「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
とある平日の朝。俺は両親と朝ごはんを食べていた。
マーガリンを塗った黄金色に溢れているしっかりと焼かれたトースト。
サラダは瑞々しさのあるトマトとレタスで構成された物をドレッシングは掛けず生で頂く。
俺はサラダにドレッシング等は掛けないという、ちょっとしたこだわりを持つ。
別に嫌いではないが、かけない。健康の為とかではなく、それこそ『なんとなく』でだ。
シャクシャクと野菜を噛みながらココアで飲み干すと甘さが喉奥を通り抜けた。
ぼんやりと両親がイチャつくのを見ながら、俺はこの後の状況に思考とカップを傾けた。
「――――」
結論から入ると、今日から俺に家庭教師がつく事になった――らしい。
なぜそうなったかを後で説明するとしてだ。
まずは俺の両親を紹介から始めるとしよう。
男に声をかける。
「――いってらっしゃい」
「おう!」
そう行って出かけた白髪の男こそ、俺の父親の加賀 宗一朗《そういちろう》である。
最初は厳つい男だと思ったが、実際に話をするとそんなことは無く穏やかな物腰であった。
加賀家の大黒柱にして、本人曰く格闘技の使い手だ。
ふさふさの白髪は地毛らしい。その話を聞いて彼は苦労人なのだと俺は思った。
「…………むぐっ」
フォークでプチトマトを刺し口に持っていく。
ゆっくりと噛みしめると、あのなんとも形容しがたい酸味と食感が口に広がる。
トマトが苦手という人もいるが、基本俺は好き嫌いはしない……が、強いて言えばとろろが嫌いだ。
(ワサビって調味料だし、セーフなのだろうか?)
そんなことを思いながら無言で食べていると、
「おいしい? 亮」
「――はい、おいしいです」
「そう? よかったわ」
こちらのテーブルに戻ってきて頬杖をつき、ニコニコする女。
先ほどまで熱々なイチャつきを俺に見せつけていたのが、この女である。
長い濡羽色の黒髪が自慢の美女で己の母親である、加賀 綾香《あやか》だ。
前世では二次元マスターだった俺でもびっくりなほどの美人である。
まず料理がうまい。家事万能。エロい。最高の嫁だ。大和撫子的な雰囲気を感じる。
優しくおっとりとした顔をしているが、時折宗一朗が家に呼ぶ女を見る目がおっかない。
絶対に何かがあっただろうが、基本的に俺には優しいので積極的に知ろうとは思わない。
その瞳に宿りし深淵はうかつに覗くべきではないだろう。触らぬ神樹になんとやらだ。
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それにしても、どうもこの加賀家。
乃木という家の分家筋である事実が判明した。本家・分家共に勇者を出した名家らしい。
――勇者って何? そういう職業かな? と思いスルーしていたが大人たちは真面目だ。
この本家・分家の関係について両親の口から放たれたが、今は特に何か実感はない。
正直、だから何ぞ? とか、
本家はさぞかしデカイ家なんだろうなぁ~とか、
可愛い子とかいないかなぁ~とかぐらいにしか思わなかった。
そして両親から話を聞く限り、今まで家から出たことがないが、近いうち挨拶に本家を訪れるという。
「人に会いたくないなぁ……」
人が多いところは正直嫌であり、未だに前世のトラウマを思い出しかねない。
痴漢の冤罪で捕まったあの日は、まだ夢で見る時がある。
あれ以来、俺は恐怖で電車に乗れなくなった。今でも5人以上の人がいるところは嫌だ。
つまり何が言いたいかというと、
――実は俺は3歳児にしてまだ一度も外に出たことがない箱入り息子である。
両親に外に連れ出される気配がすると、今日も俺はそっと姿をくらます。
俺はありふれた一つの影の存在と化し、闇の住人の一人として深淵に身を沈める。
時に、カーテンの裏。
時に、クローゼットの中。
時に、段ボールの中。
小柄だからか見つかることはない。そっと気配を殺す。
大抵両親が俺を連れ出すのをあきらめるまで俺はかくれんぼを続ける。
ちなみに両親がどうしても外せない用事で出かけるときはお手伝いさんがどこからか来る。
「――――」
ところで、話は少し変わるが。
3歳になると、大体日本では幼稚園に通えるようになるらしい。
しかし、中身大人の俺が今更通うのは流石に精神的に苦痛だろう。
子供は好きだが、あくまでペット的な感覚だ。
毎日毎日馬鹿な餓鬼どもと一緒にいたくない。
もっと知識を蓄え、力をつけたい。
義務教育があるかは分からないが、小学校に通うにせよ今はまだだ。
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――という訳で直談判をしようと思っていたのが先日のことだ。
