残り800mの表記が目に飛び込んでくる。
そこから私はギアを1段階上げることにした、幸いにも活路は既に開けつつある。
小さな身体を巧みに使い、包囲されていた私はその間を縫うようにスルスルっと抜けていく。
「……やばっ……!」
「ハァ……ハァ……! クソ! 行かれた!」
息を切らしているウマ娘の一人が表情を曇らせそう呟く。
ここから前からバテてきたウマ娘がズルズルと下がっていく。
私のペースに無理やり合わせて急かして走った結果、ペースが乱れてしまったんでしょうね。
ゆっくりというよりもかなりハイペース、これだと足への負担がかなり大きいはずだ。
そんな中、日本ダービーを眺めている一人のトレーニングトレーナーは笑みを浮かべこう呟く。
「ほう、こりゃいい戦法だね」
「……先輩らしいレースではないですがね」
「この場合はいつもと違うやり方のように見えてるだけさ、本質は変わってないよ」
そう呟くトレーニングトレーナーは笑みを浮かべたまま、確信をもって隣にいる小さな英雄に告げる。
彼は数多くの強いウマ娘をたくさん見てきた、彼が話す言葉には確信がある。強いウマ娘が走ってきた日本ダービーをこれまで何度も見てきた。
小さな英雄は隣にいるトレーニングトレーナーの顔を横目に見ながらこんな問いを投げかけた。
「貴方から見て、先輩はどうですか?」
「んー、強いね、かなり強い、実力も相当なもんだよ、是非ともウチのチームに来て欲しいし僕が直接見てあげたいくらいさ」
「……大絶賛ですね」
自分から聞いておいて少しばかりムスッとした表情を浮かべる英雄、だが、それでもそのトレーニングトレーナーは真っ直ぐにレースに目を向けたままだ。
それだけ、見入っていた。小さな身体であれだけの身のこなし、頭一つ飛び抜けているという次元ではない。
アフトクラトラスというウマ娘が持つ価値がどれほどのものなのか、トレーニングトレーナーとして長年見ていれば嫌でもわかる。
「残り600m! アフトクラトラス! スルスルっと上がってきた!」
先頭との距離を詰めていく。
溜めた脚は爆発するのは今か今かと私を急かしているようだった。
ペース配分は完璧、視界も良好。
舞台は整っている。後は私の走りを全て最後にぶつけてしまうだけだ。
「さあ! 残り400m! おぉと! アフトクラトラス更に上がる! グングンとスピードを上げていく! 先頭が逃げるがどうか! 逃げ切れるのか!」
残り400m、ここまで来たらもう良いだろう。
ギアを更に上げる。そして、姿勢を低くし脚に渾身の力を込めて一気に加速する。
外に完全に出れた今なら関係ない。一気に解放して前を取りに行く、先頭はすでに捉えている。
「アフトクラトラスの末脚炸裂!? なんだこの伸びは!? 今! 先頭と並んで置き去りにしました!」
まだだ、ギアはまだ2段階しかあげていない。
次のギアに切り替える。更に脚に力を入れて加速し、突き抜けていく。
私のギアは最大5段階まである、3段階に上げるタイミングは少しばかり遅かったかもしれませんね。
並んだウマ娘を置き去りにした私はさらに加速、その差を広げていく。
「アフトクラトラス差し切った! いや! 差はまだ開く! まだ開く! なんだこのウマ娘は!」
パン! っと私が力強く地面を蹴る音が響くたび、背後からの圧はドンドン遠ざかるような気がした。
もはや、前には誰も走ってはいない。
開けた視界、目の前に迫るのはゴールだけだ、身体に入れていた力は自然と4段階までギアを上げてしまっていた。
その走りを目の当たりにしていた小さな英雄は目を見開き、隣にいたトレーニングトレーナーは笑みを浮かべ嬉しそうな表情を浮かべる。
「……まさしく魔王に相応しい強さだね」
ポツリとそのトレーニングトレーナーは呟く。
それは日本ダービーを見に来ていた全観客がそう思った。
あんなウマ娘が居ていいのか? あんなウマ娘に誰が勝てるのか?
