変わらぬ空で、貴方に愛を   作:毒蛇

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「第三十七話 運命の分岐路 Part2」

「――――」

 

 壁際で息をつき休憩をしながら、なんとなく右手で自身の目に触れる。

 この視界にもようやく慣れ出したと思う。

 と言うよりも、もはや割り切るしかなかった。

 

 既に亮之佑と東郷以外の勇者たちは退院してしまった。

 きっと今頃は楽しい夏休みを謳歌しているのだろうと思う。

 

「……」

 

 周囲を見渡しつつ、警戒を怠らない。

 ここは羽波病院の入院棟の白い廊下の角である。

 そこに奇術師は身を潜ませ、壁と同化していた。

 

 時刻は既に21時を過ぎ、この羽波病院も消灯してから幾ばくかの時が経過した。

 暗い病院の廊下を歩く行為について、今度詳細を風に語り聞かせようと思いつつ、

 壁に背中を付けながら、屈んだ姿勢で定めていた目的地へと向かう。

 

「―――――」

 

 静かな廊下の中、進む先には非常灯の明かりと薄暗い光しかなく、視界は暗い。

 窓から僅かに降り注ぐ自然の光の中を、俺は無言で移動する。

 聞こえるのは自らの息遣いと、鼓動する心音だけだ。

 

 看護師の巡回のパターンはほぼ把握済み、個室のベッドの細工は済ませている。

 これも全て退屈……否、リハビリついでに行った情報収集と行動の成果である。

 しかし、今回は予期せぬトラブルがあった。

 

「――――、……」

 

 早く行けよ……。

 そう苛立つのは無理もない。

 先ほどから既に巡回しているはずの看護師が立ち止まったまま、動かないのだ。

 

 回り込もうにも、他のルートからそろそろ別の看護師が来る頃合いだ。

 鉢合わせになりかねない状況で、思考は冷静であり状況の打破に向け行動する。

 入院着から小さな手鏡(税込み108円)を取り出し、曲がり角の様子を見る。

 

 鏡越しに映る光景に、思わず舌打ちをしそうになった。

 新人かは不明だが、おバカな看護師は隠し持っていた携帯でメールを送っていた。

 彼氏だろうか、やけに笑顔であることに苛立つ。リア充は爆発すべきでしかない。

 

 現在地点はT字路で、目の前の通路に向かわなくてはならない。

 しかし、ちょうど通路の分岐路を向く形で看護師は携帯を見ている。

 流石に携帯に注意が向いているとは言え、目の前を通り抜けるのは無理がある。

 

「――――」

 

 悠長に待つ時間も惜しいので、ここはスタイリッシュに行く。

 ポケットからゲームセンターのコインを取り出す。

 

 なぜ持っているのか?  

 答えは簡単である。奇術師とはそういう生き物である。

 ポケットを叩くとなんとやらだ。カード、コイン、銃、聖布。なんでもござれだ。

 コインとはいえ、一応足が付く可能性も考慮するが、もうすぐ退院だし大丈夫だろう。

 

 脳内で弁解しながら靴下で壁際ギリギリまで行き、壁をノックする。

 瞬間、酷く鈍い音が静寂の暗闇の中で響く。

 唐突な音が発生したからか、携帯から目を離し、看護師は辺りを見渡す。

 

「……っ、えっ? 何……?」

 

 驚愕する彼女の手に握られる細いペンライトが唯一の明かりだ。

 小さな光源では一定の方向しか見る事は出来ず、女は恐る恐る足音を立て、動く。

 なお且つ暗闇に目が慣れず、ペンライトの明かりにしか頼らざるを得ない。

 

 愚かな看護師の鈍重な動きに対して、奇術師の動きは素早かった。

 暗闇の中で俺は、壁際から二本の指だけでコインを決めた場所へ水平に投げる。

 

 ペンライトの明かりを一枚のコインが掻い潜り、看護師の背後に落ちる。

 人間とは音に敏感な生き物だ。

 前方から何か聞こえたかと思いきや、今度は後方からチャリーンという音が聞こえる。

 当然神経は意識の有無を問わず、そちらへと向かってしまう。

 

「……ぇ、まさか。いやでも、こ、怖くない怖くない怖くない……」

 

