「第二十話 こうして私は生を得た」
一体、何を言っているのだろう。
「……ぇ」
「ですから、貴方は――」
医者に言われたその事実に、私は呆然とした。
何を言っているのか、分かりたくなかった。
私の冷たくなった手を母親が握ってくれたが、それすら意識の蚊帳の外だった。
そんな私をどん底に叩き落そうとでも言うのだろうか、医者はもう一度残酷な事実を口にした。
---
目が覚めた時、私は記憶を無くしていた。
気が付いたら神世紀298年の10月だった。
およそ2年分の記憶が忘却の彼方に飛び、そして二度と戻ってこないらしい。
医師の言うことには、私は交通事故に遭い、
結果、記憶と両足の機能を失ってしまった……らしい。
「………………」
正直に言って意味が分からなかった。
まるで昔読んだ浦島太郎の絵本のような話だなと、他人事のように思った。
そんな御伽噺のような話。
だが現実は、私の弛んだ思考を叩いた。
「―――――」
無言で視線を下に移す。
いくら立ち上がろうと思っても、歩こうと思っても。
私の脚が動かない。
「…………っ」
何度も、何度も、何度も。
動いてと、お願いだから動いてと、そう願っても。両手で脚を叩いても反応はない。
現実には、使えなくなった2本の脚だけがそこにあった。
操り人形の糸が突然プッツリと切れたように。
ブリキの脚のように、ただ2本のソレが接着剤で胴体にくっついているだけのようだった。
「…………ぅっ…………っ……」
私にとって脚が動くというのは、数日前まで当たり前であった現実だ。
友達と登下校し、寄り道をする。
放課後は友達の家に行き、遊ぶ。
両親と博物館に行き戦艦の模型を見たり、甘いアイスを食べたり、神社に行く。
学校では体育の授業で級友たちと走り回る。
そんな記憶すら今は遠い。
「――――――ぁ、ぁぁっ!!」
それが、それこそが。
私にとっての現実だったのに。
視界が歪む。
必死に思い出そうとする。数日前に何があったのか。
誰と何をして、私はどうしたのか。いつ、どこで、どうしてどうなったのか。
分からない、分からない、分からない、何が起きたか分からない、分からない、苦しい、分からない、分からない、意味が分からない、分からない、気持ち悪い、分からない、どうしたらいいか分からない、分からない、思い出せない、思い出したい、でもどうすればいいかも、分からない。
「あ―――――――、あぁ―――――――」
事実という、理解が。
現実という、認識が。
緩やかに、緩慢に、じっくり舐るように、じわじわと私に思い知らせる。
“歩けなくなった”と。
“2年の記憶を無くした”と。
「―――――――ああぁ」
いや、そもそもこれからどうやって過ごせばいい?
この足だとずっと車椅子生活なのは間違いない。
どうしたらいいのか分からない。もう二度と歩けないのか? 走れないのか?
