声が出なかった。
「――――」
その場所を一言で言うなら、『紅の世界』だった。
ソコに長時間いれば、心が引き裂かれる。肉体よりも心が先に壊れてしまう。
見るものが見れば、おそらくその事実に心が耐えられない。そういう場所だった。
この時、なぜだか俺は太陽のイメージをした。
小学校の理科の授業で先生が太陽の画像を映写機でスクリーンに映したのを覚えている。
太陽の表面温度は約6000度。黒点は約2000度と周りよりも低いため黒く見えるらしい。
その中で、プロミネンスという紅炎がある。
皆既日食の際に、月に隠された太陽の縁から立ち昇る赤い炎のように見えることから名づけられた。太陽の表面を、紅炎が至る所で燃え盛る。そんなイメージをした。
「なんだ……ここは、一体……」
至る所で火炎が波しぶきを立て、地を這うねっとりとした紅の波が地面を舐める。
否。そこに地面と呼べるものはなく、ただの灼熱とした炎の海を思わせる何かだ。
熱波の海というべきだろうか。立っているだけで四方八方から灼熱の波が押し寄せる。
「日本は……いや、そもそも海はどこだ?」
周りを見渡せど、あたりは紅色の炎が世界を彩っている。
他の色はまるで見られない。他の存在を許さないように紅蓮の色が塗りつぶす。
いや、そもそも俺が見渡す限り何も無かった。
動物も消え、植物も消え、人もなく、鳥も消え、花も消え、建物も消え、海も無い。
下手をすると、世界を作る大事な要素がゴッソリとなくなったような。
「―――ぁ」
ここはまるで別の世界のようだった。虚構の世界であった。
ここには何もない。俺が先ほどまでいた世界とはその様相を大きく変えた。
明確なる死と絶望と紅蓮の灼熱で彩色された世界。それこそが真実だった。
あたりを見回しても、そこにあるのは死だけだった。それしかない。
死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が、死が――。
死が当たり前の世界。
惨憺たる世界。生きることを許さず、死のみが救いとなり、死が呑気に闊歩している。
理不尽と不条理を体現した地獄と呼ぶべき世界が、当たり前のようにそこにあった。
希望と呼ぶべきものはなく――、絶望がそこにある。
救いと言えるものはなく――、生が淘汰される世界。
――地獄が、俺の眼前に広がっていた。
海なんてものはない――、死に至る紅の炎しかない。
地面なんてものはない――、死を呼ぶ紅の炎しかない。
空なんてものは――、いや……星は見えた。空は紅だが、それでも白い星が見えた。
「――――」
このままいれば正気を失いそうになる心を、
狂気に喉を掻き毟りたくなるような不安を必死に押し留める。
後ろを振り返れば、先ほど通ってきた樹木の壁と結界がそこにはあった。
「――あぁ」
なぜかその事実に俺は安堵する。
だって、今戻れば、香川の町がある。俺の新しい地元。加賀亮之佑という少年が生きた町。
実家があって、家があって、桜は次の春を待ち、
海は今日も波を立て青々と美しく輝き、地面も雄雄しくその存在感を主張する。
宗一朗や綾香、一世。そして、友奈も園子もあの場所にいるのが分かったから。
「―――っ」
だが手の震えは止まらない。孤独がジワリと心に侵食し始める。
今一度、俺は眼前に広がる紅の世界を見つめる。
何かないのか。そもそもウイルスとは何だったのか……。
「――――」
いや、もう分かっている。あれは嘘なのだ。
おそらく裏の組織、大赦による出鱈目なのだ。別にそれを責めたりはしない。
周りの世界がこんな地獄であると分かったら、民衆がどういった反応をするか。
予想がつかないわけがなく、考えるだけでも恐ろしい。
「―――」
真実を受け入れる者。真実を偽りだと批判する者。暴動を起こす者。それに乗じて暴行を働く者。
秩序は消え、暴力が蔓延る理不尽な世界。
香川、いや四国という神樹による箱庭にいることを知った人類は、
きっと、共食いをする虫や動物を同じ籠に閉じ込めたらどうなるかが明白な様に。
他人に責任を押し付け、自分では何もせず、ただ醜悪な暴言を吐き散らし、誰かの救いを待つ。
