「……どうして」
どうしてこんなことになったのだろうか。
ふとそんな事を思うと同時に意図せずに口にしてしまい、冷えていた両手を握り締める。
あれから友奈は既に病院に亮之佑と共に運ばれ、看護師から治療を受けていた。
一瞬で白銀の雪世界を地獄模様へと変えた一撃を多くの人が目撃し、同時に被害を受けた。
彼らも怪我を負い、もしかしたら死んでいるかも知れなかったが、そこまで頭が働かない。
「……」
なんとなくだが、大赦のおかげなのか自分たちへの対応が他の人よりも早かった気がする。
手のひらに巻かれた包帯の感触は、握り締める度に亮之佑の血の暖かさを思い出す。
彼と精霊達が身を挺して自分を守ったおかげで、友奈自身は擦り傷程度の軽傷であった。
「――――」
忘れられない。鮮血の色が忘れられない。
両手に広がる感触が、そこから漏れ出る血の温かさが、告げられた言葉が忘れられない。
あの色を見ると思い出すのは、彼の瞳――血紅色の瞳であり、その度に唇を噛み締めた。
「では、行きましょうか」
「――ありがとう、ございます」
衝撃が抜けずあまり言葉を発しない自分を見かねたのか、看護師が待合室まで送ってくれた。
廊下を歩いても多くの人がいるという状況ではないのはおそらく大赦側が何かしたのだろう。
あれだけ多くの人が怪我をして、あれだけ頑丈そうな建物が一瞬で粉砕したのに誰もいない。
ここではなく別の階に運ばれたのだろうかと考えて、友奈はそっと頭を振った。
どうにも頭がこんがらがっている。何かを考えようにもグチャグチャで整理が出来てない。
そうして呆然と、大赦が手配している友奈も何度か世話になった事のある病院の待合室で、
「……ゆーゆ」
「――。園ちゃん」
治療を終えて看護師に連れられた友奈の瞳が、白いコートを着た園子の姿を捉えた。
黄金の稲穂の様な長い髪は純粋に美しいと思わせ、その姿はこんな時でも妖精を思わせる。
だが普段のおっとりとした様子はなく、東郷がいなくなった時のような険しさがあった。
硝煙と血の匂いのあるクリスマスイヴ、寒さか分からず震える端末で救急車を呼び、
直ぐに来た救急車の中で、以前風が車に轢かれた時と同じく『NARUKO』でメッセージを送った。友奈と亮之佑以外はその時風の病室にいたらしく、駆けつけるのは早かった。
待合室で待っていたらしく、園子以外にも、風を除いて全員がいた。
樹も夏凜も東郷もみんな心配そうな、悲痛に満ち、悲しみに溢れている顔をしていた。
「かっきーは……、まだ?」
「――うん」
低く冷たさのある園子の声音に、思わず友奈は首を竦め体を震わせていた。
そんな友奈の姿を見下ろし、園子は走ってきたような息の荒さを整え椅子に腰を下ろした。
先ほどまで友奈がいたのは、亮之佑がそのまま手術をするべく連れて行かれた部屋の前だった。
「友奈ちゃんは怪我、大丈夫だった?」
「――。大丈夫だったよ」
「――――」
「大丈夫だよ、東郷さん。本当に」
心配気な顔で東郷が友奈の白い包帯で巻かれた手を見る。
だから自分は少し転んだだけ。少し掠り傷を作っただけだと掠れた声で友奈は告げた。
どこかぼんやりとする意識の中で何故か園子に両腕で優しくそっと抱きしめられた。
優しく抱きしめられている中で、窓側の壁に背中を預け、己を腕で抱く夏凜が口を開いた。
「――それにしても、結界の外から攻撃されるなんてね」
「大赦も想定外の事だったらしいよ」
神樹の作った結界に穴を作り、サジタリウスの矢が市街地へ雪に代わって降り注いだ。
この奇襲による被害は甚大であり、多くの建物が一瞬で瓦礫となり、一般人にも被害が出た。
雪の上に瓦礫と血が色を作る中、その攻撃の影響で周囲の車が暴走する等被害は拡大していた。
交通規制が掛かる中で皆が元から病院に集まっていて、こうして会えているのは不幸中の幸いだった。
「――風先輩は……?」
「風も飛び出しそうになって、慌てて止めておいたわ」
「お姉ちゃん、止めるの大変でしたから」
「……そっか」
それから皆は無言で椅子に座って待っていた。
本来は入院患者しかいないであろう小さな休憩室には、小さなテレビとリモコンがあった。
壁から身を離した夏凜はテーブルの上のリモコンに手を伸ばしてテレビの電源を点けた。
『はい、急に空に穴が開いたような。ええ、急に何かが落ちてきたような……』
『いえ、幻覚なんかじゃなくて、光っている何かが接触と同時に爆発したんですよ!』
『空に何か白い物を見たような……。えっと、その……すいません』