呼吸が苦しい。
必死で胸を押さえる。
それと同時に気が付く。自分の身体も知らない内に、一回り分成長していたことに。
それが月日が流れたことを痛感させる。
それでも理解を拒絶する。拒絶をしたかった。
訳が分からなかった。
自分という存在が、認識が進むと共に崩れ行くのを感じた。
残ったものは、空っぽだった。何もなかった。
「――! ああ、あああああぁぁぁぁぁぁっ――――!!!」
叫ぶ。
髪を掻きむしってしまう。知らず知らずのうちに悲鳴を上げる。
どうしてこんなことになったのか。その問いに応えるものはいない。
助けはなく、救いの手はない。
苦しい。
誰か。
誰でもいい。
「誰か、私を助けてよ……」
口から出るあまりにも身勝手な言葉。
途切れ途切れの言葉は意味をなさず、嗚咽が混じって掠れ、聞くに堪えない声だったろう。
「………………」
肺が苦しい。
情けなさと自分のみっともなさが手に取るように分かって。
息継ぎも会話も成り立たず、涙ばかりがこぼれていく。
――そんなに都合よく、私を助ける人などいなかった。
---
それから数ヶ月が経過した。
一時期は不安定だった精神も少しはマシになり、
車椅子の生活も否応なしに慣れることになった。
「―――――」
家族に支えられて、ようやく少しずつ前を向けるようになったが、
心の中の喪失感は変わらない。
2年。
口にすれば簡単だったが、無くした時間は随分と長かったらしい。
病院でリハビリ生活を過ごす間。
私の下には家族が来てくれた。数日おきに必ず来る。
両親だって仕事も忙しいだろうに。
「ごめんなさい」
両親が帰る度に、その背中が部屋から立ち去った後、私はいつもそう呟く。
家族に申し訳なくて、こんな事故に遭遇してしまった自分が情けなくて、
不自由な自分という存在が何よりも迷惑に感じられた。
でもそのことを彼らに謝るのも変で、だから直接には言えなかった。
「ごめんなさい」
沈んでいく戦艦に取り残された乗組員達はこんな気持ちだったのだろうかと、少し夢心地になる。
どうあがいてもどうにもならない感覚。
舵は言うことを聞かず、暗い海に沈むのを待つばかり。
「ふふっ」
なぜか面白くもないのに笑う。
思考が暗いことばかり考えてしまう。
最近はずっとこんな感じだ。現実と一瞬の空想。両方を行き来する。
そうして心の均衡を私は保っていた。
「………………」
私の病室には、家族以外に誰も、友達も来なかった。
いや、そもそも私に友達なんていたのだろうか。
思い出せない。だが、現に誰も来ないということはそういうことなのだろう。
寂しい人生だったのかな……と自嘲し、
なぜかまた、目から頬を伝って涙がこぼれた。
「このリボン……」
ずっとこの調子。情緒不安気味なのだと自分でも分かっているが、流れるものが止められない。
涙を拭っていると、ふと私は肩から垂れ流した黒い髪に目を向けた。
密かな自慢でもある、艶のある黒い髪をまとめる蒼いリボンに触れる。
このリボンは、どうやら私が事故の時に持っていたという品……らしい。
いっそのこと捨ててしまおうかなんて思ったけど、どうしてもこれを捨てることができなかった。
理由は分からない。なんとなくだ。
なんとなくだが、それを捨てたら本当に何かが終わってしまうと思った。
これが記憶の無い私と誰かを繋ぐ唯一の証だとしたら……。
そう期待したのかもしれない。
---
リハビリを通じて、脚の機能を除いて肉体はある程度常人と同等の状態に戻れた。
そして、退院した私を待っていたのは、
住み慣れた家を離れなくてはならないという現実だけだった。
「ここを離れなくてはいけないなんて……」
今までずっとこの家で暮らしてきた。
失われた時間も含めて、この家で思い出を築いてきた。
それなのに、親の仕事の都合で離れなくてはいけなくなった。
「―――――」
これからどうなるのか分からない。
正直に言って、不安で仕方がなかった。
でも、どうしようもなかった。
私は無力で、非力で、孤独で、この過ぎ行く現状をただただ受け入れることしかできなかった。
「―――――」
また私は下を向く。
車椅子に乗る両脚。