神樹の管理する世界は、居心地のよい世界は、そうなればきっと壊れるだろう。
信仰に疑いが生じれば、結界は揺らぐ。
そうすればきっと、いや間違いなくこの炎が入ってくるだろう。
結界が消えれば四国内も、何もかもが燃やされ、跡形もなく消え去るのだろう。
「……ぅっ…………ぐぉえ」
嘔吐感に逆らえず、胃の中のモノを吐き出す。
こんな時でも胃はその機能を発揮し消化を完了したのか、
そうして吐き出したのは、辛い胃液と、莫大な不安だった。
――どうして、こんなところに来てしまったのだろうか。
「―――っ、なに、を」
そんなことをこの場に来て今更思ったところで、もう遅いというのに。
唐突に俺は思った。思ってしまった。
知ってしまった事実。こんなもの、俺は知らなければ良かった。
知らないで後悔するよりも、知って後悔することの方が辛かった。
もしも過去に戻れるなら、好奇心なんかでこの景色を見ようとする自分を止めただろう。
心臓が零れ落ちそうな程に高鳴りを続け、根を踏む足は気がつけば崩れ落ちるほど頼りない。
「――大丈夫だ。大丈夫、大丈夫、大丈夫だから……」
そうだ。大丈夫だ。
必死で根拠なき安心を自身に求める。大丈夫だ。
肉体に忍び寄る寒気。吐き気と頭痛が止まらない。心臓が煩い。大丈夫だ。
こんなにも暑苦しいのに、体を芯まで凍らす『死』が明確に近づいてくるのを直感した。
「…………」
戻ろう。
今からでも遅くはない。大丈夫だ。
自分にそう言い聞かせる。戻れ、そして忘れろと。
そうだ、戻ろう。戻るんだ。引き返そう、今すぐに。
今から家に帰ろう。そして温かい風呂に入って、温かいご飯を作って、布団に入って眠る。
戯れに初代と世間話でもしよう。そうして朝を迎えて、宗一朗を浮気の件で揶揄って。
友奈の家に行って、友奈のご両親にいつもの朝の挨拶をしよう。
そして、いつものように友奈を起こしに行こう。
ベッドで涎を垂らして幸せそうに寝ている彼女のアホ面を拝みながら、肉体をちょっと弄ぶ。
くすぐったり、耳元で気障な言葉を囁いてもいい。満足したら彼女を起こして学校へ行こう。
授業を受けて、給食を食べて、馬鹿な男たちと馬鹿な話をしよう。
放課後は、友奈と他愛もない話をしながら家に帰ろう。
そして、そして、そして、そして、そして、そして…………。
「帰らないと」
やることは決まった。やるべきことを思い出した。
この事は忘れよう。初代がなんと言おうが知ったことじゃない。
帰って、眠って……。
「そういえば、あの時のアイス、まだ買ってなかったな」
――クツクツ。
どこからか笑い声が聞こえた。俺の声だった。
生まれたての子鹿の様にみっとも無く震えながら、俺は結界に向かう。
なぜか笑えた。
暑いな。もう秋だけどアイスでも買おうか。
そう思いながら、ふと空を見上げる。俺はその赤黒い世界の空模様を視界に収めてしまい、
「――? ――ぇ、あっ―――」
どうやら、俺の選択の積み重ねが、俺の人生を形作るように。
無限の選択から導かれた運命は、俺を逃がす気など微塵もなかったようだ。
それは――、
---
天の川、あるいは天の河というものをご存知だろうか。
当然知っているだろう。夏と冬。日本には夏と冬に南北で頭を超える位置に来る。
いつだったかの夜。園子と過ごした夜に初めて見た感動は今でも心に残っている。
『七夕伝説』というのは、日本人なら誰だって知っているだろう。
俺の前世でも、亮之佑としても、七夕の日には、7月7日にやる恒例行事は一緒だった。
織女星と牽牛星を隔てて会えなくしている川が天の川だが。
この世界の天の川の端から、先程からその先端がこちらに向かってくるのは気のせいか。
「は?」
星が動くわけがない。だが、ここは紛れもない現実だ。
初代のいる指輪の世界ではない。
流星は白い光の尾を引いて、降り注いだ。
綺麗だな――、なんて思う暇はなかった。
ソレは明らかに、明確な何かを持って、俺に向かって降り注いだ。
ソレを認識した瞬間。
俺の脳内に知らない情報が入り込んできた。
星屑
全体的にソレは、星屑は白かった。
小麦粉を水に溶かし、混ぜ合わせうどんを作る工程で、
悪戯で千切ったりした残りのカス。そんな存在。
