変わらぬ空で、貴方に愛を   作:毒蛇

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「第六十五話 憂鬱を呑み込み、私は笑った」

「――友奈」

 

「みんな……」

 

 羽波病院の3階、逸る鼓動を抑えながら友奈が風が搬送されたという場所へ向かうと、

 東郷や園子、亮之佑といった風本人を除いた勇者部全員が待合椅子に座っていた。

 誰もが無言で話すことの無い静寂、病院の白い壁に背中を預け腕を組んでいた夏凜が気づいた。

 

「風先輩は……!」

 

「―――」

 

 無言で向けた視線、夏凜の視線の方向を見ると、壁に『緊急外来』と書かれている標識があった。

 緊急外来。その言葉の意味を友奈は知らずとも、暗く最悪な方向への予想だけは出来た。

 立ち止まり見回す勇者部の面々、彼女たちの悲痛の表情が、心配気な瞳が友奈に向けられた。

 

「―――ッ」

 

 頭を垂れ、ジッと病院の床へと向ける双眸、不安に薄緑の瞳を揺らす樹は何も言わない。

 誰も彼もが暗い表情であっても、それでも何も、誰とも口にはせず、その時を待っていた。

 

 友奈も椅子に座った。

 冷たい白い椅子に座り込み、何も言わず、何も言えず、ただ待った。

 俯き暗い顔をしている樹に掛ける言葉など、何もなかった。どんな事を言えばいいのか。

 

「――――」

 

 それから更に1時間ほどの時間が経過した。

 たったの1時間であっても、体感的にはそれ以上の時間に友奈は感じられた。

 背中に不快な冷や汗が流れ、もしかしたら……と、何度目かの暗い考えが脳裏を過った。

 

 せめて回復を、と願うばかりではあるが、果たして自分にはその資格があるのだろうか。

 ただ友奈は自分の秘め事を先輩である風に相談しようとしただけだったのだが、

 最初に5人に話をした時に己の瞳が捉えた太陽の刻印は、決して気のせいではなかったのだ。

 

 ――相談しようと思ったことが間違いだった。

 

 気のせいだと思って、不安に駆られて、もしかしたら偶然かもと期待して、

 もう一度確かめようと先輩である風に相談をしようとしたのが、そもそもの間違いだったのだ。

 だって、偶然に2度目はないのだから。風が怪我をしたのが、誰の責任かで言えば――

 

「――――」

 

 この時、友奈の頭の中を支配していたのは、沼の如き明確な答えの見えない自問自答であった。

 確証はないが、偶然であると言い切るにはあまりにも出来過ぎている。

 まるで、いや間違いなく、友奈が誰かにこの事を話す事で被害は出ている。

 

「―――?」

 

 ふと考え込む友奈の耳朶に、誰かの声が響いた。

 小さな、それでも耳に届いた少女の声は疑問であり、同時に聞こえるカラカラという車輪の音は、

 ずっと目を閉じていた亮之佑も、呆然と床を見ていた樹も、音源である廊下へと目を向けて、

 

「―――ぁ」

 

「お、お姉ちゃん」

 

「いやー、まいったわ……」

 

 青色のストレッチャーにその体躯を乗せ、看護師に運ばれてくる風の姿を目に映した。

 友奈も何度か着たことのある薄い緑の手術着を身に着け、頭には包帯、首には固定具がされていた。

 袖口から見せる腕は白い包帯で幾重にも巻かれており、素肌を見る事は出来ない。

 

「風先輩……」

 

「フーミン先輩」

 

「あー、大丈夫大丈夫……。そんな大したことないって。まったく、信号無視するなっての……」

 

 皆が口々に風の名前を告げてストレッチャーに近寄る中、咄嗟に友奈は傍にまで行けなかった。

 単純に何を言えば良いのか分からず、明るい口調と裏腹にボロボロなその姿を目にして、動けなかった。

 

「―――っ」

 

 友奈自身は車に轢かれた経験はない。

 だから想像と反して、実際に見た風の痛々しい姿に足が竦み、ズキリと胸が痛んだ。

 