テレビの内容は、讃州市の市民会館前で起きた『爆破事故』についてのインタビュー映像だった。
既に隠蔽するべく大赦や政府が手を回しているようだが、鎮火には程遠い。
それだけの人間がクリスマスイヴだからか外に出ていており、その数だけ目撃したのだろう。
『えー、このようにガス爆発により、多くの人が集団での幻覚症状を見ているという状況で、このあと政府からの――』
淡々と原稿を口にしている女性のアナウンサーの顔には何の表情も浮かんではいない。
感情を押し殺し、静かに、それでも聞く者全てに話が伝わるように、そんな話し方をしていた。
ぼんやりとその報道を見ていると、ふと小さくも可憐な声音が友奈の耳に届いた。
それは友奈の右隣に座っている園子の低くも確かな言葉であった。
「かっきーなら……大丈夫だよ」
「……うん」
ふと左隣に座る東郷が友奈の手をそっと握った。
彼女の暖かな手の温度は、少しだけ冷えた友奈の体温を優しく温めてくれた気がした。
「――――」
根拠などはない。だが信じる。
それが、それだけが、今の友奈に出来ることの全てであったのだから。
---
――暗く、重く、昏い闇が広がっている。
「――――」
全ての色を呑み込み、喰らい、咀嚼した末に出来る重苦しい闇が全身に纏わりつく感覚。
顔が、体が、闇に溶かされていき、形の無い存在へと変わる。そんな感覚に満たされていく。
だが不思議と不快感があるという訳ではなく、寧ろ生ぬるい湯に浸されているような感じだ。
「――――」
瞼を開けても閉じても意味はない。
目の前に広がる無限の泥沼に等しいソレに対しては、あらゆる手段は意味を持たない。
あるがままに受け入れて、川の緩やかな流れに身を任せるように意識が移ろい行くのを感じた。
「――――」
オレは、俺は、この感覚を覚えている。
目に見える範囲で体が崩れ、存在が上書きされ、魂の形が塗り変わっていく。
生命に対する陵辱とも取れる冒涜でありながら、心は波の立たぬ水面の如く静かだった。
初めて俺が死ぬ瞬間に感じた感覚。
それはあの日、『男』が死んだ時の刹那に感じた感覚だ。
同時にこの漆黒の海は、初代との夜会の際に訪れるあの世界への往来で感じる物と同質だった。
理屈ではない。何かの理論に基づいて結論を出した訳ではない。ただの直感だが。
そうして静寂と暗闇が生み出す孤独な空間に、俺が体と意識を預けていた時であった。
「――――」
声が聞こえた。
無力を嘆き、恐怖に慄きながらも、それでも不条理を許さず抗おうとする誰かの声が。
慈愛に友愛に親愛に満ちた、愛おしさを感じる穏やかな少女の声が、どこからか聞こえた。
『かっきー。私ね〜、――かっきーが、大好きなんだよ~』
「――――」
その声は。
俺の鼓膜を、すぐ近くで揺さぶるような声音であった。
優しく穏やかで芯が強く、時折凛とした一面もあり、そして愛おしい声音だった。
――声が聞こえた。
それを聞いて胸が痛む。心臓が弾み記憶の回路に火花を奔らせる。
これは走馬灯という物なのだろうか。それとも夢なのか。それとも――、
『園子―――――!!!』
――声が聞こえた。
随分と情けない声音が深い深い闇の海の中で聞こえた。見知った声だった。
何も出来ず、みっともなく、大切に思う人に全てを預けて、震えるだけの愚かな少年の声。
きっとその姿を見て幻滅しただろう。
情けないと思ったのかもしれない。
今となっては分からない。
掴めず遠ざかる距離。手繰り寄せようにも、戦い方など分からなかった。
経験もなく、技術も少なく、離れていく姿に虚しさと共に手を伸ばしていたのを思い出す。
金色の長く美しい髪が紫の装束に覆われた肩の上を流れ、その瞳の煌きの美しさを覚えている。
「――――」
懐かしい夢だと思う。
あの時の自分は勇気が足りず、迫り来る理不尽と不条理に対して何も出来なかった。
思い出と虚構によって、恐怖に錆び付き震え軋む体と心に熱を点して立ち上がっただけ。
加賀亮之佑は、大勢の人を守るような勇者などではない。
見ず知らずの人の為に命など掛けられない。勇者部の少女たちのような遵奉精神など元々持ってはいない。
笑顔を作り、己の時間と身を砕いてまで誰かの為に頑張ろうとは思えないような人間だ。
『俺は―――』
だからこそ、あの日、あの時、あの場所で、少年が戦う理由は、酷く単純で明快だった。
この世界に生まれて得たもの、宗一朗や綾香といった両親は亮之佑の事を心から愛してくれた唯一無二の存在。彼らは立派な両親だった。
知っていたさ。その愛情という物は、前世では一度も得られなかった価値のある物だった。