醜悪な口周りは赤く、歯医者に通う人なら羨ましがるだろう白い歯。
きっとあれで人を捕食するのだろう。人肉はおいしいのだろうか。
体長は、縦2~2.5メートルというところか。横幅は1メートル強。
その群れが、こちらに降り注いだ。
「ガッ――、ゴッ、あがっ!!」
ぼんやりしていれば、当然そうなる。
質量がいともたやすく俺の肉体を吹き飛ばした。
首がへし折れて、頭が吹き飛ぶんじゃないか。そんな衝撃が俺を貫いた。
意識が遠のきそうになる。出口から、結界から遠のく。遠のいてしまう。
「あがっ、ああぁぁ!!」
三半規管が狂い、呼吸困難に陥る。
滅茶苦茶に吹き飛ばされ前後不覚に陥るが、そのおかげで距離を保てる。
死んだかと思ったが、衝撃の瞬間、一瞬だが俺と星屑の間にバリアが発生したのを見た。
「―――!!」
肉体が吹き飛ぶのと同時に、少しだけ身体の寒さも遠のいた。
目を見開く。一瞬だけ、苛立ちが募る。
それは俺を吹き飛ばした星屑に対してか、はたまたゴムボールのように吹き飛ぶ俺にか。
どちらでもいい。
苛立ちを伴う怒りが一瞬だけ恐怖を上回り、意識的に腹式呼吸を行う。
呼吸が体を戦闘用に置き換える。それらは、全て無意識下で行われた。
状況は劣勢。
周りは敵だらけ。助けはない。
吹き飛ばされて、虚空を無様に舞った時。
空を見上げた。
そして気がついた。
「そうか―――」
星なんてものは、最初からなかった。星すらこの世界にはない。
天に浮かぶ全ては星屑で、その光景を見て、こんなフレーズが思い浮かぶ。
「天の光は、すべて敵、か」
――クツクツ。
誰かが笑っていた。俺だった。
あまりにもくだらなくて、あまりにも無様で、なぜだか無性に笑えた。
---
状況は変わらない。
突撃を躱して、弾き飛ばされる。
致命傷に至るものはなぜかバリアが守ってくれるが、衝撃は俺の内臓を痛めつける。
体が熱を帯びる。体が痛いと言うか、痛くない場所がよく分からない。
適当に遊ばれているのか、致命傷にならない限りバリアが起動しないらしい。
一定のパワーの質量が全方位から襲い掛かる。どこに回避してもだめだ。
回避した先にいる別の星屑に体当たりを喰らう。
もう何回タックルされたか。
「づっ……、その口は飾りかよ、なあ……おい」
軽口は叩けるが、星屑に挑発に乗るような知能はないようだ。
面白くない。それが面白くて、クツクツ笑ってしまう。
だが、こちらはピンチだ。
可及的速やかに脱出口に向かわなければ。
このままピンポン玉のように弾かれて、地面のないところに落ちたら確実に死ぬ。
「――だ」
それはいやだ。
死にたくない。だが、今こいつらに背を向け逃げても殺される。
死んだら約束を果たせない。友奈にも、園子にも二度と会えなくなる。
それだけは絶対に嫌だった。意識せず俺は両手を握り締めていた。
「―――武器だ!!」
そうだ、武器が要る。素手では勝てない。ならば奴等を倒すなら武器が要る。強い武器が。
友奈のように、徒手拳なら己の拳でなぎ払うことができるだろう。
だが、俺の拳にそんなスキルは備わっていない。
加賀家の近接格闘術は、カウンターと奇襲がメイン。対人戦で真価を発揮する。
ある程度、星屑の猛攻を受け流すことができるぐらいだ。
セクハラ拳は、友奈ぐらいにしか通用しない。大道芸は、人を楽しませるものでしかない。
「はっ」
乾いた笑みが出る。それは決して諦めではない。もっと醜い何か。
恐怖や、焦燥、絶望、そして、生への執念が混じった笑いだった。
自分の顔が今笑っているのか泣いているのか、どんな表情かは分からなかったが、
それでもきっと、思考に多少の余裕が出てきたのだろうと思い直す。
――なぁ、聞いているか、初代。
俺は自身に、自身の内に潜む少女に呼びかける。頼む、応答してくれ。
強い武器が要る。出してくれ。
必殺スキル:人頼み
青狸ではないが、これを直接くれたのだ。
そもそも、これが勇者服だと言うなら武器ぐらいあるだろ?
ビーム系がいいんだけど。戦艦の主砲のようなライフルとか、ビームの出るサーベルとか。
聞いてる? 初代? 初代様? しょーちゃん?
返事がない。屍のようだ。応答してマジで。後継者のピンチだよ!
