「プロローグ:死の抱擁に導かれて」
――これが『詰み』ってやつか。
そっと溜息を吐き、先ほどまで飲んでいたコーヒー缶をコンビニのゴミ箱に投げる。
数秒前まで温かな液体が入っていた空き缶は弧を描き、コンッと音を立てながら入る。
普段なら入らないのに、こんな時に入ることにすら何か苛立ちを感じる。
空き缶が入るのを見届けるのもそこそこに、男は黒い長方形タイプの財布を取り出す。
もしかしたら、お金が増えているんじゃないか。そんなあり得ない希望的観測をしながら、でもひょっとしたら……? と少なく無い労力を用いて中身を見る。
「4円か……」
当たり前だが増えたら可笑しい。
元々財布にあったのが114円といった小銭だ。
さっきのコーヒー代が110円で差し引き4円。可笑しいことは何もない。
――俺の最後の晩餐がコーヒーなのか。
そんなことを考えていれば、下らなくて乾いた笑い声が口端からこぼれた。
苛立ちも、苦しみも、悲しみも、憤りも、何もかもが霧散していく。
そうして最後、胸中に過る虚無感と僅かな倦怠感だけが俺を包み込んでいた。
「――――」
それは、何への溜息だったのだろうか。
自分自身にも分からない溜息は、白霧のように空中へと舞い消えた。
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俺を一言で表すなら、『失敗者』だ。
新入社員になりたての25歳の男。生きる気力を無くした社会の歯車――だった。
高校を卒業後、中小の会社に就職し、さぁ頑張るぞと気合を入れた矢先、唐突な冤罪で捕まった。
女性が大声を上げ何事かと思いきや、その女は俺の手を掴み取り、「痴漢です!」と言った。
その女の周りには此方を見ながらニマニマした笑みを浮かべる男女グループがいた。
まさか餓鬼の遊びで俺は狩られたのか。『捕食』という言葉が脳裏を過り、咄嗟に叫んだ。
「――待って下さい! 違っ、俺じゃ……」
血を吐くように叫びはしたが、周りは誰も信じなかった。
お前が犯人だという悪意に満ちた目、迷惑だから早く捕まれという無関心に満ちた目。
誰もが皆、俺を犯罪者として見る眼つきであり、味方は誰もいない事を理解した。
「――ぁ」
駅で知らない男に説き伏せられ、地べたに顔をぶつけ血が出た。
呆然としている間に駅員に補導され、警察に引き渡された。
その集団は払えない多額の慰謝料を請求し、警察に訴え、勤め先の会社にも連絡を入れられた。
その場は名刺を渡して解放されたが、既に俺の心は折れていた。
数日後、逮捕状を請求され俺はテレビに実名と顔が報道された。全国放送でクビも決まった。
泣く泣く親にも連絡したが、返ってきたのは聞くに堪えない暴言だった。
あっけなく人生の崩壊する音が聞こえ、自らが終わった事を知った。
終わりは、一瞬だった。
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それから2ヶ月が経過し、俺は冤罪ということで解放された。
マスコミも謝罪したがテレビで放送された結果、俺の社会的地位はもう終わっていた。
気づいたらスーツは着ても働かない、働けない引きこもりのニートと化していた。
自分で言うのはなんだが、堅実に勤勉に懸命に努力してきたつもりだった。
毎日真面目に勉強し、誰よりも親の期待に応えるべく頑張ってきた。
正直都会は嫌いだった。でも稼ぎはいいから毎日の満員電車も我慢した。
――その結末がこれなのか。
最悪な結末に、救いのなさに、もう誰も信じられなかった。
俺はあの男女混合チームのカモにされたのか? もっと冷静に対処すべきだったのか。
今になっては分からず、後の祭りでありながら、全ては己の無能が招いた事でしかない。
――これからどうすればいいのだろう。
あの毒親のことだ。冤罪だろうと、恥さらしの息子には一切の援助をしないだろう。
もしくは縁を切られるのか。それ以前に、電話が繋がらなくなった。
もうこの人生は終わっており、脚が震えた。
――仕事はどうすればいいのだろう。
転職をするしかない、だが報道されてからまだまだ日は浅い。
一度貼られたレッテルというのは簡単には剥がせないだろう。
なによりも、もう働こうとする意志も目的も失っていた。
――お金はどうすればいいのだろう。
このニート生活で貯金はもう尽きていた。
それ以前に、これ以上惨めに生きる気力はなかった。
「……どうでもいいか」
下らない思考を切り捨てる。