もう一人では遠くにも行けなくなった脚。
無様にも動くことなく、みっともなく腰からぶら下がるだけの産廃物。
コレを見るたびに思い出すのだろう。
痛みはない。ただ、喪失感があるだけだった。
「―――――っ」
知らず知らずのうちに歯を食いしばる。
私はいつまで、どこまで、失くし続けるのだろうか。
そうして住み慣れた家を捨て、私は引っ越した。
---
「わぁ……。大きい―――」
新居に着いて私が見た感想は、自然と口を突いた。
高い堀のある大きな屋敷だ。
門扉をくぐって、屋敷の中に入る。
ぱっと見だけでも分かるようなバリアフリー環境が整っている。
旅館にでも間違えそうな程、以前の家とは違い非常に大きかった。
「うちって、こんなにお金もちだったの……?」
父親の年収などは聞いたことがないが、こんな家に住めるほど稼ぎが良かったのだろうか。
そんな思考に沈んでいた私を、活発な声が呼び起こした。
「こんにちはー!」
「………………」
門扉に目を向けると2人の少年少女がいた。
まず少女の方に目を向けると、活発で明るそうな少女だった。
紅というよりはピンクに寄った赤い髪の色。長さはミディアムほど。
同じく赤く、キラキラと輝く穢れを知らないような純粋で大きな瞳。
髪には桜を模した白い髪留めがつけられている。
後頭部を白い髪紐でまとめ、小さなポニーテールを形作っている。
白いシャツを纏い、その上にはピンクのパーカーを羽織り、下には青いホットパンツと朱色のニーソックスを履いている。
彼女は私に笑いかけてきた。
「もしかして、貴女がここの家に住むの?」
「え、えぇ……」
突然のことに頭が回らない。
ぼんやりと彼女を見つめると、紅椿のような唇が再び心地よい声を発した。
「じゃあ、新しいお隣さんだね!」
彼女は無邪気に喜びの声を上げる。
「あっ! 私は、結城友奈。よろしくね!」
握手に応じる。
そして彼女は、
「亮ちゃんもーーー! ほーらっ!」
「友奈さんや……これ、不法侵入じゃない?」
こちらを黙って見ていた、少年に呼びかけた。
彼は目の前の彼女とは対照的に、冷静さと穏やかな雰囲気を兼ね揃えているのが感じられた。
青いワイシャツを纏い、赤いネクタイを着けている。下は灰色のスラックスだ。
全体的に地味目であったが、それが彼の雰囲気に合っているように感じられた。
黒く、癖っけのある髪はふわふわそうに見えて、不思議と触りたい魅力に駆られた。
「………………」
「――――?」
一言も発せず、じっとこちらを見る彼の視線に、
こちらも見返す。
その視線は、決して不快なものではなく、
昏いガラスに映る視線からは、ただなんとなく旧い知人を見るような感情が見えた。
昏い瞳はあらゆる光を吸い込みそうで、それでも瞳の奥には知性が窺える。
瞬間、見つめあった。
「………………」
「…………ぅっ」
しばらく見つめ合っていると、結城友奈という少女に脇腹を突かれ彼もふと我に返ったのか、「あぁ……うん」などと言って。
私の前に屈み込み、こちらを見上げてきた。
そして、悪戯小僧のように目尻を和らげて微笑んだ。
「ようこそ、お向かいさんちのお隣さん。
俺の名前は、加賀亮之佑と言います。これからどうぞ、よろしくお願いします」
と、礼儀正しく挨拶と、こちらも握手を求めてきた。
その手を握る。
そして立ち上がった彼――――加賀亮之佑という少年と。
その隣に立つ彼女――――結城友奈という少女。
目配せをし、こちらに笑いかける彼らに、私は名前を告げた。
「東郷、美森です」
彼らの笑顔に誘導されたわけではないが、なんとなく微笑んだ。
微笑むと同時に私は思った。微笑であっても、笑えたのはいつぶりだろうかと。
「東郷さん………わぁ〜、カッコいい苗字だね!」
「あ、ありがとう」
「そうだ! 良かったら、私たちが街を案内するよ! 任せて!」
神世紀299年の3月。
桜吹雪が舞い散る中。
私は初めてその少年と、少女に出会った。
交わした彼らの掌は、とても暖かかった。
この日。
私は――――――東郷美森は、きっとこの瞬間から産声を上げたのだろう。
---
「―――――郷さん」
近くにいる誰かに呼ばれて目を覚ます。亮くんだった。
