Decipit exemplar vitiis imitabile 作:トラロック
年月は周りの人間が思っているほど早く過ぎ去り、その時間感覚は当人にしか分からない。
同じ時間を共有する仲間が欲しいと思ったこともあったけれど、今のところ殆どが死んでしまった。――これから死ぬ予定の者、種族や
定命にある者の運命であるかのように――
「………」
漆黒に近い暗い空間を迷うことなく歩く者は――『イビルアイ』と呼ばれる
水滴が落ちる音を聞きつつ前に進む。
二百年ほど前に立ち去った
当時はまだ頭の回らない状態だっただけに今現在どうなっているのか確認するのが怖い。――一応、今時分の自分には怖いものが存在する。
恐怖を感じない種族だというのに矛盾した感覚は気持ち悪さを覚えるのだが――
致し方ない。様々な経験が今の自分を形成している。その過程において新たな感覚を覚えてしまう事は
例外というものは予定調和をいつも崩してくるものだ。
イビルアイは頭を覆うように身に付けている黒いローブから零れる金色の髪の毛をいじる。
長い年月の間にボロボロに朽ちて消える事無く存在してくれた髪。
炎に炙れば簡単に燃えて無くなるのだが、黙っていれば意外と丈夫な事に驚かされる。
――手入れは欠かさない。けれども、
女性として。人間的に振舞う上でも身だしなみは大事である。
「………」
一般人であれば先を見通す事が困難な暗い中を平然と進めるのは暗闇を見通す魔法とマジックアイテム、それと
真昼のように――とは言いがたいが見ている景色はとても明るい。
人の気配が一切無い洞窟に一人黙々と進んでいく。
昔は大勢が暮らしていた――わけはない筈だ――ような事も僅かな期間でもあったのかもしれない。
詳しい事は分からないけれど何人かは利用していた筈だ。
風の噂などでは討伐依頼か何かで内部に侵入してきた冒険者によって
放置していたイビルアイにとって気にする程の価値も無い――のだが、僅かばかりの罪悪感はあった。
遠い昔に置いたっきりにしていた厄介なアイテムのその後の末路とか。
今から二百年とも三百年とも思われる昔――
イビルアイ自身は正確な年月はとうに思い出せないのだが、確かにそれくらい昔の出来事だったのはおぼろげながら思い出せる。
かつて大切な友人と旅をしていた――筈の淡い出来事の欠片。
自分がまだ『キーノ・ファスリス・インベルン』と名乗っていた頃だ。
(……まだイビルアイになる前の
自身が身に付けている白い仮面をさする。それには額部分に赤い宝石がはまっていた。
世間体を気にして顔を隠すようになったが、仲間内では結構見せている自身の顔――
過ごした期間を悟らせない少女の
死人のように白い肌で妖しく光る赤い瞳。油断すれば漏れ出る牙。――牙は簡単には表に出ない。それほど長くないのが幸運だった。
(当時の記憶が実に曖昧で困るのだが……。良い想い出は都合よく脚色されるもの……。それはそれで困った事態だ)
頭に水滴を受けつつイビルアイは苦笑する。
落ち着いた時期に自伝でも書こうかと思っていた時、はっきりとした過去を思い出せないことに気付いてひどく落胆したものだ。
空想と現実の区別が付かない時期というものは実に都合が悪い。
自分は何の為に生きているのか。その最も大事な時期の事を思い出せないのであれば滑稽以外の何ものでもない。
(ぼんやりしていた時期に
だからこそ過去を振り返りたくないのとちゃんと振り返って記録をしたためたい気持ちが
自分にとって大事な事が確かにあったはずなのだ、と自分に言い聞かせる為に――
今のイビルアイを形作る上で避けては通れない過去と向き合う時期に来ていた。それなのにぼんやりしか思い出せないのでは意味が無い。
同じ時代を生きていたであろう友人など――居ないに等しいほど――ごく少数。
更には自分が物心つく前に付き合っていた人物のことを思い出せなくては後の物語にも影響が出てしまう。
ある日突然に自分が生まれたわけではない。
何かがあって今の自分にたどり着けなければならない。
そうでなければ自身が歩んだ道の前半が幻想に消えてしまう。それは
時々独り言を呟きつつ洞窟の最下層にたどり着いたイビルアイ。
深さ的にはそれほどの距離は無いのだが、ここは一般人がおいそれと侵入できない隠れ家だ。
まず入り口は重い棺桶で蓋をしている。物理的な破壊で障害を取り除けなくはないが後で塞ぐのが大変になる。
(……昔とあまり変わっていないな……)
天井に繋がる柱状の鍾乳石が何本もあり、人工的な階段が自然物を冒涜している。
階段は利用者の為に掘り進んだのだから仕方が無い。
所々の人工物はここがいかにも秘密基地であるという証拠だ。