「みんな、来てくれてありがとね」

 

 風を取り囲み、よほど心配気な顔をしていたのだろう。

 一歩後ろにいた友奈には、その一言が友人たちの強張らせていた体を弛緩させるのが見えた。

 見えずとも、風の明るい口調に、先程までの淀んだ空気が減っていくのが友奈には分かった。

 

「まったく……人騒がせなのよ、あんたは」

 

「うっ……。少しは部長を労わりなさいよ」

 

「命に別状はないんですか?」

 

「それは大丈夫だから、大げさね」

 

「受験生に酷な事を……」

 

「いや、大丈夫だから、絶対受けるから! すぐに治すから!」

 

「なら肉と酒とチーズを食べた方が良いよ、3日あれば大体治る」

 

「聞いた事ないんだけど!」

 

「――病院ではお静かに」

 

 ホッとしたのか、冗談交じりに話す夏凜、真面目な顔で受験の話をして心配する東郷。

 亮之佑に嘘か本当か分かり難い治し方を伝授され、ツッコミを入れる風と、厳かな口調の看護師。

 さっきまでの空気は嘘のように、大事には至らず、安堵の空気が満ち出す中で、

 

「妹さんですか?」

 

「は、はい」

 

「入院の手続きがありますので、一緒に来ていただけますか?」

 

「はい」

 

 処置を終えた為、入院手続きへと移行するべく、姉妹である樹に看護師は声を掛ける。

 静かに問われる看護師の言葉に慌てて答える樹の声は、僅かに疲れが滲んでいた。

 それは樹だけではなく、ここで風の容体を知るべく駆けつけた全員が同じ状態であった。

 

「あ、それじゃあね。みんな来てくれてありがとう!」

 

「――お静かに」

 

 ストレッチャーに運ばれていく風の姿、包帯に巻かれながらも変わりない姿を見ていた。

 緊張感の消えた廊下で、喜ぶ友人たちの姿をどこか范洋とした感覚で見ていた。

 運ばれる風、彼女の姿が廊下の角で消えるのを、友奈は未だ消えない衝撃に無言で見ていた。

 

 

 

 ---

 

 

 

 未だに漠然とした意識の中でも、どうにか友人たちと話はできていた。

 抱えた不安には気づかれず、誰かに胸の刻印を悟られず、平然と帰宅しようとしていた。

 園子と夏凜、二人とは病院から徒歩10分程度の、信号のある交差点で別れた。

 

「それにしても、道路交通法違反なんて、やっぱり許せないわ!」

 

「あはは……、さっきも東郷さん同じこと言ってたよ?」

 

「まあ、轢かれる側って、本当にどうしようもないからな」

 

「そうなのよ。……本当に、みんなの身に何かあったら私、きっと正気じゃいれらない」

 

「――――」

 

 静かな夜道、東郷と亮之佑の3人で自宅を目指しながら、ゆったりと雑談をして歩いていた。

 近所に住まう中で、自然と仲良くなった2人、彼らと他愛の無い会話をしながら、

 ポツリポツリと街灯が並ぶ夜道を、時折吐く息が白くなる温度を肌で感じながら帰宅する。

 

 やがて、最初に東郷の住まう屋敷が見えた。

 相変わらず和風の武家屋敷とでも言うべきか、以前の車椅子生活のバリアフリー環境の名残が残る屋敷の門扉に東郷が手をかざしながら、亮之佑と友奈に振り返った。

 

「それじゃあ二人とも、夜更かししないで寝なさいよ。特に亮くん」

 

「はいはい。あっ、東郷さん。――今日は月が綺麗ですね」

 

「えっ……!!」

 

「――?」

 

 声を上げる東郷と亮之佑の言葉に釣られて、何となく友奈は夜空を見上げた。

 少年の言葉通り、時折星が瞬く夜の中、浮遊する雲の間から三日月が覗き見下ろしていた。

 青白い優しい光を放つ三日月の光は、友奈の暗い心を照らさんと静かに降り注いでいた。

 

