【IF】花結いの空で、貴方に愛を、のある日の一幕。此方を読んでからがおすすめ。
とある拠点の、ある部屋にて。
唐突に告げられた言葉を、亮之佑はオウムの如く唇を震わせ復唱した。
「バレンタイン?」
「そうだ」
トントンと指でテーブルを叩く目の前の少女。
向かい合う短めの黒髪と白い肌、血紅色の双眸は吸い込まれる程に鮮やかに輝く。
可愛さと美しさを混ぜ合わせたような美貌を持つ少女は、向かい合う少年に口を開く。
「今年もあったじゃないか」
「……まあ、そうだな」
見た目が少女の姿、その紅色の双眸が捉えるのは一人の少年だ。
時折黒髪を片手でかきあげながら、少女ではなくノートパソコンへと視線を向ける。
黒く丸いテーブルを囲み、似た色の椅子に座る二人は、準備の合間に小さな雑談をしていた。
「企業の陰謀に踊らされる奴らを見て心の中で笑う日だろ?」
「そういう奴にあげる人間がいるのだから世の中は公平ではないよね」
「――は」
皮肉には嗤いで応じる。
笑いには皮肉を投じる。
挨拶を交わし、眉間にわずかに皺を寄せながら亮之佑はPC画面より視線を上げる。
微妙に機嫌が悪く見えるのは、トントンと少女の爪先が亮之佑に小気味良く当たるからか。
わずかにずれた黒縁眼鏡を掛け直し、白シャツを着た少年は目の前の少女に視線を向ける。
「ああいう風習こそ、この世界で必要のない事だろうに」
「確かに結論から言えば無意味かもしれない。だが同時に企業からの陰謀を利用し、バレンタインと印象付けられた特別な日に何かしらの贈り物を贈り、同時に告白するというのは定番だろう?」
「そうか?」
「ああ、キミには関係の無い話だったね?」
「いや、告白された事ならあるんだが。お前だって見ているだろうに」
「四六時中キミを観察しているという訳でもないのだが。乙女なボクに何を言っているんだい?」
「ああ。この世界でも、乙女の定義は変わっているらしい」
「どこからか童貞の喚き声が聞こえるんだが」
「こいつ……!」
淡々とした物言いには毒が込められる。
弾丸のように射出される言葉には、さほど悪意は感じられない。
睨みつける少年の視線を肩を竦めて回避する少女は大したことなさげに告げる。
目の前の白いワンピースを着た黒髪の少女。
黙っている限り、髪の色と瞳の色のアンバランスさ含めて紛れもなく美少女だ。
優雅に両手で回しているアイスコーヒーのグラスを優雅に飲む姿だけは絵になるだろう。
「それで? お前にはさっきやっただろうに」
「もう食べた。だが、まさかと思うが、悪魔への貢ぎ物が手作りケーキで足りると……?」
「コーヒーでも飲んでろ」
「知らないのか、半身? コーヒーは……食べ物ではないよ」
「……」
少々煩い声音を無視して、亮之佑は再びパソコン画面へと向き直る。
既に完成し掛けの作戦資料を完全とするべく、無言でキーボード入力を続ける。
およそ十分が過ぎた頃に、ようやく完成させた亮之佑は小さく息を吐き、目線を再び上げる。
「――出来たか」
「ああ」
悪魔の問いに答える唯一の信奉者。
眼鏡を外すと目の下に浮かぶ薄い隈、以前よりもわずかに痩せた少年は腕を上に伸ばす。
動かすとコキッコキッと骨が鳴る音が部屋に響く中で、未だにいる昏色の少女に視線を向ける。
「そういえば初代、確かお前にはワンホール分作ったはずだったが……」
「……?」
亮之佑の言葉に小首を傾げる初代。
人形のような動きを彷彿させ、わずかな苛立ちが胸中を過る。
「……もう全部食ったのか?」
「……さっき言わなかったかい? 食べたけども、何か拙かったかい?」
「――――」
暴食とはこの事だろう。
別腹とは言うが、流石に食べ過ぎではないだろうか。
