問いかける私。
ライスシャワー先輩が勝つ為に必死にトレーニングを積んできた事は知っています。
だけど、相手はあのメジロマックイーン先輩、ステイヤーの中でも随一に強く、気高く、そして、底力がある相手だ。
ただのお嬢様なんかでは断じてない、その静かな物腰の奥に潜む凶暴な闘志を私は何より知っている。
「……今日は本気のメジロマックイーンを見れるかもしれませんね」
「本気の……マックイーン先輩……」
「二連覇を成し遂げた時もまだ彼女は余力を残していましたから」
私はその姉弟子の言葉に思わず固唾を飲み込む。
そして、観客席から真っ直ぐにメジロマックイーン先輩に視線を向けた。
いつものように凛々しい立ち姿で勝負服に身を包んでいる彼女、だが、その目は三連覇に向けての闘志を剥き出しにしていました。
物凄い気迫、それだけ、天皇賞を勝つという称号は重いという事がわかります。
日本の中で一番、距離が長いG1レース。
そして、日本で施行されるウマ娘の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つレース。
それが、この天皇賞(春)だ。
「2枠3番! ライスシャワー!」
そして、そのレースの会場のパドック、まだ会場入りしていなかったライスシャワー先輩がいよいよ、姿を見せる。
勝負服に身を包み、真剣な眼差しで皆の前に現れたライスシャワー先輩はゆっくりとそのマントを脱ぎ捨てた。
それと同時にレース場に現れたライスシャワー先輩に観客席からはどよめきが起きる。
「うぉ……やばいぞ、あの身体」
「身体小さいのにあんなに絞って走れんのかよ」
「明らかにあれオーバートレーニングしてるだろ」
観客席に座る人達から次々と不安な声が上がる。
だが、この時、誰もライスシャワー先輩の事など微塵も気にはしていなかった。
何故なら、メジロマックイーンという絶対的な王者が勝つだろうと信じて疑わなかったからだ。
メジロマックイーンの三連覇を見に来ている。そういう観客達が大半だったのである。
そんな観客達の反応を横目に見ながら、私は声を張り上げてパドックの壇上から降りていくライスシャワー先輩に声を上げる。
「ライスシャワー先輩! 頑張ってください! 私、勝つって信じてますっ!」
そう声を掛けた瞬間、私の声が届いていたのか驚いたような表情を浮かべているライスシャワー先輩。
そして、手を振る私の姿を見つけるとグッと力強く胸元で小さくガッツポーズをして頷いて応えてくれた。
それからしばらくして、アンタレスの他のチームメイト達からもライスシャワー先輩に向けてのエールが送られる。
「根性ですよっ! ライスシャワー先輩!」
「君の差しは合理的だ、きっと上手くいく」
「ライスシャワー、お前さんの勝負強さ見せてやんな」
「応援してるから全力でなっ!」
ライスシャワー先輩に向けて後押しする言葉を掛けるバンブーメモリー先輩、アグネスタキオン先輩、ナカヤマフェスタ先輩、メイセイオペラ先輩達。
アンタレスの皆が、レースを走るライスシャワー先輩に向けて言葉を贈る。
一緒のチームで共に切磋琢磨した仲間だからこそ、ライスシャワー先輩を皆応援しているのだ。
そして、ゲートインする前にライスシャワー先輩は一番、お世話になった人達の元へ向かう。
「……マトさん」
「大丈夫だ、お前ならやれる」
「私のとこの娘を蹴散らしてみせたんだ。……見せてやりな、ライスシャワー、お前さんの走りを」
そう言って、ライスシャワー先輩に激励を贈るマトさんとその隣に居る義理母。
二人とも、ライスシャワー先輩の事を信じて疑わなかった。なぜならば、ずっと側で見てきたからだ。
特にマトさんはライスシャワー先輩をよく理解している理解者だ。その人がくれる言葉が心強くないわけが無い。
ライスシャワー先輩は笑みを浮かべ力強く頷くと最後に観客席に座るミホノブルボンの姉弟子へと視線を向ける。
そして、互いに理解しているように頷き、背を返すとそのままゲートに向かって駆けて行った。
