目の前の黒靄をした影を無言で見返す。
周囲は暗く、静かな声が耳ではなく脳に直接響くように聞こえる。
「ボクは加賀家初代『勇者』。だからキミはボクの血筋で言うと子孫にあたる」
「――――」
クツクツと笑う影は自らを『初代』と名乗ったがどう見ても人ではない。
自分が影のようになっていることに自覚はないのだろうかと首を傾ける。その反応はどうやら正しかったらしく、相手からも俺が靄のある黒色の影に見えるらしい。
「ふむ……。もしかして、キミからはボクが影で覆われた何かに見えると」
「――――」
「それは、君の勇者レベルが足りないんだよ。ついでに言うとボクからもキミがよく見えない」
お互いがお互いを見ることが出来ないコミュニケーションに難がある状況。
この不思議な空間において、俺の考えていることが目の前の存在に読み取られている。
圧倒的な上位者。その存在に恐れと諦観と、同時に小さな疑問を抱く。
――そもそも勇者レベルとはなんだろうか。冗談の一種か。笑えば良いのか。
「似たようなものさ。適正値が一定を突破したから呼べたものの、要はキミ自身の勇者因子と、ボクの勇者因子が完全に噛み合ってないから、まだお互いよく見ることができていないのさ」
訳知り顔の影の言葉に、神樹館小学校での検査を思い出す。
目の前の存在が言う『因子量』が足りない為に黒い影のようになっているようだ。
そんな事を考えていることが、口を動かさずとも伝わったらしい。
「恐らく原因としてはそうだろう。パッと見る限り明らかに小学生にしか見えないのに随分と物分かりが良くていいね。……ただキミの場合、中身が別物のようだが」
「―――ッ」
それを知っているってことは神様かと首を捻るが、見た目は死神ともいえる。
全身に闇色の何かが被さったような姿は、お世辞にも天国にいる存在とは言えない。声だけを聞けば甘く冷たさの感じる少女の声だと判り、ギリギリ魔女と言えるだろう。
「魔女ではない、ボクは一応『勇者』だ。もう、随分と昔に死んだけど」
「……」
加賀家のご先祖の勇者。以前わずかに両親が話していたのを覚えている。
勇者というのは、魔王と戦うアレということでいいのかと思念を目の前の存在に放つ。
その思念を受けて、影はコクリと俺に頷く。
「ふむ。魔王とはちょっと違うけど、大体似た感じかな。あと、キミは本来なら勇者にはなれないけど、魂が他の人とは全く別のものだからね。いわゆる例外っていう奴さ」
「……」
「気のない返事だ。無口は嫌われるよ」
正直そんな事を言われてもよく分からない。
だからどうしたとしか思わない淡泊な己の考えに影は身体を震わせ苦笑する。
「キミのことはずっと見てきた。指輪を通してね」
「……」
ストーカーのような言葉に対して身体を抱くように腕を組む。
そんな俺の態度に思考を読むまでも無いのか、冷笑を浴びせるような声が即座に返ってくる。
「失礼だな、キミは。あんな連中と一緒にしないでくれ」
あんたは俺の何なんだと、口の使えない不便な中、無言で思念を浴びせる。
顔の見えない、そもそも本当に人間なのかすら怪しい黒靄の『存在』を見る。
「そうだね。キミの……いや、加賀家の勇者の味方かな」
勇者の味方。
その意味は分からないが、それでも信用するつもりは今のところない。何故なのか。それは本能や経験とも言えるし、直感的な物であるだろうか。
しかし、そんな言葉を簡単に信じることは出来ない。
当たり前だ。そうして人を簡単に信じようとした結果が前世の末路なのだ。
初対面で明らかに怪しい人物の言葉の重さは一枚の紙よりも軽く、薄く、信じがたい。
――他人の言葉も善意も簡単に信じてはならないのだ。
「……」
「そういえばキミは臆病で疑り深かったか。最近の生活で随分と弛んでいるのかと。特に乃木園子と結城友奈との生活で随分と腑抜けになったと思ったが。……ああ、そういえば、彼女たちはキミよりも非常に適正値が高かったね」
「……?」
「キミさ、異世界から来たんだっけ? なら今の世界の現状に疑問を抱いたこともあるだろう。例えばインフラ関係。電気や水やガス、鉄道。そういったものがこの程度の人口で、300年前と全く同等の質を保ちつつ、今日まで現存出来ることを不思議に思ったことは?」
「……」