だから、偽りのない本当の笑みを、優しさを、親愛を、友愛を、愛情を向けてくれる人を。
加賀亮之佑が見出した、あの暖かな優しさをくれる人だけは。
加賀亮之佑が本当に大事であると思う人だけは、何をしてでも守ってみせようと思っていた。
「――――」
ゆっくりと声の聞こえる方へと、体が、意識が流れていくのを感じた。
本来ならば計画には無かった出来事だ。これが夢なのかは不明であるのも変わりない。
だが、『加賀亮之佑』が格好悪い真似など出来る訳がない。そんな真似はするべきではない。
『――園子を守りたい。……俺は、園子を、助けたいんだ―――!!』
傲慢で、だが本当に大切な人の為だけに力を行使する。それでいい。今は、それでいい。
弱々しく傷付き、不条理という絶望に蝕まれながらも、かつて少年はそれでも願った。
園子の、貴方の無事を、安寧を、幸せを望むと、願うと。
ならば、その願いには答えなくてはならない。
傲慢で不遜で愚かな男の願いに。
――その声に、誰よりも『加賀亮之佑』は、応えなければならない。
生暖かい泥沼に身を委ねるような停滞感が俺の心をぐずぐずに溶かしていくのを感じる。
そんな感覚を振り切って、やがて小さな螺旋を描く緑の光が、闇の海に現れて。
その光に向かって、その魂は――
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・
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瞬間、深い眠りの淵から意識を引き上げ、亮之佑は目を覚ました。
「―――ぁ」
睡魔の指先に抗いながら目を開き、瞬きをして視界にかかった霧を明瞭なものにしていく。
樹木の海、彩りに溢れた根を寝台に、どうやら少しの間意識を失っていたらしい。
ゆっくりと血を肉体に巡らせながら腕を立てつつ、呻き声をこぼしながら体を起こした。
「――は、――あ」
体を起こした際に勇者装束を身に纏っている事に気づきながら、ゆっくりと呼吸した。
深呼吸を繰り返し、肺に冷たい空気を入れ膨らませ、また萎める。その行為を繰り返す。
体に痛みはない。強いて言うならば、多少の擦り傷や体に残る倦怠感が酷いが、その程度だ。
すぐ近くに、同じように寝転がっている少女が視界に映る。
見知った少女だ。髪の長さ、髪型、母校である神樹館小学校の制服など小学生であるのが分かる。
そうして見ていると、倒れた主人を守るように、青色の光を放ち卵のような精霊が目の前に現れた。
「――鷲尾須美」
知っている。その少女を知っていた。
気を失っているのか、それでもその白肌は美を損なうことはなく、可憐さと幼さを両立させていた。
この少女と亮之佑が出会ったのは、最初で最後の機会。あの忘れもしない運命が決まった日だ。
もちろん、目の前で体を弛緩させながらも、それでも何度も見たことのある青いリボンを持つ姿、
後の東郷美森とは会うのだが、それを彼女本人は覚えてはいない。
だから、この日が彼女の命日なのだ。記憶こそが人格を作ると亮之佑は思っている。
「―――っ!!」
その時だった。
紫の花、色彩に溢れる花火よりも美しい光を放つ存在に、亮之佑は目を奪われた。
そうだ。樹海化が行われているならば、誰かが敵を食い止め、撃退しなくてはならない。
「園子……」
小さく呟いた声に応える者は誰もいない。
目の前で広がる爆発、轟という音を立てる火炎、その中心に彼女がいる。
たった一人で。独りきりで園子は戦っているのだ。
「――茨木童子、いるか?」
告げると同時、金色の光が瞬く間に、小さな小鬼が亮之佑の左隣に出現した。
優秀な精霊という守りはある。目を閉じれば兵装があるのも分かった。封印は掛けられてはいない。
「…………」
『…………』
あえて、いるであろうその名前は言わなかった。呼ばなかった。
ゆっくりと手を伸ばし左肩、金粉が飛び交う黒衣の肩にある黒百合の刻印に手を伸ばした。
花のゲージは溜まっている。それを使用する事への躊躇いも恐怖もない。
これが夢なのか。
これが妄想なのか。
これが走馬灯なのか。
どうでもいい。目の前に広がる敵は、この脆弱な体では簡単には倒せない。
だから集中するのだ。バーテックスと呼ばれる敵を殺すには、決して犠牲なしなどありえない。
そして救い出せ。弱さに嘆き、掴み取れなかったその温もりを。彼女との思い出に誓って。
「――満開」
前回書いた別ルートの補足ですが、活動報告の方に上げておきました。