随分と懐かしい声だと思った。
あの頃は携帯端末なんて持ってなく、写真を両親が撮っていた程度だ。
そのアルバムも、今は実家にあるはずだ。
彼女と共に過ごした日々は、ずっと変わらない物だと思っていた。
その日々が終わってもう4年。いつの間にか4年も経過していたのだ。
それだけの年数が経過したならば、家族ですら疎遠になる事すら珍しくない。
でも、ある意味良かったのかもしれない。
「―――――」
だって鮮明にその声を、その瞳を、その姿を思い出していれば、きっと耐えられない。
だからこそ、日常生活では思い出さないようにしてきた。
彼女の事を思い出してばかりいたら、きっと歩けなくなる。
後ろばかり見て、後悔ばかり思い出して、過去ばかりを振り返ってしまう。
それでも夢に見た時もあるのだが。
周りにはそんな自分を心配する優しい人もいた。
だから前を見て歩いてきた。決して優しい過去の想いに囚われないように。
叶うか分からない約束を、他力本願な祈りを抱き、後悔を引き摺ってきた。
ベンチに座りこむ俺に後ろから声が掛けられる。
その甘い囁き声に、俺は鼓膜を、心を震わせられる。
「―――花火、綺麗だね~。そう言えば結局かっきーとは花火大会には行けなかったもんね」
慈しみに溢れた優しさが、親愛に満ちた熱情が、俺の中に流れる。
それだけで何かが、己の欠けていた何かが、空っぽだった物が満たされるのを感じた。
白い両手が眼から離れる。
背中に感じていた微熱が離れたことに寂しさを感じたが、
そんな思いを知ってか知らずか、薄紫色の浴衣を着た彼女が当たり前の様に隣へ座った。
「どうして……」
「いつだって、私はかっきーの傍にいるよ~」
「だってお前はいないはずじゃ……、そんな都合の良い事が……」
「この世界だって随分と都合が良いと思うけどな~」
「―――――」
顔を上げる。
そうして涙で歪んだ視界の中で、黄金の色が映る。
僅かな風が甘い柑橘系の匂いを運び、鼻腔をくすぐる。
「園子」
「そうだよ。私が、乃木さんちの園子さんだよ~」
服の袖でにじむ涙を拭うと、琥珀の瞳と目が合った。
ようやく俺は、こちらに両手を広げている、求めて止まなかった姿を見た。
逢いたかった、園子の姿を。
「その、こ」
「――――うん、園子だよ。かっきー」
いつの間にか、爆音が止んでいた。
色彩に溢れた花々が舞い散り、闇夜が再び台頭する中で、
そんな事にすら気が付かないほどに、俺は目の前の少女を見据えていた。
彩りに溢れた世界は、俺に優しかった。
この世界で生きている中でも、前後の記憶を少しずつ思い出していた。
その記憶に潰れて、この光景に甘やかされて、俺はこの場所に沈み込んでいたらしい。
この世界に溺れることを是としていたのだ。
ソレを目の前にいるはずの無い存在が教えてくれた。
「―――――」
ほんわかとした笑みを浮かべた少女が隣にいる。
それだけで心に堪る鬱積が減るのが分かった。それだけで俺は堪えきれずに泣きそうになる。
ベンチに根差す様に座り込み、俯く俺の冷えた手に触れて、園子は下から見上げる姿勢で、
「かっきー、大丈夫? もう、疲れたの~?」
「どう、だろうな。疲れたのかも、しれないな……」
疲れたというのならば、それは勇者部の皆も同じはずだ。
決して俺だけのはずがない。
友奈達は勇者の御役目をするにあたって、何かの報酬を求めた訳でもない。
名声も、地位も、金銭を求める訳ではなく、ただ日常に住まう人々の為に力を奮った。
それだけだ。彼女達にとって為すべきことを為しただけ。
つまり――――
「俺が悪いんだよ」
「―――――」
「あの時、蛇遣座の攻撃に対して予測を立てて、先に星屑を撃退していたら」
「―――――」
「あの時、さっさと躊躇わずに満開していたら」
「―――――」
「そしたら俺は、綾香も、宗一朗も、いずれ出来るかもしれなかった兄弟も失わずに済んだのに」
油断をしたつもりなんて無かった。
初見の相手だったと言い訳をするつもりもない。あの戦場で、俺は神樹や勇者の方を優先した。
その結果、星屑やバーテックスによって攻撃された樹海が戦闘終了後に再変換されたら、
一体どこに影響が表れるかも、俺は分かっていたはずだというのに。
蛇遣座より前の戦いでも、樹海への執拗な攻撃はあった。
それによって多くの死傷者が出ていたのをメディアを通じて俺は見ていた。
正直言って被害状況をテレビで見ても、俺はこう思っていた。
