変わらぬ空で、貴方に愛を   作:毒蛇

62 / 93
「第六十話 消える想い」

 ――淡々と語られる中で、俺は呟いた。

 

「国防、仮面」

 

「はい」

 

「……分からないですね。それが、その、何か?」

 

 目の前のかつての恩師、安芸が夜に降る霧雨の中、唐突に告げたそのワード。

 去り際に口にするにはあまりにも唐突に感じられる謎の言葉に対して、

 放たれた言葉の裏の意味を考え訝しむ俺の姿から、大赦の仮面を着用する安芸は顔を背け、

 

「いえ、ちょっとした事ですので。忘れて下さい」

 

「はあ……」

 

 そう言って安芸が乗り込む大赦のマークが付いた車、運転席には誰もいなかった。

 助手席に座り、こちらを一瞥することない安芸の仮面を見ていると、男の低めの声が聞こえた。

 恐らく運転手の役もあるのだろう、仮面を着けた男の方の神官が乗り込む前にこちらを向いた。

 

「亮之佑様」

 

「はい?」

 

「不肖の妹を、今後も宜しくお願いします」

 

「―――――」

 

 唐突なソレに返事をする前に車のドアは閉められ、程なくしてエンジンの音を小さく響かせた。

 乗り込む寸前の男の声音には何の感情も無く、その真意も、告げた表情も仮面に隠されていた。

 少し前、風が暴走していた際に俺の端末に電話を行い、的確なナビゲートを行った声と似ていたと、

 暗く悲しいだけの仲間との戦いの記憶を媒介に、俺は目の前の人物の正体を察した。

 

「有能なんだろうけどな……」

 

 その言葉に応じる者は誰もいない。

 白い霧雨が走り去る車を徐々に覆い隠していく中で、俺が呟く声は雨音に塗りつぶされた。

 後に残るのは、握り締めた掌にある新品の携帯端末だけであった。

 

 

 

 ---

 

 

 

「ああ、国防仮面ってのは、確か最近になって讃州市付近に出没するヒーローもどきですね」

 

 讃州中学校の教室。

 休み時間、ロッカーを背もたれにしながら男二人、そんな中一世に国防仮面について聞いてみると、その言葉と共に緑色の自分の携帯端末をポケットから取り出し、亮之佑にある映像を見せた。

 差し出された携帯端末の液晶が映すのは、ある動画サイトにアップロードされている動画であった。

 

「これですよね?」

 

「―――――」

 

 呆然としながら画面を見る俺は、一世に掛けられる声に応えることなく無言でその動画を見た。

 動画が進む中、視界を通して伝わるその動画の内容に対して思うことは一つだけだ。

 

 ――なぜ、と。

 

 再生される動画を見た時、直感で何が起きているのかを察した。

 分からないはずがない。その存在を分からないと言えるほど薄情な付き合いをした覚えはない。

 その声に、その体格に、その髪色に、その瞳を忘れるような絆を育んだ覚えもない。

 コスプレじみた変装で騙せていると思うならば、騙せているのは己だけだろう。

 

「これ、は」

 

 昨日安芸と青年が帰った後、体に感じる倦怠感が酷く、件の言葉の意味を調べる前に寝てしまった。

 それでも眠りにつく寸前、寝台に横たわりながらもその言葉の意味を知ろうと思っていた。

 あの安芸が最後に呟いた言葉が脳裏から離れなかった。

 

 学校では期待する訳ではなく、惰性で聞いてみたところ、容易に的中してしまっただけだ。

 液晶に映る背景の見覚えのある道路は、讃州市内であることを地元民である俺は即座に理解した。

 動画では何人かのギャラリーが囲み、見上げる先にいる一人の人間、否少女が撮られていた。

 

『国を守れと人が呼ぶ! 愛を守れと叫んでる!』

 

 堀の上にいるその少女は、軽やかに二本の脚で立っている。

 強い衝動を深緑の瞳に宿らせ、立ち誇る少女の姿は凛々しさをも感じさせる。

 しなやかな肢体を包む過去の将校を思わせる黒寄りの軍服と黒の外套は微風に揺られ、

 帽子と赤いマスクを着け、正体を隠している少女は動画の最後に高らかと名乗りを上げていた。

 

『憂国の戦士! 国防仮面見参!!』

 

 その出で立ちは、かつての日本軍の将校を彷彿とさせるものだったが、声高に叫び、低めの声で自らを国防仮面と名乗る人物は、間違いなく少女であるのは直感でなくても分かった。