圧倒的な差に観客全員が愕然とし、先程まで熱気が渦巻いていた会場がサァーと静まり返る。
ゴールを突き抜けていった蒼き漆黒の魔王は会場を黙らせ、見入ってしまうくらいの圧倒的な強さだった。
「い、今! 今ゴールイン! レースレコードを大幅に更新致しました! 凄まじい強さ! 何という強さだ! 二冠達成! 世界の凱旋門征服に向け! 魔王がその実力をまざまざと我々に見せつけてくれました!」
一瞬、言葉に詰まった実況だったが、その言葉が自然と口に出てしまった。
そして、その実況が終わり、しばらくして会場からは大歓声が湧き上がりました。
激震が走るような一気なごぼう抜き、それだけでなく、抜いた後もかなり余力を残したままおそるべき速さで後続を置き去りにしてゴールを掻っ攫ってしまった。
何身差離れているのかわからないが、その強さは本物であった。
圧倒的な強さで日本ダービーを制圧してしまう私の姿に会場からは拍手と歓声が鳴り止まない。
そんな私の姿を遠目に見ていた小さな英雄は拳を強く握りしめて言葉を発する。
「……確かに……タケさんが言うようにとんでもなく強いです……」
「わかるかいディープ、今のお前では歯が立たたないよ」
「えぇ、……経験もトレーニング量も及びませんね、初めてです、私が心の底から敵わないと感じたウマ娘は……」
トレーナーからの言葉を噛みしめるように英雄、ディープインパクトは真っ直ぐにゴールを駆け抜けていった私の背中を見つめる。
以前、走った年末年始のマラソンはあくまでも娯楽の域を出ないもの。
確かにあの時、アフトクラトラスには多少なりと肩を並べ走り勝てるかもしれないという手ごたえを感じた。
だが、今の走りを見た限りあの時みた走りとはまるで次元が違う走りになっている。
タケさんと呼ばれるトレーニングトレーナーはディープちゃんからのその言葉を聞いて静かに頷く。
本人が自覚している以上は多く語る必要はないだろうと思ったからだ。
サイレンススズカ、スーパークリーク、オグリキャップ、メジロマックイーン、そして、スペシャルウィーク。
様々なウマ娘のトレーニングトレーナーを務めてきたが、あれほどまでの逸材は探してもまずいない。
先行戦法も差し戦法も難なく熟せる。
なら逃げ戦法を彼女が取ればどれだけ逃げ切れるのだろうか?
考えただけでも背筋が凍りつくだろう。追い込みに賭けてくるウマ娘には絶望しかない。
「アレに勝つには相当な覚悟が要るよ? ディープ」
「できてないとでも?」
「……愚問だったね」
そう呟くトレーニングトレーナーは肩を竦めて苦笑いを浮かべる。
正直いって、あのウマ娘、アフトクラトラスのトレーニングトレーナーをお願いしてやらせてもらいたい。
しかしながら、既に彼女にはもう超一流のトレーニングトレーナーとトレーナーが二人付いている。
「……これだったら早めに声をかけておくべきだったかなぁ」
「何がですか?」
「いいや、独り言だよ」
あのトレーニングトレーナーであれば、確かにアフトクラトラスの今回のレースも納得である。
とはいえ、自分とて、あんなレースを見せつけられては黙ってはいられない。
ディープインパクトと共に会場を後にするトレーニングトレーナーは密かに心の中でこう思う。
自分が鍛えたウマ娘であの魔王を倒してみたいと。
日本ダービー決着。
ゴール後、曇り空を見上げ一息入れる私。
レースでの高揚が抑えきれない、曇り空を見上げる私はゆっくりと視線を落として観客席に視線を向ける。
満足のいく走りができたと思う、初めての差しの戦法がこれだけハマってくれるとは思いもしませんでした。
アドレナリンが頭から出て、身体が熱い、ですが、このやりきった感覚はとても心地良かった。
すると、そんな私に……。
「すげー! めっちゃカッコ良かったぞアフトクラトラス!」
「キャー! アフちゃーん!」
「強すぎだろォ!」
観客席からは大歓声が耳をつんざくような飛んできます。
ぴぃ!? こ、怖い!? 皆なんでそんなに迫真なんですか!?