いつものように宗一朗の読み終えた新聞を読み漁っていると、クロスワードを見つけた。
その日も何かある訳ではなく、強いて言えば手品の練習と本を読む程度だが、ふと目についたので解いてみるか程度のものだった。
(なになに、本州と四国を繋ぐ大きな橋は……オオハシっと)
まず4文字埋める。よし。次はっと。
ふむ、……結構難しいが解けないわけじゃない。
「――?」
こんな感じでうんうん言いながら解いていると、ふと視線を感じた。
目を上げる。誰もいない。
無言で後ろを振り向くと、黒い瞳と目が合った。
「―――」
母さん――綾香がガン見しており、屈み揺れる豊満な胸に俺は絶句した。
明らかに綾香は俺を、クロスワードを、否、正確には俺が書いた文字を見ていた。
その時、瞬時にやらかしたことを俺は悟った。
「―――」
「―――」
既に撤退の時間は過ぎていた。
奴は気配を消し、俺の後ろに近づいていたのだ。
これは機関の巧妙な罠に違いない。
「あ、あのぉ、お母……様?」
「――。ねぇ、亮?」
「ヒェッ」
にっこりと綾香は笑いかけてくる。
人の笑顔は素晴らしいものだ。人は微笑まれると思わず此方も微笑んでしまうものだ。
だが、このときの俺は全く笑えなかった。
綾香の目の奥が笑っていない。黒い瞳が深淵を覗かせる様は本能が恐怖を感じた。
「ん? どうした?」
と、ここで宗一朗も来た。
亮之佑は逃げ出した。だが、囲まれた。いや落ち着け。
こんな状況だが、決して目は逸らさない。前世で学んだのだ。目を逸らしたら負ける。
押し切られて責任と書類を押し付けられたことがあった。あの糞上司絶対許さん。
いや、今はそんなことを思い出している場合ではない。
大丈夫、悪いことはしていない、はずなので目を背けず、真摯に母さんの目を見る。
両肩を押さえられながらも、綾香の桜色の唇が僅かに震えるのを視界が捉えた。
「このクロスワード、自分で解いたの?」
「そう、です」
下手な嘘はバレる。中途半端な嘘はいとも容易くバレる。
嘘を吐くときはある程度準備をしておかなければならないのが最低条件だ。
俺の面接力が試されるが、今はそんな時ではない。
「…………」
「…………」
「――ご」
「ねぇ、あなた……やっぱりアレをつけるべきだったのよ!」
「うぅむ」
前世の情けない記憶の所為か、最終的に繰り出そうとする俺の謝罪を綾香の悲鳴が遮った。
やけにテンションが高い綾香と微妙にテンションの変動が判り難い宗一朗という対照的な顔の二人を俺は唖然と見た。
――というか、アレってなんだ? そう思ったが今は保留とし頭を回す。
どうやら俺が文字を書いていたことはあまり気にしてはいないのか。
変な人間として不気味がられるかもしれないという俺の心配は杞憂だったらしい。
さすがは私の息子的な感じなのだろうか。
(しかし、油断したな……)
目の前の両親は程度の差はあれど興奮している。
たかがクロスワードごときで……たかが?
「…………」
たかが、な訳がないかもしれない。
両親目線で客観的に俺という存在を見てみよう。
文字を教えた覚えがないのにクロスワードの問題を解いている3歳児。天才か。
(俺としたことが何たるミスを……)
以前の日本でも似たようなことはあった。
近所の家の大人がやれ自分の子供の成長速度が速いだの、勉強ができるだの。
そんな彼らをマスコミは面白がって取り上げた。俺がその一人だった。
テレビに出演したことが原因で調子に乗っていたことも覚えている。
夫婦特有の主語を抜かした会話をBGMに、俺は何をしているんだと己の油断に打ちひしがれた。
だから気がつかなかったのだろう。ふと気がつくと綾香がどこかへ連絡を取っていた。
「ねぇ、亮」
「―――? はい」
「来週から、家庭教師をつけるから」
「ふぁ!?」
物思いに耽る間、気が付くと今後の俺の教育方針について両親間で話し合いがなされていた。
しかも決定済みという事後承諾に流石に絶句した。
「…………」
子供の気持ちとか考えないで親の理想を押し付ける奴は本当にいるらしい。
こういう親の決めたレールってやつを嫌う子供もいるようだが。
しかし、英才教育を自らに施してくれるのならば、成長を望む己としては歓迎である。
「じゃあ、両方やるってことでいいな」
「そうね、そうしましょう!」
その後、家庭教師をつける事と共に、武術を学ぶことが決定した。
まあ代わりに幼稚園行きのチケットは白紙となったから個人的にはいいのだが。
アデュー幼稚園と、俺は見ることのない幼稚園に心の中で手を振った。
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こうして、
日中は勉学と武術稽古、夜は読書か手品の練習になった。徹底的に俺を磨くつもりらしい。