“よりにもよって、自分の親が被害に遭うことは無いだろう”と、根拠無き思いを抱いていた。
戦う度に増える犠牲者の数を見ながらも、正直どうとも思わなかった。
多少の犠牲はつきものだ。なんせ守らないといけないのは世界なのだから。
その結果が、コレだ。
「俺が悪いんだよ……、俺が、いつだって俺が……悪い」
手が冷える。
どれだけさすっても、あの冷たさが手から取れない。
---
俺にとって、綾香と宗一朗は『いい奴ら』であった。
生前、亮之佑である前の俺の親は、世間一般で言えば毒親でしかなかった。
数字や成績、結果といったものに拘り、俺を見ることは無かった。
そして最後には切り離され、見放されたのだ。
だからこそ。
この世界に生まれ出でた後、彼らと暮らすことになっても、俺は彼らを親としては見なかった。
精神年齢は2人よりも上でありながらも、肉体年齢は彼方が上であるという関係。
共同生活の中で、時々子供ではありえない事をやっていた。
何度か子供のように馬鹿みたいな振る舞いをしようとして失敗した事も多々あった。
その度に、変な目で見られるのではないかと焦り怯えていた。
だが、そんなちぐはぐな状態で生まれた俺を、彼らは暖かく迎えてくれた。
友達でもなく、自分たちの家族として。
親が子供を受け入れるように。
当たり前のように、自らの子供として、少し可笑しい俺を受け入れてくれたのだ。
この世界で本当に信頼できるのは、園子や友奈を除けば彼らだけだった。
それだけの長い年月を彼らと共に築き上げてきた。
思い出を作り、感情を混じり合わせ、家族としての絆を育んできた。
綾香からは料理を教わった。
宗一朗からは武術を教わった。
あの頃は幸せだった。
生前の家族とはこんなに話をしたことも、笑い合ったことも無かった。
彼らはこんな歪な存在に対して、不気味がらずに接してくれたのだ。
思い出すともう止まらなかった。
綾香は。
彼女は良い母親というモノを俺に教えてくれた。
物腰の穏やかな彼女の性格は、人を信用できない俺に時間を掛けて優しさを注いでくれた。
確かに宗一朗の女関係に関する話では性格が変わったように豹変するが、
あれが初代の言っていた愛なのだろう。
愛ならば仕方がない。浮気する様な屑が悪いのだ。
宗一朗は。
正直に言うと、俺は宗一朗を良い父親であるとは思ってはいなかった。
当たり前だ。どこの世界に複数人との浮気をする男がいるのだ。
その果てに自分が生まれたと聞かされた時の株価の大暴落は凄まじかった。
ぶっちゃけ武術関連とプレイボーイの技術以外では全く尊敬していなかった。
だが、そんな彼とは異様に話が合った。相性が良いと言うべきか。
やはり宗一朗も綾香ほどの美人を捕まえるだけはある。
女を落とす為のいろはという物をコッソリ教えられた。
そんな彼とは、父親よりかは変態な友人として接していたし、随分と毒されたと思う。
俺はそんな彼らが好きだった。
彼らと過ごす毎日が好きだった。
あの屋敷で武術の稽古をして、綾香の手料理を食べる。
時々安芸先生の授業を受けて、園子の家に行く。
そんな日常だけで十分だったのだ。
宗一朗も綾香も、あっけなく死んでしまった。
『――――加賀宗一朗さん、加賀綾香さんの死亡が判明しております』
テレビを見た時に何が起きたか分からなかった。
心臓が急に痛くなった。脳を叩く不快な音がした。彼らが死んでしまったと認めたくなかった。
もうあの日常は戻ってこないと。
二度と彼らに生きて会うことができないのだと、理解したくなかった。
勘弁してほしい。
俺が一体何をしたっていうのだろうか。
ただ俺は、明日を求めて必死に戦っただけなのに。
考え方が甘かったのだ。
俺は選択を誤った。
戦いの結果、俺だけが一人取り残されたのだ。
俺は宗一朗にも、綾香にも、何一つ返せていない。
戦いに挑む前、タクシーに乗る彼らを思い出す。
宗一朗、お前言ったよな。
あの時、「お前はもう一人前で立派だ」と。そう言ってくれたよな。
そう言ってくれて嬉しかったさ。
俺は彼らの子供として成長して、いつかは結婚して、老人になった彼らに恩返しをしたい。
そう漠然と思っていた。
だというのに、俺は大切にしていた物すべてを一気に失ってしまった。
次に会う機会は、ない。
彼らに何も恩を返せなかった。一つでも何か恩を返すことすら叶わなかった。
それを理解したら、涙が止まらなかった。
もしも、もしも、もしも。
何度も何度も俺は考えていた。でも遅いのだ。