「……本当に綺麗だね、東郷さん」

 

「えっと、そうね、うん」

 

「あれ? 東郷さん、どうしたの? 月の光景が綺麗だなって言っただけなのに、どうして驚いているの? ねえねえ」

 

「――亮くん。この辱め、いずれ返しますので。おやすみ。友奈ちゃんもおやすみ」

 

「おやすみ、東郷さん」

 

 門扉が閉まり背を向ける黒髪、東郷の背中から目を逸らし、亮之佑に友奈は目を向けた。

 世界はすっかり夜の暗闇に染まる中で、月と小さな街灯だけが唯一の光源であった。

 東郷が自宅へと帰宅したことで2人きり、自然と沈黙しつつも歩き、結城家へと向かった。

 

「その、大丈夫か?」

 

「……ぇ?」

 

 隣を歩く少年、亮之佑が唐突に発した言葉に、一瞬何を言われたのかよく分からなかった。

 その言葉の意味が理解できず、友奈は少しだけ首を傾げて亮之佑に問いかけを発する。

 掠れた静かな声で見上げる友奈の表情をチラリと見た亮之佑は数秒ほど黙り、一呼吸おいて、

 

「今日は、辛そうだったから」

 

「――――」

 

 脚を止めると既に結城家の門扉前で、門の前には小さな明かりが来訪者を歓迎していた。

 見抜かれていたのかと恐々する中、思わず黙り込んだ友奈は何か言い訳を考え、

 訝しんだ亮之佑に自身の薄紅の瞳に宿す様々な感情を悟られる前に、辛うじて口を開いた。

 

「あっ、えっと……寒くて……」

 

「――。もうすっかり冬だもんね」

 

「うん」

 

 キチンと笑えているのかどうか、友奈自身よく分からなかった。

 向けられた濃紅の瞳に、精一杯の嘘をついて、震えそうになる声を押し殺した。

 

「じゃあ……」

 

 向かい合う友奈と亮之佑の距離は近く、2人を邪魔する者は夜道には誰もいない。

 平穏に、静寂に包まれている夜の空を、ただ青白い月光が降り注いでいるだけだ。

 そんな状況で、逡巡する感情が亮之佑の瞳を過ったが、友奈が読み取る前に瞬きで消えた。

 

「手を握ってあげよう」

 

「うぇ……?」

 

 突然の言葉であった。

 ニヤリとした口端、悪戯寸前でよく見る少年の顔に友奈が呆気に取られた直後、

 友奈の左手が少年の温かな両手に包み込まれているのに、僅かな時間の後に気づいた。

 

「本当だ。手、冷たいから暖めてあげよう」

 

「あはは……、ありがとう亮ちゃん」

 

 そうして包まれる少年の両手から伝わる体温に、初めて己の手の冷たさに気づいた。

 緊張に不安、焦燥の所為か、いつの間にか氷のように冷え切った手を亮之佑の両手が包み込んだ。

 細長く、それでも少しゴツゴツした手の感触は、暖かな温度にふと泣きそうになった。

 

「――本当に、ありがとうね」

 

 これ以上触れ合うと、湧き出す感情に本当に駄目になってしまいそうだった。

 名残惜しさを感じながらも、そっと少年の手のひらに預けた左手を離した。

 決して不快感があった訳ではない。むしろその逆、いつまでも触れ合っていたい。

 

「じゃあ、また明日」

 

「ああ。おやすみ、友奈」

 

「おやすみ、亮ちゃん」

 

 このまま内心に秘めた思いの全てを口にしてしまいたい。

 不安な思いを、抱えた秘密を、風やみんなを少なからず傷つけた罪悪感を、全て吐き出したい。

 痛いのだと、苦しいのだと、助けてと目の前の少年に縋るように言ってしまいたい。

 