宗一朗は大赦という職場で働いており、そこのコネを使っていい家庭教師を呼ぶらしい。
家ってけっこうお金持ちのようだ。
(あとは先生なんだろうけど……)
ちょっと話が変わるが、俺は運は良い方だ。
生前はガチャ王(自称)と呼ばれていた。狙った獲物(SSR)は逃さない。
それがどんな確率であろうとも。低課金(生活に支障が出ない範囲)で手に入れてきた。
「おお、神よ……」
だからお願いします、神様。シンジュサマ。
優しくて美人な先生をお願いしますと、寝る前に夜空の月に祈りを捧げた。
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金曜日。その人が来た。
「安芸と申します。よろしくお願いします。加賀さん」
「よ、よろしくお願いします」
安芸先生。下の名前を聞き出せなかった。
クールビューティー眼鏡先生を一言で表すとこういう言葉になる。
ビリビリしそうな声だが高校生、もしくは大学生くらいだろうか。
年は案外若い。だがかわいいと言うよりは綺麗系だ。
髪を三つ編みに束ね肩から垂らし、眼鏡を掛け、その瞳の奥には深い知性を窺わせる。
「――では、早速なんですが」
「あ、はい」
だが隙がない。仕事だからか、まるで壁を相手にしている気分だ。
世間話もできやしない。
そっと視線を下にする。でかい。こっちは壁じゃないのに。硬いぜ。
大赦の方でどうなったかは分からないが、
ひとまず俺と安芸先生との面談により今後の方針を決めることから始まった。
結果、週1回。平日の金曜に家に来てくれることになった。
小学校に入学するまでの間、マンツーマンでやってくれるらしい。
それ以外の日は宿題を課すらしい。
取り組む教科はオーソドックスに国語、算数、歴史の3教科だそうだ。歴史が非常に楽しみだ。
「先生。よろしくお願いしますね!」
「――ええ、こちらこそよろしくお願いします、加賀さん」
先生は結構無駄な話をしない寡黙な女性だったけども、
それでも最後の挨拶は柔和な笑顔を見せてくれる。
直感でスパルティであると予感したが、根はいい先生らしいのは間違いないだろう。
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ちなみに夕食は安芸先生も一緒に食べた。
今日の献立は家庭的な味がする肉野菜炒めだ。
ニンジン、ピーマン、玉ねぎと、実に野菜たっぷりだ。健康的で実にいい。
ふと隣を見ると、安芸先生は皿の端にピーマンを寄せていた。
凄い渋い顔をしていた。
「先生」
「なっ、なんですか?」
「ピーマンは嫌いなんですか?」
「……ええ。これだけはどうしても食べられないんです……」
先生は悔しそうにそう言ってピーマンを遠ざけた。
“くっ、殺せ!” 彼女を見ていると唐突にそんな言葉が脳裏を横切った。
同時にちょっと安心した。こんな冷徹に見える人でも、きちんと血の通う人間なのだと。
親近感が湧いたからではないが、彼女のピーマンを箸でこちらの皿に移した。
「加賀さん?」
「先生、実は僕、ピーマン好きなんですよ。だから貰っちゃいますね」
「―――――」
「本で読んだんです。完璧な人間なんていない、だから人と人は助け合うんだって」
ピーマンを食べる。苦い。味覚の変化か、おいしくはない。だが食べられる。
それで十分だ。バクバクムシャムシャとピーマンを食べきった。
そして、俺はキメ顔で安芸先生を見てみる。
「だから先生、勉強はお願いしますね」
「……えぇ、勿論です。ありがとうね、加賀君」
呆然と此方を見ていた彼女だが、僅かに笑みを浮かべた。
初日から、俺と先生は僅かにだが仲良くなれたと思った。
一歩前進。壁は少し柔らかくなった。
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先生が来た数日後に、父・宗一朗との武術の稽古も始まった。
彼曰く、自分が教えるのは近接格闘術という戦闘に特化した技だという。
なんでそんなものを覚えているのか、謎である。
とはいえ俺の身体もまだ出来上がってないので、まずは格闘術を教わる下準備として基礎的な体づくりに取り組むことからスタートした。
体操とランニングから始まり、懸垂や縄跳びといったメニューを最初に組まれた。
体を動かすことの習慣化を図り、体力と運動能力を向上させ次のステップでの動きを格段に上げることが目的だと宗一朗は言う。
毎朝一緒に体操をした後近所の公園を走り、彼の出勤後にその他のメニューをこなす。折を見て新たに筋力、体幹トレーニングを追加していく。その繰り返しの日々。
要は反復であり、そこは前世から変わらない道理であることを俺はこの身をもって痛感させられたのだった。
――そんな日々を過ごしながら2年が経過し、あっという間に俺は5歳を迎えた。