確かに疑問に思わなかった事はないが。だが、それらは神という存在で説明が可能だ。
神樹様が四国内だけでもなんとかやっていけるように調整をしている。神樹の恵みによって人々は生きる事が出来る。だから今日も、神樹様に感謝と祈りを込めて拝。
この世界の教育には、全ては神樹様のおかげであるという考えが根本に植え付けられている。
その考えに疑いを抱こうとする人は基本的にいないのだろう。
「そのとおりだとも。人類が何の進歩もせず、ウイルスなんぞが本当に実在しているか分からない四国の外になぜ誰も行かないのか。どんなウイルスでも300年もあれば多少はマシになる。かつての核兵器ですら復興には100年も掛からなかった」
その瞬間の言葉に小さな棘のような違和感を持つ。
――まるで知っているような言い方だと、実感の籠った言葉に眉を顰める。
「そして神樹崇拝により生まれた教育の成果。四国を守る神樹様の教えは、――ウイルスが世界に蔓延しているから四国の外には出ないように。それに人々は盲目的に従うばかり。……人はこれを『思考停止』と呼ぶけどね。誰もが心のどこかで神樹を信じて依存している」
「―――――」
「キミは少し前までこの世界の状況について強い関心を示していた。魔法や剣がなくても、この世界には何か大きな秘密があると。――そう、“ある”と言っておこうか。それを見させないために神樹は人を使い、キミを真相から遠ざけ関心を向けさせないようにした。神樹にとってキミは随分と異端の存在なんだ。世界にあってはならないバグのような存在」
クツクツと影は笑い、靄の掛かった黒色の両手を上げる。
黒い手は上から落ちてくる桜の花を握り、漆黒に塗りつぶしていく。
「本題に入ろうか。キミは人生に退屈を感じ始めている。退屈という名の死が著しくキミに追いつき、キミの魂に修正を掛けようとしている。そんな物は嫌だろう? キミも外がどうなっているか。気になってはいただろう? 真実が何なのか」
「…………」
図星だった。
この平和な生活は好きだが、少しだけ刺激が足りなく思う。
明らかに何か秘密がある世界の謎を、俺は何故だか解き明かしたかった。
「嘘はこの世界では通じない。キミの心はボクにとってはこの桜の花と一緒だ」
「……ッ!」
――ここはどこだ。
その疑問に影は、初代は静かに告げる。
「ここは、指輪の中の世界。キミがこの世界で見た光景をもとに、再構築された心象世界のような場所。肉体はただ眠りにつき、魂だけがこの世界に招待される。ボクの上客として。そして後継者としてね。我が半身」
指輪の中に広がる常闇の世界。
神が樹木として集合・顕現しているなら、そういうこともあるのだろう。
一先ず湧き上がる疑問も、あり得ないと叫ぶ感情も、冷静な思考が受け流していく。
「そうだね」
だけど、後継者というものは何なのかと疑問に思う。
目の前の自称勇者が本当に俺の先祖である証拠は文字通り見ることは出来ない。背景の暗闇に同化でもしているような黒い影の存在は、肩らしき部分を竦める。
「後継者というのは、さっきも言ったが、ボクの代わりにしてもらいたいことがある。ただそれも一度外の世界を見てもらわないと厳しいだろうね。そのための用意もしている。そしてボクがキミの先祖という証拠はない。指輪と血くらいしか残ってはいないからね」
思わず口端を吊り上げる。普通は、証拠がなければ信じられない。
もちろん当然だが『信じる』という事は、仮に証拠があってもする事はないのだが。
そう思う俺の考えは目の前の少女にとって予想済みだったのか、初代は与太話を始めた。
「加賀家の掟の一つとして当主および次期後継者への指輪の着用を義務付けたのは、このボクだ。この掟は今も有効で代々受け継がれてきたんだ」
「――――」
「証拠にはなりえないが、一つ面白い話をしよう。――例えば君の父親である先代、宗一朗も一度だけここに来たことがある。結局一度きりだったし、記憶も消したが。だが、次の後継者が見つかるまで、ボクはある程度だがあの男を見てきた。その生き様や痴態を」
「……」
「加賀家はそれなりに女好きの家系なんだ。特に彼はね。惚れた女が既にいるのに、その影でほいほいと浮気をしていたんだ。名家の生まれもあって、誘えば靡くような女もいた。若い頃は本気でプレイボーイだったよ、彼は。それでも綾香は許していたんだ。最後に私の所に帰ってくるなら許すと……。だけど」