そう口を開くが言葉はなく、ただ吐息だけが空気に溶けていくばかりだった。
幾度と繰り返された小言は生まれない。
食べ過ぎるなとか、せめて明日に回せとか、野菜もちゃんと食えとか。
そもそも、何故自分が目の前の女のために気を使わなければならないのかと眉を顰める。
「そうだ、初代。亜耶ちゃんはどうした?」
「ああ、彼女なら今は赤嶺友奈が構っていると思うけど」
「そうか」
「節分の事を説明したら、『鬼は外~』って無邪気に笑って赤嶺友奈に豆を投げつけているよ」
「掃除が大変だな……、なんだその笑みは?」
色々と予期せぬイレギュラーにより、こちらの陣営に入り込んだ幼き巫女。
掃除が好きな純粋無垢な少女について目の前の少女に聞いただけで小さく笑われる。
何かを勘違いしたようにクツクツと笑う少女は愉快そうな笑みを口端に浮かべる。
「キミってロリコンだったかい?」
「馬鹿を言うな。使えそうな人質に関心ぐらいは持つだろ」
悪魔の揶揄に対して、亮之佑は小さく眉間に皺を寄せる。
含み笑いで自分を見やる血紅色の瞳からそっと視線を外すと、
「半身」
「ん? ―――むぐっ」
突然、唇の間を通り抜け口内に侵入する何か。
思わず歯を立てると同時にカリッと小気味良い音が口内に響く。
舌の上で広がるチョコレートの程良い甘味と、棒状のスナック菓子の食感に咀嚼をする。
「美味いか?」
「……まあ」
「そうか、美味いか」
「何のつもりだ?」
「お返しだ」
続けざまに少女の細い指、親指と人差し指に挟まれたスナック菓子を突き付けられる。
何のつもりか考えて、毒は効かないからと己に仕える精霊の存在に再度小さく口を開く。
親鳥に餌を与えられる雛鳥の気分になりながらも、ポリポリと細長い菓子を食べていく。
「――ん、――んむ」
「――言っておくが、市販じゃないぞ。ボク直々に作った」
「ああ、どうりで」
舌触りの良い食感にコクリと亮之佑は頷く。
眉間の皺が薄くなるのを感じつつも、この数ヶ月で随分と痩せた少年は頷く。
あの指輪の世界で時折目の前の少女が客人に振舞っていた菓子類と似た味がしたのだ。
「店でも開いたらどうだ?」
「労力に合うとは思わないが。キミも手伝うかい?」
「……どうだろうかな」
適当な軽口を叩きながら、部屋を出るべく亮之佑と初代は扉へと向かう。
今日は珍しく何もせず、準備のために用意したアジトに籠っていてしまった。
扉に亮之佑が手を触れると同時に、その扉が離れていくことに誰か来たのかと目を細めるが、
「ぁ……」
「……亜耶ちゃんか」
「その……時間、大丈夫ですか?」
「ん」
亮之佑よりも幾分背の低い、淡い金色の髪をした巫女。
走ってきたのか、僅かに頬を上気させる姿は可愛らしいとすら感じられる。
小さく笑みすら浮かべ、顔を上げ亮之佑を見る少女は、後ろ手に隠していた物を見せる。
「これは?」
「亮之佑様からのチョコのお礼に、バレンタインクッキーです!」
「――――」
「日頃、お世話になっている人に贈る物なんだって聞きましたから……、駄目……でしたか?」
「駄目ではないよ、うん。……これって……オレに?」
「はい」
混じり気の無い純粋な笑みを、虚無の瞳がジッと見つめる。
ふと彼女の指に貼られた絆創膏に視線を向けて、静かに小袋を受け取った。
手のひらにある小さくもずっしりとした重さのソレは、焼き菓子の仄かに甘い香りがした。
「――ありがとう、亜耶ちゃん」
やがて『狂人』は頬を歪め、ひどく痛々しくも薄い笑みを浮かべた。
その形相を見て、亜耶は痛みを覚えたような表情を作りながらも頬を小さく緩める。
「喜んでもらえて嬉しいです」