そんな中で、俺は電車での人身事故を思い出す。
あの頃は迷惑でしかなかったが、今は少しだけ彼らの気持ちが分かった。
理解したが、俺にはそんな風に線路に飛び込み死ぬ勇気も無かった。
これからどうするのか。
“これから”も何もない。俺は終わった。この国では脱落者に与えられる道はない。
敗者に与えられるのは惨めな家畜への道か、あるいは死か。
「……あのコーヒー、美味かったな」
ポツリと自らの唇から後悔の言葉がこぼれ落ちた。
もう少し味わって飲むべきだった恐らく人生最後の暖かなコーヒー。
公園のベンチに座っていると、冷たい感触がスーツを通して体を冷やした。
昼間に座っていたのに、もう3時間経ったことを腕時計が教えた。
「――寒いな」
どうでもいいか。だって、もう俺の人生は終わったんだから。
己を腕で抱きながら空を見上げると、灰色の雲空が俺を冷たく見下ろしていた。
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雪だ。
気が付くと空模様は暗く、塵のような粉雪が視界に入る。
いつの間にか秋も終わってしまい冬、男は寒さに震え両腕で己を抱きしめた。
「俺は一体、何をしているんだろうな……」
ふと俺は思い出す。
人生の分岐路はどこだろうか。
色々あったがおそらく決定的なのは、中学校だろう。
中二病を発症した俺は、人助けが当たり前だと思い込んでいた。
イジメは良くないと当時見ていたヒーロー物のアニメに惚れ込み、愚かにも憧れを抱いた。
そして生徒を殴っていた不良をたまたま見かけ、注意した。
その人をイジメるなと、真面目な正義感に囚われた。
その不良は屑だったが、クラスの中では上位に位置する存在だった。
次の日には、俺は集団でのリンチに遭った。
ボロボロの雑巾、という表現は、正しくこの時の俺のためにあったのだと思う。
クラス中にソレが知れ渡り、クラスどころか学校中の玩具にされた。
生徒にゴミを投げつけられた。
教師に訴えても無視された。
挙句の果てに、イジメられる方が悪だと言われた。
――意味が分からなかった。
俺は正しいことをしたはずだ。そんな俺を誰も助けなどしなかった。
誰も助けてなんてくれなかった。ただの一人も。手のひらを変え、お前が悪いと口々に罵った。
悪意を振りかざすモノ。
面白半分に言うモノ。
遠くから倦厭するモノ。
そいつらに俺は憤り、苛立ち、怯え、苦しみ、足掻き、最後に何かが折れた。
そんな日々に、くだらない正義を振りかざした愚か者が、学校に行かなくなる。
ドラマや小説で見るよくある話で、非力な臆病者は、こうして家に引きこもった。
しかし――
『大丈夫だ』
『甘えるな』
『お前ならできる』
一度はネットの住人となったが、両親はそんなゴミ屑を許さなかった。
表面上で塗り固められた薄っぺらい優しさと無責任に同情の言葉を投げ掛けた。
助けもせず、ただ『頑張れ』と醜悪な口を開くばかりであった。
怖かった。怖くない訳がなかった。
学校になど行きたくなかった。
勉強なら家でもできるはずだ、そう思った。
そんな俺の主張を無視し、誰も俺を甘やかさなかった。ひたすらに学校に行けと言う。
そうしてようやく、愚かな俺は理解した。
――最初から居場所などどこにもなかったのだ。
だから俺はもう一度頑張った。消え掛けの心に火を灯し、もう一度やり直そうと決意した。
彼らの言葉を一応聞き入れ、歯を食いしばって夜間学校に通った。
人目を気にしてコソコソと通ってなんとか卒業資格を取り、就職をして家を出た。
もう戻る気はなかった。
両親は俺に失望しているのが目に見えていて辛かった。
引きこもりに一度はなったが、それでも家族に迷惑はかけたくはなかった。
だから、もう一度だけ頑張った。
「本当に、どこで間違えたのかね」
その結果がこれだ。
痴漢の冤罪で捕まり、マスゴミに顔写真と名前をテレビに出され、俺は終わったのだ。
社会のヒエラルキーの底辺に落ち、正しく詰んだのだと理解した。
社会人デビューは2ヶ月持たず、俺は引きこもりに戻った。
家には連絡できない。できるわけがない。
当時のトラウマが再発した。
人の目が怖く、囁き声が怖く、人の笑い声が怖く、もう駄目だと感じた。
「――ははっ」
過去に戻りたいと、唐突に思った。
ゼロから、赤ん坊から始められたら。
そんな愚かで不毛なことを考えることのできる程度のエネルギーはあったらしい。
そして最後に自嘲気味に俺は考えた。
結局、俺の人生の敗因は何かと。