 

 声が決定打という訳ではない。先ほどから舐めるように映りこむ服の上からでも判る豊満な胸と白い肌、正体を包み隠す赤いマスクの顔を往復していれば、大抵の人物ならば分かるだろう。

 単純にその撮り方、アングル等に、脳裏を掠める程度だが見覚えがあると思った。

 

「なあ、これってさ。誰が撮ったんだ?」

 

「十六夜さんです」

 

「ああ、彼女か」

 

 唐突ではあるが、十六夜涙という淑女がいる。

 彼女にも強い癖があり、普段は隠しているが性的に女子の事が好きという少女であった。

 

 十六夜の弱みを掴み、『お友達』になった際に判明した写真と動画を撮る趣味なのだが、

 見せて貰った変態の如きアングルや撮り方は、俺ですら素晴らしいと思わせる程だ。

 将来は立派なカメラマンとして活躍するのは間違いなく、有望な人物であると評価している。

 

「―――――」

 

 隣のクラスにいる可憐な淑女から、意識を目の前に映る少女へと戻した。

 携帯端末の液晶、その動画の中で、背中に垂らされた黒髪は外套と共に風にたなびいている。

 その濡羽色の髪をまとめる青いリボン、低めとはいえ聞きなれた声が機械越しに映りこむ。

 確信を抱き始める中で、こちらを見る一世は切れ長な瞳を輝かせ、亮之佑に声を低くする。

 

「ボスはこのコスプレイヤーのファンか何かですか?」

 

「――。まぁそんなところ。……この少女って、最近どんな感じで活躍しているんだ?」

 

 その後、あまり詳しくは無かった一世と共に他の紳士や淑女に挨拶がてら聞いてまわったところ。

 国防仮面は讃州市を中心として活動し、平日は夜のみ、休日は昼から出没するという情報を得た。

 その実態は国を愛する戦士の一人で、ファンとなる人物も増えているらしい。

 

 様々な情報によって、俺の心中では誰が国防仮面をしているかの確信は更に深まっていく。

 ――というよりも話を聞き反応を見る限り、亮之佑と同じ予想をしている紳士や淑女は多く見受けられたが、やっている事は慈善活動、多感な時期なのだろうと傍観者を気取るつもりらしい。

 

「…………」

 

 昼休み。

 教室に戻ると自分の机の上で突っ伏して眠る東郷と、それを遠巻きに見る少女達を見かけた。

 友奈や夏凜、そして園子が仲良く昼御飯を食べている姿を見つつ、東郷の席へと俺は向かう。

 

「東郷さん」

 

「――――ん」

 

 数秒ほど見下ろすと、自席に突っ伏す少女の白い首筋と髪の黒さに目を奪われた。

 呼吸する度に上下する肩、カーディガンと艶のある長い髪を見下ろし名前を呟くが反応は薄い。

 腰を下ろし、前髪と腕で隠されている少女の顔を見ながら俺は彼女の二の腕を突く。

 東郷の席は以前と変わりなく、廊下側の一番後ろの席であったが、今は周囲に人はいない。

 

「―――――」

 

 学校特有の休み時間、多くの生徒が騒々しい中で一人眠る普段は真面目な少女。

 この少女との付き合いは既に2年が経過したのだなと思うと、僅かに感慨深いものがある。

 こんな風に気安く話をし、触れ合うことが出来るようになってから随分と時が流れたと感じた。

 

「……ぅ」

 

 そんな風にカーディガンに包み込まれている東郷の二の腕をぼんやりと掌で揉んでいると、

 体に伝わる反応に東郷は呻き、顔を動かして腕と髪の間から普段より陰る深緑の瞳を覗かせた。

 

「亮くん? どうしたの……?」

 

「――東郷さんが気になって。具合でも悪いのか?」

 

 腰を下ろし、机で突っ伏しながら目を擦る東郷と瞳を交わらせながら口を開く。

 そう聞くと、寝起きでぼんやりとしていた東郷は緩慢とした動きながらも健気に微笑んだ。

 目の下には少しではあるが隈が出来始めている彼女は、その言葉に少しずつ身を起こし始めた。

 

「大丈夫よ、亮くん。気にしてくれてありがとう」

 

「……保健室とか」

 

「大丈夫」

 

 きっとここで東郷を問い詰めても、頑固で極端な行動をする彼女はきっと否定し続けるだろう。

 平日の夜遅くまで活動を重ね、体に無理を強いながら、少ない体力を懸命に学校で補充している。

 