「―――――」

 

 当然看護師は恐怖の一つも得るが、意識はそちらに向く。

 彼女がコインに気を取られた隙に、俺は気配も音も出さずに中腰で駆け抜ける。

 向かう先の通路には引き続き薄暗い光しかないが、何も問題はない。

 

 余談だが、俺は偶にこの手を使う。

 時にとある少女を探して、無茶を結構したこともある。

 その際に用いるコインが、いつからか病院間で不吉な噂を作っていたらしい。

 

 なんでも、不吉のコインを見つけると呪われるとか……。

 そんなしょうもない噂が有用であるのは、自分自身その身をもって知っている。

 だが、噂は噂だ。その後は何も問題なく目的地に到達する。

 

「……」

 

 少し乱れた呼吸を整える。

 リハビリが必要だなと感じつつも、音を立てずにスライド式のドアを開ける。

 

 僅かに開いた扉から細身を滑り込ませると、彼女はまだ起きていた。

 耳にイヤホンを当て、パソコンの画面をじっと見ている。

 ブルーライトの光に照らされた彼女に、俺は気配を立てずに近づく。

 

「こんばんは……、東郷さん」

 

「―――ええ、一日ぶりね。亮くん」

 

 そう話しかけると、アサガオの花で彩ったゆったりとした服装の少女がこちらを向く。

 肩から青いリボンで纏めた艶やかな黒髪を流す少女、

 東郷は悠々と病室へ入ってくる夜の侵入者に対して、少々驚きの表情を見せる。

 しかしその表情も一瞬で、すぐに少女は眦を和らげ微笑む。

 

「――座ったら?」

 

 パソコンの青白い光が少女の顔を照らす中、緑と紅の瞳が交差し、夜の密会が始まる。

 

 

 

---

 

 

 

「まずは、リハビリの方は順調……?」

 

「ああ、もう大体完了した」

 

 そう……、と神妙な顔をして頷く東郷。

 少女が座るベッドの簡易机の上にはパソコンがある。

 その画面には、彼女が作った表が貼り出されていた。

 

「良かったわね」

 

「ああ。……ところで、本題に入る前にさ」

 

「……?」

 

「夏の夜って冷えるよね。それで俺の恰好を見ておくれ……薄い入院着だよ。おお、寒い」

 

 暗い個室。

 ベッドに座り、掛け布団を自身にしっかりと掛ける東郷。

 対して彼女の右隣の椅子に腰を下ろし、俺は薄着で震えることをアピールする。

 

 夏の暑さも過ぎ去り、夜はキチンと毛布を掛けないと風邪を引くという難しい時期だ。

 おお寒い、神は死んだのか……と悲しげな表情を作りつつ、チラりと少女を見る。

 マッチは持ち合わせてなく、仮に持っていても擦った瞬間に警報が鳴るだろう。

 

 やや演技がかったソレをジト目で見る東郷は、やがて小さくため息をつく。

 しょうがない殿方だな、と少女は苦笑し、病的に白い手で掛け布団の端をそっと捲る。

 

「あまり広くないけど……、亮くんも布団の中で話をする?」

 

「……いいの?」

 

「うん」

 

 少女が少しだけ頬を赤らめながら小首を傾げると、肩から流す黒髪の先端が東郷の腕に乗る。

 彼女からのささやかなお誘いを受けて、俺は心の中で神樹に感謝する。

 都合の良いときだけ信徒の皮を被るのが、加賀亮之佑である。

 

 寒いアピールをしつつ、「申し訳ないと思いつつも貴方の布団の中に入ることが出来て光栄です」

 という顔を作ることでコンボを決め、足の不自由な彼女の布団への侵入を成功させる。

 少女の寝具に身を預けた瞬間、東郷はチラリと俺の横顔を見る。

 

 そっと人肌を感じる東郷の布団の中に、己の冷えた下半身を入れる。

 時折冷たい身体が彼女の素足に触れてしまうが、彼女の脚は何も感じないのでそれについての反応はない。

 その事が少し悲しく感じられて、彼女の華奢な上半身を抱き寄せる。

 

「東郷さん。これって夜這いみたいだね」

 

「……!」

 