星屑にはじき飛ばされ、死に向かうワルツを踊る俺の魂の叫びを聞いてくれたのか、
手袋の中にある指輪が僅かにだが蒼い色彩を放ち、同時に脳裏に囁き声が響く。
『――で、なんだい?』
と、初代が応答してくれた。
この瞬間ほど、これほどこいつに感謝したことはないだろう。
『初代様、だよ。ボクが屍だって? 可及的速やかに謝罪を求むのだが』
今はそれどころじゃないんだ。助けてくれ。あとでいくらでも謝るから。
『まぁ、説明というか、武器って自然と出るものだとボクも思っていたからね。
今回は言い合いはなしだ』
助かる。ありがとう。
『いいかい? 魂の底から念じるんだ。武器よ、こいっ!! ってね』
クツクツとした笑い声が聞こえてくる。
星屑の攻撃を回避しながら尋ねる。……それだけか?
『武器は人それぞれだからね。太刀だったり、大鎌だったり、人それぞれさ。ボクらの場合はどうなるんだろうね。なんせ規格外だからね』
クツクツとした笑いに、多少苛立ちが募る。
状況が分かってないのかお前。このまま行けば、俺たちは焼け死ぬか圧死だぞ!
『言っただろう? 準備は整っている。
キミに闘う、反逆の意思がある限り、勇者因子と神樹が応えてくれるはずだ』
……はず?
『人の揚げ足を取らないで、手をかざして……そう。ほら』
もう痛みがない所がない。体の中が膨張でもしたのだろうか。
辛うじて星屑の攻撃を回避するが、体の表面と中身が悲鳴を上げている。
そんな時、星屑の群れが一斉に飛び立つ。四方八方へ散らばる。
唐突な星屑の行動の真意を、しばらく観察してから気が付く。
奴等、俺を質量で押しつぶす気だ。押し競饅頭の要領で圧死させてくる。
致命傷をバリアが防ぐといっても、気絶したら終わりだ。
だが、降り注ぐまでにおよそ3秒分の時間は稼げた。
フラつく足に熱を送る。両手に全神経を注ぎ、ひたすらに願う。
「――強い武器を」
歯を食いしばる。
強く願う。
「強い武器が要る――――!!」
目の前の死を睨み付ける。奴等の笑う顔を。
醜悪で見るに耐えないあの顔を。
ひとつ残らず切り裂いて、穴だらけにして、グチャグチャにして消し去りたい。
そして、勝ちたい。
目指すは勝利。
導くものは、ただひとつの絶対的な勝利だ。
敗北ではなく、後退ではなく、己を守り、自らの活路を切り開く。
俺は生きたい。生きて、もう一度逢いたいから。その温もりを確かめたいから。
だから手をかざす。
「――頼む。来てくれ。いや、来いっ―――!!」
俺の願いを聞き入れるように、手に光が集まる。闇夜の光、微かに金粉が奔る。
光が俺の掌に収束し、星屑が、絶望が、虚空から地面に降り注ぎ、
――白い絶望を、昏い閃光が水平に切り裂き、昏い弾丸が風穴を開けた。
---
「………………」
一人地獄に立っていたのは、俺だった。俺だけだった。
右手を見ると、そこには剣と呼ぶにはやや短く、ナイフと呼ぶには長い剣があった。
透き通るような昏の刀身は光を弾かず、吸収するかのようだ。
刀身には波紋が過り、握り部分には赤い布が巻かれているが解れかかっている。
鍔のある黒色のショートソード、という印象だ。
「切れ味は抜群なようだが……」
左手にあるのは銃。よくゲームとかで見るハンドガンだ。
ずっしりとした重みと光沢が本物であることの証明だった。
どさくさに紛れて撃ってみたが、偶然にしても当たったものだと思う。
運が良かったのだろう。
残念だが銃は扱えないので、いつの間にかあった腰のホルスターに収納する。
一応初代に確かめる。なぜか話せることに疑問を抱かず。
「これ、また消えたりしないのか?」
『武器は任意で出現させられたはずだよ。必要なら消すこともできるはずさ。
それよりも、道は開けた。脱出しないのかい?』
「あ、ああ。そうだったな」
意地の悪いクツクツ笑う声に導かれて、慌てて結界に向かう。
なぜだろう。敵を撃破したからか、余裕が生まれた。
俺は謎の全能感に包まれていた。俺は無敵だ……。
なんて、ちょっと調子にのり始めていた。これは駄目な癖だ、直さないとな。
いつの間にか甘ったれ始めていたのかもしれない。
油断するのは友奈に抱きついて、お触りしてからにしよう。
そして俺は可及的速やかに、後ろから再び白い流星が降り注ぐ前に結界に向かう。
だが、ふざけた思考と同様に不敵に笑い始める口角も全能感も、結界を出ると同時に収まった。
それはなぜか。
星屑が亮之佑を逃がしても、運命は彼を逃がさなかったからだ。
「――ぇ?」
結界を抜けた先に、先ほどまでいたはずの町は無かった。