 どのみち、何かしら決定的な証拠は何も無いのだ。今はまだ。

 そう考えた俺は悪戯に眠りから目を覚まさせた事に申し訳なさを感じ、肺の中の息を抜いた。

 

「――亮くん?」

 

「……」

 

「あ、あの……」

 

 戸惑いの声を上げる東郷を無視しながら、無言で彼女を見つめ子供をあやすように頭を撫でる。

 身を起こし始める彼女の動きを止めさせて、寝ていた初期の状態へと体勢を戻していく。

 

「起こして悪かった。だからもう少し寝てていいよ」

 

「……でも」

 

「時間になったら、ちゃんと起こすから」

 

「……亮くんは優しいわね」

 

「――だろ?」

 

「そこは謙遜するところよ? でもありがとう、亮くん」

 

 いつもならば強情に意地を張り起きようとする東郷だが、今日はそんなことは無かった。

 むしろ大義名分を得たとばかりに小さく疲れの見える微笑を浮かべながら、再度机に突っ伏した。

 昼休みはおよそ15分ほどしか残ってはいないが、仮眠ならば十分だろう。

 

「―――――」

 

 数分ほどで再び眠りについた東郷を、引っ張ってきた近くの椅子に座り頬杖をつき見下ろす。

 沈み込むように、失神するように眠り込む彼女の近くで僅かに聞こえ出す吐息を聞きながら、

 他人がいる教室で無防備に眠る少女の寝顔を前に、脳裏でスケジュール調整を始めるのだった。

 

 

 

 ---

 

 

 

 そうして学校も終わり、月夜と星々が見下ろす夜がやってきた。

 社会人ならばいざ知らず、中学生などは補導されかねないが、奇術師を舐めてはいけない。

 そんな訳で、既に俺は国防仮面との接触に成功していた。

 

「財布ってコレですよね?」

 

「はい! ありがとうございました。――ところで貴方は……」

 

 白い手袋から渡される小銭入れは、間違いなく俺の物であった。

 それを受け取りながら、そっと俺は眼鏡越しに笑顔で頷きながら計画の完璧さに肩を震わせた。

 その震えを歓喜故であると受け取り、笑みを浮かべる軍服の少女は、月下で名乗りを上げた。

 

「私は憂国の戦士―――国防仮面!! 財布が戻って良かったですね、では……」

 

「まっ、待って下さい! ぼ、僕は貴方のファンなんです! あの、貴方の愛国の精神に触れて、僕も貴方に国防色に染められたくて……どうか握手をお願いします!」

 

 お互いに変装した者同士、偽りを着飾り会話する。

 自分で言っていて何だが、護国精神に染まったつもりは無い……という思いは決して顔にも態度にも出すことはしない。相手を騙すには、まず自分から騙すことが変装の基本であると俺は考えている。

 

「……国防」

 

「はい、国防」

 

「――――ッ」

 

 ポツリと呟かれる国防という言葉に反応する少女に再度告げると、少女は体を僅かに震わせた。

 そうして暗がりに一人、外套をたなびかせ夜に溶け込もうとする少女を懸命に引き留める。

 緊張に喉を震わせ、頭に載せた帽子へと伸ばす手を抑えて、必死に自分の支持者であると告白する少年は、国を護り、人を護り、平和を愛する仮面少女にどう映ったのだろうか。

 

「……どうか、お願いします」

 

「―――分かりました。これからも共に国防をしていきましょう」

 

 そうして恐る恐る出される国防仮面の白い手袋に包まれた手を俺は握る。両手で握り締める。

 白い手袋越しであっても判る柔らかさと感触は、昼頃に触ったソレと同一であった。

 

「あ、あの……」

 

「―――今は夜の10時30分を少し過ぎた頃」

 

 何かを確かめるように己の手を握手と言うにはねっとりとしたソレに戸惑う声を、

 演技の為に低めに出している少女の声を塗りつぶすように、俺は微笑を浮かべ首を傾げた。

 

「月明りが少し過ぎる頃、人通りの少なくなった町で人助け。昼夜を問わず誰かを助けようという慈愛の心は実に素晴らしい。だが―――――」

 

「……?」

 

「だからこそ、こんな簡単に悪ーい男に掴まれるのさ」

 

「なに、を……」

 

 震え、戸惑いに地声を思わず出す声に応える声はない。

 唐突で脈絡の無いどこか過剰な演技で語り出す、臆病であったはずの少年の姿はどこにも無い。

 愕然とするその眼差しを見つめ、とっさに離れようとするその手を握り締めながら、

 