努力を怠ったことだろう。
勉強も中途半端だった。部活は人間関係(笑)とかですぐに辞めた。
色んな遊びや趣味に手を出し、どれもこれもが中途半端に辞めてしまった。
「もしも……」
それを口にしようとして、俺は代わりに深いため息を吐いた。
これ以上の思考へのリソースを割くことすら無駄に感じた。
後にも先にも『もしも』なんてモノはない。もう終わってしまったのだ。
「あ、でも……もしも叶うなら――――」
自分の人生の幕引きを想像した。
最後くらいは後悔のないように、悔いのないように、カッコよく、誰かのために、
「――死にたいな」
そう思った。
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そんな雪が降る中で俺は白い息を吐き、公園のベンチから漸く離れ散歩する。
あては無く、頼れる知人もおらず、ゆっくりと歩きしばらくすると歩道に出た。
やや遠くにはサラリーマンや口喧嘩の様な話し方をする制服を着た女子中学生が3人固まって歩いている。そして、松葉杖をついて歩く黒髪の少女。その他大勢の人々。
時間的にも少なく無い人通りで、俺の目に漠然と映る光景。
喧嘩でもしているのか、大声を上げる中学生らになんとなく関心が向くが、
(どうでもいいか)
原因なんて考えるだけ無駄でしかない。
彼女たちにしてみればきっと何かしら大ごとなのだろうが、俺にとってはどうでもよかった。
だって既に、この人生は終わっている。
「――――」
偶然同じ方向に向かう中で、次にサラリーマンに目を向けた。
左手に見える指輪はまだ真新しく、幸せそうな顔は帰宅後のあれこれを考えているのだろう。
きっと家族の待つ家に帰るのが待ち遠しくて仕方無いのだろう。
(いいな)
ただただ彼らが妬ましかった。羨ましかった。
あの頃の俺なら、きっとなんだって出来たはずだ。
時は金なり。その通りだ。
「――――」
あの頃、輝かしかった昔の日々を思い出す。
努力しようと思えば、いくらでもできるはずだった。
そんな日々はいつの間にか後悔の連続で、苦痛の毎日へと変わった。
いつの間にか終わりへ向かうという、己への焦燥感。
友達が欲しかった。
あんな風に喧嘩をしたかった。その後に仲直りをして、弁当を食べて、
告白をして、そこから更なる関係になって――。
家族が欲しかった。
あんな風な幸せな笑顔を浮かべたかった。家に帰れば、おかえりを言ってくれる存在。
隣にいるという存在が、どれだけありがたいのだろうか。
共に笑い、泣き、人生を共にして――。
(もう、遅いんだ……)
それらを一つも得られなかった当たり前の現実に、俺は疲れきっていた。
楽しかった記憶は思い出せず、それらは過去に置いてきた。
人生は選択の積み重ねというが、俺は、何も積み重ねられなかった。
無駄な時を過ごし、金も、地位も、プライドも、何もかも失った俺には何も残らなかった。
いつの間にか、辛うじて息をしているだけの矮小な存在に成り果てていた。
そして――
---
「――――随分と、速度を上げてないか?」
そんな時だった。
いつの間にか、俺は下を向いていた。
僅かな異音に顔を上げると、その瞬間に気が付いた。
やや坂道。
右側の道の上方から大型のバスが一台、此方に向かって猛スピードで突っ込んできた。
フロントガラス越しにバスの運転手が胸を押さえてグッタリとしているのを俺は見た。
あの速度、距離を考慮してブレーキを掛けても間に合わない。
不思議と誰もまだアレに気が付いていない。
運転手は心臓発作という推測があった。
これから十数秒後に大事故、という未来の光景が頭に浮かぶ。
「――ぁっ……!」
叫ぶべきか悩んで、結局俺は声が出なかった。
どうでもいいんだろ? 助けたところでどうなる、と俺の思考が囁く。
同時に、目の前の人たちを助けるべきだ、とも思った。
ここで助けなければ、きっと数分後に俺は後悔するだろう。
高速で走るバスに轢かれ惨い死体となる大勢を見て、俺は絶対に後悔すると直感した。
でも、現実問題。
全員を助けることはできない。よくて一人だけ。他は切り捨てる。
「――――」
バスの中身などは考慮しない。諦めてもらおう。
サラリーマンも、中学生たちも考慮しない。自力で何とかしてもらいたい。
故に俺が目を向けたのは、松葉杖で俯く黒髪の少女。
たった一人だけ。
勇者でも、正義の味方でもない俺は、最もバスの射線外へ逃れられない人を、
「――助け、る」
助けてどうなる?