一方、そんな私達の一連のやりとりを見ていたメジロマックイーン先輩は同じくゲートインの前にスピカの皆のところに居た。
そして、そんな私達のやりとりを見ていたスピカのトレーナーはメジロマックイーンに向けてこう言葉を贈る。
「油断しないようにな、マックイーン。特にライスシャワーには用心しておけ」
「……ふふ、貴方も気づきましたか?」
そう言って、マックイーン先輩はライスシャワー先輩の姿を見て表情を曇らせるスピカのトレーナーに笑みを浮かべながら告げる。
そんな二人のやりとりを見ていた他のメンバーは首を傾げていた。
普通に考えればあんなに身体を絞ってまともにレースになるはずがないとそう思ったからだ。
案の定、スピカのトレーナーの言葉にゴルシちゃんは思った事を口に出して告げ始めた。
「えー! おいおい! マジかよ! あんなに小さくてガリガリなんだぜ? マックイーンなら勝てるだろ?」
「違うゴルシ、あれはただのガリガリなんて生易しいもんじゃない」
そう言って、スピカのトレーナーは静かにライスシャワー先輩に視線を向けながらゴルシちゃんに告げる。
スピカのトレーナーはいくつものウマ娘を見てきた実績があり、自身はウマ娘を見る目は特に自信があると自負している。
それに、恐らく、長年、トレーニングトレーナーやウマ娘を見てきた者であればライスシャワーの身体つきを見ればわかる。
あれはただ、身体を絞っただけではない、無駄なものを切り捨て、このレースにまで徹底的に改造したものだ。
あれだけの身体にする為にどれだけのトレーニングを費やしたのか、それを考えるだけで背筋が凍りつきそうになるほどの仕上がり、それが、今のライスシャワーである。
「トレーナーさん……、でもあれってオーバートレーニングをし過ぎたからなんじゃないんですか?」
「いや、スズカ、あれは完全にステイヤーとしての走りを視野に入れた完全な仕上がりだ。……わかってるな、マックイーン?」
「えぇ、それはもう、彼女が会場に入った時から気づいていましたわ」
そう言って、マックイーンは笑みを浮かべたまま、スピカのトレーナーに向けて頷き応える。
メジロマックイーンはその事をよく理解していた。
あのミホノブルボンを下したウマ娘、昨年の菊花賞を見た時にライスシャワーの持つ本来の脚質にメジロマックイーンは気がついていない筈がない。
完全なステイヤーとして、自分の前に立ち塞がる淀の刺客。
漆黒のウマ娘の力強く不気味に輝く眼光を見ればよくわかる。あれは、警戒すべき好敵手であるという事を。
だが、それでも……。
「私の王座を奪わせる気は微塵もありません、彼女の挑戦を真っ向から叩き潰してあげますわ」
同じくステイヤーのウマ娘としてのプライドにかけて、彼女に負けられない。
自身の三連覇という記録がかかったレース、誰にも邪魔をさせるつもりはない。
立ち塞がるのならば薙ぎ倒すまで、ようやく現れてくれた好敵手となり得る生粋のステイヤー、これにワクワクしない訳がない。
「よし、なら行ってこい!」
「がんばれよ! マックイーン!」
「ちゃんと見てるからね! しっかり勝ってきなさいよ!」
「マックイーンさん! がんばですよ! 最後はど根性ってお母ちゃんが言ってました!」
「……気をつけてね、きっと勝てるわ」
「オメーなら三連覇、やれるよ! 行ってこい!」
「勝ってきてよね! マックイーン! 頑張れ!」
スピカのメンバーは皆、メジロマックイーン先輩に声を掛けて激励の言葉をそれぞれ送ります。
マックイーン先輩はそんな皆の顔を見て、力強く頷くと拳を握りしめ、胸元に置き深く深呼吸をし、目を見開くと覚悟を決めたようにこう告げました。
「それじゃ行ってきます」
そうして、踵を返してゲートへと駆けて行くマックイーン先輩。
それぞれ、負けられない思いがある。
互いのプライド、思い、そして、夢を乗せて
日本の中で一番格式高く、誉ある春の盾をかけて今、ウマ娘達が激突する。
日本最強のステイヤーを決める戦い、天皇賞(春)の火蓋が今切って落とされようとしていた。