円形に広がる場所には魔方陣が描かれている。多少、擦り切れているが何度も何者かが書いては消してを繰り返した跡が伺えた。
イビルアイ本人は覚えていないのだが、何人かの人間と共に利用していたのかもしれない。
奥に行けば集会場のような部屋が現われる。――そこには当主の為の石で作られた玉座や祭壇が設置してあるはずだ。――何者かが破壊していない限り。
様々な儀式を執り
魔方陣の中央には特殊なアイテムを設置していた。――それが無いということは破壊されたか、何者かが持ち去ったと思われる。
二百年ほど放置したアイテムがどれほどここにあったのか――、盗掘が早い段階ならば脅威とは言えない。逆にごく最近までここにあったのであれば相当な脅威になっている筈だ。――だが、この洞窟がある大都市『エ・ランテル』は今も変わらずに存在している。それはすなわち脅威となるアイテム『死の宝珠』の影響を受けていない事を意味する。
負の想念を力に変える意思あるマジックアイテムだ。
「………」
しばらく探してみたものの他の石ころと見分けが付かないアイテムなので魔法の恩恵があったとしても捜索は困難を極める。――呼びかけても何の反応も返って来なかった。
無いのであれば仕方が無い。何処かで暴れていれば嫌でも自分の耳に入る筈だから、それまで放置してもいいか、と思うことにした。――案外、誰かが脅威と判断して――
早々にマジックアイテムの捜索を諦めたイビルアイは洞窟の最奥に向かう。
物静かな佇まいなので誰も居ないと判断する。
この奥にあるのは儀式用の祭壇――。それと簡易的な玉座だが、それが今もあるのか――
かつて
「………」
それは今も健在のようだ。そして、目的の玉座には誰も座っていない。
当たり前のようで何者かが隠れ家として使っていることも考慮していた。
何も無い事に喜び、同時に寂しさを感じた。
前に暮らしていた時代から二百年近く経過している。それでもここだけは何も変わっていないと信じていた。
だが、時代は残酷だ。
時間経過と共に様々なものが朽ちていた。
長い期間、湿気に晒されていた為に壁に掛けてあった調度品は腐り落ち、金属は錆び切っていた。その中で目新しいものは殆ど無い。
金目のものは持ち去られていたり、何所かの泥の中に埋まっているのかもしれない。
それらを探す気は無く、ただ真っ直ぐに玉座に向かう。そして、イビルアイはその椅子に座った。
今日が初めての事ではないけれど、何度か座っていた時代を思い出そうとした。けれどもやはりおぼろげなものしか浮かばない。
確かに自分はこの地下空間の主であり、同時に誰かをこの玉座に座らせていた経験もある。
(この場所で私は何らかの組織の長に収まっていたのだろうか……。それとも単なるごっこ遊び? ……そんなことはない筈だが……)
時代は残酷なものだ、と小さくつぶやくイビルアイ。
かつてキーノと名乗っていた時代の事を殆ど思い出せないのは実に勿体ない、と。
全てではないが――、それでも失った時間があるというのは残念極まりない。
(ここで自分が
時代と共に名称が薄れ、それしか思い出せなくなった残りかす。
それでも当時の自分には縋りたい一心の表れだったような気がする。
最初に眷属にした者が後に大きな組織へと成長させ、今も別の拠点で悪巧みをしているかもしれない。そう思うと罪悪感が襲ってくる。
そうだとしても悪の道に進んだ者の身代わりにはなりたくない。それは
イビルアイは最初から最後まで責任を取るような善人ではないことを自覚している。
(……悪の組織の親玉はとっくの昔に居なくなっていた。そういう結論があっても組織として維持されていたのは……、何者かが
名前も姿も分からない盟主を頂くズーラーノーン。
その構成員は支持を集めて何を企んでいたのか、イビルアイには窺い知れない。
置き土産として残したアンデッドモンスターがどういう使われ方をしたのか――それも興味は無いのだが――今となっては知る術もない。
誰も居ない空間を睥睨するイビルアイ。
キーノとして活動していた期間のほうが遥かに長いけれど、半分以上はおぼろげな記憶に支配されている。
自分が自分であると確定できた日より前――
アンデッドモンスターである
(とある国の哀れな姫君が邪悪な
原因がなんであれ、国を一つ滅ぼした事実は変えられない。
それから自暴自棄になって各地をさまよい続けた。
その辺りの記憶がすっかり抜け落ちているようだ。
(……当時はやさぐれていた……のか。もっとお淑やかな少女であった……場合も……)
だが、何があったのか曖昧である。そうイビルアイは苦笑しながら思った。