どれだけ考えても。
どれだけ後悔しても。
どれだけ涙をこぼしても。
もう遅いのだ。
---
自らの罪を告白する。
失ったことへの後悔に苛まれ、考えて、悩んで、いつの間にかこの場所に来ていた。
誰も傷を負わず、誰も死なない。
平和な世界で、日常を謳歌して、大切な人が生きて笑っている。
そんな甘く優しい夢を、いつからか俺は見ていた。
俺には見る資格なんてないのに。この優しい悪夢が俺に安らぎをくれた。
目を覚まさないといけないのは分かっていた。だけれども、俺は立ち上がれなかった。
目の前に広がる光景が、俺が間違えない選択をした世界なのだ。
だから、間違った選択をした馬鹿者を殴り飛ばして欲しかった。
自分で自分を傷つけて壊す前に、罪を告白することで、お前のせいだと断罪して欲しかった。
そんな醜悪で矮小で愚かな少年の吐露に対して、金髪の少女は何も言わなかった。
肯定をする訳でもなく、否定する訳でもなかった。
ただ――――
「―――――ぁ」
ただ亮之佑は、少女に優しく抱擁された。
気休めを言うことなどなく、分かっているよなどと言うこともせず。
ただ、傍にいて抱きしめてくれた。
それだけで、身体に感じていた重さが霧散していくことを感じた。
「―――――泣かないで、かっきー」
「その、ちゃん」
「私は知っているよ、かっきーがどれだけ必死に戦ったかを。どれだけ懸命に頑張ってきたかを」
「うそだ」
「嘘じゃないよ〜。直接は見なくたって分かるよ。だってかっきーだもん」
「……」
会話が噛み合っているようで噛み合っていない話し方に懐かしさを感じる。
額を突き合わせ、眦を和らげ、琥珀色の瞳を潤ませる。
自らの眼に映る全ては、間違いなく乃木園子だった。
「何で園子が泣いているのさ」
「だって、かっきーのお父さんもお母さんも私会ったことあるから。私も悲しいよ……」
「―――そっか」
透明の液体が琥珀の瞳からこぼれ、白い肌へ流れていく。
園子も悲しんでくれているのだ。
また視界が滲むと、抱きしめられた。
「かっきーは悪くないよ」
「―――――」
園子は言ってくれた。俺は悪くないという慈愛に満ち溢れた言葉に、心が震える。
本当にそうなのだろうかと俺は思う。
それでも、いつまでもうじうじと、過ぎたことを言っていても仕方がないとも思う。
結局は乗り越えるしかないのだ。
そうして二人で涙を流して、ずっと抱き合っていた。
涙が枯れるまで。
---
ベンチでひとしきり泣いた後。
俺達は、肩を寄せ合うように座っていた。
いつの間にか世界は静かだった。誰もいなかった。
「―――――」
少しだけぼんやりする思考のままで、昏い夜空を見上げる。
星は見えない。雲もない。
そんな中で見る月の姿に、夜空に見覚えを感じた。
ふと隣を見ると、いつの間にか園子がかき氷を食べていた。
「……? はい、かっきー。あーん」
「あー」
こちらの視線に気がついた園子はプラスチックのスプーンで氷をすくい、こちらに運ぶ。
されるがままにしていると、乾ききった口内を冷たくシャリシャリする氷が潤いをもたらす。
シロップの味は何とも言えない物だった。
「美味しい」
「でしょ~?」
そのまま園子が自分の口に氷を運びながら、
「これって間接キスだね~」とほわほわした笑みを浮かべて言う様子に俺は苦笑して応じた。
しばらく静かな空間が出来上がる。
そんな中で響く音は、園子がせっせと口に氷を運ぶ音だけだ。
身体に感じる柔らかで暖かな肌の温もりに意識を微睡ませていると、
「かっきー、私のことは好き?」
「相変わらず唐突な……。好きだよ」
「かっきーは私との約束を守らないで、この場所に一人で沈むような薄情な人なの? 針千本飲ますかな~」
「……それは勘弁だな」
「でしょ~! だからね……」
かき氷の容器を空にした園子は、ベンチに座る俺の前に屈み込む。
同じ目線で顔の距離が近い中、細い指が俺の頬を撫でる。
泣いて枯れ木のようになった俺に、
「私はかっきーに会いたいけど会えないから。かっきーから来て欲しいな~って思うんだ」
――――俺がここから再び立ち上がる理由をくれた。
この甘い夢から目覚めても、折れないように。
それが分かった。失った物は多いが、それでも残っていた物があることを思い出せた。
「……そうだな。一緒に線香花火をするって約束、したもんな」
「忘れたって言ったら許さないところだったよ~」
「それは怖い」