「あ、待って、ナースコールは駄目だから。華麗なる逃走劇を繰り広げちゃうから」

 

「もう……」

 

 クツクツ笑って、先程の思いを吹き飛ばすが如く軽めの冗談を耳元で囁く。

 だがお堅い彼女はそれで耳まで顔を赤らめて、手をコール用ボタンへと伸ばす。

 それを慌てて押さえて、小声で謝る。

 

 東郷の機嫌をどうにかこうにか宥め口説いて髪を撫でて。

 しばらくしてパソコンの中身を見終え、そのことを告げる。

 それを受けて、機嫌を直した東郷は見回りを警戒してパソコンの電源を落とす。

 

 そんな中で、ふと東郷が俺の腕に触れ、形の良い眉を微かにひそめる。

 

「亮くん、少し痩せた……?」

 

「――。そう? 病院食は美味しくないものでね」

 

「ちゃんと食べないと駄目よ。好き嫌いする子はお仕置きです」

 

「はーい」

 

 ブルーライトの青白い光が消え、カーテンの隙間から差し込む自然の光に目を馴染ます。

 しばらく左手を少女に握られたり、比べられたりする。

 そんな暗闇の中で、彼女と触れ合うと落ち着く自分がいる事を静かに理解した。

 

 なぜ昼間の時間に東郷の病室を訪れなかったのか。

 それは後遺症の回復と、リハビリの為である。

 

 満開の後遺症は、見た目にも中身も影響があった。

 夜の薄暗い光などが与える視界は変わらないことも多いが、

 問題は昼や朝など、光に照らされる事で生じる普通の視界への慣れに時間が掛かった。

 

 数日掛かったが、この視界にも慣れ出したので退院日が決まってしまった。

 東郷との密会を開くのは後でも良かったのだが、

 襲撃がいつあるか不明な為に、少しでも早く情報の共有が必要であったのだ。

 お互い検査などで忙しい身の上なため、こうして奇術師が夜に忍び寄るという事になった。

 

 暗闇にいち早く慣れた俺は、自らの左半身に感じる人肌に目を向けると、

 再度少女の深緑の瞳と目を合わせながら、情報のすり合わせをする。

 

「―――それで、どこからかしら」

 

「まずは話の確認からかな」

 

「そうね……。まずは知っていると思うけれども、満開の後遺症があるのではないかという疑惑を亮くんに相談したのが最初ね。その後、亮くんが検査とリハビリの間、風先輩にも電話して確かめたりしてみたけれども―――」

 

 東郷は左耳の聴力を失った。

 風は片目の視力を失った。

 樹は声を失った。

 友奈は味覚を失った。

 夏凜だけ何も失っていない。

 これらの違いは満開にあるのではないかと、聡明な彼女は考えていた。

 

「そして、亮くんは目の色覚を失った……」

 

「それらに関して大赦は何か言ってたか……?」

 

「風先輩からは、大赦の方も知らないかもしれないって」

 

「……ふむ。友奈達が退院してもう3日目か。他の連中も回復の兆しが見られないって?」

 

「そうみたい……。……それにしても、時が経過するのって早いわね」

 

「東郷さんといると時間の経過が早く感じるよ」

 

「……ふふっ、亮くんは本当に私を退屈させないね」

 

 自らの上半身をベッドに預けると、僅かにギシッと軋んだ音を立てる。

 薄暗い月光が部屋の光源であり、自然と顔を上げて天井を見上げる。

 

「東郷さん……一つだけ良いか」

 

「―――――」

 

 天井に向けていた視線を左へ移す。

 甘い息遣いをする東郷が無言の視線で話の続きを促す。

 暗闇の中でもお互いの顔が見える距離で、少しの休憩を終えて少年と少女は話をする。

 

「目に見える物が全てとは限らない。大赦がどんな答えを出すかは不明だけども、満開システム自体は凄く有用だ。だけどね東郷さん。大赦って本当に信用に足る存在だと思うか……?」

 

「―――それは」

 

「この世界に嘘をつかない人間はいない。そして嘘をつく以上、自らが信用する人間は自分で選ばないといけないんだ」

 

「……」

 