驚きのあまりビクンッ! と尻尾と耳が跳ね上がる私ですが、しばらくして苦笑いを浮かべたまま小さく手を振り返しました。
会場の収容人数19万人くらいですよ? その人達から一気に歓声が上がるんですからそりゃもうびっくりですよ。
「アフちゃーん! こっち見てー!」
「サンキューアッフ!」
うん、でもまあ、悪くないですね。
日本ダービーを勝ててこうして皆さんから労いの言葉を貰えるのは嬉しいです。ライスシャワー先輩が勝った時にもあげてくださいよとつい野暮なことを考えてしまいましたけれども。
すると、レース場に乱入してくるウマ娘達がいました。
彼女達は嬉しそうに私を取り囲むともみくちゃにしてきます。
「アフ! おめでとう!」
「アフちゃん! よくやったわ」
「まあ、私は勝つ確率は相当高いと踏んでいたがね、おめでとう」
「けっぱったなぁ!」
「凄かったわよ! 自慢の後輩っ!」
そう言って、乱入してきたのはチームアンタレスの皆さんです。
メジロドーベルさんなんか嬉しさが先走ったのか私の首元に抱きついてきている始末。
自分達が勝ったように喜んでくれる皆さんの反応に私も思わず動揺してしまいます。
めでたいんですけどね、ありがたいですねこうして祝福されるというのは。
すると、その背後からゆっくりと現れたのは今回、私のトレーニングに付き合ってくれたナリタブライアン先輩と、オグリキャップ先輩、そしてなんと、ルドルフ先輩だった。
おうふ、ルドルフ先輩まで来てくれるとは、また私のお説教かな?
まず、口を開いたのはシンボリルドルフ先輩でした。
「おめでとうアフ、素晴らしい走りだった」
「……いえ、そんな」
「なんだ、珍しくしおらしいな」
そう言って、ルドルフ会長からの言葉になんと返していいかわからない私をからかってくるのはオグリキャップ先輩。
いや、正直、この間ゴルシと悪戯でひっそりとラブレターを会長の机に置いてた事がバレたのかと思って。
書かれていた文を知りたいですか? 私の達筆でア◯ルが弱そう(小並)です。
はい、その一文だけですね、度胸試しというか自殺行為なんですけども。
そんな中、私はとりあえずそれらしく振舞うことにしました。流れって大切だと思うんです。
「いや、……ちょっと実感がないというか……」
「なんにしろ、大したものだ」
そう言って、私の肩を掴んで胸元に抱き寄せてくるナリタブライアン先輩。
くしゃくしゃと乱暴に撫でてきますが、それはどこか心地良かったです。
そして、三人から祝福された後、その背後からゆっくりとやってくる栗毛のウマ娘。
その横には私を支えてくれた小さな黒鹿毛の髪を揺らすウマ娘が居ました
私がずっと追い求めてきた、そして、私はずっと背中をいつも見て走ってきた。
彼女達は私に近寄ると迷いなくぎゅっと抱きしめてくる。
「……良くやりましたね、妹弟子」
「アフちゃんおめでとう」
そう、姉弟子、ミホノブルボンとライスシャワー先輩である。
私を祝福してくれる姉弟子とライスシャワー先輩は優しく何度も何度も撫でてそう言ってくれました。
そんな二人の行動に戸惑いながらも、時間が経つに連れ私は静かにその二人からの祝福を素直に受けました。
「……はい、ありがとうございます」
二人からの心からの祝福。
それは同時に追うばかりだった私がもう、既に二人と並び走れるレベルまで成長していた証でもありました。
もう追うばかりじゃない、今度は私も共に二人と駆ける事ができるんだ。
日本ダービーが終わって私が1番嬉しかった事はそれが確信に変わった事だった。