 優しさと気遣いを帯びた濃紅の瞳に、その体躯に抱きついて、泣き出してしまいたい。

 湧き上がる感情のままに、乱れた思考と体を預けて、亮之佑に溺れてしまったらどれだけ良いか。

 

「――――」

 

 でも、そんなことは出来ない。してはいけない。

 実際に風に改めて相談をする寸前に、あの太陽の様な刻印が風の左胸に発生した。

 その後に事故に遭遇したのだ。友奈が風に話をしようとした為に事故にあった。

 

 天の力とはそれだけ強大なのだ。現実世界にいる自分たちに干渉出来るほどに強い。

 今ここで亮之佑に頼ったら、話をしたら、きっと、間違いなく彼を傷つけてしまうだろう。

 相談をすれば傷つける。語れば傷つける。だからいつも通りに笑うのだ。

 笑うのだ、結城友奈。笑え。願わくば、彼にこの思いが決して届かないように。傷つけないように。

 

「――ただいま」

 

 そうして家の玄関の扉を閉める。

 その寸前まで、友奈の背中に突き刺さる、亮之佑の瞳を見返すことは出来なかった。

 

 

 

 = = = = =

 

 

 

 この世界に朝は来ない。

 降り注ぐ光は太陽ではなく、静けさのある現実よりも美しい金色の月と満天の空から降り注ぐ。

 幻想的な世界、永遠に舞う夜桜が中心の世界で、亮之佑はその答えを初代から聞いていた。

 さきほど交わした握手。友奈の冷えた柔らかい手を通じて初代が調べた結果、判明した言葉。

 

「『祟り』ね……。呪いとは違うのか?」

 

「相違点としては、呪いというのは人や霊が人間に害を与えるべく悪意を持ってする行為のことかな。例えばだけども、呪いの藁人形とかに対象となる相手の髪の毛や爪を入れて釘を打ち込んだりするのは有名だよね?」

 

「丑の刻参りって言ったか?」

 

 生前に聞いたことのある言葉であったが、こちらの西暦時代でもあったらしい。

 『丑の刻参り』というのは、鬼門を開いて鬼を呼び寄せ、藁人形には憎い相手の魂を乗り移らせ、自分自身には鬼を乗り移らせるという呪術の組み合わせだという。

 7日にわたる呪いで、憎い相手に呪いの念が届くことも、失敗し自分も不幸になる可能性もある。

 

「呪うという心の念は、相手だけでなく自分自身にも影響があるものだ」

 

「人を呪わば穴二つ……。いや、話を逸らして悪かった。続けてくれ」

 

 促すと、小さく息を抜くように肩をすくめた初代はゆっくりとカップを傾ける。

 一服する初代を見ながら、白いテーブルの上にあるクッキーを手に取った。

 口に入れると生ぬるい舌を包むような甘さが広がった。独特の香りが鼻腔に抜ける。

 

「これ、桃か」

 

「あたり。それで祟りの方についてだが。祟りというのは、知っているだろうけども、神仏や人の霊魂が人間に与える災いのことだ」

 

「それが友奈に宿っていると……」

 

 呪いも祟りにも違いがあるが、共通点としては神仏や宗教と深い関わりがあるという点だ。

 この世界でも、神や仏、生き物や土地を大切にしないと災厄に見舞われる、などの『人』による『神』に対する畏れといった考え方があったらしい。

 

「治し方とかは無いのか?」

 

「一度祟られると手の施しようがない。根本をどうにかしなければ、どうしようもないだろうね」

 

 すらすらとどうしようもないと告げられる。

 理不尽であると、あまりに不条理であると、俺は奥歯を噛み締めた。

 

「神を倒すといかずとも、撤退させ力を削げば神樹がどうにか出来るかもしれないが、希望は薄いだろう」

 

「――――」

 

「あの様子だと来年の春を越えるかどうか。残念だが長くはないだろうね」

 

「は」

 

 友奈が祟りで死ぬ。

 残酷に、冷静に、淡々と、いずれ来る事実を告げられた。

 その事実が体の芯まで響き、衝撃に打ちのめされる心中、それを余所に思考は解答を導く。

 