「そんなコスプレして街中を歩き回るってどんな気持ち?」

 

「――――りょ」

 

 元に戻した声に、目の前の人物が誰か気付いたのか、少女は安堵と不安を瞳に宿らせる。

 月夜が僅かに照らす中、深めに被った帽子を上げ、薄い笑みを口端に浮かべながら、

 状況の変化に追いつけず唖然とする目の前の少女を反応を余所に、俺はクツ……と笑った。

 

「東郷さん、つーかまえた」

 

 

 

 ---

 

 

 

 夜の散歩も悪いものではない。

 誰もいない中で、唯一自分以外の存在を強く感じ取ることが出来るからだ。

 国防仮面は東郷美森であったことが数分前に判明し、事情聴取の為に俺たちは移動した。

 

「―――はい」

 

「―――ありがとう」

 

 途中の自販機で買ってきたお茶の入ったペットボトルを渡す。

 受け取りながらも神妙な顔をして両手をお茶で暖めている東郷を尻目に、俺も買ったお茶を飲む。

 舌から食道へと伝わっていくふくよかなほうじ茶の香りと甘み、温かさが体を包み込み、

 数回ほど繰り返し味わっていると、血の循環が良くなっていく感覚が分かった。

 

 既に変装は解いていた。

 東郷はマスクだけを取り、その雪のように白い肌を外気へと晒していた。

 

 加賀家も東郷家からもそう離れてはいない、およそ徒歩5分程度にある小さな公園。

 街灯が小さな木製ベンチへと薄暗い光を浴びせる中、俺と東郷は二人で座っていた。

 

 ――街灯の届かない先は、ひたすらに暗闇が広がっていた。

 

 寒さと時間と季節も関係しているのか、薄暗く静寂な空間は、この世界に二人だけになってしまったのではないか。

 そんな在る筈のない幻想を抱かせ、お互いの体の体温が分かる程に隣に座って密に触れ合っていた。

 

「それで――申し訳ないってのは?」

 

「その、体が元気になったら居ても立ってもいられなくて……」

 

「――――」

 

 無言で促すと東郷は続けた。

 

「私が壁を壊してしまったこと。一時の感情とは言え、世界を危機に陥れてしまったのは事実で、それって赦されないことだから……。私、これからどうすれば、どうやって償えばいいのか、分からない……」

 

 過去の後悔を語る東郷の声に、微かな震えが混じる。

 それは、大赦からお咎めの無かったことへの安堵と不安、後から生じた罪悪感と、様々な矛盾に満ちた感情の混ざり合ったものであり、急に感じた寒さに俺はそっと身を寄せた。

 

「何か罪滅ぼしがしたくて……何か出来ないかと考えて……」

 

 極端な行動に奔る東郷は、焦燥と後悔に襲われている。

 下を向く東郷にこの表情をさせる要因に、彼女の心は襲われている。

 

「だから、国防仮面」

 

「ん」

 

 俺の問いかけに小さく答える東郷の唇は震えた。

 やらかした罪の重さに、一時の感情で起こした行動への後悔を東郷は吐き出した。

 犯した罪の意識に耐え切れず、決して自分の行動を赦さない、赦したいと思えない。

 ならば――

 

「――俺が赦すよ」

 

 その一言に、東郷は顔を上げた。

 

「……ぇ?」

 

 全ては終わった事だと、そう言い切り、割り切る事が出来たのは、『今』だからだろう。

 あの日、俺は間違いなく東郷が憎かった。溢れ出す憎悪と殺意を胸に灯し、この世界を見捨て、

 切り捨てようとする東郷の想いに対して、風と異なり何一つ共感出来なかった。

 

 結局は結果論でしかない。都合良く何とかなっただけ。運が良かった程度だ。

 この先がどうなるかは判らないが、ひとまずは何とかなっただけ。

 多くの犠牲を出しながら、心を砕き、苦しみと戦って今を掴み取った結果でしかない。

 それでも――

 

「東郷さんが、自分のことを、行ったことが赦せないって言うのなら―――俺が赦すよ」

 

「――――ぁ」

 

 万感の思いを込めて、俺は告げた。

 顔を上げて、東郷はようやく正面に立つ俺を見つめた。

 眦を下げ、目尻を赤く染めながら、丸く大きな深緑の瞳に俺の姿を映している。

 