「うん、嬉しいよ。今度また何かお返ししないとね」
「えっ、お礼なんて……」
「いいから、オレがしたいだけだから」
「……、分かりました。亮之佑様からのお返し、待ってますね!」
「――ああ」
その日までこの世界が続いているかどうかは分からない。その保証もない。
明日になれば突如こちらが敗北しているのかもしれない。その逆も然りである。
いずれにしても、この彩りに溢れた世界が終焉を迎える日まで狂人はひたすらに歩き続ける。
旅路の中で定めた、ある目的を果たす。
その過程、有象無象を踏み潰し、結果のみを掴み取る。
それこそが、それだけが『狂人』が求める最後の道標なのだから。
「もう遅い時間だから、亜耶ちゃんも早く寝るんだぞ」
「はい、今日はもう寝ますね。……亮之佑様も」
「ああ、おやすみ」
「……」
トテトテと自室に足を向ける少女。
その背中が廊下の角に消えるまでジッと見つめた亮之佑も、やがて自室へと向かった。
廊下を歩きながら小さく独り言を呟く狂人の言葉は、背後にいる悪魔に聞き取られる。
「あの子は弱みがないから苦手だ」
「キミにすら懐いているようだが」
「それでも噛みつかないとも限らない」
亜耶はこれまで接してきた人間の中でも、一位二位を争う程に優しい子だと思える。
たぶん、きっと、亜耶は亮之佑に対して真摯に接してくれているのだと思う。
だがそれでも、一度芽吹いた黒い炎と、記憶の中の弾丸が『信じる』ということを否定する。
どんな人間にも弱みというのは存在する。
家族、親友、恋人、仲間、人間関係を構築するにあたって自然と増える物なのだ。
だから、亮之佑は自身の人間関係をシンプルにし、余計な物は捨て、簡略化することにした。
――否、それだけではない。
単純に、この世界の人間が恐ろしく、おぞましく感じられた。
笑顔を浮かべて接してくる中で、実際は何かの思惑を器用に隠している。
その腹を探り、だが隠しているかすら分からず、悪意を見抜けない故に人間が怖く感じる。
だから弱みを握るのだ。
悪意があるないに関わらず、この世全ての人間が悪意を隠しているという前提で。
亮之佑がこの世界で生きていく上で、少しでも自身の安定のために、弱みを握ろうとする。
「そうすれば――」
世界中の人間が亮之佑を恨んでも。
亮之佑は平気な顔をして、憎悪を糧に生きていけるだろう。
「――――」
狂人の隣を、その半身が静かに歩き進む。
彩りある視界の中、他の人間と等しく色が付いた黒髪の少女。
彼女が亮之佑の隣を歩くことに関してだけは、不思議とどうしても拒否反応を抱けない。
それは元々が自身の内側にいる存在だからか。
契約故に裏切ることが無いのだと分かっているからか、悪魔だからか。
彼女を引き連れ、歩くこと。それが亮之佑の弱さであるとするならば、いずれは――
「――――」
一度満開の影響で、『色覚』が散華で失われていた時期。
あの頃、指輪の世界へ入った少年は、あの幻想的な世界の『色』に魅せられたのを覚えている。
不思議な話だったが。
今目に見える色のある世界よりも、色の無かった世界の方が亮之佑には相応しく思えた。
風景も、人も、友奈でさえも、誰も彼もが薄汚れて見えたモノクロの視界が懐かしく感じる。
「――――」
いつの間にか辿り着いていた寝室に、いつものように鍵を掛ける。
亜耶にも入らせない部屋は、いくつかの資料が床に散らばっている以外は綺麗だ。
綺麗と言うか、殺風景であるとも言える自室兼寝室を歩き、机にノートパソコンを置く。
「今日は早く寝た方が良い。明日の作戦の為に体調は万全にしておくべきだ」
「眠くないんだが」
「変な嘘をボクに吐かなくて良い」
この部屋に寝台は一つだけだ。