「大赦……、勇者……、天の神」

 

「――――」

 

「初代、俺はさ。どのみち、友奈のいない世界なんて、俺は生きたいとは思えないよ」

 

 友奈がいない世界。そんな世界に用はない。

 世界はモノクロで、白と黒しかない冷めた世界よりも醜悪だ。

 無言で続きを問う初代の目線に、微かに口角を上げた。

 

 ――友奈は殺させない。

 

「人の弱みっていうのは、握っておいて損はない」

 

 

 

 = = = = =

 

 

 

 時間は刻々と流れていく。

 川の流れを、水の流れを堰き止める事など出来ないように時間は流れていく。

 表面上は平和で、誰かを犠牲にして誰もが無知で幸せな日々を送ることが出来る。

 

 ――自分が黙っていればいい。

 

 この1週間、不安に眠れず、時折体に奔る痛みに眉を顰めそうになる。

 それでも懸命に、堪えても、我慢しても、苦しみは減ってはくれなかった。

 体調は今のところ良好であったことだけが幸いであり、慰めであった。

 

「自分のことばかり……よくないな」

 

 友奈は勇者なのだから。

 誰かの為に頑張ることの出来る勇者でなくてはならないのだ。弱音を吐いてはいられないのだ。

 自分が何も言わなければ、誰も巻き込まず、みんな平和で幸せでいられるのだから。

 

「――――」

 

 そうして、友奈は風がいる一般病棟の個室、その部屋の前で足を止めた。

 実は勇者部の全員で、夜から風の病室で簡単ではあるがパーティーをすることになった。

 発案者は夏凜であったが、全員が満場一致での賛成となった為、本日は早めに来ていた。

 

 クリスマスイヴの日、街のイベントで学校の代表として歌うはずであった樹は、出場を辞退したらしい。

 姉である風が病室で寝ているのに、自分だけ楽しいことは出来ないと主張していた。

 ――これは友奈の所為だろうか。

 

「―――っ」

 

 暗くなる頭を振り、気合を入れる。分かっているが、風の前で暗い顔をしてはいけない。

 明るく、いつも通りに風へお見舞いとパーティーをして楽しませよう。

 そう決めて病室の、中にいるであろう風の部屋の扉に手を掛けて――

 

『ちゃんとご飯は食べている? 出前取っていいからね?』

 

『作ってるよぉ……。スーパーの御惣菜とか、亮さんに教えてもらった物とか』

 

 ――扉の先で、穏やかな雰囲気で話をする姉妹の会話の内容に思わず立ち止まった。

 

『ほんと、少し前までお米も炊けなかったのにね……。あいつ、教え方が上手いのかね』

 

『いつの話してるの、お姉ちゃん。随分と前の話だよ。朝もキチンと起きて準備もしっかりしているから、家のことは心配しないでね』

 

『――。なんか、樹の方がお姉ちゃんみたい』

 

『私のこと、お姉ちゃんって呼んでみていいよ……?』

 

『馬鹿言わないの。まったく………ありがとね』

 

『うん!』

 

 信頼に満ちた声が、向ける相手に対する親愛の言葉が、扉越しでも友奈には分かった。

 冗談交じりに交わされる家族の、お互いを思いやる暖かな家族の団欒が扉の先に広がっている。

 その2人だけの会話を、樹と風の会話を邪魔出来ず、ただ茫然とドアの前に立っていた。

 

 ――胸が痛かった。

 

『退院したら絶対楽しい事、いっぱいしようね』

 

『お正月……楽しみね』

 

『うん』

 

 いつの間にか引き戸に掛けていたはずの手は、己の胸に、刻印がある部分を押さえていた。

 唐突に起きるあの針が刺すようなチクリとした痛みではない。目の前で交わされる会話が、親愛と家族としての会話を交わし、明るい未来が必ず訪れると疑わないことに――

 

『今年は大変だったわねぇ。あれだけみんなが頑張ったんだから……』

 

『うん、みんな幸せにならないとね』

 

「――――」

 

 シアワセ。

 そんな物は、幸せは、魔法とも呼べる奇跡は来ないだろう。

 だって、それは、友奈がいる限り来ないかもしれないのだから。

 

 友奈が相談をしようとしたから、事故に遭った風は扉の先で寝台に身を横たえることになった。

 心優しい樹は、以前から楽しみにしていたはずの歌のイベントに参加しなくなった。

 そんな『不幸』を呼び込んだのは一体誰だ? 誰の所為だ? 