玉座に座って仲間や部下達に命令していたのか、それとも単に一人で過ごしていたのか。
いや、一人ではなかったはずだ。
誰かと共に旅をしていた。
(……そう。大切な友人と共に……)
聞く者の居ない洞窟の片隅で呟くイビルアイ。
見つめる先には暗黒しか無い。
ここには華々しさは皆無で、ひたすらに空虚だ。
祭壇は何の為に設置したのか。
殆どを思い出せない。
脳が腐ってきたのか、それとも単に年を取ったとでも言うのか。
老化しないアンデッドモンスターたる
生きながら死人である為に信仰系の魔法を苦手とするもある程度は生者と同じ事が出来る。そこが完全な死体と違う点だ。
心臓こそ止まってはいるが、腐敗臭を振り撒いているわけではないし、多少の飲食に不都合は無い。
血を欲する衝動が起きないのは死んでから
ここ最近は本当に人間的な暮らしを送っている。更には
人生は無駄に長くて退屈だと思っていたが、存外悪くはないと思えた。
様々な経験を得て――原点回帰の意味で――過去を振り返る事にしたイビルアイがかつて放置した拠点に舞い戻り、そこで見たのは伽藍堂の空間だった。
かつて大勢の手下とも呼べぬ者達を従えていた――のかは定かではないが、確かに自分はここで何らかの活動をしていた。
その主目的は果たして何だったのか――
(……普通に考えて私が盟主だよな……)
悪名高い秘密組織を束ねる盟主――
そういう風に祭り上げられた姿無き主――
ズーラーノーンの盟主キーノ。
前の名前を知る者は自分が知る限り、数人ほど。それも二百年以上も昔だ。――大半の時を偽名としてのイビルアイで過ごしてきた。
普通の人間であれば生きている事が奇跡に近い。
だからこそ盟主の情報を持つ者はごく限られてくる。
名前だけを利用して組織運営していた者が居ても不思議はない。
室内の様子を見る限り、壊滅させられていると思われ――イビルアイとしても何だか申し訳ない気持ちになってくる。
自分が導いていれば悪の道に進まなかった、とは言わないが――
間違った方向に進んで命を散らした者――者達に哀悼の意を捧げることくらいはしてやらなければ、その魂はきっと浮かばれない。
もちろん、悪党に同情するわけではない。
――被害者の為のものだ。
祭壇の前で跪いて祈祷をささげる。これは仲間の祈りを見よう見真似で
自分は聖者ではなく、人も殺す冒険者だ。
綺麗ごとだけで世渡り出来ないことを知るイビルアイである。
「………」
見も知らぬ者達への祈りを――簡単にだが――済ませた後また玉座に座った。
時間は今日の為に取っている。一週間でもこもれるが――果たして、それだけで何を得る事が出来るのか。
かつての自分の情報を――
イビルアイは秘密組織ズーラーノーンが拠点にしていた――大都市エ・ランテルにある共同墓地の霊廟の地下空間――場所で過去を振り返る試みを始めた。
二百年とも三百年とも知れない長い時――
それは人間では計り知れないもの。不死性のクリーチャーにとってはつい先日にも感じる長さに過ぎない。
なまじ人間的思考が出来る者にとっては拷問にも匹敵するが――
かつて『キーノ・ファスリス・インベルン』であった頃の自分の事について思い出せる事は驚くほど少ない。
特殊な
特徴的で刺激的で二度と忘れまいと誓ったことなどは――
事の起こりは不明だが――と、その前に――イビルアイは付けていた仮面を取り外し、天井を見上げる。
漆黒に近い閉鎖された洞窟の天井。地下水が粒となって下に落ちる音が静かに聞こえる。
この場所を最初に見つけたのは
大事な事も忘れているのは
(……もう三百年近く……になるのか……)
不死性の
ここ最近は怒涛の展開が続いて忙しさに悲鳴を上げる始末。――
忙しさの原因は長く不明だったが未知の高難度モンスターの出現によるものと推測している。
それも今まで何処に潜んでいたのか分からないのがおかしいと思えるほどの凶悪で強力な者達――
よく世界が滅びなかったと不思議に思ったほどだ。
(……全てはモモン様と……魔導王の活躍のお陰だが……)
他人があれこれ詮索したりするけれど国を守ってくれた事は事実として受け止めねばならない。
イビルアイとて完全に相手を信用していたわけではない。ただ、信じたくない事があるだけ。
どんな人間にも裏があり、打算あり気で生活している。
完全無欠の完璧超人など存在しない――。そう思って今まで生きてきた。
モモンも例に漏れず、人には言えない過去などを持っているようだった。――いや、確実に持っている。
だからそれを責める材料にはしない。
それもまたその人の人生の表れなのだから。
目蓋を閉じて過去への扉を開くイビルアイ。
しばし思索の旅路に身を委ねる事にした。