 東郷の美しく艶のある纏められた髪へと、何となくで手を伸ばす。

 掌で弄ぶと、水を手で掴むように黒髪がサラリと零れ落ちる。

 くすぐったそうに眼を細める東郷を他所に、俺はその髪を纏めるリボンに触れる。

 

 リボンに触れながら、ふと自らの記憶が昔の出来事を呼び起こす。

 かつて見た紫の花の如き光が咲いた光景。

 ――どうして忘れていたのだろうか。

 

「園子も……」

 

「えっ……?」

 

 満開を経験したのだろうか。

 もしも行ったのならば、身体のどこかに異常をきたしているのかもしれない。

 彼女の事に思考を巡らせたいが、今はそれどころではない。優先順位を履き違えてはいけない。

 これでひとまず情報共有は完了した。後は次の襲来に備えるだけだ。

 

「いや……、結局は情報不足でこれ以上はどうしようもない。家の力を借りられたら話も変わるかもしれないけれども、こちらは連絡を待つしかないという訳だ。それにもしかしたら、ただの疲労の所為かもしれない可能性だって捨てたものじゃないし、むしろこちらの可能性の方が高いかもしれないよ」

 

「そうだと……いいけど」

 

「そうさ。あまり一人で考えすぎちゃ駄目だよ、東郷さん。また悩んだら相談に乗るからさ。溜めこむと碌な事にならないからね」

 

「……うん」

 

 名残惜しいが何か話をすることも無い。

 掛け布団を捲って、ベッドから這いずり出る。

 

「『悩んだら相談だよ! 東郷さん』」

 

「今の声……凄く友奈ちゃんだった……。うん、でもありがとう、亮くん」

 

「いえいえ、おやすみ東郷さん。夜更かしは美容の天敵だよ」

 

「私を寝かさなかったのは亮くんでしょ……おやすみなさい」

 

 この数日後、先に亮之佑が、次に東郷が退院した。

 蝉の声が、海のように鳴る日のことだった。

 

 

 

---

 

 

 

 そして、退院した俺を加賀家で待っていたのは、

 宗一朗と、綾香の二人だった。

 なかなかにびっくりなサプライズだと俺が思うのは無理もない。

 

 なぜなら、彼らがこの家に来るのは実は初めてだったりする。

 思えば宗一朗と交わした約束の期限はもう過ぎているのだから、堂々と接触しても大丈夫なのだろう。

 あれから大赦内部の事情がどう変化したかは不明だが、彼らがここに顔を出しているのが、多少はマシになったことへの証明だと思う。

 

「りょう~」

 

「母さん」

 

 久しぶりに見た綾香は、見た目に何ら変化を感じなかった。

 黒く長い髪に、深淵を感じさせる瞳、童顔など、相も変わらず可愛らしかった。

 強いて言うなら、少しだけお腹が出ていることだろう。太ったという意味ではない。

 

「歩いて大丈夫なんですか?」

 

「大丈夫よ。それより、夕飯まだでしょ?」

 

 キッチンを見ると、弱火で鍋を煮込んでいる。

 香ばしく感じる匂いは、久しく感じなかった食欲を掻き立てる。

 

「もうすぐできるから、テーブル拭いてきてね」

 

「あ、はい」

 

 渡された台拭きを持ってリビングへ向かうと、

 ソファに座っている一人のむさい男、もとい白髪男がテレビを見ていた。

 

「父さん」

 

「……よお、元気だったか」

 

「ええ」

 

 テーブルの上を拭き、招かれるままにソファに座る。

 しばらく無言でテレビを見る。

 

 余談だが、この世界で生を受け、自分だけで動けるようになった頃の俺はテレビはニュースしか見なかった。

 当時は情報収集の為と推しのキャスターがいたからだが、

 その所為か、うちの子は真面目で勤勉な子というイメージが両親の間に芽生えたらしい。

 

『続いてのニュースです。川遊びをしていた小学生3人が溺死しました。亡くなったのは、川畑―――』

 

「最近、この手の事故が多いよな」

 

「そうですね。交通事故や火災事故、水難事故。事故のオンパレードですね」

 

「今回の死者を合わせると、神世紀で上から12番目位になるんだそうだ」

 

「へー、多いんですか少ないんですか」

 

「少ないと思うぞ」

 