肩から暖かい体温が伝わってくる。いつの間にか眠ってしまったらしい。
「大丈夫? お眠なの?」
「――――えぇ、大丈夫よ。亮くん」
ぼんやりとする頭が覚醒する。
あぁ、思い出した。
今日は部活の帰りに、なぜか先輩とうどん大食い勝負をしたんだった。
私と亮くんが早々にリタイアする中。
私たちの屍を踏み越えて、
私たちの最後の希望、友奈ちゃんが果敢に先輩に挑んだ。
「私は、風先輩に勝つ!」
その宣言どおり、友奈ちゃんはうどん大食いに勝って。
解散後、近場の公園でお手洗いの真っ最中だ。
彼女が自分と戦っている間、私たちは公園のベンチに移動した。
一人だけベンチに座るのが嫌らしい彼は、
私が断るのを無視して、お姫様だっこでベンチに座らせた。
恥ずかしく思うのと同時に、傍若無人な行動をする亮くんを咎めると、
「俺は東郷さんと一緒にベンチに座りたかっただけなのに……」って泣きそうな顔と声を出す。
「もう……次は怒りますからね、亮くん」
「分かったよ、東郷さんや」
そう言ってニヤリと笑う彼はやはり泣き真似だったのか、不敵な笑顔を浮かべる。
彼は演技派だと私は思った。
彼のことも、友奈ちゃんと同等に同じ時を過ごす中で随分と分かってきた。
唐突にどこから出したのか、当たり前のように缶ジュースを渡される。
いつの間に買ってきたのか、亮くんも缶コーヒーのプルタブに指をかける。
「私、亮くんに奢られる理由がないのだけれども……」
「じゃあ、いつかのぼた餅のお礼ってことで」
それならいいだろ? と缶コーヒーを飲みながら視線が問いかけてくるので、
渋々受け入れる。
それなら仕方がないと、一応納得する。
「―――――」
2人して空を見上げる。
晴れ晴れとした青い空。
「――――――」
そよ風がどこからか吹く中で、ぼんやりとたなびく髪を押さえる。
あれから幾ばくかの時が流れた。
もう、5月になった。
あれから3人でよくどこかへ出かけた。道案内をされた時も一緒だった。
春休みの間、毎日毎日。
迷惑でないかと思ったが、そんなことないよ! と笑う友奈ちゃんと。
そんなこと気にしなくていいよと、ちょっとした奇術を見せてくれた亮くん。
彼らとの関係を築く中で、2人を苗字呼びしなくなったのは早かったように思う。
初めて「友奈ちゃん」って呼んだときは、本当に花が咲いたような笑みを彼女は浮かべていた。
「亮之佑くん」って呼ぼうとして「りょうにょ……」って噛んだ時は爆笑されたので睨むと、悪い悪いと笑いながら謝り、「どうせだから亮でいいよ」ってことになった。
「呼びやすいだろ?」ってからかう彼に、「そうね、亮くん」とささやかな反撃をした時の彼の顔は面白かった。
彼らとの関係は、中学校が始まっても変わらなかった。
私の車椅子を友奈ちゃんが押す。坂道の時や、彼女が不調な時は亮くんが押す。
昼ごはんを友奈ちゃんと、時々亮くんも交えて食べたりする。
放課後や休日は一緒に遊んだり、部活で一緒に働く。
そんな関係。
彼らと過ごす毎日はとても楽しかった。
初めて私がぼた餅を作り、それを彼らが食べた時の反応が凄かった。
「とーごーさんのぼた餅なら毎日食べたい!」と目を輝かせた友奈ちゃん。
「東郷さんのぼた餅なら毎日食べたい……グヘヘ」と言いながら、友奈ちゃんに怒られる亮くん。
その後、「勿論おいしかったよ、東郷さんのお菓子なら毎日食べたい」と真剣な顔で彼に言われて、頬が赤らんだ。
それからも、お手製のぼた餅をよく一緒に食べた。
他にも友奈ちゃんと押し花を作ったり、亮くんの奇術を見たりした。
まるで忍者のようだと言うと、おもむろに彼は布を被ってその場から消えた。
今も覚えている。
そんな事を考えていた時、空を見ながら亮くんが話しかけてきた。
「今日は外で過ごすにはいい気温で、うどんを食べた後だからかな。眠くもなるよな」
「えぇ……そうね。 ねぇ、亮くん。私ね……さっき少しだけ懐かしい夢を見たわ」
「――へぇ、どんな夢?」
彼の昏い瞳がこちらを見つめる。
彼が小首を傾げて聞いてくるので、私は片目を瞑り微笑んだ。
いつの間にか、自然と微笑むことができた。
「ないしょ」