何気なく部屋に居座る短い黒髪の少女は、不遜にも部屋主の寝台に寝転がる。
部屋を変える度についてくる少女の行動と言動に諦めたのは、随分と前のことだったか。
「――――」
「隈、酷いよ」
指摘され、ふとクローゼットに備え付けられた小さな鏡で己の姿を見る。
死相が浮かんでいると言われかねない隈が、はっきりと目の下に浮かんでいる。
その少し上にある大きな瞳、どこまでも冷たく、そして弱り切った瞳の色は汚れ切っている。
「……知っているさ」
「そのうち、死にそうだね」
「それは……まだ困るな」
肩を竦めながら、亮之佑は一つしかない寝台に転がる。
以前はどちらが床で寝るかと、無意味な口論を交わしたのが昔に感じられる。
半分となった寝台は二人分の体重を容易く支え、寝台であることを理解した瞼が重く下がる。
『――分かって』
頭蓋を内から刺すような声。
目を閉じ、耳を塞ぎ、逃げようとする。
『これでもう、誰も!』
あの憎悪を帯びた瞳から。
自らが正しいと思い込んだ声音から。
向けられた銃口と、脳を震わせた弾丸から。
『二度と苦しい思いをしなくて済む……!』
逃れられない。
どれだけ耳を塞いでも。
どれだけ目を閉じても。
「――!!」
忘れようと思う程に、脳は鮮明なまでに記憶を焼き付かせる。
執拗と言わんばかりに、この思いを忘れるなと、悪夢が亮之佑に襲い掛かる。
「――――」
今頃は讃州市で活動している勇者達。
彼女達は、厳密に言えば亮之佑よりも未来から来た存在らしい。
幾度の交戦、姿を隠しながらも得た情報で、赤嶺からも裏を取り、知り得た情報である。
だから彼女たちは、『あの時』同じ戦場にいたあの少女たちではない。
亮之佑と、友奈や東郷、夏凜、風、樹には僅かに、だが決定的なまでに認識に差がある。
遠目に見た彼女たちはこの世界故か、傷一つなく仲間たちとバーテックスと戦っている。
「――――」
いつまでも憎悪を抱えているのは馬鹿らしいと思う。
この湧き上がる怒りを彼女達にぶつけるのは理不尽であることも理解している。
この世界を脱するにあたって、何一つ正しい事をしていないことも十全に理解出来ている。
だが、それでも、彼女たちが平然と何も無かったように生きていることが。
何も失わず、結局なんてこと無いように笑い合っている少女達が、どうしようもなく憎かった。
他の勇者達も、夏凜も、風も、樹も、東郷も、――園子と友奈ですら怖くて憎らしかった。
「―――ぁ」
ふと誰かに抱かれているのに気付く。
暖かく、柔らかい感触に頭を抱かれていることに気付いた。
誰か、言うまでもない。この部屋には、亮之佑以外に存在するのは他に一人しかいないのだ。
昏色が、白色が、血紅色が、亮之佑に触れていく。
唐突に旅路の目的が揺らぐ自分を優しく抱きしめる少女。
それに縋らずにいられない女々しく弱い自分は、少女に安らぎを求める。
――初代は、いつか、亮之佑を裏切るのだろうか。
来るかもしれない。来ないかもしれない。
そんな日が来ないで欲しいと思い、願っているのだろうか。
鼻腔を擽る少女の甘い匂いと柔らかさに、思わず溺れてしまいそうになる。
「……おい」
子供をあやすように亮之佑の頭を一定のリズムで撫で始めた初代に抗議の声を上げる。
それを無視し、悪魔は静かに己の半身に、亮之佑に血紅色の瞳を向けて、言った。
「少し眠ると良い。……言っただろう? ボクがキミの傍にいると」
「――――」
静かな声音が心地よく感じる。
同時に、どうしようもない程に重い瞼を亮之佑は再び下ろした。
――幸せな悪夢は、何も、見なかった。
代わりに、涙が出る程に懐かしく、彩りに溢れた頃の夢を見た。