足に力を入れ、重い腰を上げる。
そうしてベンチから立ち上がると、気がつくことがある。
「園子……まさか成長止まった?」
「その言い方はないよ〜かっきー。この姿が一番、かっきーにとって印象的だったのかもね~」
「はあ」
そう言って、その場でクルリと回転する浴衣を着た園子の姿は少し幼く感じた。
単純にこの頃の園子の記憶しか持っていないから、ちんまりしているという事だろうか。
背丈があの頃と変わらないからか、俺の身長よりもだいぶ低かった。
「かっきーは大きくなったね~」
そうして手を差し出してくる。
差し出された園子の白く柔らかな手をとり、俺達は夜の沿道を二人だけで歩き出した。
月明りが道を照らす。向かう場所は分かっていた。
気が付くと、あれだけいた人々は影も形も無かった。
「そう言えば、身長の差って15センチがベストらしいって~」
「へー」
他愛ない世間話をしながら目的地へと向かう中で、俺たちは次第に無言になった。
気まずい無言という訳ではない。
ただ、彼女の手のひらから伝わる肌のぬくもりだけで十分だった。
やがて辿り着いた場所は、加賀家の家だった。
「ここまでかな~」
「そっか……」
別れの時は早かった。門扉の前で向き合う。
夜風が彼女の金の髪を揺らす中で、早口に告げる。
「園子、俺は忘れない。俺はお前を忘れない。すぐに会いに行く」
「―――うん。私もかっきーの事を片時も忘れたりなんてしないよ~」
手のひらに感じる暖かなぬくもりが離れる。
最後に少しだけ話を続ける。
「そういえば、お前って……」
「うーんとね〜。私の所持している精霊に……まあ説明はあっちでするよ~」
「そっか。園子、俺がお前に会ったら何をして欲しい……?」
「えっ、そうだね~。うーん……悩むけど」
唇に手を当てて、しばらく考える園子だが。
やがて思いついたのか、小首を傾げて口を開く。
「私の傍にいて、一杯お話をしたいな~とか?」
「分かった」
門扉を開け、家の扉に向かう。
もう振り返ることはなかった。
---
「ただいまー」
綾香が俺を迎え入れた。
靴を脱ぎ、居間へと向かうと2人がいた。
居間の戸口に立って彼らの顔を見る。
新聞を読む宗一朗。
編み物をしている綾香。
そっとテーブルに巾着を置き、お土産に屋台で買った物を置いておく。
「おっ、焼きうどんか……いてっ」
「こらっ」
目ざとく見つけた宗一朗が手を伸ばすが、綾香に手をはたかれる。
叩かれた手を振り息を吹きかける宗一朗を無視しながら、綾香が告げる。
「おかえり、夕飯あるけど食べる?」
ほんのりと薄くも上品な笑みを浮かべて、綾香はおかえりと言った。
俺はそんな彼らの姿をジッと見てから、ゆっくりと首を横に振った。
「もう食べたから……でも、ありがとう」
これ以上いると、本当に抜け出すことが出来なくなる。
拳を握りしめると、微かな熱が俺を動かした。
可能な限りの笑みを浮かべる。
「父さん、母さん……ありがとう。―――――愛している」
最後に俺の告げた言葉に、彼らがどんな顔をしたかは見なかった。
居間に背を向けて走る。走った。
決して後ろを見ることだけはしなかった。
二階へと駆け上がり、自らの部屋の扉を開けた。
それで何かが終わった。
決定的な道が決まったのだ。
---
扉を開ける。
そこは、暗闇に満ち溢れた世界であった。
草木溢れる草原に、虫や生命などは存在しない。
冷たくもなく、温かくもない風が草木や己の頬を撫でて空へと駆け上った。
ここの夜空には雲は無い。星もない。あるのは月だけだ。
夜空はどこでも変わらないらしい。
月の青白い光に照らされて、銀色にもピンク色にも見える桜の大樹が、世界の中心にそびえ立つ。
本来ならば草木が避けて道を作り出し、来訪者が丘を登るのだが今回は違った。
丘の頂上。
この世界の王が背を向ける桜の大樹。
その木から入る形になった。
「……」
無言で扉を閉めると、扉は大樹の一部と化した。
ソレから目を離して、
椅子から立ち上がり、歓迎の意を示しこちらに笑いかける王を見つめた。
「―――――やあ、再覚醒おめでとう」
「……」
「およそ12回目……いや13回目か。予想よりも少ないが、今回は彼女に感謝するといい」
「……」
白い椅子に手を置く黒髪の少女。
白いテーブルの端にあるランタンは燈色の明かりを照らし出す。
「さて、それじゃあ始めようか」
こちらを見据える指輪の世界の王の瞳は、
こちらを嗤って見る少女の瞳は、
血の色をしていた。