「……?」
そう言葉を区切る初代は、小さく呼吸をして口を開く。
「だけど、宗一朗は浮気相手に一度本気で恋をしたんだ。僕はキミのことしか見られない。愛していますってね。そちらの女の方に靡きかけたんだ。それを後で知った婚約者は何をしたと思う?」
仮にその話が本当ならばとわずかに俺は考える。
普通ならば、そういう専門の相談所に相談するといった手段をとる。
もしくは普通に、宗一朗に対して浮気したという事で訴える事も出来るだろう。
そう思うと、影は小さく頭を振る。
「婚約者であった綾香の家もこの世界ではそれなりの名家でね。金も伝手もある。それらを使って宗一朗を拷問部屋に押し込んでしばらくの間はずっと……。地獄の天国って呼ぶべきだろうかな。あれはボクが見てきた中でも恐ろしいものだった。愛が人を変えるって本当だったんだね」
地獄の天国。
その単語を口に、思念でこちらに放った瞬間、顔を顰めたように見えた。
実際は変わらず顔の造形すら読み取れない、漆黒に塗りつぶされた影の存在だが。
ともかくも興味が湧いたので、そのまま耳を傾ける。
「あれは全然いい方さ。酒池肉林は男の夢だろうけど、時間のある限り絞られ続けるというのはただの拷問だ。寝ても覚めても彼女の肌が、体温が、体液が、匂いが、二度と拭えないくらいに刷り込まれ続けた。あれで宗一朗の寿命もだいぶ削れたろうし、噂も四国中に流されて浮気相手も消えた。全てが終わった時は酷いものだったよ、当時は完全に廃人だった」
「――――」
絶句するしかなかった。
綾香が、あの和風美人がそんな変貌を遂げるなど思えなかった。
いや、その片鱗はあったか。宗一朗は自業自得だろうと思いながら身体を抱きしめる。
「覚えておくといい。女というのは時に『愛』という物のためになら、自分の信念も性質も何もかも捨てて豹変するものさ。あれ以来、プレイボーイは死んでその時に出来たのがキミさ」
この世には知らなくて良い話がある。今のがそうだろう。
仮に目の前の情報が本当ならば、あの父親の弱みを知った事になるが。ともかく影の会話力というべきか、この数分で宗一朗の株が下がり始めたのが分かった。
口から言葉は出ないが、それでも考えている事は伝わったのだろう。
「ボクらの家系は大体そういう人で構成されているんだ。ともあれ、加賀家とその周囲の情報は覚えている。多少は信用できるかな?」
ただ今はまだ信憑性に欠け、真偽は確かではない。
そして、やはり信用できるか云々の話では頷ける事はまずないだろう。
それはそれ、そしてこれはこれなのだ。本当ならば使えそうだと感謝の念は送る。
「いいのかな。そんな態度で。言っただろう? このままでは退屈に殺されてしまうんだろうね。そうしたら、きっとキミは後悔するだろうね。月の誓いは消えるだろうし、星の願いは叶わないだろう。それに乃木というならきっと今頃……あぁ、もう遅いかな?」
「――!」
なんでそこで園子が出てくるんだ。
唐突に嘲るような分かりやすい挑発に、それでも思わず目を細める。
そうして何となくだが、俺の反応に対して小さく含み笑いをしているのが分かった。
「それは、それ……なんだろう?」
「――――」
――ああ、なんとなく分かった。
顔は見えないけど、お前は嫌な女だな。それだけは確信を抱く。
回りくどい口調の目の前の存在に対して、隠す事なく俺は悪態を吐く。思念だが。
「それは嬉しいな。傲慢にも誰もかれも救おうと必死になって、誰かのために無様に頑張るような勇者よりも、一人のためだけの勇者になって他の人を残酷に傷つける、人間らしく憎らしい誰かの方がボクは好きだね」
「……」
――クツクツ、クツクツと愉快気に嗤っている音が耳に響く。
その笑い声を聞くと実に憎たらしく、影に包まれた顔を知りたくなる。
「ボクの顔が気になるのかい? 自分の先祖なのに。困ったものだね」
「――――」
どこまでも掌で転がされている感は否めない。
しかし停滞感も拭えない。だから俺は要求事項を目線で問いかける。
「素直な子は好きだよ。……いいかい? 近いうちに宗一朗から携帯端末が届く。それを受け取り次第、キミは壁の外に向かってほしい。それで世界の真実が判る」