 しばらく2人でぼんやりとニュースキャスター(男)が読み上げる無機質なソレに対しての感想を言い合っていた。そんな中で、俺は隣に座る宗一朗の横顔を盗み見る。

 男の顔は、少しだけ老けたように感じた。

 

「そう言えば父さんって、大赦の中で何の仕事をしているんですか?」

 

「……ん? 言ってなかったか。勇者アプリの開発をメインとしたエンジニアだ」

 

「そうだったんですか!?」

 

「驚いたか? ちなみに彼女たちの衣装を担当しているのは別のエンジニアだ。俺はどちらかというとアップデートの方……精霊に関しての担当だ」

 

「そうだったんですね……」

 

 ふと、茨木童子も隣に座る宗一朗が携わっているのかと思うと、何かが胸中を過った。

 詳しく話を聞こうかと思ったが、止めておいた。

 話についていけないとかではない。

 ただ大赦という物を絡めると、この関係も穏やかにはいられる気がしない予感がしたからだ。

 

 だから表面上の会話しか出来ない。

 自らの瞳が映す色あせた世界では、もう嘘をついているかどうかも判別し辛い。

 

「……その瞳」

 

「これですか。分かっているんでしょ?」

 

「何がだ」

 

 ようやく目があった気がした。

 正面から見た宗一朗の顔は、少しやつれているように感じた。

 視線が交差するのを感じ、俺は彼の目を覗き込む。

 ……何を考えているのか分からなかった。

 

「いや……。満開システムって何か不具合があるとか聞いてないんですか?」

 

「システムに関する機密は、現地で戦う勇者といえども、容易に明かすことはできないんだ」

 

 何か聞き出せないかと探りを入れるが、

 そんな俺に返ってきた返答は、取り付く島もないようなものだった。

 

「念のために言うと、そのシステムは少数精鋭のエンジニアだけで作られている。俺も優秀な方だが、大赦にとって信用が置ける犬どもが中心となって取り組んでいるらしい」

 

「……そうなんですか」

 

 正直言って、宗一朗の言っている言葉の真偽が俺には分からなかった。

 

 

 

---

 

 

 

 その後、綾香に呼ばれて3人でご飯を食べた。

 チーズの香りが立つ、そのグラタンは白一色。

 雪景色を思わせるソレは、視覚的にも優しい味で美味しかった。

 

「このグラタン、美味しいですね……特にチーズの焦げ具合と筍のコリコリ感が」

 

「ふふっ、そうでしょう? 最初はうどんを入れてオリジナルグラタンに挑戦しようと思ったけどね」

 

「それは入れなくて正解です」

 

 綾香の作るご飯は凄くおいしいと思う。

 多少色褪せていても、それを凌駕する味は身体に染み渡った。

 味噌汁を飲みながら俺は肝心の用件について聞くことにした。

 

「ところで、どうして急に家に来たんですか……?」

 

「可愛い息子の様子を見に来ない親がいると思う?」

 

「……」

 

 やだなー、と頬に手を当て困ったように微笑む綾香。

 そんな彼女の妖艶な微笑みに、やや困惑の混ざった微苦笑で応じるが、

 そんな息子に対して宗一朗が補足説明をしてくれた。

 

「そろそろ、母さんを入院させようと思ってな。大赦側もようやくお前をひとまずだが、問題無い存在として扱うことになったから、問題なく来れるようになったんだ」

 

「なるほど」

 

 綾香は妊婦だと思えないくらいに元気だ。

 穏やかな笑みを浮かべているが、かなり体力があまっているのかバリバリに料理を作る。

 その姿に少し不安を抱いたが、この後から入院の手続きをするなら問題ないだろう。

 

 ふと思いついて、お腹を触ってみてもよいかと尋ねた。

 本当になんとなく、触ってみたくなった。

 綾香の許可を得て、少し丸みを帯び始めたお腹を触ったが、どうにも喜びや興奮といった感情は湧いては来なかった。

 ただ、ここに赤ん坊がいるんだなという生命の神秘を感じた。

 

 いつか兄になるかもしれないと言われても、全くと言うくらいに冷静だった。

 こういうのは、実際に目にしてみて感じるのだろう。

 そのうち、風に『お姉ちゃんとは』と聞いてみてもいいかもしれない。

 