「確かに東郷さんがやったことは許される事では無いのかもしれない。壁を壊し、人を焼き焦がし、世界を絶望に陥れようとした事は。でも――」

 

「――――」

 

「友奈や、園子、風や樹、夏凜を想って行動し、世界を破滅へと導いたことを、俺が赦す」

 

 傲慢に、不遜にそんな戯言を口にする俺の姿を東郷は見つめる。

 深緑の瞳がこちらを見つめる。その瞳を、俺は穏やかに見返した。

 誰にも裁かれない巨大な罪。その重さに耐え切れないのならば、皆で一緒に持てばいい。

 

「俺だけじゃない。皆だってちゃんと赦してくれるよ。絶対に」

 

「亮、くん……」

 

 その言葉に、不安な光を湛えて赤く潤んだ東郷の瞳に波紋が生じる。

 告げられた言葉を受け、なお不安気な東郷の、細い、彼女の体を抱きしめた。

 

「亮くん……っ」

 

 世界中が空気を読み、二人の邪魔をさせないかのように静寂が満ちる世界で、

 秋の終わり、冷える夜の空気の中で、細く柔らかで暖かい東郷の体を抱き寄せる。

 最初は東郷の家で話をすることも考えたが、どうしても二人だけで話をしたいと東郷が告げた小さな公園には誰も、人一人いない状況であった。

 

 抱きしめ、僅かに身じろぎをする東郷は、小さく俺の名前を呟く。

 そうして堪えた涙を頬に流して、

 

 ―――ありがとうと、涙声でそう言った。

 

 

 

 

 

 ---

 

 

 

 

 

 最近流行の風邪は、俺にも直撃したらしい。

 

「んん……」

 

「亮さん、大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だよ、樹ちゃんや。それよりそろそろサイトの更新の時間じゃない?」

 

「あっ、そうですね!」

 

 幸い喉が多少痛む程度なので、のど飴を舐める等の対処で誤魔化している。

 椅子に座り、デスクトップ型のパソコンに向き直り、拙さのある手でキーボードを操作する樹の背後から、悠然と業務を懸命に遂行する後輩を見る。

 

 勇者部のホームページ更新作業は、少し前から俺ではなく樹へと継承された。

 今は研修期間中である樹の髪色と旋毛を見下ろしながら、着々と成長している姿を見る。

 そうして作業をしている途中で突然、「あっ!」と驚きの声を樹は上げた。

 

「どうした?」

 

「見てください……幼稚園の方達からお礼のメールが届いてますよ! お姉ちゃん! 一杯来てるよ!」

 

「本当ね。この間のは滅茶苦茶好評だったしね」

 

「親御さんは苦笑いだったけどね。あれ考えたの誰よ?」

 

 樹の声に集まってきた風が調子良く告げるのに対し、夏凜のツッコミが炸裂する状況。

 それらには目もくれず、俺は受信トレイに届いている固いビジネス文章で練り上げられた感謝メールの一字一字をじっくりと読み込んだ。

 

 そんな12月が遂に始まった平日の放課後。

 外では運動部が相変わらず騒がしく活動し、人のいない校内では放送部等が程ほどに騒がしい。

 僅かに物足りなく、つまらなく感じる日常風景を今日も俺は過ごす。

 

「ごめんごめ~ん。掃除の途中で寝ちゃったんよ~」

 

「園子……そんな時に眠れるのは貴方くらいよ?」

 

「褒められた~! ……あっ、かっきー。喉は大丈夫?」

 

「まあ、そこそこ」

 

 呆れた口調で告げる夏凜の言葉を、褒められたとポジティブに喜ぶ園子。

 その様子を見ていると、その視線に気づいた園子がテクテクと歩き近寄り僅かに眉を顰め、

 「これ抱きしめてていいよ~」と学校に持ってきていたサンチョを渡して来た。

 

「というか、本当に大丈夫なの?」

 

「――大丈夫ですよ、風先輩。心配せずとも移しませんよ」

 

「いや、そこじゃなくてね……まあいいか。それじゃ全員揃ったし、みんな、部会始めるわよ!」

 

 相変わらず依頼の中に猫の里親探しを見つけた俺は、そっと部員全員の様子を見た。

 友奈に樹、園子、夏凜が椅子に座り、時折頷き相槌を打ちながら風の話を聞いている。

 

「…………」

 

 いつもの日常風景だ。

 何も異常なことは無いはずだと、そう思いながらも、心がざわついた。

 そんな事を考えている中で、ふと俺は思った。

 

 

 

 ――誰かがいない、と。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。