「――――」
「一度指輪を着用した人間の動向は、指輪から離れても多少は分かるものなのさ。言っておくがボクは愉快犯という訳じゃない。ボクはね、笑わないとやっていけないんだ。……そして、友好の記念にボクからキミへのプレゼントも用意している」
プレゼントと言いながら、目の前の存在は何も持っていない。
周囲を見渡しても巨大な桜の木があるだけ。確かに綺麗だがそれどころではない。
傲慢に上から目線で語り、先祖を名乗る存在は続けざまに語りながら、
「あの指輪にキミの血を垂らすんだ。それだけであとは分かる」
「――?」
「そうだ、せっかくだからクッキーを食べていくといい。この世界に加賀家の霊体や外部より招待された者は、必ず食べていく伝統があるんだよ」
そう言って、影は虚空からクッキーを入れた皿を取り出した。
白い小皿にある焼き菓子は出来立てなのか、白い湯気をわずかに空に昇らせる。
伝統と言っているが、手作り感を感じる焼き菓子は平時ならば頂いただろうか。
「ボクはこの夜の会の締めには、大抵飲み物とこのクッキーを客人に勧めるんだ。今日は残念だが、コーヒーを切らしていてね」
そう言って俺に勧めてくるが、流石に今は食欲が湧かない。
そもそも意識に食欲があるのだろうか。
そんな俺の反応を初代は良しとせず、真偽の不明な言葉を告げてくる。
「これを食べないと、ここから出られないと言ったら?」
「――――」
そのクッキーを見てみるが、別におかしなクッキーには見えない。
香ばしい香りのする、所々に黒い塊があるのはチョコだろうか。
そっと1枚頂くことにする。サクッとした食感。
何枚でも食べたくなる。そんな舌ざわりだ。
ふと影の方を見てみる。
黒く覆われているが、この数時間の夜会でなんとなく分かった。
無言で食べている俺を、嘲笑ではないが小さく含み笑いしていると感じた。
何か毒でも入れたのだろうか。
「――?」
そう聞くと、クツクツと笑って奴は。
いや、彼女の血紅色に輝く瞳らしき部分が靄の中で見えた。
「そのクッキー、おいしいかい?」
「……」
「そのクッキーね。ボクの体毛とか血が入っているって言ったらどうする?」
「――ッ!?」
吐きたくなったが、胃は既に受け入れてしまった。
信用を口にする者が言うべき台詞ではない発言に思わず唖然とする。
「ちょっとした冗談だよ。1割くらい。油断大敵だよ、一つ学べて良かったね」
そう語っていると唐突に目の前の影が薄れだす。
眼球が熱を帯び、ゆっくりと目の前の光景の細部が明らかになっていく。
「そのクッキーでボクとキミの因子を結んだんだ。これで贈り物も正しく機能する」
「――?」
「さぁ、今日の夜会はこれにて閉幕。ショーは終わりだよ」
クツクツと笑う少女。
その黒影が薄れだし、正しき姿を映し出す。
紅と金粉が舞う黒衣。赤い手袋。形の良い眉に閉じられた瞼。
端正な顔に、肩までは届かない程度のややパーマのかかった濡羽色の髪が揺れる。
「因子の融合でようやく正しき形になった。これでボクにもキミが正しく認識できる」
「……ぁ、っ」
そして、血紅色の瞳が初めて俺の視線と交わる。
クツクツと笑い、こちらを見る彼女は紛れもなく美少女だった。
俺の思考を読み取ったのか、それとも見つめ過ぎたのか、初代は肩を竦める。
「照れるじゃないか。お代わりならあるが……もうこんな時間か。もうすぐ朝だ。キミの選択が導く結果の先でまた会おうじゃないか。我が半身」
「どう、やって?」
「それも次の機会にだね。さぁ、次はキミの番だ。ボクを楽しませてくれ」
だんだんと視界が白くなり始める。
掠れた声でようやく成り立つ普通の会話は、既に終わりへと向かっていた。
「せっかく因子の調整までしたんだ。頑張ってくれ」
「頑張れって……」
「キミ風に言うなら、ショータイムだ」
クツクツクツクツと、初代を名乗るその少女。
その姿が、世界が歪み、消えていく感覚に襲われる中で、
「名前! お前の名前を聞いてなかったんだけど!!」
明らかに偽名と判る『初代』ではなく正式な名前を聞こうと尋ねたが答えない。
最後に微かな笑い声の響く中、黒く視界を覆う意識の中で少女は最後に、
「いずれ分かる」
そう言った次の瞬間に、俺は夢から醒めた。