 そうして久しぶりの両親との団欒の時間が終わりを告げた。

 タクシーを呼びつけ、家の前まで来るのを待つ間、最後に宗一朗と話をした。

 

「なあ、亮。俺に言いたいことは無いのか……?」

 

「言いたいことですか」

 

 家の中で綾香は待っている。

 なんでも、加賀家秘伝の料理レシピを書いているらしい。

 元々俺に教えるつもりで書いていたのと、今日の料理を書き記しているらしい。

 

 俺と宗一朗は家の門扉付近でタクシーを待ちながら、

 ぼんやりと話を続ける。

 

「園子ちゃんの件だよ」

 

「……あぁ、懐かしい話ですね。あれって結局会えるんですか……?」

 

「―――すまない。結局お前達を会わせることはできそうに無い……」

 

 そう告げられる事に対して、俺は特に驚きを感じなかった。

 別にありえない話ではなく、時間が経過し多少なり知識を得た今の俺なら分からなくも無いことだった。

 

「大赦はどうしても、俺と園ちゃんを会わせる気はないんですね」

 

「そうだ。優秀なお前なら既に気がついていると思っていたが、この3年で、俺はなんとかお前の身の安全を確保することができた。だが、俺がどんな働きをしても、大赦は正面からは絶対にお前たちを会わせるつもりはないことが分かった」

 

 そう言って宗一朗は眉をひそめ、苛立ちを隠さない。

 そんな姿を俺は珍しく感じた。

 俺は宗一朗が稽古以外で声を上げたり、明確に怒りを露わにした所は見たことがなかった。

 

「お前との約束は果たせそうにない……」

 

「―――」

 

 そう申し訳なく告げる宗一朗。

 それに俺は、特に何も感じなかった。

 自分でもどうかと思う。本当なら自らも多少は声を上げ激昂する場面なのかもしれない。

 身の安全は保証されたらしいが、園子には会わせてもらえない。

 

 自分が恐ろしくドライだと感じた。

 

「それはつまり、“正面からは”、ですよね」

 

「……ああ」

 

 宗一朗は、タダでは転ばなかった。俺もソレを見抜いていた。

 彼の目を見つめ、自らの意思を伝える。

 何も彼を信用していない訳ではなかった。

 ただ同時に成功できると心から信じられるほど、無垢で愚かな存在でもなかっただけだ。

 

 宗一朗がポケットに突っ込んでいた右手を出し、俺に握手を求める。

 それを見て俺は自らの意思が伝わったことを理解した。

 宗一朗の手を握ると、自らよりも少し大きくゴツゴツした感触がした。

 

「俺はな」

 

 無言で握手を止めて、自らの手を引き抜こうとすると、

 左手も使い両手で包み込むように俺の手を掴みこんで、宗一朗は言った。

 

「俺は情けない親だ。結局お前とは違って我慢強くも冷静でもなく、約束を守りきれる男じゃない。対してお前は、約束を守りこの家で一人暮らしをしてみせた。凄いことだ」

 

「―――お世辞なら、御役目が終わった時にでもしてください」

 

「お世辞じゃないさ。いいか、亮。以前にも言ったがお前には俺の教えられる全てを授けた。お前に関して俺は何一つ後悔することはない。俺の自慢の息子として育てあげた。父親としては大して導いてやれなかったと思うが」

 

「なら、今度生まれる弟か妹に良い教訓ができましたね」

 

「茶化すなよ。今なら大赦の監視網も薄れたはずだ……お前も随分と我慢したはずだ。だから」

 

 空も暮れ、紫黒い水平の空の下で。

 2人の親子が向かい合って話す中で、タクシーのライトがこちらに向かってきた。

 

「だからもし、失敗しても俺が許す」

 

「失敗なんてしませんよ」

 

「そうか……。亮、お前ならきっと、この先も大丈夫だろうさ」

 

 それっきりだった。

 手を放し、握手を止める。

 俺と宗一朗は黙り込み、タクシーが門扉に着くまで空を見上げていた。

 

 もともとどちらも喋りたがりではなく、無言の一時を過ごす。

 綾香が出てきたのと、タクシーが到着するのは同じだった。

 