 

「―――ごめんなさい」

 

 小さくこぼれた言葉の意味は、友奈自身もよく分からなかった。

 胸中を過る痛みは刻印の所為ではない。ただ黙っている事への、傷つけた事への、謝る事も話す事も出来ない自己満足に過ぎない言葉が、震える唇から出た。

 

『みんな良い子達だわ。友奈も東郷も亮之佑も、夏凜も乃木も』

 

「――――」

 

『あの子たちの部長をやれて、勇者部を作って本当に良かったわ』

 

「―――っ」

 

 湧き出しそうな様々な感情に脳裏を支配され、熱い雫が睫を濡らし、視界を歪ませていく。

 グチャグチャな胸中で、彼女たちの前で笑うことなんて出来なかった。出来る訳がなかった。

 感情に従って、せめてここで爆発させないように、扉に背を向けて友奈は走り出した。

 

 

 

 ---

 

 

 

 走った。

 背を向けて、懸命に、逃げるように、遠ざかるように、走って、走って、走りぬいて――

 

「あぐっ……ぅ……」

 

 地面の雪に足を取られて、バランスを崩した。

 急速に接近する地面、咄嗟に頭を守るように手をかざし、崩れた姿勢のまま倒れこんだ。

 

「げほっ……げほっ……」

 

 病院の外は空から降る白、12月になって初めて見る冷たい雪が地面を白に染め上げていた。

 萎んだ肺を膨らませ、また萎ませて、不足した酸素をようやく取り込んでいく。

 必死に走って、全力で走って、転んで、足も体も疲れきっていた。

 

「――――」

 

 崩れた姿勢のまま、友奈の体は動けなかった。

 白い雪が降り積もる中、土と雪を掴んだ手のひらは転んだせいで僅かに痛む。

 土が、雪が、痛みが、衝撃が、そうして立ち止まった友奈に襲い掛かった。

 

「うぅっ……」

 

 嗚咽がこぼれる。

 転がり倒れ、掠れた吐息が白く曇り、寒さが体を浸食していく。

 

『――あれだけみんなが頑張ったんだから……』

 

 体が痛む。

 耳を塞いでも、声が聞こえる。

 

『――うん、みんな幸せにならないとね』

 

 心が痛む。

 耳を塞いでも、声からは逃げ切れない。

 

「う、ううう……うぅぅっ!」

 

 誰にも、何も、話すことはできない。打ち明けることなど許されない。

 

 みんなに話せば、みんなが幸せになれない。

 みんなで戦えば、もう戦いを終えた彼女たちをまた巻き込んでしまう。

 一人でいなくなっても、東郷さんのようにみんなを苦しませ、悲しませてしまう。

 一人で抱え込んでも、またみんなを不幸にしてしまうかもしれない。

 

「うっ……うわあああぁぁん……!」

 

 込み上げる涙も隠せずに、冷たい頬を熱い雫で濡らしていく。

 堪えられない叫びが、空から深々と降る灰色の雪が吸い込んでいく。

 路上に倒れ込んだ体に雪が積もり、心が冷えていく。凍りついた雪が降り注いでいく。

 

 どうしたらいいのだろう。

 分からない、分からない、分からない――

 

 

「――友奈」

 

「――――」

 

 

 声があった。

 嗚咽が漏れて、ぼやけていく視界で。

 静かな雪原の世界で、ふいに聞こえた少年の声音が、友奈の鼓膜を震わせた。

 

 

 


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