「……誰も助けてはくれない」
他の人々は幸せだ。友人も、家族もいる。
『彼女』には誰もいない、それだけの理由。その姿を自分に重ねてみた、それだけの理由。
己の偏見から生じた、歪で傲慢な理由。
俺はもう駄目で近い将来野垂れ死ぬだろうけど、その瞬間は、俺が死ぬ最後の瞬間だけは。
最後の最後まで、後悔と絶望で終わらせたくは無かった。
偽善に満ちた、他の人を助けるという形を利用した己の最期。
悪くない。誰かを助けて、カッコよく死ぬ。
最後の己の舞台。その幕引きに相応しいと、独善的に俺は笑い、駆けた。
「――――ハッ――――ハッ――ハッハハッ……っ!!」
肺が焼けつき、脚が重くなる。体の各部が悲鳴を上げる。
すぐに疲れて走りたくなくなったが、懸命な呼吸で何とか走り、その人に距離を縮める。
「――――!」
質量の暴力が目の前に来て、ようやく多くの人がソレに気が付いた。
多くの人が逃げ惑う中、転ぶ人もいる。友人と押し合い、倒れる人もいる。
他の人が轢かれる、それらを無視して、懸命な意志で手を伸ばす。
「――――っ」
俺は迷わず、逃げ遅れた松葉杖の昏い髪の少女を突き飛ばす。
抵抗のない少女の身体はいとも容易く俺の望む通りに動いた。
「――――ぁ」
そして眼前には、死への片道切符。それを見て思うことは欠片も浮かばない。
最後に、誰かを助けて死ねることが嬉しかった。
どうしようもなく独善的で、矮小な屑が、最後に『正義の味方』のような行為をできた。
陳腐で、歪な自己満足でしかない。
それでも、結果は人を助けられた。
なら、もういい。もういいのだが、
(――神様、もしも次があるのなら)
そんな祈りが届いたのかは分からないが。
大型バスに俺が轢かれる瞬間、全ての音が消え、代わりに一瞬だけ何か、虹色の光が見えた。
時間が止まる。
時の停滞の中、少し視線をずらすと、黒い髪の彼女が俺に向かって手を伸ばしていた。
昏色の髪とは異なり、その赤い瞳は大きく見開かれている。
ようやく状況を理解したのだろうか。刹那の時、少女の濃紅の瞳と目が合っ――
---
衝撃。
爆音。
悲鳴。
気が付くと、男は地面に横たわっていた。
紅の海に肉体が沈む。血海はどんどん広がりを見せる。
「――ぇあ?」
紅が暖かく、蒼が冷たい色だと誰が言ったのだろうか。
そんな訳がないと、俺は今ほど思ったことは、後にも先にもないだろう。
だってこんなにも、紅とは死を連想させるじゃないかと、男は場違いに思う。
「――――ゴッ――――ッ」
白く染まりつつある意識と耳から己の背後で起きた事故を理解したが、全く体は動かない。
ピクリとも動かない肢体と、目の前にある己の青白く死んだ手が動かない視界で映った。
痛みはない。
ただ、熱がどこからか湧き出し、俺という存在が漏れ出るのを感じる。
ゴボゴボと口からこぼれる血塊が現実味を無くす。
死。
それを理解した時、暑苦しいと感じた肉体の熱も、動かず不快な思いをした己の肢体も、
死への恐怖も、体を包む寒さも、紅の海を映す己の瞳も、意識すら遠のいていくのを感じる。
――やがて、男は死んだ。