 ほにゃほにゃした笑みを綾香は浮かべつつ、門扉にいる俺たちに近づいてくる。

 リビングに料理ノートを置いた事を俺に告げつつ、

 

「亮ちゃん」

 

「はい」

 

「―――愛しているわ」

 

「……ええ、僕もですよ」

 

 最後に綾香の身体に触れたのは、もう数年前だった。

 それでも彼女の、母親の匂いとは変わらないものだと思った。

 思う存分俺を抱きしめて満足した綾香は、

 

「そうだ、亮ちゃん」

 

「はい」

 

「いい? 好きな子ができるのは当たり前だけど、あまりフラフラしないでしっかり決めなさい。浮気したら八つ裂きね?」

 

「……はい」

 

 そう笑顔(ただし目は笑わず)で告げて、綾香はタクシーの後部座席に乗り込んだ。

 そんな和やかな母子の団欒事に対して、

 明後日の方向を向いていた宗一朗も綾香が乗り込んだのを確認して、

 

「それじゃあ、またな」

 

「はい、また」

 

 車のドアが閉まる。

 別れはあっけなかったが、問題はないだろう。

 

 今後は彼らにも会う機会が増えるのは間違いないだろうから。

 ややぎこちなく感じたが、時間の壁を埋める機会ならすぐに巡ってくるだろう。

 遠ざかっていくタクシーを俺は見送る。

 

 嵐にでも遭ったような気分だったが、久しぶりの家族の団欒に疲れた心が和んだ。

 綾香が作ったご飯は、久し振りに『食べた』という気分にもなれた。

 

「―――――」

 

 タクシーを見送り、門扉を閉めて玄関に向かう。

 玄関を施錠しリビングへと向かうと、先ほど綾香が言っていた料理本を見つけた。

 手書きなのか明らかにノート数冊分あるソレは、レパートリーには困らないだろう。

 

 それに苦笑しつつ、部屋のカーテンも閉める。

 ゆったりと椅子に座りながら、ズボンのポケットに入れていた物を取り出す。

 

「……」

 

 折り畳まれた白い紙切れ。

 ノートの切れ端にでも書き込み、折り畳まれたソレはポケットに入れた為にグシャグシャだ。

 

「……」

 

 だが、この紙切れは俺にとって豪華客船のチケットよりも貴重だった。

 その紙切れには、ある場所の住所と、とある棟のとあるフロアが書き殴られていた。

 

「……宗一朗、お前は最高だよ」

 

 ジックリ見終え、暗記した後、そっと切り刻みゴミ箱に入れる。

 薄暗い笑みが千切った紙屑がゴミ箱の奥へと舞い散るのを見送り、自分の部屋へと向かう。

 

「さて」

 

 急く足と感情を、理性と思考でブレーキを掛ける。

 そして深呼吸を数回行い、ようやく落ち着いた頃に必要な物のリストアップを脳裏で展開していると。

 

 不意に端末が喧しい警報音を部屋の中で鳴り響かせた。

 耳をつんざく音と共に、端末の液晶には『樹海化警報』の文字が示されている。

 ソレに対して覚える苛立ちを、もはや理性も思考も止めない。

 

「―――もうきたのか」

 

 プレゼントを開けようとしたら、壁を突き破って車が衝突してきた気分だ。

 もしくは飲み過ぎた次の朝の気分とでも言い換えられる。

 要するに、最悪の気分である。

 

「――ふん、まあいいさ。さっさと倒してやるだけだ」

 

 多少の怒りを奥歯で噛み、端末を手に取る。

 世界が白く染まっていく。

 

 

 

 

---

 

 

 

 

 樹海化した世界。

 色とりどりの根で構成された世界も、今では霞んだ世界に過ぎない。

 もはや見慣れたその世界には、星の瞬きも、太陽の様な輝きもある訳ではなかった。

 

 だから、その光景を見たとき。

 神樹の謎の計らいか何かだろうかと、俺は疑問に思った。

 そしてその数秒後に現実逃避は終わりを告げ、理解が愚鈍な脳に及んだ。

 

 樹海の空。

 上空を白い星が、空を覆わんばかりに、輝きを放っていた。

 

 

 


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